《岡野式》必勝作戦 特訓1

柔道マンは攻撃的でなくてはならない。いかにすぐれた作戦であっても、
果敢な攻撃精神に根ざしたものでなければ無にひとしい。どんな相手に対しても
徹頭徹尾攻めまくる。そこに勝利への道は開ける



1.自分を知り、相手を知れ
自分のいいところ、わるいところ、強い面、弱い面を日ごろからよく知っておき、相手のそれも熟知しておくこと。たとえば、自分は寝技が得意で相手は立技が得意だとしたら、寝技で勝つ方法を考えるのだ。

2.胸の高鳴りを気にするな
いざ試合となれば、興奮もするし、ある種の恐怖感も加わるから心臓がドキドキする。それでいいのだ。自分は気が小さすぎるなどと考えなくていい。だれでもそうなのだ。ドキドキしないほうがかえっておかしい。ドキドキするのは、それだけ勝負に真剣になっている証拠である。

3.仕掛人になれ
勝負は後手にまわったら不利だ。あくまで先手をとることを考えろ。先手をとるためには、最初の一発はまず自分からかけること。それが単なるオドシでも自分より先に仕掛けられてしまうと、気持のたてなおしをはかるのが容易でない。先手必勝だ。

4.最初から全力でぶつかれ
相手を甘く見て力を抜いてかかると、途中で、手ごわい、と気がついても調子の切りかえができない。どんな相手にでも最初から全力をつくせ。

5.気合をかけろ
気合によって相手を威圧することもあるが、ほんとうは弱気が出て臆しがちな自分のこころを、気合をかけることによって引きたたせ、ふるい起こす、これが気合だ。

6.ポイントをとったあと逃げるな
ポイントをあげたら、その後30秒くらいはそれまで以上に激しい攻撃をかけること。それによって相手の反撃を防ぎ、気勢をそぐのだ。逃げの気持がはたらくと、かならす挽回されるか、見苦しい試合になる。

7.技は連続してかけろ
ボクシングの試合を見てもわかるが、一発強烈なパンチが当たっても、つぎの手が出なければ相手は体勢をたて直してしまう。いったん技を出したら連続して最低2発、3発の技をかけろ。それ以上の攻撃ができれば、あたりまえだが、効果はなおさらあがる。スピードのある連続攻撃で攻めまくれ。

8.“チャンス”などねらうな
攻撃精神にあふれた技で徹底的な連続攻撃を心がければ、チャンスはくる。頭だけでチャンスを判断すると、仕掛けが一呼吸遅れてしまう。この一瞬の差が勝敗の分かれ目だ。体で、肌でチャンスを知れ。それを身につけるには稽古以外にない。

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《岡野式》必勝作戦 特訓2

柔道マンは頭脳的でなくてはならない。自分よりも大きい相手を倒すとなると、
なおさらである。体力差が大きければ大きいほど、相手のウィークポイントをついた
頭脳作戦が要求される。


少年時代は体の大きなものも小さなものも技に関しては大差がないので、一般的には体力のあるほうが勝ちを制するのが普通だが、小が大を倒す方法の結論をいえば、まず大の長所を封じこみ、小の長所で徹底的に大の短所を攻めることである。具体的には攻撃精神を旺盛にして、変化に富んだスピードのある技を多く仕掛けること。

まず大きなものの傾向として
1.体力があるので攻撃が強引である。
2.受けが強い
3.相手に威圧感をあたえる。
4.技のスピードはたいしたことはない。
5.技の数(手数)が少なく攻撃が単調である。
6.気の弱いものが多い。
おおざっぱに分析すると、こんなふうになるが、小さいものの傾向は逆にこの裏返しである。したがって、大小それぞれに長短があって体の条件だけでは、ハンディキャップはつかないのである。さて、実戦ではどうするか。

1.気持負けするな
相手が大きいからといってビクついたのでは、それだけで、もう勝てない。先にも述べたように人間にはかならず弱点があるものだ。そこをどうつくか、が勝敗を決めるのだ。

2.相手の目をにらみつけろ
気合負けをしてはならない。気合で遅れをとると相手に余裕をあたえてしまう。

3.相手の得意な持ち手を許すな
ガッチリ引きつけられたら小さいものは身動きできない。つねにどちらかの手をはなし、両手でつかんだときは即座に技をかけ、先手、先手をとる。持たれたら切る。切れなければともえ投げをかける(あとに続く寝技の稽古がたいせつ)。またそでをしぼって相手との間合いをとっておくのもよい。

4.腰を引くな
大きな相手の技は、内股などが多い。腰を引くと内股に弱く、後にさがると大外刈りにも弱くなる。逃げ腰になると相手は調子づく。これがもっとも不利だ。腹を出して前、前を心がけよ。

5.よく動け
試合時間中、動き続けるのが無理だったら、休むときは左手でそで口をしぼり、右で相手の両えりを合わせて突っ張る。しかし、このままでは攻撃できないから、相手の出方を観て、息を整えるときだけにこの方法をうまく使うこと。

6.足を狙え
大きいものは足が弱い。捨身小内刈りなどで足をねらって体ごとぶつかる技、あるいは攻めてきた相手の足をすくう技を研究せよ。

7.連続技で攻めろ
大きなものは防禦するのに体をさばかず、両腕を突っ張ってまともに体で受ける。だから一発目でかからなくても、つぎの技で倒れることが多い。例=背負い投げから小内刈り

8.技をえらべ
大きいものを大外刈り、内またで攻めたのでは返される率が多い。返されにくい背負い投げ、体落しなどを覚え、自分の体に合ったものを得意技にせよ。

9.相手の上体を前に引き倒せ
長身のもの、肥満体型のものは体を前方に曲げられるのをもっともきらう。また長身のものはともえ投げや低く入り込まれる技に弱い。ただし、相手の体を曲げるのに成功しても自分の技が出せなければ意味がない。つぎの一手を研究せよ。

10.後の先をとる技を覚えろ
相手が強引に攻めてきたときは絶好のチャンス。大きいものが大内刈りをかけ、押してくるような場合は一本背負い投げへの変化などが効果的である。相手がしっかりと立っている状態だと単純な技ではかんたんに倒せない。

11.寝技で攻めろ
両手両足を存分に使い、スピードのある寝技をやれば、大きいものより小さいものに分がある。少なくとも立技より体重のハンディを感じない。昔も今も、寝技の名人に大男はいない。

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《岡野式》必勝作戦 特訓3

 柔道マンは自己制御ができていなくてはならない。試合直前の高揚した精神を
コントロールし、心体ともにベストの状態で本番にのぞんでこそ完全勝利は可能となる。
このパーフェクトを生むのが自己制御の力だ。


 自分でどんなに精いっぱいの稽古をしたつもりでも、試合が近づいてくると、ほんとうにこれ以上することはもう何もない、これで大丈夫といえるだろうかという不安、自己猜疑がかならず頭をもたげてくるものである。
 そして、さらに試合が日一日、刻一刻と迫れば迫るほど、この不安はますます大きくなってくる。ときには、いてもたってもいられないくらいの胸のうずきを覚えて、どうしようもなくなることさえあるものだ。
 しかし、見方をかえれば、これはとうぜんなのである。勝ちたい、という一念が緊張感を呼び、いらだちにつながるのであって、勝利への意欲のないものに不安感は生れない。
 一生懸命になるからこそ不安が起きる。勝敗などどうでもよいというなら、緊張をすることもないだろう。
 だから緊張感を覚えないようでは、いい試合はできないのだ。稽古はもうじゅうぶんにこなしたという気持と、まだまだ努力が足りなかったのではないかという気持の交錯が、試合場に登る最後の最後までつきまとい、最終的には試合が始まった時点で、ここまでやってきたのだ、あとは自分を信じるしかない、相手も自分と同じ心境なのだと、強引に自分で自分に納得させて勝負にのぞまざるを得ないというのが、勝負にたずさわるものの実情であろう。
 試合というのはそういうものなのだ。試合が始まって、初めて土壇場の戦意がみなぎってくる。
 緊張をとこうと、へんに意識して相手をナメたらひどい目にあう。必要以上に相手を警戒しすぎても萎縮してしまう。
 だが、ギリギリ最後まで気をぬかずに努力をしていれば、試合開始と同時にかならず迷いはフッきれるものである。
 要するに、試合にのぞむにあたって、もっともたいせつなのは自己制御、すなわち心技のコントロールなのである。
 そのためのにスケジュールをたてる。スケジュールはどんなに綿密にたてても、これで完全というものではない。
 スケジュールを予定どおりに消化すれば不安感が消えるものでもない。しかし、試合の規模やそれまでの期間に合わせて、体調や精神を調整しなければ自分で納得いく勝負も、またできないだろう。
 天才、奇才ならともかく、その場その場の場あたり主義的な試合では、恒久的な勝利は望めない。

得意技はかくせ
 試合での完全勝利を目指すなら、その試合に勝つための事前スケジュールも完全な体系を整えるべきなのはとうぜんでもある。
 じぶんなりに、こうと決めて実行したものならば、それがムダになることなどはない。
 だから試合を間近にひかえてのスケジュールは、これ以上のものはないと自分で信じられる最良の立案を心がけなければならないのである。
 そこで私が選手生活中、試合が目前に迫った一週間前からのスケジュールを紹介しよう。
 私は、ほぼ一週間前になると、それまでよりは稽古量を少し落とす。だか、落とすといっても極端に稽古時間を少なくするわけではない。
 その内容は、ランニングやトレーニングは通常どおり。練習では、まず最初の約一時間は打ち込み、投げ込みをして体をやわらかくする。
 それから寝技を約三十分。その後は五人くらいを相手に一本〜二本勝負の稽古。そしてこのとき、もし試合で対戦するかもしれない相手とやる場合は、得意技のうち一本はかくしておく。
 なぜなら、事前に相手が警戒するのを防がなければならないし、もしその技がきかなかったら自分でもあせるからだ。本当の必殺技は試合専用なのである。
 これが終わると、もう一度投げ込みをするのだが、この投げ込みは始めはウォーミングアップのつもりで、ゆっくり体をほぐしながら少しずつスピードをあげてゆく。
 最後のほうになるにしたがって完全に試合を想定し、連続してできるだけ早く、息があがってもう立っていられないくらいまで激しく稽古するのである。
 最後は柔軟体操だが、これを含めて練習時間は二時間三十分くらい。気をぬかずケガに気をつけながら試合での集中力をつけることに専念する。
 その後は一人でやる稽古ということになるが、試合が近づけば、前にも書いたように精神面のコントロールがたいせつになるから、それを考えながら、木に自転車のチューブをくくりつけて打ち込みををしたり、座禅というわけではないが、夜、だれもいない道場でジッとすわったりする。
 なるべく人に会うのをさけて、自分の気持を試合に向けて高揚させるようにしむけたりもする。

試合前日まで猛稽古せよ
 二、三日前になると柔軟体操、打ち込み、投げ込みを主体にし、投げ込みでは一、二度息があがればやめるようにする。
 よく疲労をおそれて、試合前になると極端に稽古量を少なくするものもいるが、私はこの方法にはあまり賛成しない。
 体はいつもコンスタントに動かして、筋肉をやわらかくしておかなければならないし、ちょっと動いただけで呼吸が乱れてしまうようでは、いざ試合になったとき、気持ばかりがあせっても体がついていけないことになりかねないからである。
 私は試合の前日まで、力を出しつくし、しゃがみこんでしまうくらいまでの集中的な稽古をした。それ以前の平常の稽古では、疲労で立っていられなくなったら、体力が回復するまで小休止してまた続ける。この連続をくり返した。
 これだけ稽古をしておいても、試合になればエネルギーの消耗は激しい。
 稽古のときとはくらべものにならないのである。五分間の試合なら、おそらく一週間ぶん、あるいはそれ以上のエネルギーを使うであろう。
 選手権試合ともなれば、五、六試合やったら、もうヘトヘトになってしまう。だからこそ、試合直前のスケジュールはスタミナの養成も考え、へんに神経質にならず、慎重かつ大胆に最後まで充実した稽古を続けることが必要なのである。

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《岡野式》猛稽古 特訓1

 柔道マンにまずたいせつなものは、本人のヤル気!負けん気!である。
この気力をもたずしては、いかなる優秀なコーチや名門道場に入門したところで
強くなれるはずがない。自分との闘いに勝つのは自分でしかない。



バカでは強くなれない

柔道をはじめ勝負ごとというのは、一瞬のアヤが勝敗をわける。
 試合というのは、その時その時の短い時間の中で相手の心理や技をとっさに「判断」し、それを「行動」にうつして結果を競いあうものである。
 ああだ、こうだと考えているヒマはない。迷いはすなわち負けだ。また「すばやい判断と行動」が一致しても、その判断が正しくなければ、これも負けである。
 その意味で、日頃の稽古が試合の明暗を分ける。稽古はやり直しがきくが、試合のやり直しはできないのだ。
 この「正しくすばやい判断と行動」を習性にするのは、柔道の稽古だけに限らない。学校でのひとつひとつの教科の勉強でも、正しくすばやい判断や行動は必要だし、ひとつひとつの教科の学習はそれを養成するための手段なのである。
 国語でも数学でも、ある教科に真剣にとりくめば、知識と体験が豊富になり、判断力と行動力が養成される。
 だから、成績の結果はともかく、その訓練に正面からぶつかることがプラスなのだ。やるからには勉強も柔道も人に負けるな!
 ”なにくそ、負けてたまるか!”という、その精神がたいせつだ。負けん気が人間を向上させる。勉強で負けるのも、柔道で負けるのも、負けるということの意味に変わりはない。
 感受性のとぼしいものは、決して柔道も強くならない。

まず自分に勝て

 あたりまえのことだが、人なみの稽古をしていたのでは人なみ以上にはなれない。特別な素質があって特別な力が発揮できればべつだが、天才といわれるような、そんなスーパーマンはまずいないといっていいだろう。
 ふつうだれでも一日二時間くらいの稽古はするが、それ以前の時間にどれだけ柔道を考え、生活のパターンを柔道に直結させる努力をしているか、じつは強くなる秘訣はそこにある。稽古時間は同じでもそれによって力の差が出るのである。
 私はかつて天理大学で学生たちを指導しながら、全日本選手権を目指して修業していたころ、道場から宿舎まで約二キロの距離をかならず走って往復した。
 人より一日四キロ多く走れば一ヶ月では一二〇キロ、人よりよけいに足腰をきたえたことになる。そしてこれが一年間になれば、どれだけの差がつくかは考えるまでもない。
 さらに、人よりこれだけやっているのだという自負は、だから負けるはずがないという自信にもつながるのである。
 雨の日のランニングでも、下着を一枚多くしてアノラックをつけ、よく汗を出したあとできれいにそれをふきとっておけば、晴天の日となんら変わるところはない。たかが雨くらいでランニングを中止するようではダメだ。
 天候によって練習目標や生活目標を変えるようでは、成果はあがらない。晴れていようと雨が降ろうと、あるいは雪が降ろうが風が吹こうが、そんなものに負けるような精神力では勝負に勝てるはずがない。
 
確固たる意思を持て

 強くなるには良い先生に着くこと。この一般的な考え方は、大筋としては誤っていない。しかし、良き師につきさえすればかならず強くなるという断定のしかたはまちがいである。
 強くなる、ならないは、あくまでも本人の心がけしだい。よく見かけることだが、良き師を求めてあっちへ行ったりこっちへいったりして、しまいには強くなれないことに失望して柔道衣をぬいでしまう。こんなのは例をあげればキリがない。
 師というのは、一生懸命強くなりたいと必死の努力をしているものに対し「おまえの良いところはこれ、悪いところはここ、だからこうしたほうが良い」などのアドバイスと指導をするものなのである。
 本人がほんとうにやる気を持っていなくては、それがどんなに良いアドバイスや指導であっても、結局はなんの役にもたたないのである。自分自身が強くなるのだという気がまえと決意は絶対に欠かせない。
 それがあってこそ師の指導が生きるのであって、師そのものがオールマイティなのではない。
 まして、師は強くなるための特効薬をあたえてくれる魔術師ではないのである。

ケガをおそれては稽古はできない
 自慢する性質のものではないが、私は現役時代にケガの多いことで有名であった。
 いちおうのケガはたいてい経験している。
 右ひざ六回、左ひざは五回もギブスをかけ、腰で六か月の病院通い。神経痛は腰、足、肩、腕、その他、腕脱臼、手首ねんざ、肋骨骨折など、首をのぞけばありとあらゆるケガをしている。
 そんなわけで現役の最後のころには、ケガをしたその瞬間に、この程度ならどのくらい休養が必要で、何日くらいで稽古が再開できるか、医者に聞かなくてもその場で自分なりに判断できるようになっていた。
 ケガはするよりしないほうがいいに決まっている。したいと思ってするものはいない。しかしなぜするのか。さぐってみると心と体の調子がアンバランスのときがひじょうにあぶない。
 やる気はあるのだが体が疲弊しているとき、体は動くのだがやる気のないとき、あるいは稽古場を変えたとき、病気あがりにはりきりすぎたときなど、いくつかの例があげられる。
 しかし、いずれにせよ柔道だけでなく何をやってもある程度のケガはつきものである。
 もちろん最初からケガをしたり、させたるするのはとうぜんという無分別な荒稽古は断じてしてはならないのは常識である。
 たとえば、最近はやっているヒザつき背負い投げや内またをかけて自分から頭を突っこんでゆくものなどは、見ていてもハラハラするほど危険度が高い。
 だが、ひとつのものをつらぬくにはケガをおそれず、ケガに負けない心がまえが必要である。
 よくケガをして、それが原因でスポーツをやめたという話を聞くが、再起不能のケガなどというのは皆無に近いほどありえない。たいていはケガに自分が負けただけの話である。


スランプ克服法
 スランプというのは、極端に精神的疲労が重なったとき、または肉体的な過労の状態が長く続いたときにおちいりやすいもので、いつもはかかる技がかからなくなり、あせればあせるほどなおさらどうにもならない深みにはまってしまうジレンマである。
 こういうことが長いあいだにはかならずある。そして、そのままで稽古を続けるとケガをするし、そのうちには倦怠感が生れてきたりする。私は倦怠感にこそ襲われなかったが、スランプのとき、くやしくて泣きながら稽古したことが何回となくある。
 なぜ涙が出るか。だれに対してでもない。スランプからぬけ出せない自分がなさけなく腹立たしいのである。
 そんなときは、ことさらに、がむしゃらな稽古をしてよくケガをしたものである。
 スランプというのは、長く続いたとしてもそれに真正面から取り組んでいればかならず脱出できるものなのだが、その場に直面するとそんな余裕はない。どうにもならなくて、そのまま挫折してしまうものさえ往々にしてある。
 その脱出法としては、スランプにおちいったら極端に稽古量を減らして心身の気分転換をはかるのが一般的であるが、私は逆にいつもよりさらに稽古量を増やした。
 まず頭を冷やして自分を客観的に判断してみる。もう一度基本に戻って自分の技をくり返し問いなおす。また、腹をくくってスランプの状態のままで試合に出る。
 そうすると、とつぜんのようにその後は迷いがふっきれる。そんな経験も何度かある。
 やはり稽古とはちがう試合の集中力によって、無意識のうちにそれまでの迷いを克服してしまうこともあるものだ。

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《岡野式》猛稽古 特訓2

 柔道マンは挑戦的でなくてはならない。稽古のひとつひとつが、すべて挑戦である。
量への挑戦、質への挑戦、強いものへの挑戦、苦手なものへの挑戦、
あくなき挑戦は強じんな体力を生み、不屈の精神力を養う。


1.相手を選べ
より大きいもの、より強いもの、苦手なものを相手に選ぶこと。緊張感のない稽古では闘志もわかないし、安易に流れて技術に新境地が生れない。苦しさ、つらさの中でこそ、はじめて技を習得できるのだ。

2.稽古は休みなくやれ
 なんといってもまず稽古の量を存分にこなし、そのうえで質を考えるべきである。楽をして強くなる方法はない。量をこなし、質を考え、しかもそれを休みなく持続させることが必要で、やったりやらなかったりでは意味がない。

3.ひとりでも稽古せよ
 指導者やリーダーのいる集団での稽古はやるが、いったんそこから解放されると何もやらないものが多い。そのときにこそ差がつくのだ。試合になったらひとりぼっちだということを忘れるな。

4.臨機応変に練習法をさがせ
 ケガをしたからといって休む理由にはならない。ケガをしたらしたで、ふだんはやれない稽古に専念できる。ひとりでやる場合には、相手のいるときよりとくに時間をかけること。

5.限界に挑戦せよ
 それを越えるごとに強くなる。たとえば二十キロマラソンをやってみたまえ。まず十キロ前後までは雑念も浮かぶし耐えがたい肉体的苦痛が断続的におそってくる。ここがひとつのヤマ。これを越えるとただ足が自然に前に出ていくという感じになる。
 つぎのヤマが十七キロ〜十八キロの地点。肉体的にも精神的にも、どうにもしかたがないほどの苦痛を覚えるだろう。だがここを越えればゴールまで足が精神と関係なく動いてくれる。第一のヤマでつぶれるか。第二のヤマでダウンするか。勝負どころはいつだって苦しいカベである。


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《岡野式》猛稽古 特訓3

 柔道マンは心・技・体−三位一体の武道家でなければならない。
科学的トレーニング、合理的トレーニング法だけでつくられるものではなく、
稽古による技と密着したものでなければならない。



トレーニング・ランニング法
足腰をきたえるためのランニングや力をつけるために重いものを持ち上げるには、どんな方法がよいかという質問を受けることが多いが、特別むずかしいものではない。
 走るのも方法としては種々あるが、どんな走り方をしても方法そのものに大差はない。したがって成果にも大差はない。要はどんな方法でもいいから、より多く足を動かすことである。自分の柔道の質と技を考えれば、どんな形式が最適かは自然にわかるはずである。
 また、重いもの、たとえば器具を使う場合には、呼吸のしかたやケガをしたり腰を痛めない方法をそれなりに研究しなければならないが、いずれにせよ、どんな方法でも、ただ人のまねをするのではなく、自分なりのやり方を自分でつくり、それを自信をもって長く続けることがたいせつである。
 このことについて少し補足しておく。
 近年、とくに科学的トレーニング、合理的トレーニングの必要性が強く主張されてきている。柔道だけでなく、あらゆる分野のスポーツでもなんらかの形で体力増強をはかっているのは、世界的な傾向である。

 だが、トレーニングだけにとらわれ内容の充実が二のつぎになったのでは目的は達成できない。柔道をはじめとする格闘競技では、心・技・体の三つの要素がバランスよく身についてこそ、最大限の力が発揮できるのである。
 精神力があり、技術がすぐれていても体力が極端に劣っていたのでは勝利をものにすることはできない。そこにトレーニング意味があるわけだが、だからといって本来の柔道は、筋肉隆々のボディービルダーならかならず勝てるというものではない。
 ところが、最近不思議な現象が起こっている。たんに体力がすぐれているもの(闘志はあるけれど)が、柔道の技術がそれほどではないにもかかわらず、試合で好成績をあげる例が少なくないのである。
 体力の増強による成果が、技術をうわまわるほど圧倒的なものなのか、あるいは技術がお粗末になってきたのか、一考を要するところである。

稽古とのバランスを考えよ
 トレーニングの方法も時代によって変わってきた。柔道の選手がスピードをつけ足腰をきたえるのにトレパンをつけ、本格的トレーニングとしてランニングをするようになったのは、私が参加した東京オリンピックの強化合宿時代からではないだろうか。
 ウェイトトレーニングにしても、それまでは鉄棒にセメントのかたまりやトロッコの車輪をとりつけてバーベルがわりにしていたものだが、より合理的な方法が主張されてきているのである。
 とにかく、走るにしても重いものを持ちあげるにしても、身を動かす鍛錬なのだから、それはそれで評価できるのだが、ただこれは、あくまでも柔道に強くなるための“補助運動”だという前提を忘れてはならない。
 かつては器具のかわりに稽古の量、打ち込みの回数によって、技と密着した体力の増強をはかってきた。それが最近、ややもすると稽古そのものをおろそかにして、ただバーベルを持ちあげていればいいのだという錯覚をしているものが多い。
 これでは本末転倒である。根本を見あやまっている。そういった器具のたぐいのトレーニングは、毎朝のランニングの中に組み入れるか、稽古でクタクタになったあと、ひと休みしてからの余力でおこなえば、筋肉も柔らかくなっているので効果もあがる。
 なんといっても、稽古の量をこなすことによって体力の増強を目指すのが理想であり、技術と並行してこそバランスのとれた訓練になるわけで、余力を生かして工夫をこらす、その範囲内で、走り、重いものを持ちあげればじゅうぶんである。
 ただし、すでにトップレベルにある一流選手などは、それまでのパターンを変えて、いきなり激しいウェイトトレーニングをおこなっても筋肉そのものが順応しない。
 これから、という層のものなら方法によっては、ある程度の効果も期待できるが、すでに体ができあがっているものが、無理にやれば障害を起こしたり、かえって弊害が生まれる。留意すべき点だ。

夜の石段トレーニング
 高校二年のときのことである。
 私は翌年の高校選手権個人戦に照準を合わせ、町道場もない田舎町での稽古不足をカバーするため、一年間の予定で毎日の階段かけ足を計画、夕食をすませてからの約一時間、付近の高校の石段をひとりで登り降りしていた。
 そのトレーニングのある夜、偶然にローマ・オリンピックの走り幅跳びで活躍した地元出身の伊藤文子さん(当時=リッカー)とばったり顔を合わせたことがある。
 伊藤さんは、帰国してまもないときで、歓迎会に出席しての帰り道だったのだが、そんな私を見て、スポーツ選手らしく「なんの練習?」と、きさくに話しかけ、二言、三言の言葉を交わし「えらいわねえ」とほめてくれた。
 私はまったく思いもよらず、夜の石段下でオリンピック選手に出会い、おせじにも感心され、ほめられてうれしかった。胸をおどらせてその夜のトレーニングにいちだんと熱がはいったのはいうまでもない。
 しかし、その伊藤さんのつぎの、一九六四年の東京オリンピックでは柔道が初の競技種目になり、私が中量級に出場して優勝する結果になるとは夢にも予想できないことであった。伊藤さんは、あの日の坊主頭の高校生をおぼえているだろうか。
 そして目標にしていた高校選手権では、準決勝で敗れたものの三位。自分の力の全国的な位置を知った自信は、その直後の秋田国体団体戦で茨城チームの一員になり、強敵九州勢を破って初優勝にかなりの貢献をするというかたちであらわれたのだ。
 それにしても、一年間の石段トレーニングの効果はそうとうなものであった。
 秋の体育祭では私は応援団長、大声を張りあげていたのだが、リレー競技で欠員がでて急遽ひっぱり出された私は、ビリでバトンを受け、陸上競技部の選手三人をごぼう抜き、やんやのかっさいをあびたが、その自分の脚力にはわれながらビックリした。
 あの石段トレーニングが自分の柔道の土台をつくったのだと、今でも私は信じている。

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●闘魂の柔道1 柔道に理くつはいらない

私が柔道を始めたのは中学1年のときだ。理由は単純、小さな男が、大男をブン投げる。小学生のころに見た柔道の試合をたいへんカッコいいと思ったからである。
 私も決して体の大きいほうではない。今でこそ体重は九〇キロちかくあるが、現役のころは八〇キロ足らずで身長は一七〇センチ、柔道家の中では小さいほうだ。一般の人と比較しても特別大きい部類に属するとはいえないだろう。
 子どものころも大きいほうではなかった。だがワンパクだった。負けずぎらいの気かん坊だった。勉強もケンカも負けるのは大きらい。よくケンカはしたけれど、ただ徒党を組んでのケンカは一度もない。
 数をたのんでやるケンカは男のすることではないと、はっきり心に決めていたからである。
 それなればこそ、正しいと信じたことをどこまでも主張するための力が、どうしてもほしかった。
 自分が正しいと信じたことを懸命に主張しても、それを否定され、さらに主張した段階で「うるさい、この野郎、だまってろ!」となぐられてひっこんだのでは、いくら自分が正しくても正しい自分を貫けない。
 正しいことならケンカをしてでもがんばる、そのために強くなりたい。だから柔道を始めた、というのが正直な動機である。
 考えてみると、なんであれ動機などというのは単純なものだ。
 音楽家になろうと最初から決心してピアノを習ったり、画家になるのだと決めてかかって絵筆をにぎったものがはたして何人いるか。絵や音楽ばかりではない。どんなスポーツだって芸術だって科学の分野にしたってそれは同じことだろう。
 最初はまず「おもしろそうだ」と感じ、「やってみようかな」と手をつけたところから出発しているにちがいない。しかし問題はその興味がどこまで続くか、あるいは続けられる意思があるかということなのだ。その一点によって結果は違ってくる。
 なにに対してでも、どにかく最初はもっともらしい理由づけなんかいらない。好きかきらいか、やる気があるかないか、それだけでじゅうぶんだ。なにか理由が見つからないと行動を起こさないのは大人の悪いクセだ。
 また、親にすすめられたからやる、友だちがやっているから自分もやる、というようないつも人まかせな態度ではなにをやっても長続きはしない。親にすすめられても友人のまねでもそれはそれでいい。
 だが、それをほんとうに自分がやりたいのかどうか、興味があるのかないのかを自己診断する能力だけは、どんな場合にももっていなければならない。
 そして、なんでもそうだが人がやっているのを外から見ていると、けっこう楽しそうなものである。だが、聞いたり見たりするのと実際にやってみた場合では、あらゆる面でずいぶん違う。
 最初から最後まで楽しいものなんかありはしない。苦しみがあるから楽しみがわかるのであって、苦痛に耐え、それを乗り越える勇気がなければほんとうの楽しみなんか決してわからない。
 柔道でいえば、ポンポン相手を投げとばすのはまあ楽しいだろう。けれど、最初から相手を投げられるわけではない。
 始めの数ヶ月は受け身の稽古ばかり、つぎは先輩に実際に投げてもらっての受け、これが終わってようやく初歩の技が教えてもらえる。だが、技を教えてもらったからといって、それがまたすぐに通用するわけでもない。
 クラブ活動などでは、ここまでで約三分の二が脱落してしまうつねだ。受け身にしても生まれて初めてやれば、それまで使ったことのない筋肉を動かすのだから腹筋や首、足腰の筋肉が痛くなる。階段を上がるのがやっと、トイレに行ってしゃがんだら立てなくなるといった状態が続くのである。
 しかし、この段階を越えなければ次には進めない。どんな状態から投げられても正確な受け身がとれるようにしておかなければ危険だからである。柔道はまず正しく投げられるところから出発する。
 現在の柔道は、明治時代の初期まで、柔術とよばれ、実戦に使われていた諸流派の技を、講道館の創始者、嘉納治五郎師範が新たに編成して近代体育の分野に定着させたところに始まっている。
 もとをただせば、柔道は必倒必勝の実戦技なのだ。だからこそ基礎をおろそかにすれば、危険であることはもちろん技の上達は望めないのである。
 しっかりとした基礎があるとないとでは、将来、いちおうの型ができたところでも、その内容に大きな差がでてくる。
 
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●闘魂の柔道2 負け犬は去れ!(「闘魂の柔道 柔道に理くつはいらない」から続く)

 まえおきはこのくらいにして柔道の試合、つまり勝負とはなにかを私の体験をとおして分析しよう。
 柔道修行の目的は、ただ試合に勝つことだけでなく総合的な心身錬磨にある。勝負には勝ち負けがあり、試合は自分の力をためす機会である。だから勝敗は二の次でいいのだ、というような原則論をこれから述べるのではないことをまずことわっておく。
 たしかに勝負が勝ち負けに二分されるのは、さけられない宿命である。けれども最初から敗れることを前提にして、試合にのぞむものはいないだろう。
 負けて勝つ、という言葉もあるが、ほんとうの意味で、さわやかな敗戦を認識できるのは、血を吐くような稽古をし、これ以上の努力はないというところまで自分をきたえあげ、それでも力およばず敗れたときに胸にひろがるあきらめの感情だ。
 しかし、なお、あえて私はいう。どんなに自分が努力を、最善をつくしたとはいえ、勝負に負ければかならず悔いは残る。
 そこで、その悔いをどうするか。完全にしっぽを巻いてしまうのか、あるいは悔いをバネにして再出発をこころみるか。要するに負けたその時点でなにをつかむか。つかんだものの意味によって敗戦の屈辱が生きもするし死もする。つぎの戦いの糧になる敗戦なら最終的な負けではない。
 人間の欲望や希望はひじょうに大きいものだが、それが実現できる可能性の範囲はとうぜんながらむげんではない。
 けれども勝負とは、限界と極限への挑戦のくり返しなのである。そして、はっきりいえることは、例外をのぞいて勝者は敗者よりも何十倍、何百倍の努力をしその結果として勝利に輝いたという明解な事実である。
 勝者には勝つだけの理由が、敗者には敗れた原因がかならずある。その意味で勝負の世界はさわやかなのだ。
 勝ちは勝ち、負けは負け、だれのせいでもない。試合の場での条件に両者間の差はひとつもないのである。
 公平、公正な機会のもとでの競争は人間を向上、発展させる。同じ条件で闘って敗れてもなお、敗者が勝者に結果の平等を要求するのは一種の甘えであり傲慢である。勝負の結果に責任の転嫁は許されない。差が出るのは、当然である。
 このことは、くやしかったら勝てばいいという不遜な勝者側にたってのおごりの意味でいうのではない。
 ともすれば敗れたという事実から精神的に逃避するいいわけの手段として勝利をさげすみ、敗れた自分を正当化しようとする弱い、というよりも卑怯未練な心をいましめねばならないから、とくにこの一点を明確にしたいのである。
 敗れてくやしいときは思いきり泣けばいい。負けてくやしくない試合など断じてしてはならない。ひとたび闘いに挑んで勝負に敗れたら、小説や映画ではあるまいし、ニッコリ笑って観衆に手を振り、胸を張って堂々と試合場を降りられはしない。
 もしそんことができたとしても、それは敗者の虚勢だ。余裕があってやっているのではない。勝負にかけたもののほんとうの姿ではない。敗戦にくやしさを感じないものなどは、闘う以前から勝負の失格者である。

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KKベストセラーズ発行 「剛力をねじふす 柔道チャンピオン 以下、同書より抜粋
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