私が東京の実家を離れ房総のほぼ中心地にある市原市鶴舞という街の
独身寮(官舎)・右写真・に住み始めたのが昭和44年春のこと。
当時この住まいの直ぐ奥に、中の家屋が見えないほど樹木が茂った所に
画家が住んでいると言うことは聞いていたが、どんな画家であるかはごく
最近まで全く知らないでいた。
それが松田正平という名前の洋画家であるのを知ったのは、知人のホーム
ページ(袖保のHP)によってである。
松田氏は昭和38年から平成7年まで鶴舞に在住し、晩年は故郷山口県
宇部市にアトリエを移していた。
そして松田正平画伯を更に詳細に知ったのは、
平成16年6月15日に彼の故郷である山口県
の宇部市で亡くなったという死亡記事を見、また
産経抄にもそのことが掲載されたことからであった。
           産経抄  2004.6. 

  山口県宇部市在住の洋画家・松田正平氏が91歳で亡くなられた。
今年の2月、絵手紙作家・小池邦夫氏から新刊の『松田正平画文集/風の吹くまま』(求龍堂)を送っていただくまで、この大画家の存在を知らなかった。誠に恥ずかしいことである。
  画文集を開くと肖像写真があった。いや、肖像というよりアトリエの風景といった方がいい。そこには絵の具、パレット、画用紙、スケッチブック、灰皿、ぼろ切れ、古新聞、壺・・・・などありとあらゆる品物が散乱していた。まるで廃品回収の仕切り場である。
  はるか奥に本棚があり、前の革いすに丸メガネの老人が腰をかけ、横を向いてたばこを吸っている。その画室の主がことし91歳の松田さんであった。画集にはたちまちひきつけられた。松田さんの故郷「周防灘」を描いた天真爛漫の明るい風景にである。
  たとえば「内海夕日」は、黄色く輝く夕日は子供の絵のような7本の光彩があり、海は赤く燃えて、夕映えの浜を歩く犬がこれも赤く染まっているのだった。松田さんは上野の美術学校(いまの東京芸大)を出て渡仏、日本芸術大賞はじめ数々の受賞歴がある。
  だがほとんど宇部にこもって世間に出ようとしなかった。松田さんが好んで色紙に書く文字に「犬馬難魑魅易」というのがあるという。絵のテーマはつねに日常のなかにある。バケモノを描くのはやさしいが、犬や馬は難しいということだろう。
  実は松田さんのことを雑誌『正論』の4月号に書いたところ、それをある人がご本人に見せた。すると「こんな難しい雑誌に、よくこんなことを書いたなあ」という感想をもらされたと聞いた。ぜひ一度お目にかかりたいものだと思いつつ、念願を果たせなかった。
 当時この産経抄を執筆されていた産経新聞・論説委員 
石井英夫氏は松田正平画伯が30数年の間、故郷を離れ
鶴舞にアトリエを構えていたことはご存知なかったようだ。
そして今年平成18年3月12日・NHK教育テレビ・新日曜美術館
(平成17年9月25日の再放送)の 松田正平特集によって更に
松田氏の詳細を知ることとなった。
松田正平は、マスコミで脚光を浴びるタイプの画家ではなかったが
一部の目利きと言われる人からは熱烈なエールを送られる画家であった。

当日ゲストの片岡鶴太郎氏は松田正平氏の画集からその魅力に惹かれ、何度か山口のアトリエを訪ねたという。
そして松田正平と会った印象を次のように語っている。

 「松田先生は、この写真の通り、ひょうひょうとした感じで、アトリエにも少し汚いけどと言いながら、
快く入れてくれたんです。
そこは、かなりの絵もスケッチも色々な本も雑然としているんですね、けれども、空気はとても綺麗なんです、
何かキラキラしているんです。」
パリ留学時代 コローの絵の模写を描き続け、
油絵の技法を学んだと言います。
しかし5年間留学の予定が、太平洋戦争のため、
2年で帰国せざるを得なかった。
高校教師時代の作品。
身近なもの有り触れたものの本当の美しさを描く
その想いを胸にキャンバスに向かい続けた画家がいました。
画家の名は松田正平。

犬馬ハ難ク鬼魅ハ易シ
生前人に書を求められると松田が好んで書いた言葉です。
見たことのない鬼より見慣れた犬を描く難しさを追求し続けた
松田正平91年の生涯でした。
昭和21年これまで何度も見ている筈の海や空が
何とも美しく見えたと松田は言います。
画家が物を見るというのはこういうことではないのか、
「これこそ自分が絵にすべき対象だ!」
松田正平は生涯の折々に自画像を描いています。
松田が日々どんな心境でキャンバスに向かい、自らの絵を深めていったか
そして最後にどんな境地に到達したか。
この一枚一枚の自画像が このことを何より雄弁に語ってくれます。
昭和12年東京美術学校を卒業した時の
自画像です。
在学中から文展に入選を果たし将来を
期待されていました。
苦虫を噛みつぶしたような渋い表情。
42歳の時の自画像です。
この3年前に教師を辞め家族と上京していました。