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§2.農業生態系

 18世紀頃までは、農業は、食物供給の営為として、権力の支配下に置かれており、農家としても、租税分と自己消費分を生産するのが精一杯だった。しかし、近代に入ると作物の収量が増大し、市場の販売に回せる余剰分が生じ始め、農業も、土地や労働、農機具などを資本として投下し、収穫を市場で販売して利得を得る産業の一部門として成立する。特に、第一次世界大戦後のアメリカでは、大規模な灌漑施設を設置し、広大な農地をトラクタを使って耕作する典型的な「農業ビジネス」が推進されるようになる。こうなると、産業主義的な観点に則って、農業においても、生産性が第一義的な重要性を帯びてくる。農作業に利用される農機具や化学製品はそれほど高価ではなく、耕地が投下資本の中で最大のウェイトを占めるため、産業としての目標は、土地生産性(耕地面積あたりの収益)を最大にすることになった。したがって、「農業の近代化」とは、科学・技術を活用して土地生産性を増加させることを意味する。

 近代農業の背後にあるのは、「選別と排除の思想」だと言えるだろう。産業主義社会においては、投資に対する利得の比率(資本生産性)を最大化することが至上命題とされる。そのために、生産性を上げる「有用な」ものを選別して取り入れ、生産性向上に「不要な」、あるいは生産性を下げる「有害な」ものは排除しようとする。例えば、世界的マーケットを持つ穀物の単作は、農業ビジネスの資本生産性を高めるという「有用性」が認められて、20世紀初頭のアメリカに始まり、世界各地に普及していったものだし、森林や干潟は、市場価値のある製品を生み出さない「不要な」土地だとして、開墾・干拓が進められた。

 こうした「選別と排除の思想」は、(少なくとも一時的には)経済を発展させる効果を持つが、しばしば、周辺の事情を十分に考慮していないために、長期的・広域的な観点から見ると、環境に大きなダメージを与えていることがある。通常の産業の場合、周辺住民の健康被害など、産業活動から離れた対象に悪影響が生じることが多いが、農業では、土壌や生態系の変化は、農業生産そのものに打撃を与えるという皮肉な結果を招きやすい。生産性を高めようとする努力が、逆に、生産性の低下という形で自分たちに返ってくるのである。


■単作化による生物的多様性の喪失

 「生物的多様性(biodiversity)」という概念は、環境問題を論じるときのキーワードとなっているが、農業の分野でも、重要な意義を持つ。

 アメリカを中心とする先進工業国における農業は、米、麦、大豆、トウモロコシなど市場価値の高い特定の作物の単作に偏っている。大規模農家の場合、見渡す限りの耕地に1種類の作物しか植え付けられていないこともあり、植物遺伝子の多様性は乏しい。現在では、3万種といわれる食用植物の90%以上が、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ地域に生育している。

 耕地における生物的多様性の喪失は、病虫害や気候の変動に対する適応性に欠けることを意味する。地球表面がたびたび氷河で覆われた歴史があることからもわかるように、地球の気候は、決して一定ではなく、しばしば大幅に変動する。ここ200年ほどの間、例外的に気候が安定していたが、こんにちでは、温暖化ガスの蓄積などさまざまな変動要因があるため、これまで以上に異常気象が頻発することが予想される。ところが、高収量品種は、一般に環境の変動に対して脆弱で、気温や雨量が少し変わっただけで、大きなダメージを受けやすい。また、気候の変動に伴って発生する新種の病虫害に対しても抵抗性が乏しい。こうした“弱い”作物だけを単作していた場合、状況によっては、見渡す限りの畑が全滅するという危険性もある。リスク分散という観点からすると、収穫高が少なくなっても、さまざまな作物を育てる方が安全である。

 近代的単作農業に対する伝統的複作農業では、狭い耕地に多くの作物を育成する労働集約的な多品種栽培が行われており、作物生態系をより適応力のあるものにしている。こうした農耕は、土地生産性や労働生産性は低いが、環境を良好な状態に保つ効果がある。例えば、中米の伝統的な畑では、トウモロコシ、マメ類、カボチャが一見雑然と植え付けられている。この作物生態系においては、マメ類が窒素固定を行って他の作物に栄養分を供給する一方、背の高いトウモロコシがマメ類にツル棚を提供し、耕地表面を覆うように生育するカボチャが土壌の流出や浸食を防ぐ役割を果たしている。


■殺虫剤・除草剤の多用

 農業における「選別と排除の思想」が最もわかりやすい形で見られるのが、殺虫剤・除草剤の多用とその結果である。

 農業ビジネスの観点からすると、「害虫」や「雑草」は、農作物の生育を阻害するマイナス要因として、排除の対象となる。実際、1965年における病害虫、雑草による農作物の損失は、米、砂糖きびで約50%、トウモロコシ、綿で35%に達すると見積もられている。かつての農民は、こうした「有害な」対象を手作業で取り除いてきたが、20世紀の科学文明は、化学物質によって大々的に排除することを可能にした。日本では、稲のいもち病やニカメイガに対する特効薬として、有機水銀剤やパラチオン剤が全国的に普及した1954年を境として、病害虫による水稲の被害量は半減している。

 しかし、農薬による害虫・雑草対策が奏功した一方で、近年、こうした化学物質の環境に対する悪影響が深刻になっている。

 そもそも、「害虫」とか「雑草」という用語自体、「農作物」をメインに据えた人間中心の捉え方である。生態系の実態を考えると、農作物の方が人間の関与がなければ育たない「異常な」生き物なのに対して、害虫や雑草は、与えられた環境中に自然に適応した生物種である。

 さらに、耕地に生育する生物は、この3種類だけではないことを忘れてはならない。殺虫剤や除草剤を多用する農業ビジネスの観点からは、害虫や雑草が、農作物に害をなす対立項として想定されている(下図)。

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しかし、現実の「耕地生態系」とは、きわめて多様な生物および非生物が、人間の知能では把握しきれない入り組んだ相互作用をしている複雑なシステムである。ここに、殺虫剤や除草剤といった強力な作用を及ぼす化学物質が投入された場合、その影響は、害虫や雑草の駆除だけにとどまるはずがないのだ。

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■殺虫剤と健康被害

 殺虫剤の影響が、害虫の駆除だけにとどまらないことを如実に示す実例として、まず、DDTを取り上げてみよう。

 DDT(p,p’-ジクロロジフェニルトリクロロエタン)は、1939年、ミュラー(スイス)によって初めて合成され、画期的な殺虫剤として高く評価された。毒性の強い従来の殺虫剤と異なり、DDTは、昆虫特有の組織(はしご状神経系)を麻痺させるというピンポイント攻撃を実現するもので、急性中毒症状も見られなかったことから、人間には全く無害だと見なされた。シラミの駆除のためにDDTを頭から振りかけるという(今から思うとゾッとするような)散布法が平然と行われたのも、この化学物質が昆虫に特異的に作用するだけで人間には悪影響がないと信じられていたためである。第2次大戦中には、シラミやカなどの伝染病を媒介する生活害虫を退治するために兵隊や避難民に使われたが、戦後は、ウンカなどの害虫に著効のある農薬として、大規模耕作を行う農家で大量に使用され、農作物の収量増大に貢献する。こうした効用が認められて、1948年、ミュラーは、DDTの発明によりノーベル賞を受賞するという栄誉に浴した。

 DDTに対して最初の警鐘が鳴らされるのは、1962年になってからである。この年、生物学者のカーソンが『沈黙の春』を出版し、DDTなどの農薬による汚染を警告した。

「自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思った。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、死にかけていた。ぶるぶる体をふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の春だった」(『沈黙の春』より)

 カーソンの警告の正当性は、その後まもなく実証される。化学的に安定なDDTは、野生動物や人間に対する急性毒性は小さいが、長期にわたって環境中に残留し、食物連鎖を通じて生体濃縮を起こすため、発ガン性や催奇形性・免疫力低下・環境ホルモン作用(内分泌攪乱作用)など、さまざまな慢性毒性を発現することが判明した。当初は、DDTによって巨大な利益を上げている農薬会社が実験データに基づく反論を試み、規制の導入が遅れるが、1970年代に入ってから、世界的に使用の規制が進む。日本では、1970年にほとんどの使用が禁止となり、1973年に製造・輸入が禁止される。

 現在、DDTを農薬として用いる地域はないが、マラリアを媒介するハマダラカの駆除のため、インドなどで使用が続いている。これは、マラリアとDDTの被害を秤にかけた上での政治的判断であるが、残留性の強いDDTは、散布地域だけでなく周辺海域を広く汚染するため、国際的な問題となっている。こうして、先進国で使用が禁止されたにもかかわらず、海水中の低レベルの残留が続いており、魚、哺乳類、鳥類の繁殖などに悪影響を与えている。

 「害虫だけを殺し、他には何の悪影響もない」と信じられ、ノーベル賞の対象にもなったDDTが、その後、20世紀最大の汚染物質の1つと目されるに至ったという事実は、歴史的教訓として重く受け止めねばならない。


■農薬と生態系

 農薬が害虫や雑草を駆除するだけでなく、生態系全般を揺るがすものであることは、現在、さまざまなデータを通じて明らかにされてきている。

 まず、土壌生態系がどのようなものかを、簡単に瞥見してみよう。土壌内には、きわめて多数の生物が棲息し、生態系を形成している。簡単に説明しよう。

大型土壌動物:体長2mm以上の動物。ミミズやクモ、多くの昆虫、ヘビやモグラなど
大型土壌動物の中で、特に重要なのがミミズである。ミミズの活動は、次のような土壌改良効果を持つ:(1)土壌中に孔を堀り、地表の植物遺体などの有機物と鉱質土壌とを攪拌混合する。(2)フンは、鉱物粒子と有機物の団粒構造を形成する。(3)体内器官の働きによって、土のpHを適正値(pH6程度)に調整する。(4)フンは周辺の土壌に比べて窒素やカルシウム、マグネシウムなどの含有量が高い。(5)フンの中で微生物の活動が高まり、有機物(植物残渣)の分解が速まる。
中型土壌動物:体長0.2〜2mm程度。ダニやトビムシ、ヒメミミズなど。
トビムシは病原微生物を捕食し、大型土壌動物の餌となる。
小型土壌動物:体長0.2mm以下。アメーバーなどの原生動物や線虫など。
土壌微生物:細菌、糸状菌、放線菌など。
土壌微生物は、次のような役割を果たしている:(1)土壌中におけるさまざまな物質の分解、循環、代謝。(2)空中窒素の固定。(3)微生物間の相互作用による病原菌の制御。
作物その他の植生

 安易に農薬を多用すると、こうした多数の生物が複雑な相互作用を行っている生態系の秩序を、根底から破壊してしまう危険がある。


 土壌/耕地生態系に農薬が及ぼす影響のいくつかを列挙しよう。

 このように、殺虫剤や除草剤を多用すると、生態系の破壊を通じて、農業の生産性をかえって低下させることも起こり得る。

 ただし、農薬の全面的使用中止が、農業生産を大幅に減少させ、食糧の安定的な供給を困難にすることも指摘しておかなければならない。例えば、トウモロコシの収量は、窒素肥料の無施用で41%、除草剤の使用中止によって30%、両者の組合わせで51%も減ることが予想される。こうした状況をふまえて、農薬や化学肥料の適切な使用法・使用量を科学的データに基づいて究明し、その成果を農家に確実に伝えることが重要である。




©Nobuo YOSHIDA