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詰将棋パラダイスの歴史は昭和21年から始まり、50年以上の長い時を経て現在にいたっています。
その歴史は大きく3期にわけることができます。

1……詰将棋パラダイスの前身、紳棋会報時代(昭和21年9月〜昭和24年10月)
2……詰将棋パラダイス(旧パラ)時代(昭和25年4月〜昭和28年6月)
3……詰将棋パラダイス(新パラ)時代(昭和29年8月〜現在)

さらにこの第3期は3人の編集長によって、3つの区分ができます。

3-1……鶴田諸兄(昭和29年8月〜昭和61年3月)
3-2……柳原裕司(昭和61年4月〜平成8年9月)
3-3……水上 仁(平成6年4月〜現在)

第1期/紳棋会報

現在発行されている詰将棋パラダイスのまさに原点ともいえるのがこの紳棋会報です。
戦後まもなく愛知県警に復職した鶴田諸兄が、昭和21年3月、「紳棋会」という将棋の同好会を結成しました。
その会報として出されたのが「紳棋会報」なのです。
第1号はワラ半紙一枚にガリ版で両面印刷したものでしたが、この会報は休むことなく毎月発行され、ページ数も徐々に増えていきました。
詰将棋コンクールを催したり、また「大道棋究明室」と題された大道棋研究が評判となったようです。
紳棋会報の終焉は昭和24年10月に発行された、通巻第49号。
この中で鶴田は、
「昭和二十一年九月、ささやかな会報がココの声をあげてから早くも満三年経った。ささやかで取るに足らぬものであったが、会員の熱烈なる支持で発行し得た。(略)本号を以てこの会報を発展的に解消せんとする。それは決して行詰まりや不振のためでなく、活版刷りの新雑誌発行のためのものであり、会員は大いに意を強くして頂きたい。」
という言葉を残しています。
また、新雑誌の名前もすでに会員からの募集で決定し、発表されてありました。
「詰将棋パラダイス」と。

第2期/旧パラ

昭和25年4月、紳棋会報終刊から半年後、「詰将棋パラダイス」第1号が発行されました。
A5判、本文42ページ、表紙は三色刷りのオフセット印刷での出発です。
現在、詰将棋パラダイスの根幹ともいえる企画の「詰将棋学校」はこの創刊号から始まっていました。
また、昭和26年には「詰将棋看寿賞」の制定もなされています。
看寿賞の記念すべき第1回目の受賞作は北村研一の「槍襖」であり、最近まで「看寿賞候補作品投票用紙」の「記入例」に毎年記してありますから、記憶にある読者もおられるかと思います。
しかし好調かと思われた詰将棋パラダイスの発行も、編集人である鶴田の本職が多忙となり、昭和26年8月に終幕を告げることになります。
「果してパラはこのまま永遠に終りを告げたであろうか?否である。それは今日の詰パラを見れば一目瞭然!」(詰パラ150号、鶴田)

 

第3期/新パラ:鶴田諸兄

昭和29年3月、鶴田は警察を退官し、詰将棋誌に再び取り組みはじめます。
旧パラ時代の読者名簿をたよりに同志を募り、ついに昭和29年8月、「新パラ」を発行します。
B6判、本文32ページの小冊子ではありましたが、鶴田は、
「これこそは、私の全心全霊(原文ママ)を注いで作ったものである。」
と言いきっています。
旧パラ時代の読者も戻ってきて活況を呈したのもつかの間、昭和33年5月、通巻第45号をもって突如として詰パラは休刊してしまいます。
「かえりみて、この時が「詰パラ」にとって最大のピンチであった。病気、貧困、苦悩、あらゆる災厄が一時に降りかかり、悪戦苦闘も救う神なく、刀折れ、矢は尽きた。」(詰パラ150号、鶴田)
しかし、ここでもまた「不死鳥の如くパラ蘇生!」するのです。
昭和34年8月、1年3ヶ月のブランクを経て通巻第46号は発行されました。
「休みで床の中でゆっくりしていると「木村さん、郵便です」と部屋に入れられた大型封筒。パラだナ! と思わず床から飛び起き、封を切る手ももどかしく、まず表紙を見てハッとした。やはり自分の書いた字はすぐ分る。パラの題字! この気持分るでしょう。内容は昔にかわらぬなつかしい記事、涙が出るほどうれしく、なつかしく拝見しました。取急ぎ感激の一報まで。」(詰パラ47号、木村耕三)
「この時から、どんな災難がふりかかっても詰パラはきっと不死鳥のように蘇るという、一種信仰にも似た伝説が読者の中に生まれた。」(「盤上のパラダイス」三一書房刊、若島 正)
この後、昭和39年に秋葉原ラジオ会館社長七条兼三の援助がはじまり、詰パラは安定した時期を送ることになります。
しかし、鶴田自身に病魔が襲いかかってきます。

 

柳原裕司

昭和50年頃に鶴田は体調を崩しはじめ、詰パラの発行もページ数減少、休刊が目立つようになりました。
そしてついに昭和60年3月、通巻349号で、
「詰パラも後継者を求めます。」
という記事が掲載されました。
懸命の人材探しが続いた後、清水一男が、当時名古屋を中心に詰将棋活動を行っていた柳原裕司の名前をあげ、鶴田も賛同し、柳原に連絡を取ります。
「「引き継いでくれ」と、主幹(註、鶴田)から電話があったのは、昭和60年3月3日の夜のことです。(略)翌朝すぐ編集部へ顔を出し「引き受けます」と、きっぱり答えました。」(詰パラ400号、柳原)
昭和61年3月に正式に編集人を交代し、鶴田は現役を引退することになりました。
詰パラの生みの親、鶴田諸兄は昭和62年11月15日にこの世を去ってしまいます。
一人で編集をこなしはじめた柳原は無事に400号記念号を完成させ、順風満帆といった様相でしたが、3年後の平成4年10月、通巻440号で突如、
「詰パラ11月号休刊します」
の文字が編集日誌に掲載されました。休刊を挟んだ、翌12月号の編集日誌では、
「大阪での生活は予想以上に経費がかかり、(略)やむを得ず92年(註、平成4年)2月から会社勤めを始めたわけですが、ストレスがどんどん溜まるばかり。精神的にも不安定な日々が続き、本業の詰パラに支障が出るようになりました。(略)とにかく1ヶ月休ませてほしい――」(詰パラ441号、柳原)
そしてついに、448号で辞意を表明。
しかし、周囲の声に励まされて詰パラの編集を続けていくことになります。

 

水上 仁

平成6年1月15日、毎年恒例となっている創棋会(註、関西を中心とした詰将棋グループ)新年会の場で、水上仁が詰パラの経営に携わり、柳原との二人体制で詰パラを発行するという発表がありました。
「この時、私は詰パラの将来に明るい光が射したように思えた。」(詰パラ456号、清水一男)
水上は、ともすればマニアックな方向に走りがちであった詰パラに、初心者を対象とした初級コースの設立を提案するなど、読者層の拡大に努めます。
平成8年9月、二人体制で発行していた詰パラから、柳原が引退することになりました。
「ふり返ってみると、「理想」と「現実」のギャップに苦しみながらも、何とか今日まで続けてきたのは、読者の方々からの励ましがあったからこそ、と言えます。」(詰パラ486号、柳原)
翌号からは新たな編集補助スタッフとして、柴田昭彦、須藤大輔の二人が加わりました。
平成9年11月には500号、平成18年3月には600号、平成26年7月には700号を発行し、現在にいたっています。

 

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