論述問題の視点E
〜17世紀の国際関係〜
 
 世界システムでは、世界の諸地域を「中核」「半周辺」「周辺」の3つに分類する。この3つの地域が表裏一体となってシステムを形成しているが、このうち世界システムの「中核」となった諸国は工業製品を生産し、「周辺」は「中核」に原料や食料を供給する。17世紀中ごろには、オランダ・イギリス・北フランスが「中核」、南フランス・ポルトガル・スペイン・イタリアが「半周辺」、ラテンアメリカ・東ヨーロッパ・西アフリカが「周辺」としての役割をそれぞれ担い、世界システムを形成していたのである。
 「中核」諸国のうち、圧倒的な経済力をもつ1国が、他の中核諸国との競争に勝ち、覇権(ヘゲモニー)を確立する。このような国家を特に「覇権国家」というが、17世紀にはいると、「中核」諸国内部では「覇権国家」の地位をめぐる競争が激しくなるのである。

【例題1】17世紀後半を中心とするヨーロッパの国際政治について述べよ。(400字以内)
                               (筑波大学・86年)
 

【例題2】15・16世紀以降ヨーロッパを基軸とした世界の一体化が進む中で、17世紀にはオランダ・イギリス・フランスの覇権争いが展開した。17世紀を中心に、この3カ国の関係を、下記の語句をすべて用いて400字以内で論述せよ。ただし、使用した語句には下線を引くこと。
  ルイ14世     名誉革命    ネーデルラント連邦共和国  
  航海法(または航海条令)   ユグノー         (東京都立大学・93年)
 

【例題3】17世紀に入ってオランダ・イギリス両国は、いちじるしい対外発展を開始した。このことを背景として、以後17世紀末までの両国の関係について300字以内で説明せよ。句読点も字数に含めよ。                (京都大学・2002年)
 
 
 大きな流れとしては、【例題2】が参考になるでしょう。
 押さえておくべきことは、以下の5点です。
@最初に覇権国家となったのはオランダであること。
Aハプスブルク家をおさえたフランスが台頭してきたこと。
B英蘭戦争によってイギリスがオランダの中継貿易に打撃を与え、海上権を打破したこと。
Cオランダ脱落後、イギリスとフランスとの対立が主軸となったこと。
Dイギリスがフランスとの植民地戦争に勝利し、覇権国家となったこと。
 
 【例題3】だけは「17世紀末まで」と下限を指定していますが、【例題1】と【例題3】は「17世紀を中心に」ですから、18世紀にはいってしまいますがスペイン継承戦争でのユトレヒト条約に触れてもよいでしょう。
 
 問題のテーマとしては経済上の覇権争いが中心となりますが、【例題3】に関しては、イギリスとオランダの関係に限定してあります。したがって、300字という字数から考えて、より細かな事項に触れた上で、「両国の関係」ですから、対外進出のみならず政治的な関係にまで踏み込んだ論述が必要です。つまり、対外進出によるオランダとイギリスの対立がアンボイナ事件・英蘭戦争で激化していくが、フランスという共通の敵を前にして、名誉革命を通じて改善されていくという「関係の変化」に触れるべきです。
  @アンボイナ事件によるモルッカ諸島からのイギリス勢力の駆逐とオランダの覇権
Aクロムウェルによる航海法の発布と英蘭戦争
Bイギリスによるニューネザーランド植民地の奪取
Cルイ14世に対抗するためにイギリスとオランダは協調し、名誉革命にいたったこと
 
 イギリスとオランダとの関係を16世紀にまでさかのぼってみると、まずオランダがスペイン(フェリペ2世)からの独立運動を展開した際には、エリザベス2世が独立運動を支援する。その結果独立を達成したオランダは、ヨーロッパの覇権国家の一つとなるわけです。反スペインという点で利害の一致した英蘭両国は、次のステュアート朝の時代になり、チャールズ1世(位1625〜49、ピューリタン革命で処刑)の娘メアリがオランダ総督の妻となる。メアリの子が後のウィリアム3世です。
 
 このように17世紀初頭まで、イギリスとオランダとの関係は良好であったと言えます。この関係が怪しくなるのが、両国が海外進出を始める17世紀前半から。1623年にはアンボイナ事件が発生しますが、三十年戦争を通じてハプスブルク家をおさえたフランスのブルボン家が勢力を拡大すると、英蘭両国は政略結婚を行います。1648年にチャールズ2世の長女メアリ(1631〜1660)がオランダのオレンジ公ウィレム(2世)に嫁いだのがそれ、。さらにイギリスで1649年にチャールズ1世が処刑されて、イギリスが共和政になると、イギリス王家と関係が深いオランダに配慮する必要はなくなる。一方共和政の時期に実権を握った独立派には商工業者が多いため、市民階級の利害にそくした政策をとることになります。その結果イギリスは1651年、オランダの海上権打破をめざして航海法を発布、第1次英蘭戦争(1652〜54)がはじまります。その後第2次英蘭戦争(1665〜67)によって、オランダはニューネザーランドなど新大陸の植民地をイギリスに奪われる。
 
 両国の関係が好転するのは、フランスのルイ14世がオランダに攻め込んだオランダ侵略戦争(1672〜78)です。ルイ14世の侵略に際し、成長したウィリアムは22歳の若さで総督(最高行政長官:国家元首であり実質的には国王に等しい)となり対抗する。当時のイギリス王はチャールズ2世。チャールズの母アンリエッタ=マリアはフランスのアンリ4世(ブルボン朝の開祖、ナントの勅令を出したことで有名)の娘です。チャールズ2世がピューリタン革命中フランスに亡命していたのはこのため。この経験からチャールズ2世はフランスびいきとなり、オランダ総督であるウィリアムの叔父であるにもかかわらず「オランダに対する開戦およびイングランドにおけるカトリックの復活を条件に、フランスから補助金をうける」というドーヴァー密約をフランスと結び、オランダと開戦します。これが第3次英蘭戦争(1672〜74)です。しかしウィリアムの巧みな水攻め戦術と外交政策によってイギリスは1674年に単独講和を結び、オランダ側につくことになります。これは海外植民地における状況から、イギリスにとってオランダよりもフランスが脅威となりつつあったことがあげられるでしょう。フランスがインドのシャンデルナゴルを根拠地とするのが1673年、ポンディシェリを根拠地とするのが1674年です。その後ウィリアムは27歳でイギリス王チャールズ2世の弟ヨーク公(後のジェームズ2世)の娘と結婚する。この娘が後のメアリ2世。ウィリアムとメアリは血縁上イトコ同士ということになりますが、こうして英蘭両国は、フランスという共通の敵を前にして接近していくワケです。