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9,
哲とマリは徒歩組。桜婦長はトラックに乗っていた。哲の父の分隊も、白河へ向かって、麓の町についた頃かも知れない。空を見上げると、満月にやや満たない月が、南中しようとしていた。
哲たち、徒歩組の行程は、不気味なほど静かだった。一瞬、ピクニックに来たような錯覚を起こしそうだった。
だが、やはり、これは戦争なのだ。
彼方で轟音が上がった。哲は発と胸を疲れた気がして、音の出所を確かめようと思った。
〔嫌な予感がする〕
健は尾根を駈け上がった。
「哲さん?!」
マリも驚いて、哲の後を追った。
尾根を登りきったとき、哲もマリも、黒煙と炎を上げて燃え盛る一群のトラックを見た。
そして、その上空に漂う二機のリザド軍の円盤をみて、何が起こったのか判った。
「婦長さん」
マリがぽつりと言うと、哲はマリの手をぐいと引っ張り、尾根を降り始めた。
〔間違いない。トラック部隊がやられたんだ。桜さんも〕
哲の目に光るものがあった。マリも走りながら、指先で涙を拭った。
だが、悲劇はそれで終わりではなかった。戻りかけた哲とマリは、前方の悲鳴の塊を耳にして立ち止まった。続いて銃声が林を満たし、山にこだました。二人は凍りついたように動けなくなった。
さらに、銃声と悲鳴が交錯した。
〔まさか…〕
哲が確かめようとして一歩踏み出したとき、マリが哲の腕をつかんだ。
「なに、するんだ?」
哲はマリを振り返った。マリは今にも泣きだしそうな顔で、首を横に振った。
その時、哲の側の木が、ジュッと言う音を立てて黒く焦げ付いた。反射的に振り返った哲は、下からリザド兵が上がってくるのが見えた。既に、その兵士も、哲とマリの存在に気づいて仲間を呼び寄せていた。
「マリ、逃げろ!」
哲は、突き飛ばすようにマリをせきたてた。
マリも、哲の言うまま、走りだした。
後は二人とも無我夢中だった。ただ、レーザーガンに狙われていることだけは判った。
ジッという音とともに、すぐ側の木が煙を立て始めるからである。
どこをどう走ったのか、哲には記憶がなかった。心臓が喉から飛び出すかと思うほど走り続けた。
それでも、ついに、哲とマリは崖の縁に追い詰められた。
哲とマリの周囲は下まで三十メートルはあるかと思われる絶壁と、六人のリザド兵に取り囲まれていた。その兵士達の持つレーザーガンの銃口は、冷たく哲とマリを見つめていた。
〔ここで、死ぬのか…〕
哲は覚悟を決めた。
その時、一人のリザド兵が一歩前に出て、日本語をしゃべった。
「貴様達のうちで、三日前、我らの情報部員を殺したのは、どっちだ?」
〔仇討か〕と、哲は思った。
哲はマリを振り返って、素早く耳打ちした。
「黙ってろ。何も言うな」
マリはその声に一瞬、体をすくめた。マリは言葉を出したかったが、出せなかった。
哲は一歩踏み出して、毅然として言った。
「俺だ! 俺がやった。俺はどうなってもいい。だが、彼女だけは、見逃してやってくれ」
リザド兵は鼻で笑うと、銃の引金に指を掛けながら言った。
「いいだろう。だが、すぐに死ねると思ったら大間違いだ。ゆっくり、たっぷり、苦痛を味わってからだ!」
哲は唇をギュッと固く結んだ。
〔哲さん、私の身代りに…?〕
マリは、目の前の出来事を悪夢を見ているかのように感じながら、リザド兵がゆっくりと哲に狙いをつけていくのを、見つめていた。
リザド兵が不意に引金を引き絞った。
マリは大きく目を見開いた。
一条の光が水平に流れた。同時に、哲は強烈なパンチを食らったように仰向けに倒れていった。マリは息を飲んだ。
一瞬の静寂の支配の後、哲はむっくりと起き上がった。マリはほっとため息をついた。
その時、兵士は悪魔的な笑みを浮かべていた。
哲は左頬に手を当てた。ドロリとした感覚が、その手の中に広がった。レーザー光線が哲の頬をかすめ、切り裂いていた。
哲は血のついた手を、幾分持て余し気味に見つめていたが、すぐにそれどころではないことを知った。
リザド兵は再び銃を構えなおし、哲めがけ撃った。またもや、痛烈な衝撃を受けたように、哲は倒れた。しかも、哲は、右肩に焼け付くような痛みを味わっていた。
「うわっ!」
堪えきれる痛みではなかった。どうしても哲の顔はゆがんでしまった。
耐えかねたマリは、哲のところに駆け寄って、哲をかばった。
「やめて! もう、やめてください!」
マリの目には涙が浮かんでいた。
マリは震える声で訴えた。
「殺したのは私です。殺すなら、私を殺して!」
哲は上半身を起こし、顔をしかめながらマリに言った。
「馬鹿、何を言うんだ。女の君がそんなウソを言って通用すると思っているのか?」
「ウソじゃないわ! 証拠だって、あるのよ!」
兵士は、証拠があると言ったマリに多少興味を覚えたようだった。
哲は焦った。
「やめろ、マリ! やったのは僕なんだ!」
そんな哲を無視して、マリは一歩歩みだして言った。
「いま、証拠をお見せします。殺したのは私です。ですから、彼を助けてください」
兵士は半信半疑ながら、うなずいた。他のリザド兵達も銃を持ち直して、改めてマリに注目した。
哲はマリの落着き払った態度に戦慄を覚えた。
〔やめろ、マリ! やめるんだ!〕
声には出なかったが、哲は行動に移した。
思わず、マリの手を引っ張って、自分の方に抱き寄せたのである。二人顔は数センチしか離れていなかった。
間近に顔を近づけられて、マリは息を飲むほどびっくりした。だが、哲の次の言葉の方が、一層マリを驚かせた。
切迫した表情で、哲はささやくように言った。
「やめるんだ」
哲は肩の激痛から、ときどき顔をしかめた。
「そんなことをしたら、きみは、地球にも、リザドにも、…。君の行く場所はなくなるんだぞ!」
マリは茫然として哲の顔を見つめた。
〔知っていたのね? 哲さん〕
二人の間で時間が止まったかのようだった。
〔知っていて、それでも、私のことをかばってくれていたのね?〕
マリの頬を涙が流れて行った。
マリはこれ以上ないという晴やかな笑顔を哲に見せた。それが哲にはかえって不安だった。月明りに照らされて涙が光って見えた。
マリは、哲の頬に両手を添えた。さらに、素早く顔を近づけると、哲の唇に自分の唇を軽く乗せた。
哲は体がしびれる様な感覚を覚えた。
マリは顔を離すと、哲の耳にささやきかけた。それは、哲のしびれる様な感覚を持続させた。
「彼女の、約真野まりの伝言を伝えるわ。『わたしの分も生きて欲しい』って、彼女の最後の言葉よ」
マリはゆっくりと立ちあがった。そして、リザド兵の方を振り向くと、数歩前へ歩み出た。
「おい、女」
銃口はマリに向けられた。マリは銃口をちらっと見てから、リザド兵の顔を見つめた。
「その証拠というのを見せてもらおうじゃないか」
マリは黙ってうなずいた。
「やめろ! マリ!!」
哲は声をふり絞った。
哲は懸命に手を伸ばした。が、届かなかった。哲は自分の感覚を疑った。それほど離れていないはずのマリの体が、彼方にあるように感じられたからだ。
一瞬、振り向いたマリが少し微笑んでいるように見えた。
そのとき、マリの白衣のスカートの中から、黒い一本のロープのようなものが伸びてきた。それは、マリの身長ぐらいまで伸びると、生き物のようにマリの背後で揺らめいていた。
〔やはり、そうだったのか。マリは、リザドだったんだ〕
哲は薄々気づいていた。特に、マリがリザド兵を射殺したあの夜から。できれば、このまま確かめずにいたかった。そして、マリを守ってやりたかったのだ。
だが、マリはその正体をついに明かしてしまった。哲は重い無力感に襲われた。
リザド兵達も、動揺を隠しきれなかった。
「お、おまえ、‥‥」
リザド兵は茫然とマリを見つめていたが、やがて、目の色が変わった。
「貴様!」
マリは平然と言い放った。
「元、従軍医、認識番号110036、ナスカータ=ニア」
リザド兵は怒りを露にして、銃口をマリの胸に押し付けた。それを持つ手が小刻みに震えていた。
「貴様が、やったのか?! なぜ、裏切った?」
リザド兵の怒りは今にも爆発せんばかりだった。
マリは唇を噛んで黙っていた。目の前のリザド兵があの時射殺したリザド兵と重なって見えた。マリの脳裏にあの夕闇の中の出来事がよみがえった。
〔あの時、‥‥〕
○
哲はリザド兵に殴り倒され、気を失っていた。その哲に向かってリザド兵が銃を構えたとき、マリは後ろからその兵士にリザドの言葉で声をかけた。
《待ってよ。その男はわたしに撃たせて》
兵士は驚いてマリを振り返った。見れば、マリの背後には特徴のある細い尻尾がゆらゆらと動いていた。
《おまえ、仲間だったのか》
《ええ、いままで助け出されるのを待って、地球人のふりをしていたの》
マリはゆっくりとその兵士に歩み寄った。
《その男はね、わたしがおとなしいのをいいことに、あれこれ命令するのよ。地球人のくせに》
《なるほど。そりゃ、大変だったな》
兵士は思わず顔をほころばせた。
《でも、あなたに会えてよかったわ。助けがくるんでしょ?》
《ああ、もうすぐに、な》
兵士はすっかり安心してマリに銃を渡した。マリは偽りの笑顔をそのリザド兵に向け、銃を受け取った。
《それじゃ、こんな男にもう用はないわ》
マリは受け取った銃をもって、哲に向けて構えた。
《どうぞ。御存分に》
《ええ》と、マリが答えた瞬間、マリは振り向きざま、その兵士に向かって引金を引いた。
銃声が山の中でこだました。ほとんど至近距離から撃たれ、兵士は胸のまん中から血を流して倒れた。
○
「どうした? 答えられないか?!」
マリの態度は毅然としていた。黙っていたのはほんのわずかな時間だった。
「地球人を、愛しているから。愛するものを守るためなら、誰でもする、当然の行為です」
マリはリザド兵を撃ったことを後悔していなかった。あの時はなによりも哲を失いたくないと思っていたからだ。そして、今もマリの思いは変わっていない。
リザド兵は、それを聞いて、ひきつった笑い顔を作った。そして、他の兵士を見渡すと、その笑顔は消えていた。
ついに、その兵士の怒りが爆発した。
「ふざけるな!!」
リザド兵は、銃身で、思いきりマリの腹部を突いた。
マリが低くうめいて身を屈めたところに、リザド兵はさらに銃把の部分で、マリの体を凪ぎ払った。銃把はマリの左腕に当たった。
「ぎゃっ!」
マリの体は哲の方へ転がった。
「マリ!」
哲は思わず、マリを抱えるようにしてかばった。
「じゃまだ。どけ!」
リザド兵は銃把で哲とマリの体をこじるように引き離そうとした。哲は、マリの体に覆いかぶさるようにして、抵抗した。
「ふん、それもいいだろう」
リザド兵は吐き捨てるように言うと、二、三歩後ろへ下がった。
「せめてもの情けだ。二人とも、死後の世界へ送ってやる!」
そして、ゆっくりと、銃口は二人に向けられた。
〔これまでか…〕
哲は観念して目を閉じた。マリを抱く手に力がこもった。
「死ね!」
リザド兵は引金に指を掛け、絞るように力を込めていった。
ダーン!
銃声が一発、山にこだました。
そして、ゆっくりと、リザド兵の体が崩れていった。
「武村!」
哲は聞き覚えのある声に顔を向けた。木立の向こうから、草薙健と香我美晶が駈けてきた。
健と晶は、リザドの陽動作戦に気づき、いち早く反転していた。大型自動兵器の爆発に危うく巻きこまれそうにはなったが、二人は無事に脱出し、哲の元へと急行した。そして、二人は、ぎりぎりのところで哲の危機に間に合ったのだ。
「草薙!」
他の兵士は反射的に、一斉に、健と晶に向けて銃撃しようとしていた。だが、先手をとった健の方が素早く、拳銃を撃ち尽くしていた。たちまち、バタバタッとリザド兵達が倒れていった。
哲も目の前に倒れているリザド兵から銃を奪い、他のリザド兵に向けて引金を引いた。
哲の放った銃弾が、リザド兵の胸を貫通した。リザド兵のうめき声が、哲の耳に残った。
リザド兵は、血に染まった胸をかきむしり、哲に恨みのこもった視線を投げかけた。そのまま、そのリザド兵は地面に突伏した。
〔死んだか〕
哲がほっと気を抜いた瞬間だった。別の死んだと思われていた兵士が発砲した。
哲はそれと知らずに、銃声と同時に自分の右腹に感じる衝撃を不思議に思いながら、その衝撃に押され、体を地面に投げ出した。右腹の焼け付くような痛みは、すぐ後から追いかけてきた。
健は、哲の姿を見て驚いた。晶が反射的に、その兵士を撃ち殺していた。それが生きている最後の兵士だった。他の兵士はすでに息絶えていた。
誰よりも早く、哲の側に駆け寄ったのはマリだった。
「哲さん!」
マリは哲を抱き起こした。
「大丈夫だ。心配するな」
哲は自分の意識が意外にはっきりしているのにほっとした。
〔出血さえ止められれば、なんとかなるな〕
と、冷静に考えたりもした。
それでも、右腹に受けた痛みは消えたわけではなかった。どうにかすると、哲の意識は遠のきかけた。
「武村!」
健が駆け寄ってくるのが哲の目に映った。
「草薙、おまえ、よく、ここが判ったな。なかなかタイミングがいいぞ」
哲は痛みを堪えながら笑顔を作って言った。
「脱出するルートの連絡は受けていたんでね。後は上空からそれをたどって、おまえを探してたのさ。間に合ってよかっ、…」
そう言いながら近づいて来る健と晶の足が突然止まった。
哲は二人の雰囲気から何か失敗したように感じた。それが、健の一言で判った。
「リザド?」
その声が聞こえて、マリははっとなって健の方を振り返った。見れば、晶も茫然としていた。
マリ自身、それが自然だったのと、哲のことで頭が一杯だったため、自分の尻尾をしまうのを忘れていたのだ。それを、健と晶に見られてしまった。
「君は、リザドだったのか…」
健はまだ半信半疑だったが、晶の方が現実への対応が早かった。
晶は持て余し気味だった右手の拳銃を再び構えた。それに釣られて、健も銃を構えた。
二人の銃口に狙われて、マリは思わず身をすくめた。マリの表情は恐怖で引きつっていた。
「やめろ!」
哲がマリの前を塞いだ。マリはそれを理解するのに数瞬を要した。マリはその哲の背中にすがりつきたくなった。
哲の目は、傷で生気の抜けたようなものではなく、怒りと挑戦で燃え、輝いていた。しかも、哲の手に握られた銃は、健に向けられていた。
「マリに手を出すな! 手を出す奴は、誰であろうと撃つ!」
一瞬、哲の右腹を激痛が走り、顔がゆがんだ。自然に哲の銃を持つ手も下がった。チャンスと見たのか、晶が勢いよく飛び出した。哲の手にあった銃を晶が蹴り飛ばしたとき、逆に、哲が晶に体当りをした。
晶は思わぬ逆襲に動転し、哲と一緒に倒れ込んだ。重傷を負っているものとみた晶に油断があった。
哲は、今度は晶の銃を奪い取った。
再び、哲は銃を構えるが、激痛を堪えているのは明白だった。かなり広範囲に、哲の服に血がにじみでているのだ。
「草薙、頼む」
青い顔をしていても、目の輝きを失わず、哲は訴えた。
「マリを見逃してやってくれ。別に、スパイをしているわけでもないし、むしろ、…。うっ!」
哲は腹を抱えてうずくまった。
飛び出しかけた晶を健が制した。晶は抗議するような視線を健に送ったが、健はそれを無視した。
「哲さん!」
哲の体を支えようとするマリの手を力なく振り払い、片膝、片足で自分の体を支えながら、哲は続けた。
「彼女は、俺の病院の中でも、優秀な看護婦だ。敵が、己の敵を看病すると思うか。死にかけた者を励ますと思うか。彼女は、敵じゃない。リザドの全てが敵であるわけじゃない。そう、言ったのは、草薙、おまえだ。頼む。見逃してくれ」
そこまでで、哲の意識は途切れ、哲の頭ががっくりと傾いた。
「哲さん! しっかりして!」
マリは、崩れ落ちそうな哲の体を抱き抱えるように、あるいはすがりつくようにして、哲の体を揺すった。しかし、返事はなかった。
マリは、訴えるような瞳で健と晶を見上げた。彼女の目からは、涙があふれていた。
「お願いです。わたしはどうなっても構いません。哲さんを、助けてください!」
健は、哲に歩み寄ると、哲の手から銃を取り上げた。健は微笑むと、優しい口調で言った。
「俺達の持ってる銃は特製でね、持ち主の指紋が登録されてるんだ。だから、武村には撃てなかったんだ」
健は、何かを決意したように目を伏せると、通信機を取り出し、アンテナを伸ばして、作戦指令部を呼び出した。
「こちら、A1、草薙。現在、S地区のリザド兵を一掃しました。仲間を二人救出しましたが、一人は重傷です。至急、救護班を回してください」
健は、「了解」の返事を聞くと、通信機をしまった。
「おい、健、いいのか?」
晶は健の肩に手をかけ、振り向かせた。
晶の困惑した表情に、健は笑って答えた。
「俺よりも勇気があるとは思わないか? 武村に教えられたような気がする」
晶も、フッと表情を和らげた。
「おい、あんた」
晶は、銃を健から受け取ると腰のホルスターにしまいながら言った。
マリは、反射的に身をすくめた。
「マリさんだったな? 尻尾、しまっとけよ。人が来ないうちにな」
晶はクルリと背を向けると歩き出した。
その言葉に気が緩んだのか、マリは大粒の涙をこぼし始めた。
「ありがとうございます」
マリはかすれそうな声で言った。
彼方から、ヘリコプターの音が近づいてきた。
10,
哲が気づいたのはベッドの上だった。周囲は暗く、天井には裸電球が一個だけ吊り下げられていた。その光に誘われてか、蛾が一匹、その周りを舞っていた。裸電球の優しい光が、天井を縦横に伸びる錆びた鉄パイプを照らした。
外で風の鳴る音が聞こえると、バサバサッと音を立てて天井が震えた。
哲は、やっと自分が生きていることを自覚した。それと同時に、さっきの出来事も思いだした。
〔マリは?〕
哲は勢いよく上半身を起こした。途端に、右腹を痛みが走った。しかし、先ほどではない。姿勢を一定にし、少し時間が立てば、痛みも治まってくる。
テントはそれほど大きくなく、哲の寝るベッド一つでいっぱいだった。側に木製の丸椅子がポツンと置いてあった。
〔ここは、どこだ? 白河へついたのか? それとも、元の病院か?〕
不意に懐かしい、といっても少し前まで一緒だったが、顔が入ってきた。
「桜さん!」
桜婦長だった。
「おや、もう、お目覚めですか? 若先生」
桜の軽い調子の言葉使いも、哲には懐かしいと感じられた。
「無事だったんですね」
哲はうれしさで胸がつまりそうになった。
その桜婦長の後から、哲の父がニコニコしながら入ってきた。
「父さんも!」
「良かったな、哲」
哲の父は優しく微笑みながら、哲の側に歩み寄ってきた。
「気分はどうだ?」
と、今度は健と晶が入ってきた。
みんな無事だったわけである。哲は不覚にも、目頭が熱くなるのを感じて押さえた。
「よかった」
やっとこらえて、指先で涙を拭くと、哲は誰にともなく聞いた。
「マリは?」
「ここにいます」
マリの声がする方を哲は見やった。
看護婦姿のマリが入口にたたずんでいた。
「仲のいいのは結構だが、手術をしてまだそれほど経っていない。ほどほどにな」
哲の父は、そういうと、みんなに目配せをした。
哲とマリを残してみんなが出て行こうとした。
「草薙!」
哲に不意に呼び止められ、健は振り返った。
「なんだ?」
哲は健に何と感謝すればいいのか判らなかった。その哲の口から出た言葉はこうだった。
「また、会いに来てくれ。俺もいつか、おまえに会いに行くよ」
「ああ、いつでも、会いに来いよ」
「草薙、香我美」
哲はうまく言葉の出てこない自分がもどかしかった。ただ、哲の胸には感謝の気持ちで一杯だった。
「ありがとう」
「よせよ。俺とおまえの仲じゃないか」
健はそう言ったが、哲は右手を差し出してきた。それを未練がましいとは、健は思わなかった。哲と健、哲と晶は、しっかりと手を握り合った。
「頑張れよ」と、健。
「おまえもな」と、哲。
健と晶はテントを出た。
「さて、基地に帰るか。スカウトにきたのに、対象となる人物が二ヶ月の重傷では仕方がないよな?」
晶は健に視線を送った。
「そうだな。武村を仲間に加えるのは、あいつが全快したときにしよう。でも、もう少しここにいたいな」
健は、哲のいるテントから洩れる明りをじっと見つめていた。
健が見ているのはテントの明りではなかった。健の目に映るのは、哲とマリの、ほのぼのとした暖かい会話の光景だった。その光景は何でもないような、平凡なものに思えたが、それが世界中に広がるまで気の遠くなるような壁と時間を乗り越えなければならない、と健は思った。
「遠いな」
健は、ポツリと呟いた。
だが、哲とマリを見ていると、自分の身にも近づいているような気がした。
11,
マリはベッドの傍らの椅子に腰を下ろした。
哲は、そっと手を伸ばしてマリの頬に触れた。マリもその手に自分の手を重ねた。
マリの目から一筋の涙がこぼれた。
「マリ、もう泣かなくていいんだ」
マリは、微かに首を振った。
「もしも、哲さんが、あのまま、死んでしまったら、きっと、わたしのせいだわ」
「でも、俺は生きてる」
「ええ、哲さんのお父さんが手術なさったの」
「え、あの親父が?」
哲はおどけてみせた。
「親父の奴、メスを腹の中に忘れてないだろうな?」
「哲さん、それはひどいわ」
マリは、涙を拭って、笑った。
つられて哲も笑顔を作った。
「その笑顔がみたかったんだ。君はいつもふさぎ込んでたから」
「わたしのこと、そんなに、気にかけてくれての?」
「初めて会ったときからね」
マリは、笑顔を消して、真顔になった。
「いつから、わたしがリザドだって気づいたの」
哲は視線を裸電球に移して、言った。
「最初は、なんとなくさ。君が約真野マリじゃないことは判ってたからね」
「でも、写真を見たこともないんでしょ?」
「だけど、本人に会ったことはあるんだ」
「え、彼女、そんなこと言ってなかったわ」
マリはとっさに口を押さえた。それは、まさに、「しまった」という表情だった。
だが、哲はそんなことを気にせず続けた。
「もちろん、彼女は気づかなかったさ。偶然彼女が旅行で来てて、その時に彼女の名前と住所が書いてある宿帳を見てね、それで判ったのさ。俺は彼女が泊まったホテルでアルバイトをしていたのさ」
マリは、さっきの失言が気にかかっていた。
「マリ」
マリは、恐る恐る哲の顔を見た。もし、本当の「約真野マリ」のことを聞かれたら、と思うと、マリの心は次第に緊張していった。
「そんな顔は、もうしなくていいんだ」
哲は笑顔をマリに向けた。
「それに、こんなことを言うつもりじゃなかった」
哲は両手で、マリの頬を包んだ。
「マリに先を越されたのが、ちょっと残念なんだけど、…」
「え、なに?」
「マリ、このままじゃ、手が疲れるんだ。もう少し、側に来てくれないか?」
「え、ええ」
マリは椅子を少し引いて、ベッドに近づけた。一瞬、マリの上半身が屈んだ格好になった。その時、哲はマリの両肩をがっちりとつかんだ。
「えっ?」
マリは驚いて哲を見つめた。
哲は、マリの顔に自分の顔を近づけていった。
「マリ、好きだよ」
哲の顔はさらに接近し、哲は目を閉じていた。
〔どうしよう?〕
マリは心の中で迷った。
「やっぱり。イヤ!」
マリは目をつむって、哲を振り解こうとした。
それが、哲を突き飛ばすような形になった。
「いてっ!」
哲の痛みは、傷跡ではなく、ベッドの角に後頭部をぶつけたからだった。
「あ、ごめんなさい」
哲は体を横へひねって、頭の後ろをさすった。
「今のは、痛かったぞ」
「本当に、ゴメンなさい」
マリは心配そうに、哲の頭の後ろへ手を回した。
「大丈夫?」
そのマリの体を、哲はぎゅっと抱きしめた。
「キャッ!」
マリは体を縮めかけた。
「マリ!」
哲はマリの耳元で、大声を上げた。
「はいっ!」
マリは、ビクッとして、うわずった声で返事をした。
哲の精一杯の優しい声がマリの耳元から聞こえた。
「一緒に暮らそう。もう、君は一人じゃない。何にもおびえなくていい。僕が、必ず、守ってあげる」
「哲さん」
哲のマリを抱く手に力が込められていった。マリも、哲の背中に手を回していた。
〔女の子の体って、こんなに柔らかかったんだなあ〕
哲は妙な感慨にとらわれていた。
〔哲さん、ありがとう〕
マリは、哲の体の温もりを心に刻みながら、ある決意を固めた。
*
「『武村哲様へ』
約真野マリ
哲さん、ありがとう。
本当にうれしかった。
私も、哲さんと一緒に暮らしたい。
でも、戦争が終わらない限り、私が側にいることで、あなたは傷つくでしょう。
私にはそれが耐えられません。
今回のような事が続けば、いつか、哲さんの命を、私が奪ってしまいそうです。
ですから、今はここを離れます。
どうか、探さないでください。
戦争が終わったら、きっと、会いに行きます。
その時まで、お元気でいてください。
愛しています」
哲は、マリの手紙を読み終えると、丁寧にたたんで、ジャンパーのポケットにしまった。
「まったく」
哲は何度目か忘れたが、読み終わる度にため息をついた。そして、空を見上げた。晴れた青い空に雲はひとつも浮かんでいなかった。
哲はジーンズのポケットからチューイングガムを取り出すと、口に放り込んだ。そして、腕時計にちらっと目をやった。バスがくるまで、あと五分だった。戦争になっても、バスは一部で動いていた。
マリが姿を消したのは、あれからすぐだった。哲は傷が完治するのを待って、マリを追いかけることにした。
バスのクラクションに哲は頭をあげた。まもなく、バスがやってくる。哲は素早くジョギングシューズの紐を結びなおした。
その側で、赤く染まった落葉が乾いた音をたてた。季節は、いつの間にか、夏から、秋の終わりに変わっていた。
バスが目の前で止まった。哲はデイパックを肩にかけると、バスに乗り込んだ。
哲は妙にうきうきしている自分がおかしくて、口元に笑みを浮かべた。
バスの中は二、三人しかいなかった。
哲は空いている座席に腰掛けた。
するとバスは、すべるように走り出していった。
(終わり)