前ページへ 次ページへ 概要へ 表紙へ


 §1 学問としての〈気〉の理論

 〈気〉という概念は、古来中国から脈々と受け継がれてきているもので、その内容も精緻に体系化されているため、皮相な議論によって解明されるべくもないことは明らかである。しかし、通俗的な形ではあるが、気功術に関する多くの情報がマスコミを通じて報道されるにつれて、これが単なる俗説/迷信の類ではなく、西洋医学では癒しがたい疾病に対してもある程度の治療効果を示すという意味での〈有効性〉を備えた知識体系であることがわかってきた。こうした状況を鑑みるに、科学哲学的な立場から、何らかの発言が必要とされる段階に達していることは間違いない。そこで、いまだ充分な知識を有していないことを自覚しながらも、あえて〈気〉についての論説を試みたい。
 ステレオタイプ化された言い回しを許して頂けるならば、近代西洋風の身体観では、骨格や臓器などの個々の部品が物質的な機構に即して機能することによって、一個の生物体における生命が維持されると考えられている。この意味で、人間といえども精妙に作られたロボットと変わるところはないのである。これに対して、古代中国の発想に従えば、物体としての臓器は、むしろその上で生命現象が生起する単なる器にすぎず、本質的なのは、こうした器にダイナミズムを付与する〈気〉ということになる。擬科学的なジャルゴンを用いれば、〈気〉とは「生体的なエネルギー」と言い換えられるだろう。
 こうした〈気〉の概念は、もともとは、呼吸や食事など、生体を維持するために必要な具体的なプロセスを念頭に置いて構築されたものと思われるが、時代が下るにつれて、しだいに身体中に縦横に張り巡らされたネットワークを想定するようになってきた。身体を流れる〈気〉の通路は経絡(ケイラク)と呼ばれ、古代中国の身体図には、そのルートが描き込まれているものもある*1。しかし、複雑なネットワークの実態については古代医学書においても諸説に分かれており、現在ではあまり興味のあるものではないので、ここでは、もともとの素朴な意味で〈気〉を解することにする。
 「気功」とは、主に呼吸法を通じて、この〈気〉の流れをコントロールする術である。肉体と精神のトレーニングを通じて、気功家は体内の〈気〉を意のままに操る術を身につけ、これを使って超人的と思える技能を示すようになる。気功法の実演としては、大理石のブロックを額で打ち割ったり、太い鉄の棒を素手で曲げたりする技が知られている。ただし、こうした演技の中には、トリックを利用した見せ物まがいのものもあり、マスコミなどで紹介される記事を全て信じることはできない*2。中には、箱の中に隠されたカード上の文字を言い当てるなど、〈透視〉と同様の技能を示すとされる者もいるが、いずれもエピソード的な報告にとどまっているため、信憑性はあまり高くない。それでも、いくつかの情報を総合すると、(鍼麻酔などを含めた)広い意味での〈気〉の制御によって、次のような効果を引き起こせることは、ほぼ間違いない。
 (i)身体生理学的な効果 : すぐれた気功家は、意志的に身体の生理学的な状態を変化させることができる。具体的には、部分的な皮膚温の上昇や血流量の増加などであり、手のひらなどで微弱な生物発光現象が観測されることもある。また、指先などから、炎や煙を揺らす程度の僅かな「気の流れ」が生じるケースも観察されているが、これが単なる空気の動きがどうかは解明されていない。
 (ii)超人的な実技 : 気功家による実演の中で、「大理石のブロックを額で割る」というように(一般人が直ちに真似をするのは困難だが)物理的な法則を逸脱してはいない行為については、数多くの報告がなされており、その信憑性は高い。特に興味深いのは、人間を相手にした実技である。直立したまま静止するように言われた被験者に対して、「気合い」を掛けるだけで、よろめかせたり、意志によらずに手を上げるなどの行為をさせたりすることが可能である。こうした現象の背後にどのような生理的プロセスがあるかは明らかになっていないが、単なる肉体的鍛錬の成果というだけでは説明しきれないことは確かである。
 (iii)医学的な治療効果 : いわゆる「気功」とは異なるが、〈気〉をコントロールすることによって実現できる生理学的な効果として、いくつかの疾病の治療を挙げておきたい。人体には、そこを刺激することにより〈気〉の流れを変えることのできる経穴と呼ばれる部位が存在している。ある経穴を鍼または灸によって刺激した場合、人体の他の部位にいかなる効果が派生するかについては、古代から膨大な知識が集積されており、各種の治療や診断に利用されている。近年、特に研究が進んでいるのは、鍼による麻酔効果である。これは、特定の箇所に鍼を刺すことによって痛覚を鈍麻させるもので、外科手術の際に用いられるケースもある。鍼麻酔は頭部や頚部の手術において著効が認められるが、腹部や胸部における鎮痛効果は20〜30%程度だとされる。このほか、鍼を用いた治療の効果が上がるとされている疾患は、肺炎や消化性潰瘍を含む多数の内科系疾患から、膠原病/神経痛の類に到るまで、きわめて多彩である。ただし、西洋医学のように、効能が定量的に評価されている訳ではない。
 上に述べたような〈気〉の効果は、正統的な科学の知見とはどのような関係にあるのだろうか。二分法的な言い方をすれば、科学はこうした現象を(〈超心理学〉の場合と同様に)排斥するのだろうか、それとも調和する道を発見するのだろうか。私の考えでは、既存の科学的な知識に基づいて〈気〉の効果を説明することは可能だが、科学的方法論の枠内でこれを取り扱うことはできない。以下、この点について論じていこう。

 科学による〈気〉の部分的説明
 現行の科学によって〈気〉を理解するための基本的な前提は、人体が科学では取り扱えないほど複雑なシステムだという事実を認めることである。

 議論の出発点として、神経系の機構に着目したい。高等動物の神経系は、脳を中枢として、ここから体のすみずみに出力信号を伝達する遠心路と、逆に末梢から中枢へと入力信号を伝える求心路によって構成されている。ごく素朴な理解では、これらの神経を通って伝播するのは、要素的な情報だと考えられる。すなわち、求心路を遡行するのは、特定の感覚器に刺激が加えられたことを現すだけのシグナルであり、逆に遠心路を通って投射されるのは、個々の筋肉や分泌組織の活動のオン/オフを与える信号にすぎない。この考えに従えば、ある程度の拡がりを持つ身体の状態に関する情報は、多数の神経束を伝達される信号を総合してはじめて獲得されるものでありため、その全容を把握できるのは脳だけだということになる。例えば、足に傷を負っているため、手に持った杖で足をかばいながら歩かなければならないとしよう。このとき、「足の傷」という非局部的な知識は、足にある多くの感覚器が発信する要素的情報のいずれにも含まれておらず、これが求心路を経由して脳に達し、そこで再構成されてはじめて得られるはずである。当然、足自身は、自分が怪我していることを知らない。一方、どのように歩くかについての図式も、その全てがあらかじめ脳の内部で組み立てられており、遠心路を伝わっていくのは、この図式から導かれた筋肉の収縮に関する指令だけだと考えられる。
 ところが、実際の身体反応を見ると、事態はそれほど単純でない。すなわち、「末梢線維においても、抽象的な高次情報を伝達している系が存在する」と仮定した方が理解しやすい状況が観察されるのである。
 こうした言い回しは、1本1本の神経線維が「興奮しているか否か」という1ビットの情報しか伝えられないことを考えると、いささか奇異な感じを与えるかもしれない。ここでは、情報処理の階層性が比較的理解しやすい視覚系を例にして、この間の事情を説明しよう*3。網膜に存在する光受容器からの信号は、はじめに後頭葉視覚野の特定部位に投射される。この一次的な情報に対して(隣り合う点の間で明るさの差を計算するなどの)さまざまな加工を施すことによって、もともと“地”と“図”の区別もないベッタリとしたシグナルの束から、エッジの長さや傾きなどの幾何学的な特徴が抽出される。さらに、いくつかのエッジの相互関係をはじめ、エッジ長の時間的変化や同一のエッジが示す両眼視差などを解析すれば、対象に関する幾何学的/運動学的な知見が得られる。こうした作業を積み重ねていく過程を通じて、次第に脳内部のニューロンを通じて伝達される情報は、「ある点における明るさ」のような具体的な性質から、「ある物体の運動方向」のように対象に関する抽象的な性質にかかわるようになる。ただし、ここで言う抽象性は、必ずしも日常的な用語法とは一致しない。例えば、サルの脳に微小電極を刺入して個々の神経細胞をモニターする実験によると、「(2つ並んだ)目」を認知したときだけ興奮するニューロンの存在が確認されているが、これなどは、階層的な分析が高次の段階に達しているという意味で、(通常の用語法とは異質かもしれないが)きわめて「抽象的な」情報の部類に入れられる。一般に、階層の異なる情報は脳の異なる部位で処理されているため、頭頂連合野のような高次の情報を扱う部位においては、個々の神経細胞が抽象度の高い(しかし情報量は乏しい)信号を伝達することになる。末梢線維における抽象性も、これと同様に解釈することができる。
 末梢からの求心路にも高次の情報を伝達している線維(束)があるという証拠は、いくつかの医学的知見の中に見いだされる。例えば、鍼麻酔を行った場合、その刺激が神経を介して脳に伝達されると、脳内部でエンドルフィンなど特定の神経ペプチドが分泌され、これが痛みを緩和する作用を及ぼすという研究がなされている。この主張が事実だとすると、鍼の刺激は経穴の局部的な痛覚情報を伝達するだけではなく、エンドルフィンの分泌を必要としている身体症状についての高次の抽象的な情報を伝えていることになる。この考えを敷衍すれば、求心的な神経系の中には、身体の状態をモニターする役割を担っており、非局部的な情報を脳のしかるべき部位に通達すべくあらかじめ(遺伝的に)配線されているサブシステムがあると推定される。肉体が大きなダメージを受けたり全身にかかわる体調の崩れがあったときには、こうした神経系が緊急のシグナルを発するのではなかろうか。
 日常的な体験に照らしてみても、非局部的なモニター系の存在は、それほど意外ではない。実際、われわれは、患部を特定できないまま、「腹具合が何となくおかしい」という曖昧な感覚によって肉体的な不快を覚えることがある。もちろん、この場合でも、脳に伝えられる信号自体は局部を指示していながら、(神経束数ないし持続時間によって表される)興奮の程度が微弱なため、あるいは、この信号を身体像の上に投影する神経生理学的メカニズムがそもそも備わっていないため、意識において異常箇所を限定できないという可能性も否定できない。しかし、胃腸に存する感覚器官のあるものが、膨大な数の求心線維を代表して(抜き取り検査的に)蠕動の程度や粘膜の状態をモニターし、これが全般的な「腹の調子」を表す情報として脳に伝えられると考えた方が、実感に合致するだろう。また、性行為において、加えられる刺激が特定部位に限局されているにもかかわらず、全身的な感覚として体験されるケースもある。この感覚の出所について、脳がいったん局部的なシグナルとして受け取ってから、その内容を検討した上で他の情報と併せて再構成したものという解釈も成り立つが、それよりも、特定の神経からの刺激が、中間段階での詳細な分析を経ないで、直接に快感中枢に投射された結果だと見なすのが自然だろう。このように、末梢神経からの信号自体が高次の情報を構成している例は、日常的体験から判断する限り、決して稀ではない。
 一方、遠心的な神経系においても、特定の筋肉を収縮させるとか、何らかのホルモンを分泌させるといった要素的な情報ではなく、いくつかの連続的な反応を指示するトリガーとなる高次情報が伝達されるケースも、充分に予想される。特に、ホルモンなどによる液性の調節作用が介在しているときに、この可能性を調べてみる価値はある。
 無脊椎動物では、中枢神経系の指示によらない活動パターンが少なくない。例えば、アメフラシの産卵においては、輸卵管を収縮させるホルモンなど、特定の活動を引き起こす調節因子が染色体上に並んで配列されており、これを順番に解読していくことによって一連の行動が次々に解発されることが知られている*4。これほどトリヴィアルでなくとも、高等動物に見られる活動のいくつかは、(視床下部のような無意識系を含む)脳が、あらかじめ決定しておいた指針をもとに、各部位に投射している神経を通じていちいち指令を与えるのではなく、あたかも“ドミノ倒し”のように半ば自律的に継起する生化学的現象に律されていると考えられる。このとき、最初の“ドミノ”になるのが特定の神経からの信号だとすると、この神経が伝達したのは、一連の活動パターンを予在させる高次の情報と見なすことができる。
 ただし、調和のとれた運動を実現する筋収縮のパターンに関しては、ほとんど全ての情報を脳が用意していると考えた方がしっくりすることも、付け加えておきたい。例えば、通常の歩行に際して、足を上げている側の腰をわずかに下げてバランスをとるといった微妙な調節は、きわめて高度の情報処理能力を必要とする作業なので、遠心的な神経系が個々の筋肉に到達するときの接続パターンによって実行されているとは考えにくい。むしろ、脳があらかじめ筋収縮の目標値を計算しておき、これに基づいて(それぞれの筋肉をどれだけ収縮させるかという)要素的な信号を発しているものと思われる。

 古典的な「脳による身体支配」の構図では、脳が全ての情報の中心に位置しており、身体各部に位置する個々の感覚器からの断片的な知識を収集する一方、臓器や筋肉に中央からの指令を下達する役割を果たしている。この見方によれば、脳にとっての身体は、感覚器や臓器/筋肉などの部品の集積として扱われていることになり、統一された身体というイメージは、強権的な支配が行き届いている状況下で脳が描き出す“幻影”にすぎない。これは、唯脳論とでも呼ぶべき思想である。
 こうした身体観を指示する生理学的な証拠は、求心/遠心的な神経系が樹状構造をしていることである。神経細胞は、脳の内部ではネットワーク構造をとっているが、中枢システムの外では、数ヶ所のシナプスで中継されるだけの単線的な経路を描いており、途中でループが現れることはない。したがって、脳内部で見られるような反響回路による持続的な興奮が末梢神経の領域で生じることはなく、常に一方的な信号の伝達に終始する。こうした信号の伝達経路は反射弓と呼ばれ、脳と身体の関係を規定する基本的な機構と見なされている。
 これに対して、先に述べたように、末梢神経においても高次情報が伝達されると仮定すると、事態は全く異なった様相を呈してくる。反射弓に基づく脳の支配においては、末端での情報は「ある感覚器に刺激が与えられた」とか「ある筋肉を収縮せよ」といったきわめて断片的なものであり、情報相互間の結びつきも弱い。この場合、神経系の末端は言わば膨大な身体部品の山の中に拡散していく形になり、情報伝達系としては完全な開システムを形成することになる。ところが、末端においても「酸性度が高くて胃の粘膜が荒らされている」「特定部位の免疫系を賦活せよ」という高次の情報が利用できるならば、各神経系が身体の非局部的な状態と密接な関係を持つようになり、理想的には、この身体状態を媒介として求心的線維と遠心的線維の間に連絡が生じる。やや極端な言い方をすれば、脳と身体を結ぶ閉じた情報伝達のシステムが完成するのである。このような閉システムにおいては、情報の流れがループを形成したまま安定状態に達し、ループの一部となっている身体の部位に対して、遠心的神経線維による連続的な賦活効果を与えることがある。これを「活性化ループ」と呼ぼう。私見では、〈気〉と呼ばれる生体エネルギーは、この活性化ループによって生じる特定部位の持続的な活性状態を指すものと思われる。
 〈気〉をこのように解釈すると、鍼治療に見られる各種の医療効果や気功家が示す生理学的現象を合理的に説明できる。羅列的に述べていこう:
 (i) 鍼麻酔の効果は、脳内部においてエンドルフィンのような自己麻酔作用のある神経ペプチドの分泌を促す結果として生じる。ここで鍼によって刺激される神経は、身体の緊急事態を知らせるモニターの役割を果たす線維だと想定される。
 (ii) 各種の疾患に著効のある鍼治療は、鍼の刺激によって特定部位の免疫系を活性化させた効果だと思われる。はじめに鍼を打つのはモニター用の神経線維を刺激するためだが、これが成功したかどうかは、患者自身が「得気」の実感を覚えることによって判定する。この刺激によって、特定の「活性化ループ」が安定状態に達し、そこに含まれる免疫システムが(おそらくインターロイキンなどの液性調節因子の分泌を通じて)持続的に活性化されると考えられる。
 (iii) 気功家が意志の力を通じてさまざまな身体生理学的な反応を惹起するのは、何らかの手段によって当該反応を含むような「活性化ループ」を励起した効果だとすると理解しやすい。ただし、既に述べたような皮膚温の上昇や血流量の増加は、自律神経を経由する反射弓に意志的に介入し続けることによって生じている可能性もある。こうした介入は、一般に思われているほど困難ではない。実際、意志によって直接的に鼓動を早めることはできないが、「心臓がドキドキする」ような空想を巡らせれば、間接的にせよ目的を達せられるはずである。気功家は、どのような意志的活動によって自律神経系を経由する反射弓に介入できるかを、修練を通じて体験的に会得していると想定される。なお、手のひらから微弱な発光が観測されたケースは、その部位で発光を伴う生化学的反応がさかんに行われたとすればさして不思議ではないが、指先から「気の流れ」が生じるという報告については解釈に苦しむ。今の段階では、指を細かく動かして空気の揺動を引き起こしたか、活発な発汗作用があったのではないかと推測するしかない。
 (iv) 気功家が超人的な技を演じられるのは、そうした行為を可能にする身体状態を前もって用意しているからであろう。例えば、常人にはとても曲げられないような太い鉄の棒をやすやすと捻ってみせるためは、通常は余裕をもって設定されている筋出力の上限を引き上げておく必要がある。言わば「火事場の馬鹿力」を意図的に実演しているのである。こうした出力コントロールは、主として中枢神経系において行われているが、だからと言って精神的な練習のみをもとに実行するのは難しく、身体的な鍛錬を媒介として「活性化ループ」を励起することにより、特定の部位に投射する中枢神経系の作用を高めているのだろう。

 《超科学》としての〈気〉の理論
 以上のように、〈気〉のコントロールによって生起する現象の多くは、科学的な用語法を通じて説明することが可能である。しかし、ここで重要なのは、こうした論述があくまで「説明」にすぎず、科学的な方法論に則った取り扱いではないという点である。科学の本質は、その機能が明確に定義されているモデルを構築し、これに基づいて研究者間で差の生じない科学的な命題を生成する手法にある。たとえ神経生理学的な議論をしたところで、「活性化ループ」によってどのような生理学的現象が実現され得るかを「予言」できなければ、科学理論としての資格はない。
 〈気〉に関する議論が科学的方法論に立脚していないとすると、当然のことながら、その〈有効性〉に疑問が生じる。実際、〈気〉という概念は、人体というきわめて複雑なシステムの働きの中で因果的な思考パターンでは把握しきれないあらゆる現象を飲み込んでしまう「貪食概念」に堕す危険を孕んでいる。例えば、怪我をしたときにどうして痛みを感じるのかを説明するために〈気〉を持ち出す人はあまりいないが、傷口が場合によって炎症を起こしたり癒合したりするのはなぜかを述べるのには、往々にして〈気〉の助けを借りなければならない。これは、「怪我」と「痛み」の関係が、物質的な破壊によって道具が使えなくなって不都合が生じるという日常的な理解のパターンを借りて、単純な因果律の枠組みに当てはめられるのに対して、炎症のような複雑な過程は、外在的な道具のような日常的アナログが利用できないので、非因果的な説明原理を導入する必要が生じるからである。批判精神を欠いたままこの方向に進んでいくと、単純化された因果の枠組みに適合する事象については、あえてそれ以上の分析を試みない一方で、この枠を逸脱してしまう不可解な現象は、それ自体が理解不能な概念によって全て説明してしまうという安易な「説明主義」に行き着くことになる。この立場から現象の詳細を明らかにしようとすると、個々の状況に適合するような概念を次から次へと案出しなければならず、膨大なジャルゴンを抱えて体系が肥大化するばかりである。こうなると、「痛み」をもたらす神経系についても、「炎症」を生じさせる免疫系についても、その発現をコントロールするような有効な処方を与えることは困難となろう。〈気〉という概念は、人体に生起する諸々の現象に対してオールマイティな説明力を持っているだけに、下手をすると、非日常的な事象を全て「超能力」の一言で片づけてしまう〈超心理学〉と同様の誤りをおかすことになりかねない。
 確かに、〈気〉についての理論は、ともすれば説明のための説明に終始しており、科学と対等に扱われるのに充分な〈有効性〉を獲得しているとは言えない。実際、小児マヒの治療一つをとってみても、古代中国の学理は現代西洋医学に全く太刀打ちできないのである(もっとも、ワクチンによって強制的に病気を癒すのが好ましい方法かという価値観の問題になると話は別だが)。また、最近のマスコミでは、透視能力を持った気功家のように、いかがわしい話題が取り上げられることも多いが、これも、〈気〉の適用範囲を明確にできない弱みの現れかもしれない。
 しかし、〈気〉に関する理論的体系は、ESPなどを扱う〈超心理学〉とは異なって、いくつかの疾病に対する治療効果が認められており、学問的に全く無価値な主張では有り得ない。また、同じように科学的知見を援用して説明する場合でも、臨死体験を論じる際には、〈魂〉のような《超科学》的ジャルゴンに対応する対象ないし事象は説明のどこにも現れなかったのに対して、〈気〉の作用を生理学的に示すためには、これに擬えられる特定の事象を「活性化ループ」として抽出する必要があった。こうした事情は、〈気〉に物理的な過程の裏付けがあり、学問として体をなすためのバックボーンが備わっていることを示唆する。通俗的な理解では〈気〉は〈超能力〉の一種と誤解されることもあり、紛れもなく《超科学》的な概念である。にもかかわらず、こうした学問的価値が派生するのは、どのような理由によるのだろうか。
 ここで筆者が最も強調したいのは、〈気〉が特定の生体現象として相当の明確さをもって概念画定され得るという点である。週刊誌的な記事や大道芸人もどきの実演からはある種の“いかがわしさ”が払拭できないが、少なくとも中国の医療現場に従事している経験ある治療師の間では、どのような生理的プロセスが〈気〉の変化を反映しているかについて、実用上の混乱が生じない程度のコンセンサスが得られている。こうした一般的な知識は、病気の診断/治療のために体系化されており、例えば、ある内臓に病変が生じると、経絡を通じて手首の特定の部位における脈のリズムや強弱に影響が現れると考えられている。鍼治療の場合は、さらに、鍼を刺入したときに〈気〉を感じるかどうかを、患者から直接に確認することもできる*5。中国人の多くが鍼治療の経験を持っており、鍼が正確に経穴を刺激したときに生じる「得気」と呼ばれる独特の感覚−−ヒリヒリした感じや手足が内部から膨らむような膨張感など−−を体得しているため、鍼の効果に関して治療師との間でコミュニケーションが成立するのである。このように、治療師による外面的な所見と患者による内面的な実感の双方によって〈気〉の流れがモニターできるため、科学的方法論で援用されるような〈モデル〉に依拠していないにもかかわらず、概念画定の不定性を取り除く手段が与えられることになる。一般に流布している〈気〉概念の曖昧さは、こうした実用的な場面との結びつきが失われたことに起因するもので、亜流の学派につきものの混乱の一種と解釈しても許されるだろう。
 〈気〉の概念が画定されると、前章で述べたような《超科学》における方法論的な欠陥が、かなりの程度まで回避される。
 はじめに指摘したいのは、〈気〉が作用する対象が、外界を記述する情報理論的な階層の中で特定の層に限定されている点である。〈超心理学〉に見られる重大な欠陥は、(紙の上のインクを指示する)物理的な階層と(インクで書かれた記号の内容のような)認識論的な階層を混同して論じているところにある。これに対して、〈気〉が宿るのは、人体の中でも単純な因果的理解の通用しない複雑な機能を有する部位に限られている。場合によっては、非生命体にまで〈気〉の作用が及ぶことがあるが、それはあくまで人体をベースにした反応の副次的な産物である。こうした方法論的な制限があるため、〈気〉を論じる学問的な体系は、いたずらにその版図を拡げないで、ある種の活性化状態という生理的現実に即した領域に言説をとどめおくことができるのである。中国においても気功術が俗説/迷信の類として排斥された時期があったが、いわゆる「迷信」の大半が(他人の所有物にかけた呪いが本人に影響を及ぼすというように)自然認識に現れるいくつかの階層を単一の理解フレームに還元して扱っていことを考えれば、階層性の差異を明確に把持している気功術をこれと同一視することは許されない。
 さらに、概念の適用範囲が画定されている医療現場においては、〈気〉の効果を対照群と比較する道も開けてくる。〈気〉の概念が適用されるのは、分析的な考察が困難となる複雑な過程が多く、既存の科学的な知見をもってしては対照群を設定できないと思われるかもしれない。しかし、鍼を使った治療においては、上に述べたように、患者の報告によるモニターが可能なため、〈気〉を得ている場合とそうでない場合について、鍼治療の効果を較べることができる。もっとも、患者の主観に任せていたのでは〈気〉とは無関係のプラシボ効果が派生する懸念があるので、治療用の鍼に電極を取り付けて「得気」に対応する電気的シグナルを測定しながら実験を行う方が、信頼性が高いだろう。一方、こうした実験を通じて、予想とは異なる結果が得られた場合は、(程度の差こそあれ)〈気〉に関する理論の反証として利用できる。例えば、末梢神経レベルでの鍼による刺激を変化させたにもかかわらず、麻酔などの治療効果に差異が現れなかったとすると、経穴を刺激によって特定の経絡に沿った〈気〉の流れが生じるという仮説は大きなダメージを受けるはずである。

 以上の考察は、〈気〉のような《超科学》的概念を応用する際に、どのような手順が必要かを明らかにする。すなわち、当該概念が何らかの〈有効性〉を示す適用領域を見いだし、その範囲においてどのような概念画定が行われているかを検討する。ここで、科学的な説明を全く困難にするほど情報処理の階層を混同しているケースでは、学問的な主張としての〈有効性〉は期待できないだろう。逆に、こうした階層性を正しく了解している言説は、たとえ《超科学》の装いをまとっていても、(医学的な治療効果のように)学問的に有効な成果を挙げる可能性が生まれてくる。このことは、《超科学》一般の意義を論じる上でも、一つの指針となるだろう。


©Nobuo YOSHIDA