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ケプラー革命


 「天空を支配するのは幾何学的な秩序だ」という発想を打ち砕くには、単に理念的な思弁を繰り返すだけではなく、何よりも観測データを集めて分析する地道な研究が必須である。こうした作業が行われるようになるのは、ルネサンス期における実学−−特に、大航海時代を迎えるに当たって、船舶の位置を正確に測定するために要求された観測的天文学−−の発展を経てからである。

 誰もが知っているように、最初の革命は、コペルニクスによって成し遂げられた。長く手稿の形でのみ閲覧され、死の年(1543年)になってようやく印刷された著書『天球の回転について』の中で、彼は、太陽を宇宙の中心に据え、その回りを、地球を含む6つの惑星が公転するという「地動説」を提唱している。それ以前の宇宙像を根底から覆すこの主張は、当初、懐疑と混乱を引き起こしただけだった。しかし、『天球の回転について』には、説得力のある観測データが数多く集められており、その内容を検討した天文学者たちの間で、徐々に受け入れられるようになった。その後の観測技術の進展もあって、遅くとも17世紀の前半までに、地動説は、学問的な定説としての地位を確保するに到る。
 コペルニクス的転回の科学的/哲学的/宗教的重要性については、あえて強調するまでもないだろう。多くの学術書が、この点について有意義な論考を行っている。しかし、ここで私が目を向けたいのは、地球を宇宙の中心からはずすという一大革命を行ったコペルニクスですら、古代ギリシャ的な幾何学的宇宙像の桎梏を逃れられなかったという点である。実際、彼は、「宇宙は球形である」と明言しており、その根拠の1つとして「この形が最も完全」であることを挙げている。コペルニクス自身は、6つの惑星が、太陽を中心として等速円運動を行う天球の上に置かれているという単純で美しい幾何学的な宇宙像の完成を願っていたようである。しかし、現実の世界は、彼が願ったほど単純ではなかった。そもそも、「太陽を中心とする等速円運動」という仮定は、多くの観測事実と食い違う結論を導く。データとの齟齬を埋め合わせるために、コペルニクスは、天球の中心を太陽から少しずらしたところに移動させてみたが、それでも、全ての惑星の運行を完全に説明できるような満足のいくモデルを作ることはできなかった。

 1572年、「幾何学的な秩序に従う宇宙」という考えに対して、大いなる疑念を抱かせる事件が起こる。「超新星」の出現である。こんにちでは、この現象は、恒星がその生涯を終える間際に起こす大爆発であることが知られている。だが、天空は古来より変わることのない秩序に支配されていると信じてきた人々にとって、それまで存在しなかった新しい天体が突如出現し、数日のうちに他の星を圧倒するほどに輝きを増した後、徐々に暗くなって、数カ月を経て消滅してしまう光景は、己れの世界観をも揺さぶられる出来事だったに相違ない。望遠鏡発明以前にあって最も正確に天空の事件を記録し続けた観測天文学者ティコ=ブラーエは、この超新星が、何ヵ月も天空上の位置を変えないことから、土星や木星からもはるかに隔たった恒星の天球に属していると推測している。
 コペルニクスの新学説には共鳴しなかったものの、ティコ=ブラーエは、観測データをもとに、古典的な宇宙像への疑いを深めていた。1563年には、土星と木星の大接近を観測したが、その時刻は、プトレマイオスの体系から予想されるものとは数日の開きがあった。より精密なデータの必要性を痛感した彼は、20年間にわたって観測を続け、特に火星についての膨大なデータを集めていく。ティコ自身には、このデータに基づいて惑星運動の理論体系を構築するだけの数学的な能力が欠けていたが、後に彼の元を訪れた若き学者に、研究の基盤を提供することになる。この学者とは、ヨハネス・ケプラーである。
 ケプラーは、自身の内に宇宙論研究の革命を体現している。若い頃、当時の多くの学者の例に漏れず、宇宙の幾何学的な秩序を信じていた彼は、地球以外の惑星が5つしかない−−と、当時は思われていた−−のは、正多面体が5種類しかないことと何らかの関係があると考え、惑星が乗っている天球と5つの正多面体が入れ子状に接するモデルを提案している。しかし、当然のことながら、このモデルは、既に観測されていた惑星軌道のデータと一致しない。それでは、惑星軌道はどのような数学的秩序に従っているのか。この問題を探究する彼の目に、ティコが収集した膨大なデータは、まさに宝の山に見えたに相違ない。若き英才の登場を快く思わなかった老学者の妬みもあってか、さして実りのある共同研究は実現されなかったが、ティコの死後、ケプラーは、主に火星のデータを使って、惑星運動の法則を導き出すことに成功する。
 ケプラーの研究成果がいかに驚異的なものだったかは、彼が利用できたデータが、それ自身動いている地球から見たときの火星の方位でしかないことを思い起こせば、納得されよう。彼が取った手順は、おおむね、次のようなものである。まず、恒星に関するデータが年によって変化しないことから、地球は、1年周期で閉曲線を描いているものと推定される。「宇宙は幾何学的な秩序に従っているはず」だから、他の惑星も、それぞれに固有の周期で、地球と同様に閉軌道上を運動していると仮定して良いだろう。この仮定に基づくと、1火星年ごとに、火星は軌道上の同じ位置に到来することになる。したがって、この時刻に火星と太陽がどの方位に見えるかを調べれば、三角測量の手法を用いて、地球/火星/太陽の位置関係が求められる。この作業を(うんざりするほど)積み重ねていくことにより、地球の軌道はほぼ決定される。ただし、地球の離心率が小さいこともあって、これだけでは、軌道の正確な形まではわからない。また、与えられた地球軌道上から見た火星の方位を元に火星軌道を割り出そうとしても、データ不足で計算できない。いきおい、さまざまな軌道曲線を仮定しては、これが観測データと一致するかどうかを調べるという、気の遠くなるような試行錯誤を繰り返さざるを得なくなる。どうやらケプラーは、この過程で「火星は、太陽の近くは速く、遠くでは遅く動く」ことを見いだしたらしく、これを「太陽と惑星を結ぶ動径は同一時間内には等しい面積を掃く」(ケプラーの第2法則)という形で定式化し、以後の計算を行うときに援用していたようだ。とにもかくにも、70通りもの円軌道の検討から始めて、卵形を含むさまざまな曲線を試みた末に、ケプラーは、遂に、あまり期待しないまま楕円を取り上げてみた。研究ノート数百ページにも及ぶ膨大な計算によって得られた結果は、見事なまでに観測値と一致するではないか!こうして、彼は、有名なケプラーの第一法則:「惑星は太陽を1つの焦点とする楕円軌道を描く」を発見したのである。
 ケプラーの第一/第二法則、および、後年に提出した第三法則:「公転周期の2乗と軌道長半径の3乗の比は、全ての惑星に共通である」が、その後の自然科学の発展に与えた影響は、計り知れない。何よりも、この3法則は、宇宙が単純な幾何学的な秩序に従っているという古典的な見解を、根本から打ち砕く。楕円形は、現代人の目から見ると、円に次いで単純な閉曲線であるが、古代ギリシャに僅かながら研究されていた2次曲線論も既にほとんど忘れ去られていた当時の人にとっては、完璧な調和を示す円に較べて、ひどく歪んだ図形に思われたはずである。それだけではない。第二/第三法則が示しているように、惑星は一定の速さで運行するのではなく、太陽に近いほど速く進んでいる。これは、運動の素になるエネルギーのようなものが太陽から供給されているからではないか。惑星のような天体も、あらかじめ(神によって?)定められたコースを従順に辿るのではなく、自分が置かれた物理的な状況に応じて、運動状態を変動させているのだ。このようなロジックに基づいて、幾何学的な秩序を第一原理とするスタティックな宇宙像は、しだいに、力学的法則に従って天体が運動するダイナミックな宇宙像へと変化していく。これが、ケプラー革命の神髄である。
 もっとも、ケプラー本人が、自分の発見が持つ科学史的な意義をどこまで認識できたのか、いささか心許ない。「私は、天の動きの中に調和の全本質を発見した」(『世界の調和』)と胸を張るものの、惑星が天空を渡りつつ奏でる音楽について語る口吻は、むしろ幻視者のそれである。30年戦争と魔女狩りの狂気の中で、宇宙の法則を追い求めた天才が最後に見つけたものは、調和の幻想だったような気がしてならない。



©Nobuo YOSHIDA