前ページへ 次ページへ 概要へ 表紙へ

§3.動物の遺伝子操作


 有史以来、人類はさまざまな方法で生命に働きかけ、これを生活に役立ててきた。野生種を品種改良して農作物や家畜を作り上げたり、特定の容器内で発酵を起こさせて食品製造に利用するケースなどが、直ちに思い浮かぶだろう。しかし、20世紀のバイオテクノロジーは、これまで思いも寄らなかったようなやり方で生命を操作し、これを人類のために利用することを可能にしている。すでに述べたクローン動物や遺伝子組み換え作物も、その一例である。

 世界最初の遺伝子操作動物は、1982年にアメリカの研究者によって作り出された。これが有名な「スーパーマウス」で、ラットの成長ホルモンをマウス(ハツカネズミ)に組み込んだ結果として体重が通常のマウスの2倍ほどになったことから、大型の家畜を作る技術に応用できると期待された。しかし、ウシやブタに成長ホルモン遺伝子を組み込んでも健全な個体として成長せず、遺伝子の発現をコントロールする技術の開発が解決すべき課題となった。

 遺伝子の発現を人為的にコントロールした遺伝子操作動物は、1980年代の後半になってようやく作り出される。近年では、「幼少期の高い学習能力が成長後も維持されているマウス」や「ホウレン草の遺伝子を持ち動物脂肪がヘルシーなリノール酸に変わったブタ」が登場し、バイオテクノロジーが一般人の想像を超える域に達していることを伺わせる。また、クラゲの発光遺伝子を組み込んだ「光るメダカ」も開発され、ペット用に販売されたこともある(日本では、遺伝子組み換え生物に関する規制に抵触しているとして、環境省の指導で販売が停止された)。このセクションでは、遺伝子操作を施した動物を人類が利用する技術の現状を瞥見して、そこに倫理的な問題がないかを考えてみよう。


動物工場


 こんにちでは、遺伝子組み換えを行ったバクテリアや植物から作られたさまざまな製品(医薬品/農産品など)が商品化され、一般の人が入手することも可能になっている。これに対して、遺伝子操作動物による産品は、2000年の時点でいまだ市販されるに至っていない。その理由は、主として技術的なものである。バクテリアや農作物に特定の遺伝子を組み込む場合、通常は、この遺伝子が特定の条件の下で発現するように操作する必要はない。例えば、殺虫物質を作るBt菌の遺伝子を組み込んだ作物では、害虫に食い荒らされることを防ぐ必要のある葉の組織だけでなく、すべての細胞でこの遺伝子が発現してBt剤を産生する。しかし、動物となると、細胞が筋肉・骨・内臓・皮膚などの組織に複雑に分化しており、核内遺伝子も組織ごとに異なった発現の仕方をしているため、農作物と同様にして組み込んだだけでは、遺伝子が望んだ形で発現するとは限らない。大半の遺伝子は、細胞が属している組織に不必要だとしてスイッチ・オフされて休眠状態になっており、導入された外来遺伝子も機能しないことが多い。逆に、農作物の場合と同じく、全細胞で外来遺伝子によるタンパク質の産生が行われてしまうと、この物質の利用を困難にするばかりか、遺伝子を導入した動物の健康を著しく阻害する。外来遺伝子を特定の組織(多くのケースで乳腺細胞が選ばれている)においてのみ発現させるような仕組みを作り上げなければならない。組織分化のプロセスが植物に比べてきわめて複雑な動物において、これを実現する技術の開発に時間を要したのである。

 工業的に利用可能な遺伝子操作動物を生み出そうとする研究・開発の中で、決定的なブレイクスルーは、1987年に訪れる。この年、アメリカ国立腎臓消化器病研究所のチームが、マウスの乳腺内で外来遺伝子を活性化し、ミルク中に外来遺伝子に由来するタンパク質を分泌させることに成功したのである。これを契機として、1989年には、エジンバラ研究所のチームがヒツジのミルク中にヒトの血液凝固因子を分泌させることに成功、さらに1994年には、米ホランド研究所でブタのミルク中にヒトCプロテインを分泌させる実験が行われている。

L17_fig21.gif  外来遺伝子を乳腺内で活性化させて、人間が利用したいタンパク質をミルク中に分泌させるという「動物工場」の技術は、次のようなものである(右図参照;図ではヒト遺伝子をヒツジに組み込む場合を示している)。

  1. まず、有用なタンパク質をコードしている遺伝子を探しだし、制限酵素を使って切り出す。
  2. 次に、マウスのミルクタンパク遺伝子の「プロモータ」部分を、上の遺伝子断片に結合する。このプロモータは、それに連なる遺伝子を乳腺内で活性化させる機能を持っており、通常は、乳腺でミルクタンパクを作る遺伝子を働かせる役割を担っている。遺伝子操作動物においては、これが乳腺で外来遺伝子の「スイッチを入れる」ための装置として使われることになる。
  3. 外来遺伝子とプロモータを結合した遺伝子断片を、受精卵の前核(オス由来の遺伝子が集中している部分)にピペットで注入し、染色体に組み込ませる。

 ここまでの作業で遺伝子操作は完了するのだが、これだけでは、「動物工場」となる個体が1匹しか生み出せない。そこで、受精卵を培養して遺伝子の組み込みに成功した個体を選び出し、クローン技術によって、そのコピーを大量に作る方法が試みられている(受精卵を使わずに、培養細胞に遺伝子を組み込んで、そこからクローン技術で個体を作り出す方法もある)。1997年に英ロスリン研究所で作られたクローン羊のポリーは、培養細胞にヒト血液凝固因子の遺伝子を導入し、この細胞を除核未受精卵に核移植して作られたものである。


 この技術を用いれば、ブタやヒツジのミルクの中に、人間の遺伝子由来のタンパク質を分泌させることが可能になる。現在、最も期待されている応用分野は、動物を利用した医薬品の製造である。

 難病に指定される疾病の中には、遺伝子欠陥などの理由で、健康を維持するのに不可欠なタンパク質が産生できないというものがある。例えば、血友病患者は、血液凝固因子が造れないため、出血しても血が凝固して傷口を塞ぐことができず、適切な処置を執らなければ失血死しかねない。血友病の対症療法として血液凝固因子の投与が行われているが、献血によっては十分な量が確保できない憾みがある。血液凝固因子の遺伝子をブタやヒツジに組み込んで、そのミルクの中に分泌させることができれば、血友病患者にとって大きな朗報となることは間違いない。このほかにも、各種の生化学物質の欠損症に対する医薬品を動物たちに造らせることが計画されている。


 遺伝子操作動物によって医薬品を生産することのメリットには、次のようなものがある:

 このように述べてくると、良いことずくめのように思われるかもしれない。確かに、難病の薬を生産するために動物を利用することは、倫理的にも許される行為だろう。しかし、「動物工場」の技術は、医薬品製造以外の目的に使うことも可能なのだ。例えば、特定栄養素が加わって付加価値が高められたミルクや食肉の生産を造るために、遺伝子操作動物を利用することもあり得る。さらに、食肉用に肥育しているときに無駄に動き回ってエネルギーを消費しないように、大脳新皮質が発生しないように遺伝子を操作した「植物牛」が生み出されるかもしれない。科学技術は、ときに一般市民の倫理を越えた領域へと突き進んでいくこともあるので、動物への遺伝子操作がどのように使われるかは、きちんと見守る必要がある。


移植用臓器の作成


 現在、移植医療に用いられる臓器や組織の多くは、人間の死体から摘出しているが、ドナー(臓器提供者)の不足のため必要数を供給できない。特に、心臓・肝臓など血液の供給が停止すると急速に傷む臓器は脳死状態(脳挫傷や多発性脳梗塞などによって脳浮腫を生じ、全脳の機能不全に陥った状態)の患者から摘出するしかないが、脳死の発生頻度がきわめて低いため、日本だけで数千人いる心臓・肝臓・肺臓などの移植を希望する待機患者の大多数は、移植を受けられないまま病状が悪化して死亡している。臓器不足に対処するために、人工臓器の開発も続けられているが、部分的な進展はあるものの目覚ましいと言える成果は上がっていない。例えば、人工心臓は、移植手術までのつなぎとしてなら実用的なものが開発されているが、長期間にわたって使用し続けると血栓が生じて機能が維持できなくなる。人工腎臓も、体内に埋め込んだりリュックサックに入れて携行できるほど小型にすることができないので、患者が人工腎臓のある施設に週3回ほど赴いて体を装置に接続しなければならない(透析治療)。こうした問題を解決する一つの方途として、現在、アメリカを中心に研究が続けられているのが、動物から臓器や組織を採取して患者に移植する「異種移植」という医療である。

 動物の臓器を人間に移植する試みは、実験的医療として20世紀初頭から行われてきたが、ほとんどのケースで患者は短期間で死亡した。1964年には、チンパンジーから人間への心臓移植が行われたが、このときは数時間しか機能していない。異種移植がこうした残念な結果に終わるのは、臓器の大きさや機能が人間のものと異なっていることに加えて、移植された動物の臓器を“異物”として排除しようとする超急性の拒絶反応が起きるためである。

 拒絶反応とは、移植された組織の表面に「自己」のものではないタンパク質が存在すると、免疫機能が発動して抗体が「異物」である移植組織を壊死させてしまう現象である。通常は、感染微生物を排除するための防衛反応として有効に機能しているのだが、臓器移植という自然にはあり得ない状況下では、たとえ心臓のように生存に必要不可欠な臓器であっても、体内に侵入した異物として免疫系が攻撃を仕掛けて破壊してしまう。人間の死体からの移植は、免疫抑制剤(シクロスポリンなど)が開発されたことによって1980年代には生着率が劇的に高まった。だが、動物からの摘出された組織の表面には人間にはない特殊なタンパク質が存在し、これが目印となって、薬剤ではコントロールできない激しい拒絶反応が引き起こされてしまう。異種臓器に対する超急性拒絶反応は、移植後数分から数十分で始まり、血管系を破壊して臓器全体に出血を起こしてしまう。この問題がなかなか克服されないため、多くの医者は、動物からの臓器移植に対する関心を失っていった。

 異種移植に対する新たなチャレンジは、1990年代に始められる。具体的には、遺伝子操作によって、(1)超急性拒絶反応を引き起こすタンパク質を作らせない、(2)レシピエント(移植を受ける患者)の拒絶反応を制御するタンパク質を作らせる、(3)免疫系からの攻撃を受けても細胞が壊死しないようにする──などの方法が考えられている。このようなやり方で拒絶反応を起こさない遺伝子操作動物が1頭でも誕生すれば、そのクローンを大量に作って移植用臓器を生産することが可能になる。現在、(大きさと機能が手頃なことから)ブタの肝臓または心臓を移植する研究が進められており、人間の臓器を移植するまでの“つなぎ”としてブタの肝臓による体外灌流が実施された例もある。ブタの場合、羊に比べてクローニングが難しいという問題があったが、2000年にイギリスでクローンブタが誕生しており、障害は取り除かれつつある。ブタの臓器を移植することが可能になれば、1個数万ドルで臓器売買が行われ、総市場規模は50億ドルに達するとも言われる。


 異種移植はまた、アメリカで深刻な論議を呼んだ問題を解決する鍵になるかもしれない。現在、アメリカのいくつかの州では、中絶された胎児から脳細胞や軟骨組織を摘出して治療に用いることが認められている。しかし、こうした治療法に対しては、当然、倫理的な観点からの批判を呼んでいる(下記の「【参考】中絶胎児の利用」参照)。特に、難治性の神経疾患であるパーキンソン病の場合、胎児の脳細胞を移植することがほとんど唯一の治療法である(完治はしないが症状が軽くなる)ため、医の倫理を巡って議論が錯綜した。

 この難題に対する一つの解決法が、動物の脳細胞をパーキンソン病の治療に用いるというものである。アメリカでは、ウシやブタの神経細胞を患者に移植する研究が行われており、拒絶反応を回避する方法として、遺伝子操作以外にも移植組織をカプセルに閉じこめる免疫隔離法などが検討されている。

 ただし、異種移植を実用化する前に解決しなければならない重大な課題がある。ドナーが保有しているウィルスなどがレシピエントに感染して生じるバイオハザードをいかに避けるか──という点である。動物から人間に病原体が感染するケースは、決して少なくない。歴史的には、梅毒のスピロヘータやAIDSウィルスが、動物から人間に感染して大きな被害をもたらした。また、インフルエンザ・ウィルスは、季節的に人間と動物の間を行き来しているという説もある。ブタが先天的に細胞内に保有しているレトロウィルスなどが移植された人間の体内で活動を開始する可能性は、無視できるほど小さくない。一人の命を救おうとして、逆に大勢の命を危険に晒すことになっては、本末転倒である。2001年現在、アメリカではこうした危険性を考慮して異種移植の臨床試験が中断され、動物から人間に感染し得る病原体の探索が続けられている。


動物実験


 遺伝子操作によって自然界には存在しない異形の動物を生み出す技術が最も多用されているのは、(非営利の)医学実験の分野である。特定の遺伝子が働かないようにしたマウス(ノックアウト・マウスと呼ばれる)を使った実験は、遺伝子の機能を調べる上で、きわめて有用である。

 特に興味深いのは、人間と類似した症状を示す病気の動物を作って、病態や治療法の研究に利用することである。これまで、遺伝子操作によって糖尿病のネズミや高血圧のネコ、高脂血症のヒツジなどが生み出され、医学の進歩に一役買っている。こうした実験動物は、クローン技術によって遺伝的に複製することができるので、多数のクローンに異なった量の薬剤を投与して反応を見れば、従来の動物実験よりも信頼性の高いデータが得られる。

 ただし、患者の救済ではなく基礎研究の目的で、生まれながらにして遺伝的欠陥を持っているような動物を作ることに関しては、倫理的な議論の余地がある。近年では、動物実験に対する規制が厳しくなり、20世紀初めまでの乱暴な医学者が行っていたような無用な虐待はほとんど行われていないはずである。それでも、人間のために自然界には存在しない異形の生物が作り出され、さまざまな実験に供されているという事実から目を背けるべきではないだろう。



【参考】中絶胎児の利用


 中絶胎児を研究に利用することは、以前から、出産医療の向上のために一部で行われてきた。安全確実な中絶法の開発、不妊治療や異常診断の研究、妊婦に投与された薬物やウィルス感染が胎児に与える影響の研究のために、両親の許諾を得て、中絶胎児の解剖や組織検査が行われるのである(時には、薬剤代謝の研究のため、中絶を前提として妊婦に投薬することもある)。近年には、基礎医学(発生・分化などの基礎研究、遺伝子治療や組織移植の有効性の研究)の研究素材として、中絶胎児が利用されるケースも増えてきた。しかし、医療技術の進展は、こうした比較的穏当な利用法を越えて、胎児を移植医療に直接利用することを可能にしたのである。

 胎児が移植に適しているのは、異種間移植と違って拒絶反応が小さいことに加えて、細胞が若くて活発であるため、組織の再生がスムーズに進むからである。現在、アメリカでは胎児組織を扱うビジネスとして成立しており、両親の同意の下に中絶胎児から細胞や組織を採取して、研究材料や移植素材として国内外に販売されている(胎児組織以外にも、手術などで切除された皮膚や臓器が利用される)。米セルシステムズ社は、6病院と契約を結んで組織/細胞を入手し、国内の大学・医療機関に出荷するほか、世界30ヶ国に輸出している。中でも、中絶された胎児の組織は重要な商品で、繊維芽細胞は、1単位250ドルで売られている。

 胎児組織は、次のような移植医療に利用される:

 胎児を「人間未満」の物体として移植に用いることに対して、当然のことながら、倫理的な観点から根強い批判がある。アメリカでも、15の州では州法で胎児組織の利用が禁じられている。また、利用が認められている州でも、胎児組織の乱用を防ぐため、親が胎児組織を提供することに対して代価を受け取ることや、指名した人へ胎児組織の移植を行うことを禁止している。実際、この禁止令が出される以前に、パーキンソン病に罹っている父親の治療のために、妊娠/中絶を行って移植用胎児を提供しようとした女性の話が報告されている。

 バイオテクノロジーは、人間のために生命を利用する方法の幅を拡げた。そして今、その間口の中に、人間自身が含まれようとしているのだ。




©Nobuo YOSHIDA