平成9年度文化講演会
「私の歩んできた道」 流通経済大学教授 岡野功 先生
平成9年10月28日(月)に本校体育館にて文化講演会が開催されました。講師には本校卒業生であり,現在,流通経済大学で教鞭をとられている,
岡野功教授を迎え,「私の歩んできた道」というタイトルで講演をしていただきました。
岡野教授は本校柔道部で活躍され,インターハイに出場し3位入賞を果たしました。卒業後は中央大学に進学し,さらに柔道の技を磨かれ,東京オリンピックの中量級に出場し,見事金メダルを手にした方です。
講演では,まず,在学中からオリンピック候補選手になるまでの厳しい練習と試合の経験を話されました。在学中は竜ヶ崎二高の階段を用いてほぼ毎日欠かさず走り込みをし,その成果がインターハイ3位入賞につながりました。中央大学に進学してからは,大きなスランプを経験しながらも1年次に全日本大学個人選手権大会に準決勝まで勝ち上がり,オリンピック候補選手に選ばれたのだそうです。その後,つぎつぎと厳しい試合と合宿を経るなかで選手が絞られていき,プレオリンピックで優勝,さらにソ連国際大会で優勝をし,オリンピック出場権を一番乗りで勝ち得ました。
ところが,オリンピックを10月に控えた4月に大きなけがをし,得意な立ち技ではなく,寝技を中心に試合を進めることになり,オリンピックの大会でも寝技を中心にして勝ち進んで金メダルを勝ち得たのだそうです。
この話のあと,生徒から前もって出されていた質問に一つずつ答えてくださいました。
試合の時,どきどきしないのですか,という質問には「現役の最後の最後まで,試合の時はどきどきしていたのだ」と答えました。「過度の緊張は萎縮につながるが,適当な緊張は集中力を生む」のだそうです。
部活と勉強の両立はどうされたのか,という質問には,「自分は両立したとは思っていない」と答えられました。「しかし,勉強することとスポーツすること,この両方が非常に重要で,それを知って,それに向かって努力することが一番の両立だと考えている」そうです。
選手生活中気をつけていたのは何ですか,という質問には,「毎朝同じ時間に起きることだ」と答えられました。生活が乱れるとスポーツ選手として致命的になるので,朝,きちっと起きてトレーニングすることを心がけていたそうです。
高校時代に何を目標に柔道をしていたのか,という質問には,「常に遠くを見ていました」と答えました。大学ノートに何ページも行きたい大学の名前を書きつらねて,この大学に入ったら,どういう選手と稽古をしたいかなどと,夢に見ていたそうです。
私にとって柔道とは何ですか,という質問には,「すべて柔道を中心に現在がある,柔道イコール人生と言ってもいい」と話しました。
最後に,「文武両道を目指して頑張ってほしい,ソクラテスの頭脳とヘラクレスの肉体を目指して努力されることを期待します」と講演を締めくくりました。
(注)上記の文章は全て竜ヶ崎第一高校のホームページより引用しました。
この講演は総裁の出身校である竜ヶ崎第一高校設立100周年を記念して行われました。
竜ヶ崎第一高校のホームページはこちら http://www.net-ibaraki.ne.jp/ryu1st/
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本来の柔道を伝えたい…柔道人生歩み続ける
東京五輪・金メダリスト 岡野功さん
シドニーオリンピック、そしてパラリンピックに沸いたこの秋。
去る11月6日には、女子柔道48s級でまさに悲願の金メダルを獲得した田村亮子選手に総理大臣顕彰が贈られるなど、余韻いまだ覚めやらぬ感がある。
その柔道、男女ともすっかりオリンピックのメイン競技の一つとなっているが、初めて正式種目として採用されたのが36年前、1964年の東京オリンピックだった。ちなみに今では当たり前のようになっている体重別の試合が初めて公式で行われたのもこの大会である。
当時の階級は、69kg 以下の軽量級、80kg以下の中量級、80kg以上の重量級、無差別級の四つだった。
無差別級では決勝で神永選手がオランダのヘーシンク選手に敗退、日本のお家芸敗れるとのショックが走ったものである。
このとき、中量級に日本代表として出場し見事金メダルを獲得したのが、
現在流通経済大学(竜ケ崎市平畑)教授の
岡野功さん(写真左) である。
同大学に氏を訪ね、オリンピックや柔道に対する思いをうかがった。
―「東京」に出場したときの思いはいかがでしたか。
当時、私は20歳。多感な頃です。日本で初めて、そして柔道が初めて採用されたという記念すべき大会だったので、本当にいいときに出してもらったと思います。そして、注目の中で戦って金メダルが取れたのですから最高です。
ただ、勝ってうれしいというより、ほっとしたという思いがあったのも事実。もし失敗していたら、つぶれてしまったかもしれません。やはりかなりの重圧がありました。
私にとってオリンピックとは東京オリンピックとイコールという感じです。その後、何回もオリンピックがありましたが、私のイメージは東京のままです。
―オリンピックの金メダルは、柔道人生の最高峰でしょうか。
一般の方々が注目するのは何と言ってもオリンピックですが、自分が一番誇りに思っているのは、その後の日本選手権の体重差別級で優勝したことです。オリンピックの翌年の世界選手権の中量級でも優勝しましたが、その後無差別のクラスに出場し、昭和42年と44年の2回、全日本大会の無差別で優勝しました。
―柔よく剛を制す、小よく大を制す、とよく言われますが、見ている方もそんな柔道にあこがれます。
私が柔道を始めたのは、小さい人が大きい人を投げているのを見て、素晴らしいと思ったからです。
大きい相手と戦うには技が単調ではだめです。さまざまな技を研究し身につけ、それらを連続して繰り出すのです。
どうすれば強くなれるかとよく聞かれますが、私は「大きいやつとやれ」「自分の嫌いなタイプとやれ」と答えます。そうして、柔道本来の技を身につけるのです。そうすれば、現在の階級で言えば3階級上ぐらいの相手とは十分戦えるのではないでしょうか。
―現在の競技柔道は体重別にいくつものクラスに分かれ、また試合中も「審判がすぐ分かれさせたり「指導」を取ったりして、本来の柔道とは違ってきているようですが。
ルールが細かすぎて、のびのびとした試合ができない。技を磨くというより試合運びを重視する用になってしまった。
減量にしても、減量自体は苦しいことですが、軽いクラスを目指すのは、正の姿勢とは言えないのではないか。パンツの中に重りを隠してでも、重いクラスに出るくらいの気概が武道の精神でしょう。
―流通経済大学柔道部の指導はもちろん、東大の師範もお務めで、また全国各地に指導に行かれることも多いですね。
学生たちには、勝つことよりもまず、柔道そのものを教えたい。本当の柔道を少しでも伝え、広めていきたいと考えています。
―ありがとうございました。
「柔道が世界に広まるのはもちろんよいことである。しかし、それとともにあるべき柔道の姿、魅力が失われてしまっては寂しい」。日本武道の伝統を受け継ぐ本来の柔道を伝えるために、岡野さんの柔道人生は続く。
(注)上記の文章は茨城県で情報誌を発行しているエリートグループのホームページより引用しました。
エリートグループのホームページはこちら http://www.elite-web.co.jp/
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OBからの伝言
東京五輪柔道で金メダル 岡野 功さん(55)
竜ケ崎一高柔道部時代から全国で活躍していた岡野功さん(55)は1964年、東京五輪の柔道中量級で金メダルを獲得。その3年後、当時は「実力世界一」を決めると言われた、体重無差別で争う全日本選手権でチャンピオンに輝いた。中量級選手の優勝はまさに快挙。20歳で金メダル、23歳で柔道界の頂点を極め、岡野さんは「天国」を味わっていた。
――頂点にたどりつけた理由はどこに?
高校時代から国体など全国レベルでもまれたため、常に意識を高く持つことができました。「同じ世代のやつに負けたくない」の一心で、明けても暮れても練習の日々。ギリギリまで自分を追いこんでいくと、技術的に壁にぶち当たります。そこからが勝負です。
壁を越えられなくても、壁際にとどまるために、判で押したような練習が続きました。気持ちがなえそうになった時もあります。そんな時、頂点を目指してがんばってきた日々を思い出すと、不思議と気力がわいてくるんです。その気力がチャンピオンを勝ち得た要因でしょう。
しかし、全日本選手権からわずか1カ月後、親善試合でソ連(当時)の選手に敗れてしまう。「日本柔道の名折れだ。責任をとれ」という心ない手紙も届いた。誇りを傷つけられ、完全に自信をなくした岡野さんは、9カ月も柔道着にそでを通せないほどの屈辱感にさいなまれた。今度は「地獄」の日々だった。
だが、岡野さんはその2年後の全日本選手権で再び頂点に返り咲いた。
――どのようにして立ち直ったのですか?
チャンピオンの誇りから、続けるべきか、やめるべきかで悩みました。しかし時間が経過するにつれて、屈辱感とともに、チャンピオンを意識する自分の中の重圧から解き放たれていったんです。そして、心の中に残った「柔道が好きだ」「このままでは、あの練習の日々が無駄になってしまう」という二つの思いに身を任せようと開き直ることができました。
意識を高く持ってやり続けてきた練習の日々が、私自身の支えになったのでしょうね。
センバツで全国一へのスタートラインに立つ竜一ナイン。岡野さんは「頂点に立てば、心にゆとりができ、他人に優しくなれる。頂点を目指して途中でくじけても、目指してやったことが生きる支えになるはず。次のステップのため、何かを学んできてほしい」とエールを送った。
【衛藤達生】
(注)上記の文章は全て毎日新聞のホームページより引用しました。
総裁の母校である竜ヶ崎第一高校が第72回選抜高校野球大会に出場したためです。
毎日新聞のホームページはこちら http://www.mainichi.co.jp/
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柔よく剛を制すおもしろさ子どもたちにも教えてあげたい
岡野 功さん(城下在住)
岡野さんは、オリンピック東京大会(昭和39年)の柔道中量級の金メダリスト。 「当時は実力世界一を決めるなら全日本選手権の方が上でしたが、東京オリンピックは"国威"をかけた大会。ものすごいプレッシャーでした」
小学生のときに見た龍ケ崎市と土浦市の親善試合が柔道を始めるきっかけに。「小さい選手が大きな選手を投げ飛ばす小気味良さ。"柔よく剛を制す"を目のあたりにして、すっかりとりこになってしまいました」
昭和37年、大学1年生のときにオリンピックの強化選手に。全国のトップレベルの選手たちが集まる強化合宿で、技を磨き大試合のプレッシャーに負けない"自信と平常心"を身につけたことが2年後のメダルに結び付いたと言います。42年、体重無差別で争う全日本選手権で優勝、名実ともに世界一の座に。「ところが、優勝から1カ月後、ソ連(当時)の選手に惨敗してしまいました。"日本柔道の名折れだ。責任をとれ"という手紙をもらったときはつらかったですね」
短い間に天国と地獄をかいま見た岡野さん。「でも、どんなスポーツでも無敗のまま引退していくチャンピオンなんていませんから」。挫折をバネに2年後、再び全日本選手権の王座に返り咲きました。
今の夢は、経験のまったくない小学生に柔道を教えること。「技は、2年も習うとその人の"形"ができてしまう。だから、何もない真っ白な状態から教えてあげられたら、どんなにかやりがいがあるだろうなと」。かつて何度も世界一の座に就き、全日本のコーチも務めたことのある岡野さん。子どもたちに本当に伝え残したいのは、技ではなく、自分自身が少年時代、地元親善試合でおぼえた柔道に対する"ときめき"なのかもしれません。
(注)上記の文章は茨城県竜ヶ崎市のホームページより引用しました。
竜ヶ崎にゆかりのある著名人のインタビューが多数掲載されております。
ホームページのアドレスはこちら http://www.net-ibaraki.ne.jp/ryugasaki/
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気持ち通じ合った
東京五輪柔道中量級金メダリスト岡野功氏(現流通経済大学教授)
すごいショックです。オリンピックの時は異常な雰囲気だったが(日本代表の)選手は話さなくても「頑張らなければ」という気持ちで通じ合っていた。
2年ほど前に食事をしたのが最後になりました。
(注)上記の文章は日刊スポーツのホームページより引用しました
東京オリンピック柔道重量級金メダリスト猪熊功氏の訃報に寄せたコメントです
ホームページのアドレスはこちら http://www.nikkannsports.com/
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『内また透かし』の皮肉…柔道の妙味JUDOには分からず
柔道の醍醐味の一つは、相手が技を仕掛けてきたとき、バランスを崩しながらも体をさばき、相手の力を利用して投げることにある。これを『後の先』というそうだが、シドニー五輪の男子100キロ超級決勝で篠原信一が見せた『内また透かし』こそ、JUDOではない日本古来の柔道の技の妙味といってよかった。
だが、国際柔道連盟の理事会ではフランスのドイエと争った同決勝での疑惑の判定について、「両者にポイントを与えるべきではなかった」との結論を引き出した。一体、誤審を認めたのか、認めなかったのか。ジム・コジマ審判担当理事は「私見では、篠原の一本に限りなく近いが…。灰色決着といわれても仕方ない」と奥歯に物のはさまったような話しぶりで、これぞ『肩透かし』を食ったという感じである。
相手の力を利用し、小よく大を制した時代と違い、レスリングのように攻めまくってポイントを稼ぐのがいまの柔道。透かし技など外国選手はあまり縁がないだろうし、外国の審判の中には見たこともない人もいるだろう。東京五輪中量級金メダリストの岡野功氏(流経大柔道部長)は「あの微妙な一瞬を見極められるのは相当柔道をやった人か、いつも現場でけいこを見ている人でないと無理です」と指摘した。
(注)一部省略 (サンケイスポーツ 今村忠)
(注)上記の文章はサンケイスポーツのホームページより引用しました
シドニーオリンピックの篠原vsドイエ戦の疑惑の判定に寄せたコメントです
ホームページのアドレスはこちら http://www.sanspo.com/
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竜ケ崎市スポーツマスター第1号に、東京五輪金メダリスト・岡野功さん
◇「子供たちの支えに」
柔道の東京五輪金メダリスト、流通経済大教授・岡野功さん
1964年の東京オリンピック柔道で金メダルに輝いた流通経済大教授の岡野功さん(58)=竜ケ崎市古城=が、郷土のスポーツ界の達人をたたえる「竜ケ崎市スポーツマスター」の第1号に選ばれた。30日に行われる総合体育館「たつのこアリーナ」の落成式で顕彰される。
【岩本直紀】
スポーツマスターは、同市総合運動公園の建設に当たってスポーツ振興に功績のあった人物をたたえようと、串田武久市長が発案した。同市で生まれ育ち、現に市内に住み、郷土の誇りとなる顕著な功績を持ち、人格・見識ともに優れ、他の模範となる人物であることが条件。岡野さんは「スポーツマスター」として、市のスポーツ振興に努め、市長の求めに応じて意見を述べる。
岡野さんは小学5年の時、竜ケ崎、土浦両市の親善対抗試合で、体の小さな選手が豪快な技で大きな選手を投げ飛ばす小気味よさに触れ、柔道に熱中。町立竜ケ崎中、県立竜ケ崎一高、中央大と鍛練を重ねて技を磨き、東京オリンピックでは中量級(80キロ以下)で世界の強豪を相手に見事、金メダルを獲得した。翌年の第4回世界柔道選手権大会中量級でも優勝、67年と69年の全日本柔道選手権大会では無差別級を制覇し、柔道界では数少ない3冠の栄誉に輝いた。現役引退後は全日本のコーチを歴任した。
「たつのこアリーナ」の落成式では、岡野さんが紹介され、館内や武道場の入り口に現役時代の写真パネル4枚と称号が掲げられる。
選定に当たった串田市長は「青少年育成の達人としてスポーツ振興に熱心な岡野さんが一番ふさわしい」と期待を寄せ、これを契機にさまざまな分野で埋もれた人を掘り起こしたいと語った。
名誉や肩書は何もいらないという岡野さんだが、「地元の子供たちに、『竜ケ崎にもこんな人がいたんだ』と知ってもらえればありがたい」と快く引き受けた。岡野さんは「新しい施設が完成したので、好きなスポーツで汗を流し、精神的なバックボーンを持ってもらえたらいいですね」とうれしそうに話している。
(注)上記の文章は全て毎日新聞のホームページより引用しました。
ホームページのアドレスはこちら http://www.mainichi.co.jp/
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第16回 7.31. UPDATE
大切なことは……。
(省略)いつもサインに書いている『力必達』(つとむれば、かならずたっす)という言葉は、中学のときの廣津龍伍(ひろつりゅうご)先生が卒業式のときにオレに書いてくれたもの。嘉納治五郎の言葉で、努力すれば必ず達成するという意味。すごく心に残ったんだよね。知ってますか? 知らない人はオレのサイン、見たことないんだね(笑)。
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| ホームセンターで自転車とマック用品を購入。 |
廣津先生は、かなりのおじいさんで、岡野功(おかのいさお)さんをも教えたという先生。岡野さんは昭和の三四郎と呼ばれた東京五輪の金メダリストで、龍ヶ崎市の出身なんだよ。だからよく、「オレが教えた岡野功は……」って言ってたなぁ。廣津先生は結構熱心に教えてくれて、柔道の基礎は全部その先生から学んだね。
でもはっきり言って、技なんていうのはどうでもいいんだよ。信念があればいいの。そりゃあ、勝つためには、ちゃんとした技術が必要だよ。でも、もっと大切なことがいっぱいあるんだよ。選手生命なんて短いんだから、柔道をやめたときその人のプラスになるような、生きてく先につながるものを、身につけさせなきゃダメなんだよ。それは、どんな人でもできると思う。信念さえ、しっかり持っていれば…。(省略)
(注)上記の文章は全てスポーツライターの二宮清純さんのホームページより引用しました。
ホームページのアドレスはこちら http://www.ninomiyasports.com
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近代柔道 1999年9月号
愉しきかな、柔道ライフ。(PART1)
岡野功といえば柔道界では異能の人だった。80kg程度の体で全日本選手権を制覇、オリンピック、世界選手権の金メダルも保持する3冠王でもある。25歳で現役を引退し、その後郷里にある学流通経済大学で指導者として歩んできた。柔道への情熱、研究心、激しい闘争心は時に周囲に相容れられない状況もつくったが、上下左右におもねらず、柔道を栄誉の糧としない同氏の柔道人生に共感する人も多い。
今は指導の第一線から一歩引いているが、将来は「求められれば、全国どこへでも教えにいく」という。
これまでの柔道人生を振り返りながら、将来も身近にあるであろう柔道への夢を語ってもらった。
我が柔道人生に悔いなし
6月の初旬、さわやかに晴れた日に茨城・竜ヶ崎市の流通経済大学を訪れた。初夏の緑が目に快い。生涯柔道特集における名人・達人の場合、という設定で、この大学の教授で柔道部師範の岡野功氏に語ってもらおうという趣向だ。
世に柔道を究めた人は何人もいるが、体格のハンディをものともせず、2度にわたって大男揃いの全日本の舞台で頂点に立ったのは岡野氏の他にいない。左右の背負い投げ、右小内刈り、左一本背負い投げ、大外返しに寝技の冴えを加え、まさにオールラウンド。小兵の必殺仕掛け人といった感じの選手だった。1978年から流通経済大学の教員なり、若い学生たちに柔道の技、心を教えてきた。
「4、5年前に監督の座は教え子の岩崎卓に譲ったんです。これまでは現場で柔道を教える他にもスカウト、就職の面倒まで、学生にぴったり付き、気持ちの上ではどっぷり柔道に漬かった生活でしたが、50歳を過ぎ、いろんな意味で若い指導者を側面から援助する方がいいかな、とも思いましてね。一歩引いて・・・・・・」
「監督でもないのに毎日道場へいったら岩崎もやりづらいし、自立できないからね。ですから、あえて道場にも顔を出さない努力をしているんです」とも。内心では道場に立つのを「一日でも欠かすというのは非常に苦痛だった」と明かす。今は月1回、第一木曜日が岡野氏の"直接指導日"という。
「ここだけの話ですが、たまに稽古を見るとイライラしちゃうんですね。歯がゆくて。気持ちでは完全に引いたつもりでも、まだ、現場に立つと血が騒いでしまうんですよ」
「50で一歩引こうと思ったのは、人生の残り25年でもう一つ何かやれるかな、という思いもあるんです。私は現役をやめたのは25歳。それから大学の指導者、私塾の指導者をやり、ここの大学へ来ました。で、50歳になるまで一生懸命柔道に携わってきたわけです。自分ではこの25年間、何とか自分の絵を描き、新しい歴史も作れたんじゃないかと総括しています」
岡野氏のような実績抜群の超エリートなら、柔道の強い大学や企業の指導者になるのが一般的な例だ。
しかし岡野氏は、必ずしも一流の才能に恵まれているとは言えない流通経済大学柔道部の学生を教えていて「満足だ」という。「私の性格的なこともあるんでしょうが、強いところへいっていい素材を育てるといのはあまり好きじゃないんですな。そういうのは誰でもできるから。ここの選手は二流、三流かもしれない。でも、そういうのを鍛え上げれば一流を脅かす力も発揮する、ということの方が私は好きだ。私は、一流大学に行きそこで指導したいと思ったことはないです」
明快、単純、潔い。
実際、92年全日本選抜体重別65kg級優勝者の現監督・岩崎氏をはじめ、全日本学生体重別で86kg級3位になった東山昌治、同71kg級鈴木康弘など学生トップクラスも育てている。
「流通経済大学を選んだのは挑戦する私の心です。」
本来、力量のある指導者こそ、すそ野に下って教えるべきだろう。それはとりもなおさず底上げにつながり、大局的に見れば日本柔道界の発展につながる。名人・達人の柔道人生のひとつの選択肢といえるが、この道は険しいし、名人・達人ゆえに難しい面も多い。
岡野氏は66年に大学を卒業した。当時は大学の職員になるつもりはなかった。しかし、天理大の松本安市師範にこわれて天理大で助手として指導にあたった。69年にはフランスのスポーツ省の招きで現地で3カ月間指導。
「その頃、メキシコシティーの世界選手権がありまして、フランスでニュースを聞いていました。その年の全日本を取って、もう現役は引退していましたが、ニュースに一喜一憂し心が燃えるんです。それで、やっぱり俺は柔道が好きなんだな。よし、それじゃあとことん柔道にのめり込んでやろうか、ということになった。そこから生れたのが正気塾だった」
「師と門下生が起居を共にして人間的にも立派な人物を育てるという考えでした」
この私塾は約3年で閉鎖した。資金集め、運営、指導と一人何役も兼ねて頑張った末の撤退だったが、塾生には上口孝文、二宮和弘、西村昌樹、津沢寿志といった錚々たる柔道家がいる。これらの人は現在指導者、あるいは社会で指導的立場で柔道に接し、柔道で学んだ心で働いている。
「正気塾のやり方はのちに講道学舎に生かされていますね。私としてはテストケースとして世に示した功績はあったと思うんですよ」と岡野氏はいう。
流通経済大学の監督として、指導の喜びはあったが、一方で一流柔道家としてのプライドを傷つけられたこともあったそうだ。
「スカウトに行ってもうちの大学は伝統はないし、岡野に教わりたい、というよりバックの力をほしがる親子が増えています。意気に感じて、というのは少なくなりました。特待生の条件とか、強い大学へ行きたいといわれました。相手は最初から何らかの保障を求めるんです。時代の流れでしょうか」
そういった面での気苦労も"50にして引く"という自身の人生哲学を実践する要因になっているだろう。
将来は子どもたちに教える夢も
では、この柔道の名人・達人はこれからの自分の柔道人生をどうプランニングしているのだろう
岡野氏は学内の自動販売機から買ってきた缶コーヒーを勧めながら一つの夢を語った。
「今は大学生と乱取りなんかとてもできません。若い頃の無理が体のあちこちに出ています。股は開けないし、左の肘は曲がったまま。稽古つけて相手が飛んでくれるのでは自分自身、みじめですからねえ。だったら、やれるのは子供たちにじっくりと柔道を教えることでしょう。私自身の健康にも役立つし、子どもたちには柔道の本当の面白さを教えてやりたい」
もう、全日本などの強化に意見を言ったり指導したりという気持ちは全然ないのか、と尋ねると・・・・・。「ありません」「もう私らがとやかく言う時代ではないですね」。
「子どものレベルに応じて教えたいですね。今は高校、大学の選手はある程度形を身につけてしまい、それを変えるのは至難の業なんです。その面からもビギナー指導は大切だと最近は痛感しています」と岡野氏。
「いま一番の弊害は、小さい頃から勝ち負けにばっかりこだわる大人が多くなって、子どももそれにこだわる。柔道は楽しいものだということをもっと教えないとダメです。結果、結果と求められ、結局途中で疲れて燃え尽きてしまうケースも多い。ですから今こそ、小さな子どもの指導をしっかり見つめないと将来は暗いと思いますよ」
「キャンピングカーを買って、地方からの要請を受けて、柔道衣ひとつ持って子どもたちに教えに行く。そうやって全国行脚する―そういうのもいいなあ。もちろん、フリーな立場でね。原則ボランティアで・・・・・。今はインターネットもあるからそれでやりとりしてもいいしねえ。それなら子どもだけでもなく、ぶらっとその土地の道場へ立ち寄ったりして大人に指導してもいいと思う」
ナルホド!すごくいい。夢がある。現実のものになれば出張指導の要請は多分、相当多くなるかもしれない。
出張指導の手始めは来年の渡仏だ。
「いやー、昔のフランスの友人や柔道関係者が教えに来てくれというのでその予定です。夫婦で行くんですが、うまいワインでも飲んできますか」
今の日本の柔道界のシステムだと、岡野氏のようなフリーの立場で働ける名人・達人は皆無といってもいい。地方の関係者や子供たちにとっても、かつての大柔道家が気軽な立場で教えに来てくれたならたいへん嬉しいことだろう。このフリーで気軽、というところは重要だ。しかし、現実には組織から組織への派遣がほとんどで、教える方も教わる方も公式的という面を否定できない。
それを「やりたい」という岡野氏の次の25年プランはぜひ実現してほしい気がする。
「今は寒いと靴下をはいて道場に降りたり、柔道衣の下にトレパンをはいたり・・・・・。指導者もそれを容認している。やはりどこかに武道の心をもっていないと日本の柔道はダメになっていくんでしょうね。柔道の専門家としての指導者ならそういう点も自覚しないと。今年3月、東大の学生とフランスへ行ってきましたが、オリンピック金メダリストのドゥイエが面白いことを言っていました。『日本は勝ち負けにばっかりこだわる指導をしている。かつては日本人の持っていた武道の精神は今はフランスにこそある』。そんな趣旨の言葉だった。『今や本流は我々フランス柔道だ』ともいっていました。核心をついていると思いますね」
インタビューを終わった後、岡野氏は道場で関東学生優勝大会のビデオを見ながら実技指導を交え学生にアドバイスをしていた。
鋭い目。ふがいない無気力な試合をした選手には厳しい叱責もとんだ。
一歩引いたという岡野氏の心の底にあるマグマの塊に触れた思いだった。
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