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連載第7回
武道以外での「総裁」との出会い(Z) 投稿者:toukon@90
大変ご無沙汰しました。幹事長さん、お元気でご公務に勤しまれていられる様子、ご苦労様でございます。
ではでは、思い出した記憶のつぎはぎを・・・
あまりにも「BigName」であります総裁のゼミ生としては、学内では「酔狂者」と思われ、武道系の方々には、「あこがれ視」されてましたが、ぶっちゃけ、授業中に「カニ」やる訳でもなく、小生としては、心の修養をさせて頂いた感が強いですね。
言葉ではなく、身体から出てくる大和心というか、無言の中の教えが、その時は解らなかったんですが、あとで、「あぁ〜あの時云われたのはこれだったのか!」という事がその後の20数年の間に各所に出てきました。
体育会系のノリで「押忍」「押忍」して通ずる相手ではないし、何時でも緊張しっぱなしでもなかったし、
正に「師」だったんでしょうね。
*記憶があいまいですが、ヲトコとはなにものぞ?といった類の問いに、総裁は
「先祖を敬う事、親を大事にする事、他人より早起きをして何事も鍛錬する事」
とおっしゃってました。若干右基調の書き方ですみませんが、要は、自己を磨き続ける事が出来る人がヲトコなんだろうと、思ってます。実践は?難しいですね。
メシを喰うのも勝負だ、と自宅に遊びに行ったら、ブラジルからの居候と一緒に焼肉を食いにつれてってもらったこともありました。
その居候とは、有名な○×△だったんですが、当時はまさに練習生の居候、4人で行って10人分位づつ喰わされ形相が変わる程喰い続け、総裁が「止めさせろ」と云われ、小生が制止したんですが、ポルトガル語なんか知らねーし「STOP」と云い続け、力で制止しようやく止めてもらいましたが、あとで聞いたら、<出されたものを残したら、オカノ先生に・・・される。その位だったら腹が裂けても喰いきる決死の覚悟だった>そうです。 おいおい オレも勝負するけどそこで命賭けるなよぉ。ちなみに小生、貧乏学生だったんで、焼肉やっさーんに入ったのも、総裁が「カルビ10人前、xx10人前、とビール」と、当時でも2−3万の「ゴチ」は初体験でした。
改めて総裁 ごちそうさまでしたm(__)m |
連載第6回
武道以外での「総裁」との出会い(Y) 投稿者:toukon@90
では、三宅島の続きを。
もう今では、帰島すらままならない島となってしまいましたが、当時はまだ奄美大島程温暖ではないにせよ、情緒たっぷりの島でありました。なつかしく島の概略をお話ししてみます。
港は島の南北にあって、波の具合でどちらを使うか決めていた様子でした。一周するのに半日くらいの観光コースがあり、島唯一のバスガイドさんに案内してもらったんですが、全車両「品川」ナンバー!(当たり前ですが、東京都下ですもんね)
一台125CCのオートバイが、激走していたんですが、それを見てバスの運転手が「あー、あれは○○さんちの次男坊だね」暴走族もみな知り合い、野生の動物は生息せず、鳥類のみ。唯一の公害が、自動車の不法投棄(山中にナンバー取って乗捨て)
岬の所に縄を張って、自動車の運転練習場。新車は塩害ですぐダメになるんで。4~5年落ちの車両が主流。学校はスクールバスで通学。高校まである。医療機関も島の診療所があるし、突堤ではヒラマサが釣れる。いたれりつくせりの環境でした。
後日、総裁のお父上が亡くなられて、焼香に行った際、あの別荘は、前回の噴火でダメだったんでしょう?とお聞きしたら、「朝日グラフ」の三宅島の航空写真を見せていただき、奇跡的に隣で溶岩が止まり、無事だった写真を拝見して、すごい出来事だったなあと、改めて感心した事もありました。今はもう、埋もれちゃった話ですなぁ・・・
一寸脱線しますが(お神酒が入って、タイピングが滑ってます)その、お父上の葬儀の日のエピソードを。
当日の朝方訃報を聞いた為、葬儀の時間には間に合わず、ゼミの同期3名と小生の妻子を乗せて、夕方龍ヶ崎に到着しました。
先ず、実家に行ってらっしゃるとは思ったんですが、取りあえず、総裁の自宅を訪問しましたら、いらっしゃいまして、「おー、良くきてくれたなぁ。有難う。」何か様子が変だったので、ロビン奥様にそっと???したら「お兄さんと喧嘩したの」「悪いが、オレは行かないから、お前ら線香上げて来い。場所は分かるよな☆☆(私の名前)」「はい!じゃあ行ってきます」「帰りに寄ってくれ」そんなに仲が悪い兄弟ではなく、兄貴が高3の時に「背負い」で投げられそうになって以来、直接対決は無かった筈なので、怪訝な思いで実家に行ったら、開口一番お兄さんから「功はどうしてる?」「じつは喧嘩しちゃったんだよね」原因はもう忘れましたが、<どっちもどっち>で<お互い心配して>でも
<先に謝るのはいや>という、ほんわか兄弟愛を見せ付けられた一日でした。
案の定帰りに総裁の自宅に寄ると、「兄貴、何か言ってなかったか?」やってらんねー。
今年も宜しくお願いします。
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連載第5回
武道以外での「総裁」との出会い(X) 投稿者:toukon@90
ご無沙汰してました toukon@90です。
最近、もの忘れが激しく、サイトはブックマークしているんですが、「ネタ」を思い出せず、ROMしてました。そろそろ底なのかなぁ・・・
前回も、講義の内容よりエピソードの方が皆様の関心度が高いのは解っているのですが、うかつに発言して「奥襟」取られて、落ちる寸前に緩められ、「兎のめん玉」は、もう勘弁願いたいっ!あの「落として下さい、お願いします」が聞き入れられ無くて、こみ上げる嘔吐の波状攻撃を、正面から受ける体力はありましぇん!
今日は、小ネタをひとつ。
今はもう過去のこととなってしまいましたが、総裁は三宅島に別荘をお持ちでした。こう言うと、国税局が査察にきてしまいますのであくまでも過去形である事と、無人の民家を自分で補修され、もうすでに「お住まいではない」という事をつけ加えます。党外秘です。
夏のある日、講義終了後、総裁より、「合宿を張ろう」凍りつきました。しかし、武道系の合宿を知らない一般ゼミ生は「いいっすねぇ」その翌週、竹芝桟橋には、カーキ色の訓練服に身をまとい、背中の背嚢(リュック)には、中華鍋をぶら下げた小生が、入国管理官と「自分は、岡野先生の兵隊であります」と自己紹介をして、敬礼と共に、三宅島行きのアンコ椿船?に乗り込んでいたのは、もちろんです。船中は、日本の四季の勉学にいそしみ、「猪」「鹿」「蝶」「松」「桐」「坊主」に終始し、おかげで自己負担がチャラでした。
三宅島の2泊3日の合宿が、スタートした訳です。久しぶりにくだんの「Tクン」に電話して、過去の珍談を思い出してもらいネタ確認と思いましたら、「そんな事して大丈夫か?」と心配してました。小生も不安はあるにですが、「毒食らわば・・・」の精神で、ついでに総裁にもここを教える位の覚悟デス。・・・また。
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| 連載第4回
武道以外での「総裁」との出会い(W) 投稿者:toukon@90
ご無沙汰してます。それでは前回の続きを。
辞世の句を学び、先達の薫陶を…
一寸、堅すぎますかネエ?小生もあらんかぎりの英知を毛髪微々たる前頭葉に集結し、伝えたいと「から廻り」している様ですね。ちょっと文体を改めましょうか?
ゼミ生の大部分は帰宅部、野良部等の軟弱野郎ですので、辞世の句には、とけ込むどころか、あっけにとられておりました。
☆振りかえってみれば、当時の流経大は単科のカレッジで、1600人中女子は50人位でした。当然?総裁のゼミですから女の座る席は無かったですな。(爆)当然、汗くさい、イカ臭い野郎連中が徘徊する大学でした。
ただし、女子側からすれば、自衛隊の女子隊員の様なもので、自分が求めれば100%成立、佐々木のフォーク位の「低め」でも1円玉でもオールストライクでした。
現実、卒後、結婚したカップルもおりましたが、曰く「希少価値」の価値判断を誤った。と言ってました。(罵詈雑言失敬)
余談が長く、申し訳ない。
それでも不思議なもので、週ごとに一句づつ習い、唱和し、意味合いを話し合ううちに、心に染み渡るものが感じられてきたのは、やはり日本人なのかなぁ、と皆が思う様になって来るんだから、これも総裁の人徳なのかもしれませんね。
ー吾が胸の燃ゆる思いに比ぶれば、煙は薄し桜島山ー
ーいでまして帰ります日のなしと聞くけふの御幸にあふぞかなしきー
三島由起夫の介錯をした、森田必勝。乃木希典と運命を共にさせられた静子婦人。
死は美徳ではなく、殉教者は存在しないのかもしれない
でも、犬死という「死」も存在しない事を、総裁が独特の世界観をもって、武道を知らない小生達に、もののふの道を教えてくれたんだなぁ。と、今更に感謝の念がわいて来ます。そして一年間続けて戴けた事にも。
小生はマイカー通学でしたので、(聞こえは良いのですが実際は、10年落ちの三菱の商用車でした)帰りがけに総裁が武道場から出てこられる時と遭遇する事がありましたが、「ポンコツで申し訳ありません、どうぞ」とお乗せすると「お前の装甲車も中々だなぁ」と半ばジョークをとばされ、自宅までお送りしてました。普段はロビン奥様の運転でシルバーのフェアレディZが先生のお車でしたので私の車はゲタ以下だったのですが、そんな事には動じない総裁でした。
車中、色々な話しを聞かせていただいたのですが、一番嬉しかった事は「たとえ武道の絆は無くても、お前らは、おれの兵隊だ!」と、必ず言っていただいてました、
後に書かせていただきますが、千葉勝浦の武道館合宿所に連れて行って頂いた時も、そうそうたる柔道の面々(東海・国士舘・日体大・天理)の方々の面前でも、「オレンとこの兵隊だ、宜しくナ」逆に相手に「よろしく」と握手されて、大緊張・大恐縮した事が、多々ありました。
また書きます。失礼します。
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| 連載第3回
武道以外での「総裁」との出会い(V) 投稿者:toukon@90
かなりご無沙汰してしまいました。toukon@90です。
私以外の流大OBも掲示板に参加されてる由、益々のご発展を祈念申し上げます。
さて、本日お伝えするエピソードは・・・
当時、総裁は公私共に超多忙の生活を送られておりました。
1、2回生の体育の授業をほぼ毎日1〜2コマ。午後の柔道部の練習指導。ただ言葉の指導をするタイプではありませんので常に臨戦体制での指導でありました。それに週1回のゼミ。各地講演会。外部指導。マスコミ関係の解説依頼。執筆。
居候(常に2〜3人は人種を問わず)の世話(私も入っていた?)
その中で最初の教養ゼミは、総裁もかなり気合が入っていました。
開口一番「オレは今まで柔道・運動以外のつきあい、上下関係はほとんど無い。オレにとっても初めての事だから宜しくな」総裁の優しい言葉に一同<ほっ>としました。
流通経済大学は1回生から4回生までゼミ参加と卒論が必須でして、実は2回生進級時に『あこがれ』と『怖いもの見たさ?』の選択をした我々にとって、「天使のささやき」にも聞こえました。
そこから新渡戸稲造の「武士道」をテキストとした講義が始まる訳ですが、一風、というか、かなり一般常識を逸脱したお話しをこれからさせていただく様になります。ご期待(?)下さい。
最初は、テキストを主眼に講義が続きましたが、当時の我々には、「もののふ」の道を説かれても、迎合しきれない「何か」を総裁は即、感じ取られた様子、1ヶ月目位だったと思いますが「オレの講義を聴いて行く上で、知らなければならない事がある」「むずかしい事ではない」「男たる者、散り際が肝要という事である」やおら、黒板に
☆身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂☆ 吉田松陰の辞世の句をかかれました。
「これから皆で、漢(ヲトコ)の生き様を共に学ぼう」
これが我等岡野総裁ゼミ一期生のスタートでありました。
*文中の<漢(ヲトコ)>は私の創造語です、あしからず
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| 番外編
『不良牧師「アーサー・ホランド」という生き方』 アーサー・ホランド著 いのちのことば社
総裁の資料を収集しておりましたら、検索に引っかかりました。アーサー・ホランドさんは現在は牧師さんで、薬物依存症の人の救済に取り組んでおられるそうです。少年時代はかなりの不良少年であったそうですが、正気塾で総裁に柔道を教わっていたそうです。以下、本より抜粋したものです。かなり凄まじいものがあります。
ご興味のある方は http://wlpm.or.jp/index.htm をご参照ください。
岡野功先生との出会い
(省略)それで柔道にした。柔道をやり始めてしばらくして、東京の講道館で岡野功先生に出会った。俺の人生を決める運命的な出会いと言える。岡野先生は東京オリンピックの中量級の金メダリストで、「昭和の姿三四郎」
と言われた、柔道界では知らない人はいないという人物だ。でも、非常に優しい人だというのが、そのときの第一印象だった。
俺は高校を卒業したら、当時、柔道でナンバーワンだった天理大学に進もうと思っていた。天理大学に行って、アメリカのオリンピックの代表選手になりたいと。勉強はできないが、スポーツなら自分の存在感をアピールできるのではという気持ちもあった。
最初は親父に受け入れられたいという思いから始めたものだが、親父を飛び越えて、周りの人に受け入れてもらいたい、それにはこの柔道の道で生きていくしかないと思うようになった。
柔道をやって十五歳で黒帯を取り、どんどん上達して三段になったところで、岡野先生と出会ったのである。
「おまえな、天理大学に行ったらつぶされるぞ。俺のところへ来い。アーサー、おまえは講道館の三段かもしれないけど、正気塾の白帯だ」
と言う。岡野先生は 「正気塾」
という道場を主宰していた。三島由紀夫の大ファンで、軍歌が大好き人間。愛国心に燃えていて講道館という組織は好きではない、一匹オオカミ的なところがあった。月謝はなく、逆に俺らに小遣いをくれる人で、自分が土方をして稼いだ金で飯を食わせてくれた。俺の人生の中で岡野先生と出会ったことは非常に大きなインパクトがあったと改めて思う。
俺は一九五一 (昭和二十六)
年生まれで、俺の育った時代の大きなインパクトとして東京オリンピック
(一九六四年) があった。その東京オリンピックの柔道で金メダルをとった岡野という人物のドキュメンタリーをテレビで見たことがある。本当に筋肉ムキムキマンで、技も切れ味鋭い、全日本の大会で自分より身体が二倍くらい大きい奴をぶん投げていくようなエネルギッシュでパワフルな人間で、俺は完璧にこの人に憧れていた。その憧れの先生が俺のところに来て、「俺が訓練してやるから来い」
と言ってくれたのだ。
正気塾にいるのは、みんな年上の先輩ばかり。のちに世界チャンピオンになる人とか、モントリオール・オリンピックで金メダルを取った二宮、世界選手権で二位になり、國學院大学の柔道部の先生もしていた上口という人や、津沢という世界選手権で優勝して今は中央大学の監督やっている人などなどだ。外国からはオランダのアントン・ヘーシンクやウイレム・ルスカが来たりして、俺は英語で通訳させられたりした。
高校二年のときから家族と離れて正気塾で合宿生活をし、そこから学校に通うようになった。毎日の生活は、朝五時起床でまず国旗掲揚から始まる。「君が代」
ががんがん鳴り響き、NHKテレビ朝五時の日の丸ひらひらまで見せられた。俺は直立不動で、「君が代」
を聞いているが、そんなとき
「俺って一体どこの国の人間なのだろう」
と思ってしまう。そのあとは朝の練習だ。
学校から帰ってきてからも練習また練習。それも半端じゃない。学校が終わると今度は岡野先生の顔で大学の柔道部の練習場にも通った。例えば岡野先生の母校、中央大学を始め、国士舘大学、早稲田大学、日本大学、明治大学などなどだ。
柔道の世界というのは中央大学だったら中央大学の伝統を受け継いだ柔道がある。早大は足技が上手だとか、日大は立ち技・寝技のバランスがいいといった具合だ。岡野先生のやり方は一週間ごとに行く大学を変える。そうするといろんなタイプの人と練習できる。これが一つの大学の柔道部にいるとそれができない。他大学は全部敵である。それを岡野先生の顔でやるのだ。
柔道にはいろんな大学の伝統があってもいいと思う。しかし、その伝統が唯一絶対じゃないんだと。柔道というのは中央大学のスタイルもあれば明治大学のスタイルもあり、拓殖大学のスタイルもあるんだという部分ですごく勉強になった。今、伝道者としてジーザスの福音を述べ伝える俺の働きの原点がここにあると言ってもいいだろう。
練習ガンガン、酒ガバガバ
たまに誰かゲストが来ると盛大なパーティをする。練習もガンガン、飲むときはガバガバ。岡野先生は飲んで気分が良くなると、「明日は休みだから、もっと飲め」
と言う。それではと、みんなガバガバ飲む。
あるとき、飲み終わって寝る前に宴会をした部屋を綺麗にしなかったことがあった。次の朝、岡野先生が汚い部屋を見て、「やっぱり今日も練習をやるぞ」。みんなゲーゲーやりながら練習に耐える。 二宮先輩を担いで神社の何百という石段を昇らされる。足がガタガタ、みんなゲロを吐いて泣きが入る。世界チャンピオンの先輩だって、あまりに練習が苦しいからと、夜逃げをするくらいの道場だった。みんな恐くてしょうがない。恐いんだけど、ここで逃げたら男じゃないみたいな感じだ。みんなゲロを吐いて泣きが入ってビンタくらって、「おまえら、なに弱音吐いてんだ」
と言われるが、みんなグタグタだ。
あるとき岡野先生が、「アーサー、おまえちょっと来い。今日の練習どうだった」
「きつかったです」
「そうか。俺はおまえらが弱音吐いて疲れ切った顔見てたら勃起したよ」
などと言う。
その反面、「アーサー、おまえ、俺のスーツ着れるか」
「これ小遣いだ」
というように厳しさの中に優しさが混じっていた。
俺は今の若者たちはすごく優しいと思う。特に女性に対して……。でも優しさっていうのは弱さでもあるんだ。本当の優しさっていうのは、その背後に逞しさがないといけない。今の若者の優しさというのは逞しさがない優しさなのだ。薄っぺらくて、ちょっと風が吹けばどこかへ飛んでいってしまうような……。俺が体験した岡野先生の優しさというのは厳しさが中に入っていて、ちゃんとバランスがとれていた。
正気塾に入ったころ、こんなことがあった。
先輩が 「アーサー、よく来たな」
と言う。みんな強い人で、もう柔道界のヒーローばっかり。そういう人が
「アーサー、一緒にボーリングでも行こうか」
と言って、当時合宿所は千葉の稲毛にあったので、二宮先輩らが稲毛のボーリング場へ連れて行ってくれた。そのボーリング場でつい遊びすぎて、戻ってきたら岡野先生がすでに帰っていた。当然食事の準備はできていなかった。
そうしたら岡野先生が
「おまえら先輩のくせに」
と言って全員を並べてビンタだ。二宮さんも上口さんも顔をバチバチ殴られる。柔道界の猛者をバシンバシンぶん殴る。だが、俺だけぶん殴られなかった。初めて合宿所に行った日だったからだ。
俺は、「先生、俺もこの中の一員です」
と言ったら、バシーンと殴られた。そして
「おまえも着替えろ」 と言われ、一周八〇〇メートルくらいあるトラックを夜の八時くらいから延々夜中の十二時くらいまでグルグル走らされた。「止めろ」
と言わない。俺はとんでもないところに来たなと思った。で、その次の朝五時起床で練習である。
完璧ないじめの世界
この世界は先輩の言うことには一〇〇パーセント服従である。当時の柔道は、強くなりたければ礼儀正しくなれと。先輩に対する口のきき方などまさに軍隊そのものだ。まるっきりの軍隊生活で
「いやです」 とか 「できないです」
などとは言えない世界だ。その世界で俺も頑張った。
「アーサー、柔道着洗え。下着洗え」
と言われて全部洗わされる。先輩の中でも、確かに強いが人間的には好かない奴もいる。「この野郎」
と思う奴だ。だが 「この野郎」
で喧嘩しちゃうとすべてがダメになってしまうので、我慢しなくてはいけない。だから俺もすごく我慢した。
先輩たちも喧嘩で俺をぶん殴ると先生が黙っちゃいないから、柔道でいじめる。投げ飛ばされて首を絞められる。俺らは生意気な奴は柔道の中でみんな落としちゃうのだ、首を絞めて。落として目が醒めたらまた落とす。完璧ないじめの世界をやるわけだ。先輩はみんな朝の練習はほどほどにしておきたくて、ちゃんと手の抜き方を知っている。
岡野先生は俺が足が速いのを知っているから、朝のランニングのとき、「アーサー、もっと速く走れ」
と言う。俺は一周二周先輩を抜くことは簡単だ。すると先輩が
「アーサー、俺を一周抜くな。抜いたら今日の練習で落とすぞ」
と言う。
岡野先生は、「おまえもっと速く走れるのに、真面目に走っていない」
と言う。まさに板挟みである。どうしたらいいんだよ、俺は……。でも、そういう中で逞しくなっていく。しかし、上から圧迫されていると、ある程度我慢して従うが、やがて心の中にフラストレーションが溜まってくる。
「はい、分かりました」
と言っても、心の中では、「なんだてめえ、この野郎」
と思っている。どこかでそれを発散させなくてはならない。先輩に仕返ししたいが、モロ、面と向かって仕返しするとやばいから、いじけた仕返しをすることになる。
例えば、みそ汁を作ったり、ご飯を炊いたりするときに、その中にフケを入れたり、「珍味」
を入れてやる。「珍味」 というのは、おちんちんの毛のことだ。まさに
「ちん味」 である。
「先輩できあがりました」
「アーサー、アメリカ人がみそ汁作って、偉いじゃないか」
「ざまあみろ。たまには俺のフケや珍味を食え、この野郎」
と心の中でつぶやく。やることがセコいが、最初は、そんな次元の復讐しかできない。
(以下省略)
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| 連載第2回
武道以外での「総裁」との出会い(U) 投稿者:toukon@90
前回は、1回生時代の最初の出会いをご披露いたしましたが、今回はその番外編。
息切れしない様、別物でちょっとお茶をにごさせていただきます。
武道以外での「総裁」との出会いと銘うっておりますが、実際不思議な縁でこんな書込みをしている一端をご紹介致します。
たまたま同級生に茨城県の現「ひたちなか市」出身の者がおりました。彼は海岸沿いの中学より「県立多賀高等学校」に進学し、実は柔道をたしなんでおりました。ここまで書けば、ここのフリークな方ならお察しかと思いますが、当時の多賀高の柔道部の監督は、国際武道大教授の「柏崎克彦」先生でありました。
仮にその友をTクンと呼ばせていただきますが、Tクン曰く「高校時代は夜寝るのが怖かった」そうであります。
彼の思考回路は⇒@寝れば朝が来るA朝が来ると学校に行くB学校が終わると部活がある=ツライの繰り返しだったそうです。週単位でも「サザエさん」のエンディング曲が流れると気持ちが落ち込み、鬱になってくる、だから寝たくない、朝なんか来なけりゃいいんだっ!と毎日思っていたそうです。
そう言いながらも、当時の多賀高は他の強豪をを凌駕する、県立高では屈指の強さを誇り、練習試合では同僚からは「転がせ〜っ!」相手校からは「立てっ!」「起きろ」の声がかかる程、当人曰く、当時は「転がしたら絶対勝てる」もし、中と半端に返されたりはずされされたら学校には帰れない、家出するしかないと思っていたそうです。どんな試合よりも毎日の練習の方が辛かった(かなり脚色されていますが)柏崎先生らしいエピソードかもしれませんね?
オリンピック不参加決定の時は、私も一度ちらっとお見かけしただけの柏崎先生ですがTクンと私の下宿で2人「無念の涙」を流した様に記憶しております。
今回はここまでデス 失礼します。
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連載第1回
武道以外での「総裁」との出会い 投稿者:toukon@90
先日は失礼いたしました。月に1度位はおじゃま出来るかとはおもいますが、何せ、25年も前の事でありますし、神話化されている総裁に迷惑がかかるのも本意ではないので、簡単に、脈絡なく「エピソード」を書き込ませていただきます。(私も小出しにしないとすぐ底です)
最初の出会いは1回生の体育でありました。小生は2次募集で本学に滑り込んだ為、必修科目の自己選択の余地は無く、同じアパートの先輩に総裁の体育は出来れば避けろ!と言われても、無駄でした。
初日、総裁より一言「軽く走るぞ!」柔軟の後、かる〜く3Km。死にました。
その後、若干の休憩をいれて高鉄棒での懸垂。普段の運動不足が祟り、3回位やるのがやっとでした。これが毎週2回 90分づつ。でも不思議なもので月を追う事に出来る様になりました。その間総裁も自ら走られ、我々よりも倍のペースでメニューをこなしておりました。当時30台半ばの年齢だったのですが「米を止めれば10Kgはすぐ減量出来る」状態を保っておられました。現役を退かれて10年以上経過され、今更ながら信じられない出来事でしたね。
では、又。
PS.総裁の家族構成は奥様と4人のお子様(男3人女1人)お名前はすべて一文字です。
ご質問等は、支障のない程度に、思い出しながら。但しあくまでも「武道」以外での総裁しか小生は存じ上げておりませんのであしからず。
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| 前書き
初めまして 投稿者:toukon@90
前略
>東北在住の者ですが、実は総裁の「柔道以外」の縁のある者です。
1978年、総裁は初めて一般教養のゼミを主宰されました。その時の第一期生でした。
ちなみにテキストは新渡戸稲造の「武士道」でありました。(2〜3年でやめられましたが)
(当時一般には知られてません。まして お札になんてなるず〜っと前です)
当然公私共に(お兄さんの床屋さんにまで)かなりお世話になりました。
このサイトを偶然発見して、懐かしくも嬉しくもあり書き込ませていただきました。
是非、熱き応援をお願いいたします。過去の珍談も、おいおいとご披露致しましょう。
またおじゃまします。 不尽
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