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II−2 《範型》による科学への規制




 既に述べたように,研究の現場で働いている科学者は,科学の名の下に何ら かの価値判断を示すことを拒否している。にもかかわらず,現代科学は,かつ て哲学が価値論の主題として論じた多くのテーマに,直接的ないし間接的にか かわってきている。このため,部外者が一般論の立場から科学の内容を批判し たり,一個の人間として科学者が自分の良心に従うことを期待したりするだけ では,科学が字んでいる倫理的な問題は深刻すぎて対応しきれない。第I章で は,こうした状況に対処するために,科学的方法論で取り扱えるような価値基 準としての《範型》を提出して,科学的方法論の枠内で価値判断を遂行する可 能性を指摘しておいた。さらに,前節の議論によれば,具体的な社会体制や個 人的な生活体験に直接には依存しない普遍的な価値の基準として<創造的秩序> と呼ばれる《範型》が存在し,これが現実の生活において意識や行動を規制す る機能を持っているとされた。当然,次のステップとしては,この《範型》を 武器に科学の内部に乗り込んで実際に価値判断を行ってみることが必要になる。
 価値基準としての《範型》を科学の世界に持ち込む準備作業として,その適 用域を認識の様態から具体的な概念体系へ変更しておかなければならない。現 実の生活において価値判断を下す場合には,認識素材をさまざまに加工しなが ら(最終的あるいは暫定的に)どのような様態に収束するのかを言わば“見極 めた”上で,はじめて価値の基準となる《範型》の適用が可能になるものとさ れた。しかし,内観を通じてのみ察知される様態を基準の適用域としたままで は,科学が築き上げている既存の概念体系にっいての価値判断を下すことはで きない。したがって,科学的な概念に対して適用が可能になるように,現実の 生活で価値があると認められる対象/事態が備えるべき性質を概念的に明確に することによって,《範型》をモデルとして再定義しておく必要がある。もっ とも,<創造的秩序>の場合,この作業は,既に行った認識論的考察をそのま ま繰り返すだけで充分だろう。すなわち,科学的な議論の枠内では,
(i)当の対象ないし事態が時間的に変化しており,
(ii)変化はカオス的でも単調でもなく,
(iii)通常の思考能力によってある程度の未来予測が可能である

――という性質が,<創造的秩序>を適用する場合の判定基準となる。科学的 な価値判断は,こうした価値の担い手を科学的な概念体系の内側に発見し,こ れを維持ないし発展させる方向へ(科学者および一般市民の)意識を高めてい く契機として機能するものである。

 本節では,ウォーミング・アップとして,比較的簡単な適用例を考察してみ よう。はじめに,人間の知的活動と価値の関係を取り上げる。
 IQの高低によって人間に格差を設定することの無意味さについては(既に 述べたように)多くの識者が指摘しているが,ここでは<創造的秩序>という 基準と照らしてIQの差が人間の価値に優劣をもたらさないことを主張したい。 これまでの議論によって示されるように,IQが低い人に<創造的秩序>が乏 しいと判定するためには,低IQ者の行動が健常者に比べてカオティックない しトリヴィアルであることを示さなければならない。ところが,IQが30程度 の人でも,外部からの刺激に対する応答は決して一律ではなく,日常的な場面 でその行動を予測するのは一般に困難である。もっとも,幾何学的なバターン 認識のようなごく単純な作業の場合は達成度に変動が少なく,これを利用し たIQ検査の結果も往々にして予想通りの値になるが,作業内容があまりに限 定されているので,これをもって人間全体の評価に代えることはできない。― 方,前頭葉の障害によって注意をさまざまな領域に向け直していく能力――例 えば「レンガのプロックは何に使えますか」と問われて,建築材料の他に「重 石,踏台,文鎮,積木……などなど」と次々に挙げていく能力――が損なわ れてもIQの得点が低下しないという症例が報告されており,IQが高い場合で も,(いつまでも同じことを繰り返すという)保続傾向が顕著に現れて行動の バターンが読み取りやすくなるケースもある。こうしたことから,<創造的秩 序>を基準とした場合,IQによって人間の優劣を決定するのは困難であると 結誇される。また,議論が重複するので詳しくは述べないが,同様の結論は痴 呆症患者についても当てはまる。 IQによる判定とは異なって,知的な情報処理能力が完全に損なわれて植物 的な生命反応しか示さなくなった場合,<創造的秩序>を基準とする価値は有 意に減殺される。現在の医療体制の下では,無脳症の新生児に対して積極的な 治療を施さないが,この方針は,科学哲学的な価値判断に照らしても妥当であ る。ただし,このように明解な判断が下せるのは,当然のことながら,知的能 力の喪失が確実な症例に限定される。例えば,脳挫傷によって生じるいわゆる 「植物人間」について考えてみよう。多くの医局からの報告があるように,こ の種の患者が回復するかどうかは,表面的な症状からは予測が困難である。実 際,植物状態に陥った患者の脳を死後解剖してみると,壊死している部分と正 常な部分がバッチワーク的に分布しているケースが多く,生前にどの程度の精 神活動が行われていたか,あるいはどの程度まで回復する可能性があったか, ほとんどわからないのが現状である。このように,植物状態にある患者の転帰 は決してトリヴィアルではなく,表面からは窺い知れない機構によって複雑な 経過を辿るため,植物状態に陥ったからといって,直ちに<創造的秩序>を喪 失したとは主張できない。
 こうした事例と比べると,脳死患者についてはかなり明確な判定を下せ る。(疑念の余地のない)脳死とは,さまざまな障害がもとになって頭蓋内部 に浮腫が生じ,その結果として脳圧の昂進から脳血流の停止へと進んで脳の壊 死が始まった状態を指す。この段階に達すると,大脳皮質は不可逆的に機能を 喪失するため,大脳の活動に帰せられる創造的な思索はもはや期待できず,中 枢神経系が発達していない無脊椎動物と同程度の価値しか見いだされない。し たがって,医療面での取り扱いも,この見解に準ずるべきである。ただし,脳 死患者からの臓器移植を行うためには,脳死の厳密な判定と遺族感情の調整と いう厄介な問題を解決しなければならない。

 もう少し視野を拡げて,人間と自然の調和についても触れておこう。極端な 自然保護主義者は,人間の手が加わらない自然状態にこそ価値があり,これを 復元/維持するように努めるべきだと主張するかもしれない。しかし,私はこ の考えには首肯しかねる。極端なことを言えば,砂嵐が吹きすさぶ荒涼たる世 界が火星の自然であり,これを緑の大地に変貌させることは火星の自然破壊に 他ならない。にもかかわらず,常識的に考えれば,<創造的秩序>の基準に適 合するのは,むしろ樹木が繁茂し動物が生息する光景だろう。より身近な例と しては,日本の森林問題を引合いに出したい。こんにち日本の各地で見られる 森の荒廃は,間伐など人手を要する手入れを怠ったことに加えて,資本生産性 を上げるために成長が速く建材としても高価なスギやヒノキばかり植林したた め,生態系としての多様性が失われて下生えの草や小動物が育ちにくくなった ことに起因する。こうした点を踏まえて,人工林の欠陥を訴え,原生林の優位 を説く立場もあるだろう。だが,<創造的秩序>なる尺度を持ち出すと,カオ ティックな原生林よりも,適切に手入れされている人工林の方が,人間の能動 的な作業の成果が具現される場として人間と自然を調和させた統合的なシステ ムを構成しており,いっそう高く評価されるはずである。同様に,捕鯨を禁止 して鯨の個体を保護するよりも,野生動物の捕食を通じて人間を野生動物の生 態系に参与させた方が,より巨大な秩序を実現できるという点で価値が高い。
 ここまでの論述は,いささか常識的過ぎて物足りないかもしれないが。それ は<創造的秩序>という《範型》がもともと生活世界で使われている価値基準 を抽象化したものであることに起因する。しかし,日常的な判断の及ばないく世 界像>に絡む議論となると,必ずしも常識に合致する訳ではない。論文の結論 として,最後にこの問題を論じよう。

©Nobuo YOSHIDA