論述問題の視点A
〜オスマン帝国とヨーロッパ〜

 イスラム文化圏とキリスト教文化圏の接触・交流は頻出のテーマです。なかでもオスマン=トルコは、ヨーロッパに与えた衝撃が極めて強く、出題頻度の高いテーマです。最近では「オスマン=トルコ」ではなく「オスマン帝国」という用語が多く使われるようになっています。この背景には、ヨーロッパからの視点に基づくオスマン朝に対するネガティヴなイメージを修正し、多様な民族・文化・宗教を包含した先進的な大国として、その本来の姿を研究しようという積極的な意味合いが込められています。
 
 問題@.1983年の東大の問題
 オスマン=トルコの西方進出が、16世紀末までの間に、東・西ヨーロッパにおいて引き起こした変動について、政治・経済・文化の側面から述べよ。(240字以内)
 
 問題A.1996年の東京都立大の問題
 15世紀後半から17世紀にかけてヨーロッパは、東方世界とりわけ小アジアから勃興したオスマン帝国(オスマン朝)との政治的、軍事的、文化的接触により、歴史上大きな変容を遂げることになった。この時期のオスマン帝国とヨーロッパの関係をオスマン帝国の側から、以下のすべてを用いて300字以内で論述せよ。ただし、使用した語句には下線を引くこと。
 スレイマン1世  イスタンブル  ウィーン   官僚制   プレヴェザの海戦
 レパントの海戦  絶対主義体制  宗教的寛容  宗教改革運動
 
 問題B.2000年の東京都立大の問題
 オスマン帝国が16世紀のヨーロッパ政治に及ぼした影響について150字以内で述べよ。
 
 問題C.2003年の一橋大学の問題
 15世紀イタリア社会の動向は、オスマントルコの小アジア、バルカン地方への進出と深く関係していた。トルコ勢力の攻勢の前に領土縮小を余儀なくされたビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響を与えたし、この時期多数のギリシャ人が到来して、この地の文化活動にも影響を与えたからである。オスマントルコの進出に伴うこの東西キリスト教世界の交流と、それが15世紀イタリア社会に与えた影響について論じなさい。(400字以内)
 
 問題@ABとCの違いは、考察の対象が@ABでは16世紀が中心であるのに対して、Bは15世紀が中心となっている点です。ただし、BはどうみてもAの焼き直し。
 16世紀のオスマン=トルコと言えば、スレイマン1世(位1520〜66)の時代を中心に、最盛期を迎えていることを思い出してください。モハーチの戦い(1526)やウィーン包囲(1529)、仏王フランソワ1世とのカピチュレーション、プレヴェザの海戦(1538)などがありました。問題@には、影響について「経済」が指摘されています。「政治」は結構多く挙げることができますが、経済はどうでしょう?山川出版社の教科書『詳説世界史』には、オスマン帝国がヨーロッパに与えた経済的影響については、あまり記述が見あたりません。しかし君たちが持って
いる世界史Aの教科書(清水書院『新世界史A』)にはしっかりと書いてあります(48n)。
 (スレイマン1世は)フランスとは友好関係を保ち、その東方貿易に便宜をはかった。地中海貿易を担うベネチアなどの北イタリア諸都市との関係も深かった。
 アジアへの直接のルートが開拓された以後には、レヴァント貿易は衰退していくというのが一般的なイメージですが、この教科書の記述では、16世紀にも依然レヴァント貿易は栄えていたと考えてよさそうです。もっとも東大の問題で要求されているのは「16世紀末まで」ですから、15世紀の事項を書いても全く問題はありません。

 では問題@ABのポイントをまとめましょう。当然ながら、問題Bの場合、下の(1)の政治的影響だけを書けばよい。
 
(1)政治的影響
  @東ヨーロッパでは、ハンガリーやバルカン半島がオスマン帝国の支配下にはいった。
  A西ヨーロッパでは、フランスのフランソワ1世と結び神聖ローマ皇帝カール5世を圧迫、
   そのためカール5世は一時プロテスタントに譲歩することを余儀なくされたが(シュパイアー国会)、
   このことは宗教改革の進展を促した。
  Bプレヴェザの海戦でキリスト教徒連合艦隊は敗れ、地中海の制海権はオスマン帝国が握った。
(2)経済的影響
  @地中海の制海権を押さえたオスマン帝国によって、東西の交易が栄えた。
  A西欧諸国のインド航路開拓を促した。(教科書153n)
(3)文化的影響(教科書148n注@)
   オスマン帝国の脅威を逃れたビザンツ帝国の学者たちがイタリアに移り、
  ギリシア語の知識を広めたことから、イタリアでいち早くルネサンスが始まった。

 問題Aの指定語句のうち、「官僚制」「宗教的寛容」「絶対主義」は使うことが難しい。 「官僚制」と「絶対主義」はヨーロッパ、 「宗教的寛容」はオスマン帝国の特質だというイメージがあるからです。 ここは世界史Aの教科書47nの記述を参考にしましょう。 教科書には「官僚体制が確立」 「中央集権体制が整備され、地方の長官には中央から役人が派遣された」とあります。 これは西ヨーロッパの絶対主義に似ていますね。宗教的寛容については、 ミッレト制がすぐに思い浮かぶでしょうが、 これが西欧にどのような影響を与えたのでしょうか。 ヨーロッパで迫害されたユダヤ教徒に対しても、 オスマン帝国は自治を認めたことを使えばうまくいきます。 以下のような例が考えられるでしょう。
  @官僚制と常備軍(イェニチェリ)を支柱とした中央集権体制は、
   西欧における絶対主義体制のモデルとなった。
  A宗教的寛容策をとり、ヨーロッパで迫害されたユダヤ人を受け入れ、
   自治を認めた。

なお@に関して、オスマン帝国の軍隊はイェニチェリだけではなく、徴税権(ティマール) を付与された封建的騎士軍団もあったことは銘記しておくべきです。これは90年の東大で、
 オスマン帝国は16世紀に最盛期を迎えるが、この時期の軍事制度の特徴、ならびに領内の非イスラム教徒への対応について、説明せよ。

という形で出題されました(授業でやりましたよね)。
 
 問題Cですが、この問題は良くない。まず「オスマントルコの進出が東西両キリスト教会の交流に影響を与えた」など、知っている受験生がどれくらいいるのか?と疑問に思います。さらに、リード文中の「それが15世紀イタリア社会に与えた影響」の「それ」とは、「オスマントルコの進出」なのか「東西両キリスト教会の交流」なのか、どちらともとれる表現になっているのもいただけません。文面的には「交流」と考えるのが妥当でしょうが、「進出」と解釈しないと、高校生レベルでは書けないでしょう。「それ」を「進出」と解釈すれば、オスマン帝国の進出によって西欧ではルネサンスが進展したことを書くことができます。
 「ビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行って」という点に関しては、『オスマン帝国』(講談社現代新書)に「1400年、バヤズィットは、ビザンツ皇帝が援助を乞いに西欧に赴いた留守に、包囲を始めた。」という記述がみつかっただけで、詳しいことは分かりません。