論述問題の視点@
〜13世紀における東西文化の交流〜
 
 近年ではネットワークに関する出題が多くなっています。ネットワークとは、政治・経済の中心(簡単に言うと都市)同士が、網の目のように結びついて、人・カネ・モノ・情報があらゆる地域へ伝播する、その働きやあり方を言います。
 13世紀には、モンゴル帝国の発展と「モンゴルの平和」によって、ユーラシアの東西を結ぶネットワークが成立し、東西の交流が発展します。この時期の東西の交流は、前近代に限れば、最も交流が活発した時期だといえますが、13世紀の東西交流は入試においても重要なテーマの一つです。
 
 
 まずは京都大学の89年の問題。
 モンゴル帝国時代における東西文化の交流について、300字以内で述べよ。
 これとほぼ同じ問題が、横浜国立大学の95年の問題。
 13世紀、ユーラシア大陸における東西文化の交流について、300字以内で述べよ。
 
 リード文と指定語句がつく場合もあります。まずは東大の94年の問題。
 13世紀は「モンゴルの世紀」と呼ばれる。チンギス・ハーンが、モンゴル高原を統一してモンゴル帝国を築くと、続いて各ハーンが度重なる征服戦争をおこなった。彼らは中国を支配したばかりでなく、朝鮮半島、束南アジアまで勢力を仲ばし、さらに中東イスラム世界、ロシア、東欧にいたる大帝国をつくりあげた。
 マルコ・ボーロは、『東方見聞録』の中で、この帝国の多様な性格について、次のように述べている。
 フビライ・ハーンは11月にカンバルック(大都)に帰還し、そのまま2〜3月の候までそこに逗留している間に、われわれの復活祭の季節がめぐって来た。……彼は盛大な儀式を催して自ら何回も福音書に焼香した後、敬虔な態度で吻(くちさき)をこれに当て、かつ居並ぶすべての重臣・貴族にも命じて彼にならわしめた。この儀式はクリスマス・復活祭といったようなキリスト教徒の主要祭典に際してはいつも挙行される例であった。しかしハーンはイスラム教徒・偶像教徒(仏教徒)・ユダヤ教徒の主要聖節にも、やはり同様に振る舞うのだった。
 このモンゴル帝国の各地域への拡大過程とそこにみられた衝突と融合について、宗教・民族・文化などに注目しながら論ぜよ。解答は、下に示した語句を一度は用いて、600字以内で記せ。また使用した語句には下線を付せ。
  ガザン・ハーン、 色目人、 バトゥ、 大理国、 駅伝制、 モンテ・コルヴィノ、
  細密画、
 マジャパイト王国、 授時暦
 
次は東京都立大の2003年の問題。
次の文章を読んで、以下の問いに答えよ。
 今から1千年前ころの世界を巨視的に縦観すると、歴史の舞台はいずれも海岸地帯に展開していた。あたかも世界の中心のごとき繁栄をきわめた西アジア地方では、やや分裂的な状況をふくみながらも、地中海南岸からアラビア海沿岸にいたる地域がひとつの文明圏を形成していた。一方、東ヨーロッパではビザンツ帝国が衰えを見せはじめたのに対して、西ヨーロッパでは封建社会が最盛期を迎え、やがてイスラーム圏の影響のもとに新しい 地域的結集への動きが始まっていた。南アジアでは、7世紀のヴァルダナ朝の崩壊後、分裂状況に入り、やがて10世紀にはアフガニスタンにトルコ系のガズナ朝が成立して、この地域のイスラーム化が始まった。東アジアでは唐朝の滅亡後、漢人国家の宋朝が成立して新しい都市文化が形成されたが、その北辺では遼・金等の狩猟・遊牧民族の王朝が成立した。このような動きをうけて東アジアの内陸部から起こり、当時の全世界に近い広大な領域を征服し、つなぎあわせたのがモンゴル勢力であった。近年の歴史学はこの時期を「モンゴル時代」と称している。歴史の舞台の中心は権力と組織という意味において、またより広い歴史的意味において、内陸部に移ったのである。そしてさらに巨視的に見れば、この「モンゴル時代」は、積極的・消極的双方の意味において、のちの「大航海時代」の序曲となったと言えよう。歴史の中心的舞台は海岸地帯からいったん内陸地帯に移り、 再び海岸地帯にもどったのである。
〔問い〕上記の歴史の動きを念頭において、時期的には順不同に示される下記の語句をすべて使いながら、「モンゴル時代」の世界史を300字以内で記せ。なお、解答において、人名は、テムジン、バトゥ、フラグ、フビライの順に用いること。また、使用した語句には下線をひくこと。
 〔語句〕テムジン、バトゥ、フラグ、フビライ、 1206年、イル=ハン国、海の道、
   オアシスの道、 カラコルム、クリルタイ、元朝、大都、中国文明、 南宋、
   バグダード、文明と文化の交流、ポーランド、ドイツの諸侯連合軍、モンゴル帝国、
   ヨーロッパの三大発明
 
 東大の問題のリード文によれば、東西文化の交流はモンゴル帝国の拡大と、その結果おこった衝突と融合がもたらしたものだと言えます。そして交流の具体例は、宗教・民族・文化において見ることができる、というわけです。これらの点を考慮して、このテーマにおけるポイントは次のようになるでしょう。なお、字数と題意からして、京大と横浜国立の問題では、モンゴル帝国の拡大に触れる必要はありません。
 
 (1)モンゴル帝国の拡大→異なる文化・民族を含んだ大帝国の成立
   @バトゥのヨーロッパ遠征(ワールシュタットの戦い)とロシア支配
   Aフビライの大理征服
   Bフラグの西アジア遠征とバグダード占領によるアッバース朝の滅亡
   Cフビライの元朝建国と南宋征服
 (2)東西文化の交流
   @駅伝制の整備による内陸交通路の安定と西方からの使節・商人の到来
    →「大航海時代の序曲」・・・・マルコ=ポーロの『世界の記述』
   Aイスラム世界との交流・・・・イル=ハン国のイスラム化、授時暦の完成、細密画、
     ラシード・ウッディーンの『集史』
       ※ラシード=ウッディーンの『集史』は、モンゴル民族の歴史をペルシア語で述べた本である。
        センター試験では、99年の本試(世界史B)、95年の追試に出題された。
   B各民族の宗教や文化に対する寛容な態度
    →元朝におけるチベット仏教の隆盛とモンテ=コルヴィノのカトリック布教、
     色目人の登用
   C火薬など、ヨーロッパの「三大発明」への影響
   D元が内陸のルートに海上ルートを連結させ、交易を活発化させたこと
 
 13世紀の文化交流については、『世界史A』の教科書の「13世紀の世界」(72〜74n)が非常に参考になります。このテーマに関する事項はほとんど網羅されているので、参照して下さい。東大の問題のリード文に示されている「異文化に対する寛容な態度」や、海上ルートによる交易の活発化などは見落としがちな事項ですが、『世界史A』の教科書には明記されています。特に元代のモンゴル人第一主義が頭にあると、「異文化に対する寛容な政策」は見落としがちになるかもしれません。しかし、最近ではモンゴル人第一主義について、従来言われていたほど厳しいものではなく、「この制度が適用されるのは1315年に再開された科挙のときの合格わくくらいであったといわれる」(帝国書院『新編高等世界史B』)という見解が教科書にも載るようになっています。
 
 93年のセンター試験(本試)でも、モンゴルの寛容さを示す文章が示されています。
【第2問B】 次の史料は,13世紀の末から14世紀初めにかけてシリアのダマスクスで活躍した法学者イブン=タイミーヤが記した文章の一節である(一部書き改め,省略したところがある)。
 C彼ら(モンゴル人)の大多数は,ムスリム(イスラム教徒)を名のる者からなるが,礼拝をする者はごく少数である。彼らは,たとえ神とその使徒の敵である信仰なき者でも,モンゴル帝国のために戦うかぎり,これを賞賛し自由に,ふるまわせる。逆にモンゴル帝国に反抗すれば,それが善良なムスリムであってもこれと戦うことを認める。また,彼らは啓典の民に( D )を課すこともない。彼らの多くは,ムスリムの生命・財産に手をつけ,さらに,礼拝・喜捨・巡礼などの義務を守らない。このような人々との戦いは,ムスリム全体に合意された義務である。

問4 この文章が記された目的としてもっとも適当なものを,次の文@〜Cのうちから一つ選べ。
 @ ヨーロッパに侵攻したモンゴル軍に対して,西欧諸国への援助をムスリムに呼びかけるため。
 A ビザンツ帝国に対モンゴル同盟を提案するため。
 B ティムールの大軍に対して,タマスクス防衛をムスリムに呼びかけるため。
 C イル=ハン朝のモンゴル軍に対する聖戦(ジハード)をムスリムに呼びかけるため。

問5 下線部Cに関連して述べた次の文@〜Cのうちから,正しいものを一つ選べ。
 @ キプチャク=ハン国では,イスラム教が保護された。
 A 元朝のモンゴル人の多くは,イスラム教徒となった。
 B イル=ハン朝では,イスラム教が一貫して禁止された。
 C ヨーロッパに侵攻したモンゴル人の多くは,キリスト教徒となった。

問6 空欄( D )に入れる語として正しいものを,次の@〜Cのうちから一つ選べ。
 @ イクター
A ヒジュラ B アラベスク C ジズヤ
 
 また95年の追試では、モンゴルを通じた東西交流(征服をも含む)も出題されています。
【第1問B】 12世紀の初め遼が滅びると,その勢力下にあったモンゴル高原では分裂の動きが一時期強まった。しかし,やがてその混乱の中からテムジンが出現し,モンゴル高原の部族を次々と支配下に収め,1206年にはC遊牧諸部族の集会においてハンに推(すい)(たい)されて,チンギス=ハンと号した。チンギス=ハンは1209年には近隣諸国に対する征服を開始し,広大な地域を服属させて,1227年に死去した。彼の死後も,Dその子孫たちは征服事業を継続し,空前絶後の大帝国を建設した。その結果,ユーラシア大陸の各地を結ぶ交通路が発達し,草原の民であったモンゴルが定住農耕地帯の諸文明を比較的平等に扱ったこととあいまって,E東西の文明の交流が進展した

問4 下線部Cの集会は何と呼ばれたか。正しいものを,次の@〜Cのうちから一つ選べ。
 @ カラ=キタイ
A クリルタイ  B スコータイ C チャガタイ

問5 下線部Dに関連して,チンギス=ハンの子孫とその征服地を示した次の組合せ@〜Cのうちから, 誤っているものを一つ選べ。
 @ バトゥ――ロシア
A フビライ――チベット
 B フラグ――メソポタミア
C オゴタイ――アナトリア(小アジア)

問6 下線部Eに関連して述べた次の文@〜Cのうちから,誤りを含むものを一つ選べ。
 @ モンゴル帝国の全域で,駅伝制度(ジャムチ)が実施された。
 A 中国からイランに中国絵画の技法が伝えられたが,イスラム教が偶像を禁止しているため定着し   なかった。
 B 西方から多くのイスラム教徒が流入したため,中国の各地にイスラム教が広まった。
 C 元代には,イスラム世界で発達した天文学の知識に基づく暦法の改革が行われた。
 
 モンゴルの世紀における東西交流において、海上交通が活発であった点は、駅伝制のイメージを強く持っていると見落とすかもしれません。しかし世界史Aの教科書(73n)には、今年の東大の問題にも出題されたダウ船の写真も載っています。現在の我が国で、モンゴル帝国に関して積極的な研究を発表しているのは京都大学の杉山正明氏ですが、杉山氏が山内昌之氏、本村凌二氏と行った鼎談は実に面白い(『歴史諸君!』2002年5月臨時増刊号)。杉山氏はその中で、「モンゴル帝国も、馬による内陸世界、陸上世界の統合という段階をへて、さらに海へと乗り出していく。いわゆる元寇もそうでした。」と述べており、その著『モンゴル帝国の興亡・下』(講談社現代新書)』では、(二年時の授業でも紹介しましたよね)次のような記述が見られます。
 大都は内陸都市でありながら、積水譚(せきすいたん)という大都中央部から北西にかけて巨大な湖面を広げる都市内港を持っていた。この湖水を維持するため、はるか北方の昌平一帯から取水して、延々と大都城内へ人工の水路へ導き入れるシステムが造られた。この積水譚は運河の通恵河を通じて通州へ、通州から白河(はくが)によって海港の直沽(ちょくこ)(現在の天津)に至った。直沽からは杭州・泉州・広州などの諸都市、さらには東シナ海・南シナ海・インド洋へと至る海上ルートとも結びついていた。
 巨大な人工都市である大都からは、帝国全土へ向けて放射状に公道が整備されていた。夏の都の上都との間には、四本の幹線が敷設され、その上都には、かつてカラコルムに集まっていた内陸のジャムチ・ルートが新たに仕立て直されて、内陸交通網の起点となった。大都は内陸交通の上では上都とカラコルムをサブターミナルとし、水運システムのうえでは通州、海運システムの上では直沽をそれぞれ外港としてもつように仕組まれた。北京とその外港天津という形は、フビライが創出したのである。フビライと彼のブレーンたちは、大都を起点に人と物が壮大なスケールで動くよう、世界を改造しようとしたのである。