前ページへ 次ページへ 概要へ 表紙へ



科学哲学は可能か




1.科学的方法論と哲学的方法論


 本書は、およそ認識論的なテーマを考察するためには、現代科学の最先端の業 績をもとにして議論を展開しなければならないとの問題意識に基づいて執筆され ている.従って、各章の論述は、多かれ少なかれ科学的成果を引用し、たとえそ の直接的な発展を企図するものではないにしても、議論を進める際の論拠として こうした科学的な知見を大いに活用してきた。しかし、論者の中には、科学と哲 学は本質的に水と油の関係にあり、両者を調和させることは不可能であると主張 する者もあろう。強引に科学と哲学を結びつけようとすると、哲学の側では、科 学主義が内包する素朴実在論の桎梏に身動きがとれなくなり、また科学の側では、 科学的方法論に依拠しない直観に議論をかき乱されて有効性を損なう危険が存す る。こうした事情をもとに、そもそも「科学哲学」など学問として成立し得ない と見なされても、仕方あるまい。
 筆者は、このような立論に対して真向からの反論を試みることはしをい。なぜ なら、ある論述が学問として成立することの実証は、当の論述が何らかの有効性 をもち、その成果を他の領域の学問と交換し合いながら質的に発展するという歴 史的展開を経て初めて得られるのであって、科学哲学的論考自体きわめて稀にし か提出されない現状では、科学哲学の学問としての基礎づけについて断定的な結 論は何も提出できないからである。
 ここでは、不毛な学問論を展開する代わりに、一般的に方法論として、いやし くも科学に相対時する哲学を志すならば、科学的方法論を援用して科学の諸成果 に立脚した議論を行うべきであることを主張する。その論拠として示されるのが、 従来の哲学的方法論、すなわち、内省的な直観を基礎にする学問的な手法が、科 学における機能的にモデル化された理論のような有効性をもたず、科学の膨大な 業績を総括するには力不足であるという事実である。もちろん、この結論が、直 ちに科学哲学の正当性を裏づける訳ではない。しかし、少なくとも、哲学が科学 に対して無力であると告白することを潔しとしないならば、哲学はその科学的な 方法論を自己の内部に取り込む必要があるだろう。

 はじめに、伝統哲学と現代科学の間に見られる方法論的な差異を羅列的に見て いくことにしよう。

 現代科学の方法論として第一に指摘しなければならないのは、科学理論を自然 観の表明としてではなく、あくまで「役に立つ」道具として利用しようとする機 能主義的な態度である。これは、歴史的には、量子力学を物性論に応用する過程 で、自然現象を直観的に把握するのはもはや困難であるという科学者の間の共通 認識から派生した態度で、科学畑では今世紀中葉以降の一般的な方法論となって いる.機能主義的な科学理論の特徴をひとことで言うならば、理論を確定するの に必要な条件(初期値としてのデータや立論上の前提)を整えれば、自動的にあ る予測を生成することが可能となる点である。さらに、理論が正当なものか否か ほ、生成された予測の有効性によって判定することができる。こうした方法論を 徹底させるために、現代の科学理論体系は、機能的な単位となるいくつかの交換 可能なモジュールに分割され、各モジュールは有効性の評価に基づいて取捨選択 できるようになっている。この結果、従前の学説に反する実験事実が発見された 場合でも、モジュールの交換によって対処することができるため、現代科学は体 系としてきわめて高度な安定性を獲得している.このような手法が、学問を形成 する上で大きな成功を収めていることは、今世紀における科学の隆盛を考えれば 明らかだろう。

 このような機能中心の科学的方法論に対して、哲学ほ、諸学に通底する共通原 理を発見することを目的とするため、分析的な議論よりも総合的判断力としての 直観に大きな信頼を置いている。また、学説を機能に応じて分割することは避け、 体系全般にわたる一貫性を重視する.従って、理論を展開する際にも、科学に見 られるようにモデルが自動的に生成する予測を利用するのではなく、各場面にお いて直観的に把握された相同性/類比性をもとに議論を進めることになる。科学 と哲学の差異を示すものとしてしばしば指摘される理論評価法(機能的な有効性 直観的な説明力か)や研究体制(専門科学者による分業か、総合的哲学者 よる体系の建設か)の違いは、方法論の差に帰着させることができる。ここで問 題としなければならないのは、こうした哲学的方法論が哲学的なテーマで議論す る際に必須のものなのか、また、この方法論を用いて学問的に有効な理論が建設 できるかという点である。以下では、主として第ニの問いに対する解答として、 学問的な議論を進める上でここに述べたような哲学的方法論は多くの欠陥をもっ こと、特に科学で取り扱われる素材を哲学的に議論する場合にこの欠陥が如実に なることを示す。

2.分析的判断としての直観


 本節と次節では、哲学に援用される総合的判断力としての直観能力が人間の思 考様式に基づく適用限界を有し、この限界が哲学を現代科学と同様に組織化して いく上で障害になっていることを示す。ここでの論点は、
  1. 直観が、基本的には神経機構に規定された分析的判断の積み重ねとして成 立していること、
  2. 直観による判断は、社会や自然の複雑な現象に対しては、機能主義的な科 学的方法論ほど有効でないこと、

以上の2点を明らかにすることにある。
 初めに、本節で、直観が分析的判断の積み重ねとして理解されることを、認知 的判断と論理的判断の二つについて論じる。

 人間の認識は、悉無的な応答をもつ神経系に支配されており、その結果として、 連続的に変化する現象も離散的な諸特徴に分割していくという基本的な認知の方 略が生じる。こうした方略ほ、一次知覚の情報処理過程において特に明瞭に観察 される。すなわち、一次情報は、まず、側抑制により輪郭を際だたせるデータ処 理を受けた上で、投射野で階層的に組織化された受容細胞によって感覚特異的な 特徴(視知覚での方位/形態、聴知覚でのホルマントなど)が分析的に抽出され る〔1〕。このようにしてコード化された情報は、頭頂/側頭連合野に送られて他 の感覚からの情報と結びつけられ、さらに、前頭統合野で高次の認識として構成 されるに到る〔2〕。ここで重要なのは、投射野レベルでの特徴分析がニューロン 支配的であり、特定の特徴に対応する超複雑細胞が存在して認識の構成要素とな っている点である。この結果、人間による認識では対象をさまざまな角度から自 由に分析することが困難になり、既成の分析的要素に束縛されることになる。認 知の神経支配を示すこのような性格は、連合野・統合野レベルでも妥当すると予 想される。

 常に自覚していなければならないことだが、人間の意識はこうした認知過程の 最終段階しか覚知しないため、内観に頼っていたのでは分析的な段階を把握でき ない。そればかりか、脳における分析的な情報処理には、階層を成す神経細胞間 の結合の取り方に原理的な任意性が存するため、ここで抽出される「特徴」は日 常的な文脈で謂う所の「特徴」と質的に異なる場合が多く、日常生活では直観に おける分析的要素が紛れてしまいやすい。このことは、あたかも意識内部に3次 元の拡がりがあるかのごとく感じられる空間知覚が、実は両眼視差などのような 意識できない諸特徴を組み合わせて構成されていることに典型的に現れている。 また、分析と総合の認識論的な関係も、一般に直観でほ明らかにできない。例え ば、ある物体に形態と色彩が認められるとき、両者は並列的に情報処理されてい るにもかかわらず、直観では後者が前者に附属するように誤解されがちである。 このように、内観に基づく議論では、認識の基本的な構成重素を剔抉するのはき わめて困難であると言わざるを得ない。
 「直観的な」認知の過程が意識から<隠されている>ことを最も如実に示す観 察事実は、離断症候群に見られる作話反応であろう〔3〕。作話とは、連合野や連 合線維に障害のある患者が自分を観察した結果述べる場谷に、言語野から離断し ている部位からの情報が途絶しているのを糊塗するために行う虚言で、視覚連合 野に障害があって視覚課題に失敗したにもかかわらず、「部屋が暗かったので」 とか「医者をだまそうと思った」と言い訳するたぐいのものである。ここで興味 深いことは、患者自身はこれを虚言だと自覚しておらず、実際に障害がないと信 じているという事実である.このような反応が生じるのは、連合野からの情報の 途絶を補うために、意識に直接的に関与している言語野が、皮質下からのランダ ムな入力に反応して自発的に活動した結果だと想定される。注意深い観察者なら ば、入眠直前にこれと類似した現象が生じやすいことに気づかれるだろ。このと き、思考はきわめて奔放になって脈絡のない展開を示すが、当人はその奇妙さを 自覚せず「おおまじめに」これを受け入れるのである。こうした現象は、意識内 部に立ち現れる直観が、情報の根拠には無頓着であることを意味している。

 こんにちの神経科学は、「直観」のこのような実態をかなりの程度まで解明す ることに成功している。ここでは特に、以前は直観による総合的判断見なされ てきた相貌認知を取り上げてみよう。我々は、通常、既知の人を顔で見分けるの に、顔全体から受ける全体的な印象をもとに判断するものと考えがちである。し かし、近年の神経科学の知見によれば、相貌の認知は、個々の特徴についての情 報を特定の神経機構で処理する分析的判断である。実際、脳に微小電極を刺入し た無麻酔サルに顔のさまざまな部分を描いた絵を提示したところ、側頭葉連合野 にある特定のニューロン系が、それぞれ顔の輪郭や眼のような一部の特徴に対し て特異的に反応することが観察された〔4〕。こうした現象はサルに限られるもの でほなく、人間においても、眼の部分だけを上下逆に切り貼りした顔写真を使っ た実験(輪郭が正立し眼だけ逆転している場合は異常な相貌と感じられるが、そ の逆では異常は感じられない)などから、同様の認知の方略が採用されていると 結論できる。従って、単純に考えれば、個別的な特徴分析を階層的に組み合わせ て複雑化することによって総合的な相貌の観念に到達していると想定される。も っとも、統合過程を含む認知の神経機構は、こんにちなお充分に解明されている とは言いがたく、素朴な特徴から複雑な観念ヘという単純な構成ではない可能性 もあるが、少なくとも、認知過程が出発点を分析的な判断に置いていることは認 めて良い。

 このほか、臨床心理学からの報告も、上の予想を傍証する。すなわち、こうし た相貌認知は、脳梁膨大を含む両側性の病変によって選択的に障害されることが 知られており、こうした患者は、既知の人物について顔を見ただけでは同定でき をいばかりか、心の中で思い描くことすら困難になる〔5〕。しかし、相貌以外の 視覚的手掛かリ(衣服・アクセサリーなど)や非視覚的手掛かりによる同定は障 害されない。この障害には、しばしば地誌の失認が合併しており、単なる分析的 な認知障害ではなく、個別的データを学習記憶と連合する役割を担った特定の神 経機構の障害と見なすことができる.
 以上のような知見から、顔を見て誰だか分かるという「直観」は、決して対象 の全体像を瞬間的に把握するものではなく、分析的な情報処理を一定の方略の下 に積み重ねて得られる構成的な判断であることを示している.諸他の神経生理学 /神経心理学のデータを利用すれば、この結論は、他の直観的認識に一般化する ことができる。

 続いて、直観による論理的判断も、多くの場合、より基本的な論理操作に分解 されることを、矛盾律を例にとって示すことにしよう。
 矛盾律が心理的な基盤をもつか否かについては、これまで数多くの哲学的な議 講がなされているが、特に観念論哲学の立場からは、これを思考の基礎原理と して認め、矛盾のない公理系のみ妥当であると見なすのが一般的であった。例え ば、フッサールは、論理学の心理主義的な解釈を論駁して、矛盾律のような論理 法則は必当然的な明証であると見なしている〔6〕。しかし、現在では、矛盾律を 表現するのに必要な否定の概念が操作的にしか定義できないことが明らかにされ、 その背後にある心理操作を解明する方向に議論が向けられている。
 言語心理学を援用すれば、統語論における否定が肯定文に対する操作であるこ とは、実験的な事実として示される。すなわち、被験者に特定の指示対象に関す る説明文を提示した場合、肯定文より否定文の方が検証に時間を要することが判 明している〔7〕。これは、検証に際して否定文をいちど肯定形に変換する作業を 行う結果であると推定され、否定文が肯定文より派生的なものであることを裏書 きする.より具体的には、否定は、記憶データを表す意味ネットの特定項をアク セスするという意味論的機能ではなく、短期記憶として呼び出されている項目に 否定標識を付与するという統語論的機能を担っていると考えられる。
 こうした否定の概念に基づくならば、矛盾律は、ある言語テキストの運用を定 めるメタ規則であると規定することができる。すなわち、短期記憶レジスターに 命題Pが呼び出された場合、意味解析の一環として記憶データの中にある(否定 標識のついた、または二重否定で標識が打ち消された)「非P」なる命題を探索 して、もしこれが発見されたならば、自動的により強力なサプ・プログラムが発 動して適当な処置をとる(一般に、一方を意味ネットから排除する)ことになる。 こうしたブロセスを統御するプログラムが、いわゆる矛盾律の実態であると考え られる。
 このように、矛盾律という基本的な法則が心理的操作に還元されるものである 以上、一般の論理法則も個別的な統語論的操作を組み合わせることによって成立 していると見なして良い.この結論は、直観による論理的判断が、個々の部分を 統合する形式に規定されていることを意味する。

3.直観の適用限界


 前節に示した直観の性質は、その有効範囲が、直観を構成する個々の思考形式 が妥当する領域に限られていることを示唆する。にもかかわらず、認識論の枠内 で直観を取り上げるときには、この点は一般に看過されてきたようである。例え ば、人間の直観的な思考を人工知能によってシミュレートするのがきわめて困難 である理由として、直観が諸事象を総合する能力の卓越性を指摘するケースがこ れに当たる。もちろん、このような見解は、人間が直観的な認識において採用し ている概念化・関係化の手法を過大評価するものであるばかりか、直観が有する 方法論的を限界を等閑視することに通じる。本節では、人間がもつ思考能力の限 界がどのような形で表面化するかを見るために、最も人間的な思考と考えられる 帰納的推論について、特に人工知能が行う推論と比較しながら議論していく。た だし、ここで想定する人工知能とは、人間が与える規則に従って任意の論理的推 論を遂行する万能マシンで、現存するコンピューターが抱える諸限界についてほ 考慮しない。
 人工知能に帰納的推論を行わせる場合、最も大きな障害になるのは、与えられ たデータから論理的に推測されるさまざまな概念のバージョンを生成することよ りも、むしろ、その中から有用な概念を選択することにあるとされる〔8〕。しか し、もしパージョン空間から特定の概念を選択するのに合理的な基準が与えられ ているならば、人工知能によって妥当な帰納的結論を導き出すことは決して困難 ではない。単に一定の指針に則って概念を整理するだけならば、人工知能は人間 を凌駕する能力を発揮できるからである。人工知能にとって蹟きの原因は、ある 帰納的推論の有用性を判定する基準が、帰納的に求められた概念を利用して人間 が思考を展開できるか否かに置かれていることにある。この判定基準に則って、 人工知能が遂行すべき推論規則は、人間にとって理解しやすいようにその認知の 方略を模倣することが要請されるため、結果的に、人工知能の推論は人間の稚拙 な猿真似に終ってしまうのである。だが、この要請が単に人間の側の都合で提出 されている以上、人間と人工知能の推論能力の優劣の差と受け取られているもの は、 (現時点での量的な差を別にすれば)両者の本質的な機能に起因するという よリは、単に前者が後者よりも我々に馴染みの形式をとっているという表面的な 現象に他ならない。
 ここで、有用な帰納的推論が人間の思考形式に依拠している例とLて、具体的 なポーカーの「手」からその内包的な定義を探すという課題を考えよう。こn場 合、人間にとっては、求めるべき定義が同じ人間の手になることが既知であり、 探索空間を余り広げなくても良いことが経験的に明らかである。従って、探索に 際しては、この知識に基づいて、まず組や数の一致や数の連続性から調べていく のが通常の方法である。こうして、一般に数例ずつ正と負の実例が与えられれば、 これから(ストレートやフラッシュのような}「手」の定義を発見するのはきほ ど困難ではない。これに対して、人工知能は、同じ課題を遂行するに当り、可能 な組合せを網羅的に調べていくため、探索のステップ数が超天文学的になり(す なわち、特定概念を可能な手の外延を指定するものと定義すると、その総数は、 52から5を選ぶ組合せの数の中からきらにnだけ選ぶ組合せの数を考え、これを nについて足し合わせたものになる)、人間が適当な戦略を指示しない限り、有 限な事例から帰納的な推論によって内包的定義を発見することは、現実問題とし て不可能である。しかし、この例は、単に人工知能に人間と同型の推論を行わせ るのが困難であることを示すだけであって、人工知能の帰納的推論の能力が人間 に劣ることを意味する訳ではない。
 これとは逆に、社会や自然の複雑な現象を取り扱う場合には、連続的に変化し 得る膨大なデータを機能的に処理することが重要になり、人間の理解を得るため に探索空間を限定する手法は必ずしも有効ではない。例えば、人工知能によって 経済変動を分析することを考えよう。このとき、人間が理解を容易にするために 用いる単純な経済学的概念(インフレや経済恐慌のような)は、帰納的に概念画 定するのが困難であるばかりか、その適用範囲が余りに曖昧であるために、近未 来予測や対応策の考案に対してむしろ有害である。(近い将来の)人工知能が得 意とするのは、その膨大なデータ処理能力によって、局所的・瞬間的な市場の動 向を逐次捉えながらデータを整理していくことであり、目的が明示されれば必要 な対応策を打ち出すことも可能となる。ただし、この場合、人工知能がどのよう を推論経路を辿って結論に達したかは、一般に、人間には判然としない。生産量 の微妙な変動、価格の僅かな上下をもとに、人間の単純な因果律的発想には及び もつかない複雑な推論を経て、物資の配送や公定歩合についての政策などを決定していくのである。
 以上の考察によって明らかなように、人間の直観的な判断力は決して万能のも のではない。むしろ認識能力としては、(対象化や事象化などの)遺伝的に規定 された思考形式に由来するさまざまな限界を有しており、場合によっては直観に 依存しない判断の方が有効であることがわかる。このことは、直観に則って建設 された学問に、方法論的な欠陥が存することを意味する。

4.直観に依存する科学哲学の諸問題


 本節では、科学的な題材を直観的な解釈に基づいて論じる現行の「科学哲学的 な」議論の妥当性について考察することにしよう。ここで論点となるのは、機能 モジュールへの分割と前提条件のユニット化という科学的な方法論によらない直 観的な「全体把握」(と思われてきたもの)が学問的方法論として有効に作用す るかという問題である。この点を明らかにするために、以下では、現実に哲学者 が考察の対象としている問題に焦点を絞ることにする。ここで取り上げるのは、 哲学者による近年の擬科学的理論で、これらは、哲学的な思索に科学の用語を援 用しながら、外見だけは科学的な体裁を整えているものの、一般に科学的方法論 に基づいて立論されておらず、単に直観によって形式的な類似性を拍摘するとい う論法に依拠していることが多い。従って、そのような場合に学問的な欠陥が指 摘でされば、直観を信頼する哲学的方法論への問題提起となる。
 以下で取り上げるのは、(i)決定不能性、(ii)構造変動、(iii)自己と非自己の諸問題である。こんにち流布している科学哲学的な見解では、いずれの場合に対しても、 その主題に関する多様な科学理論が統一的な観点から総合できることが主張され ている.しかし、以下に述べるように、これらの理論をそれぞれ子細に検討する と、科学的議論では問題の所在そのものについても多様性が示されており、決し て統一的な把握が可能なものではない。にもかかわらず、哲学者がこれを総合的 に捉えたのは、直観に基づく(本来は分析的な)判断によって、各学説に共通す る日常用語的な相同性を摘出したためであると考えられる。具体的には、ゲーデ ルの不完全性定理と錯視図形の二重性を決定不能性の名の下に一括して議論する ような論法が、少なからぬ哲学者によって採用されているのである。このことは、 直観への信頼が哲学を有効な学問へと組織化する際の妨げとなること、のみなら ず科学的な理論の構造を哲学的に解明する際にも障害となることを示唆する。

(i)ゲーデルの定理と決定不能性


 初めに、演縛系の限界を語るのにしばしば引用されるゲーデルの不完全性定理 を取り上げよう〔9〕。哲学者の見解によれば、この定理は一般に学問を公理系か ら演揮的に構築するのが不可能であることを示しているとされる。しかし、ここ で重要なのは、ゲーデルの証明には、 「理論の算術化」という特殊な手法が本質 的な役割を果たしており、その点についての了解なしには、不完全性定理理解 しがたいという事実である。ゲーデルの基本的なアイデアは、自然言語を用いた 場合に指示対象の曖昧さが生じるのを避けるため、記号列をその表現のみに依存 する一定の方法で自然数に写像する――いわゆるゲーデル数を定義する――こと によって記号論理学を自然数論に移し換えたことである。この作業によって、従 前は別個の概念として扱われてきた命題とその変数に関してカテゴリー的な差が 解消される。いま、Aをゲ一デル数aが表す1変数述語とし、述語Aが証明可能 なことを Thm(a) と記す。また、述語Bのゲーデル数bをAの変数に代 入して得られる述語のゲーデル数を
Sub(a;b)

と書くことにする。ここで、

¬Thm(Sub(x;x))

なる述語を考え、xにこの述語自身のゲーデル数を代入すれば、得られる述語は 定義より証明不能となるため、記号論理学の内部に存する証明不可能な命題の実 例を構成したことになり、不完全性定理が証明される。この論理式は、自然言語 で表せば、「この(「」でくくられた)命題は証明不可能である」という一見あ りふれた命題に相当する。しかし、このような回帰的な定義を含んだ命題をいざ 解釈しようとすると本質的な混乱が派生するのに対して、ゲーデルの論法では、 ゲーデル数を用いることによって不明な自己言及を巧みに回避している。こうし て、自然数論を含む理論を形式化した論理系は《強い意味》では完全ではなく、 任意の論理式の真偽が演繹的に導出できるとは限らないという意味での決定不能 性が結論される。
 このような「理論の算術化」は、議論を数学的に明確化する反面、論理と認識 法則の関係を曖昧にする欠点を持っている。実際、算術モデルにおける決定不能 性とは、述語の真偽を有限回の手続きで決定する方法が存在しないことを意味し、 述語関数が帰納的に定義されていないこと、あるいはテューリング機械で計算不 能なことと同値である。しかるに、自然や社会の記述に現れる決定不能性とは、 このような普遍的な意味ではなく、より直接的に人間の思考様式に準拠したもの である。実際、人間の情報処理システムほ、現象の準安定部分を個別的対象とし て分節するという方略を採用しており、自然/社会の変動を認識する際には、準 安定状態間の離散的な遷移を自由度の小さな行列要素で表現すると考えられる。 従って、人間にとっての決定不能性とは、このような方略が通用しなくなること 具体的には、少数のパラメーターで変化の過程を予測するのが困難になることを 意味する。また、自然科学においても、理論の大城的な振舞いが初期条件に余り 敏感に依存せず、近似的な予測が可能な場合にのみ、決定可能と見なすことが多 い。従って、これらをゲーデルの論理学的な議論と混同しては、後者の根本にあ る「理論の算術化」なるアイデアを無視することになる。
 ゲーデルの不完全性定理を適用するのが妥当でない例を二つ挙げよう。

 (1)エピメニデスのパラドクス :  「クレタ島人は嘘つきである」とクレタ 島人が主張した場合、あるいは、より抽象的に「この命題は誤りである」という 命題について議論するには、ゲーデルの定理を引用するのが一般的である。しか し、それがこの問題に対処する唯一の方法ではない.実際、古典的な述語論理学 のように命題を単なる記号列として定義するのではなく、これを知識ベースに対 する操作の指示と解釈すれば、エピメニデスのパラドクスとは、操作が無限ルー プに陥ったりデッドロック状態になることを意味する。従って、パラドクスを回 避するには、適当なオペレーティング・システムによって情報の流れを管理すれ ば良い〔10〕。既に(第3節で)述べたように、人間の思考過程において「否定」 は統語論的な操作であリ、パラドクスによって導かれる矛盾も、その全体像が同 時的に掌握されるのではなく、一連の認識作業によって明らかにされるというプ ロセスを踏む.このため、人間の場合は、こうした作業を管理する高次のプログ ラムを発動きせることによって、パラドクスに煩わされずに済んでいると考えら れる.具体的には、無限ループやデッドロックに陥りそうになると、一瞬「気を 散らして」不毛の思考から脱するのである。もちろん、人間も場合によっては、 パラドキシカルな命令環境の中で、べイトソンのいわゆるダブル・パインドの状 態に追い込まれることがある〔11〕。だが、矛盾を亭んだ命令が論理階型を異にす ることを前提としており、算術モデルによって命題およびその変数を同一視する ゲーデルの議論との関連性は乏しい。

 (2)ルビンの盃 :  この有名な錯視図形で図と地の分離が曖昧になることは、 算術モデルにおける決定不能性とは何の関係もない。一般に、人間が図形を認知 するに当たっては、まず輪郭線の曲率が極大になる部分を中心に図形をいくつか の部分に分割し、しかるのちに輪郭線をトレースしながら全体を体制化して把握 するという方略をとる〔12〕。ルビンの盃では曲率の符号が図と地の選び方によっ て逆になるため、最初に着目する部分の曲率の符号が重要となる。通常は、図形 記憶やテクスチュアの変化のような他の手掛かりを利用できないときには、初め に(偶然)目に止まった曲率極大の部分を「突出している」と解釈し、この仮定 を出発点として両側に輪郭を辿っていくことが多い。このため、ルビンの盃では 最初に鼻の先端が目に入れば人の顔に見え、取っ手に着目すれば盃に見えてくる ことになる。以上のことから、錯視図形の曖昧さの起源は、人間の認知システム の側にあると考えられる。
 以上のように、同様に決定不能性の名の下に議論される素材の中にも、操作的 な認知過程を考慮して初めて曖昧さの原因が明らかになる例は多い。従って、決 定不能という状況を直観的に把握して、これらを同一の問題として論じるのは学 問的に無意味な営為である.

(ii)構造変動の数理科学


 安定平衡点から遠く離れた現象を対象とする数理科学に対して、哲学者はしぱ しばモデル理論としての身分に相応しからぬ信頼を与えてきた。
 このような例として、初めに、トムのカタストロフィの理論を取り上げてみよ う〔13〕。この理論は、提唱された当初は、個体発生のモルフォロジーや社会制度 の変動を含めた幅広い応用が可能であると期待され、また、実際に具体的なモデ ルを検討する議論も見られた。しかし、一時の興奮が収まった現在では、この理 論を正しく評価することが可能になってきている。トムの主たる業績は、ポテン シャルが存在しかつマクスウェルの規約が妥当する4次元の力学系で、余階数が 1ないし2の場合について孤立特異点の分類を行ったことであった。従って、内 部自由度が少なく、競合するアトラクターを余り考えなくてよいシステム、例え ぱ流体力学のモデルでは、この理論かなり有効である。これに対して、生物や 社会システムのように、ポテンシャル理論の妥当性が疑わしく、よしこれが使え たとしても残余次元で近傍に強いアトラクターが存在してカタストロフィの形を 変えてしまうことが予想される系では、精密理論としては役には立たない。にも かかわらず、哲学的な観点からカタストロフィ理論の応用が期待されたのは、ま さにこのような分野であり、トム自身、『構造安定性と形態形成』の後半(第7 章以降)では、前半で据えられた数学的基礎を遥かに踏み越えて自由なアイデア を展開している.こうした議論は現時点では時期尚早であり、ポテンシャルを用 いることの有効性を検証するのが先決問題であると考えられる.
 より堅実なアプローチは、プリゴジンを中心とするプリュッセル学派によって 試みられた〔14〕。その基本となる手法は、トリヴイアルな解の回りの安定性を調 べ、非減衰モードがある場合は、2次元の力学系におけるポアンカレ/ベンディ クソンの定理のアナロジーからリミット・サイクルの存在を予想し、解析的また ほ数値的に確認するというものである.この方法自体はきはめて強力で、多くの 化学的現象を説明するモデルを与えるられるという長所を有するが、その反面、 非線型現象に関してその非線型性が(リミット・サイクルのような)動的安定性 の直接的な起源であるとする誤ったイメージを広めることにもなった。実際、リ ミット・サイクルが存在するためには理論の非線型性および自由度の多致性が必 要となるが、逆に非線型性がリミット・サイクルの存在を保証する訳ではない。 むしろ、圧倒的に多数の系において、トリヴィアルな(系が有する最大の対称性 を示す)解こそが安定なのである。また、不安定な渦状点を取り囲むリミット・ サイクルが(準)安定になるのは2次元のみの特色であって、多自由度の系では 一般にサイクルに直交する自由度を伝って軌道がサイクルの外に出ていくため、 現実的な系は最終的には常に熱力学的平衡に達する。
 以上の議論が示しているのは、動的安定状態としての《構造》とその変動を取 り扱う数理科学はいまだ現象依存的で、既知の現象を説明することはできても、 一般論を展開するには到っていないという事実である。実際、自然界では形態形 成を行うのにきわめて多彩な技法を採用しているのであって、力学系でのモルフ ォロジーが常に有効な訳ではない。一つだけ例を挙げれば、バクテリオファージ λの尾の長さが1500Aに定まっているのは、一定の長さをもつ核酸または繊維状 タンパク質が鋳型となって尾の素材を積み上げていくからである〔15〕。現実問題 として、このような現象まで含めた《構造化》の一般論を建設するのは不可能で あろう。こんにち必要とされているのは、むしろ状況に応じて数理モデルを作り 上げることである。

(iii)自己・非自己の問題


 こんにちでは、システムの存在が絶対的なものではなく、存在論的でない自己 組織化――すなわち、相互作用や初期条件には組織化を予知するような項が存在 しないにもかかわらず、システムの自己相互作用を通じてある秩序が形成される ような現象――も現実に可能であることがあまねく知られている。しかし、シス テムの構成員が従っている法則を問題とするときは、システム全体は安定状態に あるとして、その近傍で《内部》自由度の微小な摂動に対する応答を調べるのが 方法論的には妥当になる。なぜなら、安定性の考察からもわかるように、システ ムを維持するのに本質的な役割を果たす自由度は微小変化に対して有意な応答を 示きない(応答が2次の微小量になる)ため、構成員についての議論ではこれを 除いた《内部》空間で考えることが許されるからである。このような取り扱いは、 結果的に、構成員から独立した安定なシステムを議論の前提として(暫定的に) 絶対視することを意味する。
 初めに、自己と非自己の識別を行うシステムとしてしばしば引用される免疫系 を考えてみよう。免疫系において抗体として機能する免疫グロプリン分子を見る と、その立体構造は遺伝的に安定な不変部によって定まっており、抗原を「見分 ける」手段となる抗原決定基(抗原を区別する表面タンパク質)の識別は、中立 的な遺伝子浮動によって多型性を獲得している超可変部で行われている.ここで 超可変部の抗原特異性は、抗体を産生するB細胞のクローンに対応する。平たく 言えば、免疫系では抗体の存在は(不変部の遺伝コードによって)前提された上 で、これが何を攻撃するかという機能が(B細胞クローンの選択という)生体内 環境との相互作用を通じて制御されているのである。こうした状況の下で、自家 中毒を起こさないように「自己」に対する免疫の寛容性が成立する機構は、抗体 産生を開始する以前に抗原が生体内部に多量に存在する場合、該当する抗体産生 細胞が成熟を阻害されるというものである〔16〕。従って、免疫系が自己と非自己 を識別していると言っても、それは単にB細胞のような個々の構成員が置かれた 環境に一定の法則で対応しているに過ぎない。
 より複雑な知的情報処理系においても、同様の議論が成リ立つ。人間の頭脳を 含むこうしたシステムでは、一般に、いくつかの(必ずしも確定的でない)シン タクスが手続き的に組み込まれており、入力情報はこのシンタクスに則って知識 ペースと照合され、しかるのちデータの修正/再編または運動系への出力が指示 される.この場合、「自己」ヘの言及とは、これを含む命題を処理するために特 定のシンタクスを指示することに対応する。例えば、ある行為について「私が行 う」と言明すると、この行為に関する知識の中で運動系ヘの出力の様式が優先的 に呼び出される。従って、情報処理過程に着目する限り、認識論的を問題が生じ る余地はない。
 このように、科学的な議論における「自己」とは、システム論的に異なる階層 間の相互作用の法則/規則として定義されるものであり、哲学的な議論に現れる 自己の概念とは明らかに異質である。このため、直観的な類似性をもとに哲学的 な議論の中に科学的な「自己」の話題を紛れ込ませるのは、学問的に無意味と言 える。

 以上の3つの議論を総合すると、多くの科学哲学的な議論では、科学的な素材 を一応は利用しているものの、問題を過度に一般化して科学的な議論が本来もっ ていた状況ヘの即応性を度外視していることが指摘できる。しかも、そうした論 法によって新しい学問の展望が拓けるという訳ではなく、単に「説明」のために 利用しているに過ぎない。これは、哲学的議論で使われる直観が、理論の本質を 把握するようには作用せず、むしろ(決定不能性や自己言及などの)日常的用語 法によって示唆される一つの側面のみに注意を向けてしま結果である。

©Nobuo YOSHIDA