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第4章.豊かな農業とは


§1.資本主義の陥穽

資本主義における生産性評価
 資本主義とは、投入資本あたりの利得(資本生産性)を最大にするように、産業活動をシフトさせる経済体制を意味する。資本主義の観点から見た農業の近代化とは、世界的な市場を持つ作物(米、小麦、とうもろこし、大豆など)に対して、土地および労働(農薬や肥料、農機具を使う場合はその費用も一部加味する)あたりの収量を、技術的な改良によって増大させることである。歴史的には、堆厩肥+役畜+鋤鍬を用いた小農による土地の粗放的使用が、近代に入って、水利システム開発、品種改良、機械化、化学製品の利用を背景とする高度耕作法に変化していく過程が、これに該当する。
 こうした農業の近代化は、素朴に考えれば、技術主義の輝かしい成果である。資本生産性を高めるという要求に対して、技術者は、さまざまな革新的技術を導入することによって応えてきた。今世紀に入ってから第三世界で見られた土地生産性の著しい向上は、その具体的な現れであり、地球上から飢餓をなくすために不可欠の「緑の革命」と評価する人も多い。
 しかし、子細に見ると、農業の近代化は、必ずしも、すべての面で生産性向上をもたらした訳ではない。具体的な例として、16世紀中国南東部の伝統的稲作と現代日本の近代的稲作を比較してみよう。
 耕地面積1ha当たりの米の収穫量は、伝統的稲作の1トンに対して近代的稲作では4トンに増加しているので、土地生産性は、ほぼ4倍に増加している。また、耕作の機械化によって、単位収量あたりの投入労働量も5分の1に減少しているので、労働生産性も高められた。近代的な資本主義経済においては、資本財の中で土地と労働が最重要視されるので、農業の近代化は、資本生産性の向上として評価できる。
 ところが、土地と労働力を除いた資材で考えると、農業の近代化は、生産性を驚くほど低下させたことになる。近代日本の稲作において一定の収穫を得るために投入される資材は、中国の伝統的稲作で使われる資材(種子、農具、肥料など)に比べて、桁違いに多くなっている。項目別に経費を見ると、近代農業で使われる最も高価な資材は、コンバインやトラクターなどの農業機械で、その費用が、全体の3分の1を占める。その他、化学肥料、農薬、燃料費がほぼ同程度かかる。すなわち、土地と労働を除いた資本財当たりの生産性は、近代化したことによって、逆に著しく低下したことになる。
 数字の上でこのことを如実に示すのが、エネルギー生産性の変化である。エネルギー生産性とは、生産物に含まれる栄養学的なエネルギーを、これを得るのに要した各種のエネルギーの総和で割った値である。エネルギーという尺度で一元的に評価することにどれほどの意味があるかという疑問が出されるかもしれないが、農業の近代化の意味を理解する上での一つの目安になるので、いくつかのケースを紹介しておこう。アフリカで採取生活を行っている部族の活動をフィールドワークによって調査したところ、1人が1日に集められるナッツの量は平均1.75kgであり、その栄養学的なエネルギーは15000kcalとなる。1人の人間が1日の活動に要するエネルギーは、約1400kcalなので、エネルギー生産性は、11程度になる。同様の計算を、アメリカにおけるトウモロコシの収穫に関した計算した報告がある(数値は傾向を知るためだけのきわめて大雑把なものである):
投入エネルギー トウモロコシ
収量
獲得エネルギー エネルギー
生産性
伝統的
農法
近代的
農法
60,000kcal/人
700,000kcal/
200kg/10a
700kg/10a
700,000kcal/人
2,500,000kcal/人
〜12
〜 3.6

 すべてを人力で耕作する伝統的農法に対して、農業機械を利用する近代的農法では、化石燃料を多量に消費するので、投入エネルギーが1桁大きくなっている。一定の農地を耕作した場合の土地生産性は確かに大幅に向上しているが、投入エネルギーの増え方ほど大きくはないため、エネルギー生産性は、3分の1に低下している。
 日本の稲作の場合、年間1200万トン生産される米の栄養学的なエネルギーは約42,000Tcal(Tは1兆を表す)、これに対して、消費されるエネルギー(大半は化石燃料の消費分である)は約38,000Tcalであり、かろうじて1を上回る程度である。ハウス野菜になると、暖房のためにエネルギーを投入するため、エネルギー生産性は0.2〜0.7程度まで下がる。農業は、本来、太陽からのエネルギーを生かして作物を育てる産業なので、エネルギーが1以下になるものは、もはや農業とは言えない。化石燃料を利用した作物工業とでも呼ぶべきものである。


§2.技術改良の果てに

 資本主義の観点から見た農業の近代化は、土地および労働資本あたりの収量という限られた生産性の向上を目指すものであった。この限られた目的を実現する上で、技術はめざましい成果を上げたと言って良い。しかし、目的を限定することによって、当然、看過される側面に出てくる。農業の近代化を推進していた人々の最も重大な見落としが、環境問題である。環境の変化は、経済に影響を与える段階にならない限り、資本生産性を左右しないので、収入/支出を表すバランスシートには記入されず、産業の変化を促す圧力にならない。こうして、資本主義経済の中で自浄作用が働かないまま、農耕地の環境破壊は、深刻さを増していった。

化学製品の集中的使用
 日本の場合、農業が引き起こす直接的な環境危機の中で最も深刻なのが、化学製品(農薬/肥料)の集中的使用による化学汚染である。
 近代農業において、農薬や化学肥料がきわめて大量に使用されるようになる背景には、ある種の必然性がある。
 20世紀に入ってから、多くの国では、都市化による農地の減少や人口増加に伴う食糧需要の拡大に対処するため、農薬や化学肥料の大量投与による土地生産性の向上が推進された。化学肥料の場合を見ると、工場での生産が始まるのは19世紀後半だが、1950年頃から世界的に生産が急激に拡大する。1950年には1400万トンだった使用量が、1989年には1億4600万トンに増大、これに伴って、1haあたりの穀物産出量も、1.06トン(1950)から2.54トン(1990)に急増している。
 しかし、ここで気を付けなければならないのは、農業生産においても、いわゆる「収量逓減の法則」が成立する点である。化学肥料や農薬の使用を始めた当初は、収量は急激に上昇する。しかし、次第に、収量の伸びは頭打ちになり、生産性のわずかな増加のために膨大な肥料や農薬を投入せざるを得なくなる。近代的農業を早くから取り入れた国では1970年頃から、後発国でも1990年代には生産性は伸び悩む。90〜96年の土地生産性の伸びは年率0.5%で、1950〜90年までの年率2.3%と較べると、完全に頭を打ったと言える。
 その効果が飽和するまで化学肥料や農薬の大量使用を続けた弊害は、こんにちさまざまな形で観察されている。農業とは、単に特定の作物を育てるだけではなく、土壌を作物の生育に適したものに改造していく作業を含んでいる。20世紀後半における土壌の薬品漬けは、人類が何百年もかけて改良してきた土壌を一気に荒廃させてしまった。昆虫や微生物の生態系が激変し、土壌が保有する有機物の組成も大幅に変化しており、現在の農地の多くは、化学肥料を使わなければ作物が育たない荒れ地に成り下がっている。

生物的多様性の喪失
 近代農業では、米、小麦、とうもろこし、大豆など、市場価値が高く高収益を上げられる特定作物に生産が偏っている。市場経済の下で生産性を高めるには、当然の措置とも言えるが、生物学的に見ると、多様性の喪失という大きな代償が支払われていることを認識しなければならない。
 欧米型の近代的単作農業が、いかに生物的多様性を喪失しているかは、労働集約的な多品種栽培を行っている伝統的複作農業と比較すればわかる。例えば、中米でのトウモロコシ畑では、同時にマメ類とカボチャ類が栽培されており、トウモロコシがマメ類にツル棚を提供する一方で、マメ類は窒素固定を行って他の作物の栄養分を補給している。また、地表面を覆うように生育するカボチャは、土地が浸食されるのを不正でいる。このほか、東アジアでは、畦に野菜や桑が植え付けられていたり、休耕田を利用して大麦や野菜、砂糖キビが栽培されている。こうした複作農業は、土地生産性は低いものの、土壌の劣化を防ぐ上で有効である。また、病害虫の発生や気候の変化があったとき、単作農業は全滅の危機に瀕するが、複作農業ではなにがしが収穫される作物があるため、壊滅的な被害を受けにくい。長期間にわたる環境の維持を実現するためには、複作農業の方にメリットが多いと言えるだろう。
 このほか、近代農業の問題点としては、機械化に伴う土地浸食の問題や、残留農薬による健康被害などが指摘されている。


§3.豊かな森林と不毛な農地

政策的な森林の破壊
 すでに開墾された農地での化学汚染や土壌劣化が懸念されている日本と異なり、開発途上国では、開墾そのものが深刻な問題になっている。開墾に伴う森林伐採は、1980年代に入ってから、熱帯地域を中心に加速されている。ブラジル,インド,インドネシア,ミャンマー,タイでは年間30万ha以上の森林が減少しており、欧米各国から地球規模の環境悪化につながると危惧する声があがっている。しかし、多くの国では、森林伐採が制限されるどころか、土地占有権の付与や長期優遇融資などによって、むしろ政策的に支援されているのが現状である。
 こうした政策的な森林破壊が進められる背景には、偏った経済学の知識がある。ケインズ流の近代経済学では、環境資源を経済的なストックとして評価しておらず、森林資源の減少が国家的な損失だという認識がない。為政者から見ると、森林は何の経済的メリットを生むことなく存在しているだけである。むしろ、森林を伐採すれば、木材輸出によって外貨が獲得できる上、開墾された土地を農地や牧草地として利用すれば産業育成にもなる。いずれにしても、外貨不足と雇用不安に悩む国にとっては、良いことづくめに見える。資本主義の原則に従えば、森林伐採の推進は当然の政策である。
 だが、森林伐採は、本当に経済的メリットばかりなのだろうか。森林伐採の経済効果を正確に評価するためには、市場経済を中心とする近代経済学の考え方では不充分であり、環境コストを取り入れた新たな「環境経済学」の視点が必要になる。
 この視点からすると、森林伐採には次のようなデメリットがある:
  1. 生物的多様性の喪失:長期的には、来るべき気候の変化に対する柔軟な適応力の減退を意味し、生態系の崩壊をもたらす懸念がある。短期的に見ても、医薬品などに利用可能な遺伝子資源が失われる(熱帯の植物や土壌から抽出された物質が新しい医薬品として利用された例は少なくない)ことになり、経済的な損失と考えられる。
  2. 木材資産の減少:森林は木材資産のストックと見なすことができる。世界的な森林伐採は木材資産の高騰を招いており、森林の形で保存することにより含み資産が増大する。実際、ブラジルはあまりに早く木を切ってしまったため、木材価格が安い段階で大量に売りさばいてしまい、結果的に莫大な損失を被ったことになる。
  3. 洪水の多発:森林や保水能力が高く、国家的な治水政策の上で欠かせない存在である。無闇に森林伐採を進めると、洪水が多発して国民経済に打撃を与える。
  4. 農業生産性の低下:森林が保水能力の低い農地や牧草地に転用されると、地表を流れる水量が増大し、土壌の流失による地味の劣化を招く。この結果、農業生産性が上がらず、場合によっては農地を放棄せざるを得なくなる。
  5. 漁場の荒廃:土壌が海に流出すると、海水が汚濁して漁業資源が悪影響を受ける。
  6. 観光資産の減少:森林が観光地となっている場合は、観光客の減少によって外貨獲得に翳りが出ると予想される。
 森林伐採のメリットとデメリットを定量的に比較するのはかなり難しいが、コスタリカに関するケーススタディは、説得力がある。
 中米の宝石とたたえられるコスタリカは、かつては豊かな森林資源を有していたが、過去20年間に森林の30%が伐採により消失した。政府としては、伐採跡地を農地か牧草地として利用することを期待していた。だが、熱帯地方の土地はもともとやせている(有機物の大半は樹木内部にストックされている)上に、直接地表を照射する強烈な紫外線によって無機塩が析出したため作物が根付かず、わずかな灌木が点在する荒れ地となってしまった。土地表面に植生の被覆がないため、わずかな雨でも土壌流出が起こり、多少は有機物を含んでいた表面の薄い地層が推定22億トンも失われ、土地の荒廃に拍車がかかった。また、流れ出した土は付近の海域を汚濁して漁場を荒らし、漁民は船を出せば出すほど損をするという状態になった、沿岸漁業は事実上壊滅した。水力発電用のダムにも土砂が貯まって、発電事業も影響を受けている。森林、土壌、漁場資源に限って評価しても、1970年から89年までの損失額は(84年価格で)41億ドルに上る。年平均では、GDPの5%に達し、80年代初頭のコスタリカの経済危機の理由を説明する。
 森林伐採を推進する為政者は、決して目先の利益に目が眩んだ愚昧の徒とは言えないだろう。環境資産をも含めた生産性の評価を行うこと自体が、近代的な学問の方法論の守備範囲を超えるものだからである。近代技術は、確かに人類を豊かにするのに力があったが、同時にあまりに狭い視野で物事を見る方法論を押しつける弊があった。その反省こそが、近代の超克を可能にする。われわれは、先人が何を見て何を見なかったかを明確にすることによって、初めて未来への道程を見晴るかすことができるようになるのだ。


©Nobuo YOSHIDA