この世界についての仮説

吉田伸夫


(2004年03月08日更新 Ver2.1 【更新履歴】
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序文

 この世界には、なぜ、《自己》と《外界》について認識する能力を持った個体が存在できるのだろうか。この問題に理論的に答えようとする哲学の徒は、必然的に方法論的な障害に突き当たることになる。すなわち、問題を定式化することそれ自体が、きわめて困難だという事実である。
 理論的な定式化の際に範型として用いられる自然科学の手法においては、一般に、必ずしも明示されない「暗黙の前提」がいくつも導入されている。認識能力を取り上げようとするとき障碍になるのは、おそらく「学問的な記述の対象は、表現空間内部に並存し得る要素の集合として表記できる」という前提だろう。これは、客観性を保証するための自明の前提として、通常は無批判に受け入れられる。最も典型的なケースは、古典的な物理学に見られるように、3次元の座標空間内部にさまざまな物体が存在するという表記法である。よりソフィスティケートされた諸学においては、集団遺伝学のように、座標空間内部の不要な要素を捨象して遺伝子のみを学問的対象として抽出したり、マクロ経済学のように、企業や消費者などの経済単位が活動する領域として抽象空間を措定するなど、多様なヴァリエーションが見られる。
 その内部に複数の対象が並存するような特定の「表現空間」を前提とする記述は、科学的方法論に基づいて学問を構築する上で、きわめて有効に機能する。だが、《自己》と《外界》について論じようとするとき、この記述法を用いること自体、問題のポイントを見失わせる結果をもたらす。その理由は、《自己》と《外界》では、それを記述するのに必要な表現空間の構造が根本的に異なっている点にある。《外界》に関しては、個物が並存する一様な空間を基本フレームとして記述することが可能である。しかし、《自己》を記述しようとすると、その世界におけるさまざまな事象――記憶表象や知覚、観念連合など――を、「私の」という相の下に、非一様な“遠近感”をもって描出するしかない。これは、《外界》の表現空間が有する一様な構造と著しい対照をなす。こうした構造上の差異は、《自己》と《外界》を関連づけようとするとき、いっそう際だってくる。すなわち、実感として《自己》が閉じた自立的な世界を形作っているにもかかわらず、《外界》の記述においてこれに相当するのは、数多く存在する知的生命体の中の1個体の“内面”という1部分でしかない。表現空間の構造的差異を無視して、《自己》と《外界》を統一的に記述しようとする――例えば、「中枢神経系がこれこれの状態になったときに、しかじかの意識が派生する」というように――と、一般に、《自己》の有する本質的な特性が黙殺される結果となる。
 少なからぬ哲学者が、こうした問題は、近代的な科学的方法論の限界を示すものと解釈している。現に、フッサールは、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において、主観的な経験に“理念の衣”を被せる「物理学的客観主義」が、感性的・身体的世な生活界の豊穣さを忘失させる危険を持つことを指摘し、「現象学的還元」のような客観主義とは異質の方法論が必要であることを説いている。
 しかし、こんにちに到るまでの科学の驚異的な成功を考えると、《自己》と《外界》の関係を解明しようとする試みに対して、科学が全く無力であるとは、にわかには信じがたい。少なくとも、「表現空間」の構造上の差異に起因する問題に限っては、科学的方法論の手法に基づいて、矛盾を解消することが可能だと思われる。
 この論文では、こうした観点から、《自己》と《外界》をどのような空間で表現するかという問題に絞り込んで、両者を調和的に記述することを可能にする枠組みを提示するものである。この議論において鍵となるのが、空間の次元数である。通常の表現空間は、比較的小さい次元(座標空間の場合は3次元)を有すると考えられている。この場合、空間内部に存在するいくつかの個体は、同一の次元内部に並置させられるため、《自己》のような閉じた構造を持つ「部分」を構成することは困難だった。だが、きわめて高い次元数を持つ空間においては、その内部に、閉じた「部分空間」を想定することが可能になる。《自己》と《外界》とは、きわめて高い空間次元を持つ単一の世界を、異なるアスペクトにおいて記述したものと解釈することができる。
 断っておくが、この論文は、これまで誰も提唱しなかった「新説」を提唱するものではないし、従来の科学ないし哲学の学説に本質的な修正を加えることすら意図していない。援用される科学理論も、大半が定説として科学者に受容されているものばかりである。 筆者の目的は、あくまで、ある解釈の下に世界の姿を描き出そうとすることにある。


 現代においても、人が世界の何たるかを知ろうとする努力は、いまだに「群盲象を撫でる」の域を脱していない。確かに、人類は、自然現象を記述する有効な科学理論を数多く獲得してはいる。だが、その内容は、必ずしも日常的な直観や宗教的な信念と相容れるようには見えない。このためか、科学に対する不信感や嫌悪感を耳にする機会も多く、科学が解明し得ない超常現象への関心も、TVや週刊誌などの大衆的マスメディアにおいて根強い。科学が提供する世界像は、一般の人にとっては、何か「しっくりしない」ところがあるようだ。譬えて言えば、科学の描く世界〈象〉が「壁のようなもの」であるのに対して、日常的直観は、それが「柱のようなもの」だと訴えているのである。
 これから私がしようとしているのは、この矛盾の劇的な解消ではなく、「柱のような」足の上に「壁のような」胴体が乗った〈象〉の似姿をデッサンすることである。このような折衷案とでも言うべき描像は、科学的知見や日常的直観をほとんどそのままの形で採用し、ある解釈を媒介として両者を強引につないでしまうことによって得られる。ただし、この仮説は、単純で合理的だが、それなしには胴と足がバラバラになってしまう重要な役割を果たしている。
 もしかしたら、私が描き出す〈象〉は、足が3本しかなく、胴体から直に鼻が突き出ている異形の怪物かもしれない。だが、それはそれでかまわないと思う。「足は4本あるはずだ」とか、「鼻と胴体の間に頭があった方が良い」との批判をもとに、描像を修正することは常に可能だからだ。悲しむべきは、「人間は盲だから〈象〉そのものについて語ることはできない」と賢しらに決め込む態度である。世界は峻厳にして近寄りがたいが、あらゆる解釈を受け付けぬほど茫洋としてはいない。世界について合理的に語ることを可能にする解釈を思いつく限りは、その妥当性を検証してみることが、「知を愛する者」の勤めなのである。

以上
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