中島達志の思い出


最終更新日 2014年6月26日

「中島達志の思い出」と題し,平成14年(2002年)7月1日から平成15年1月4日までに21回に分けて掲示板に書き込んだものをまとめ,写真を追加した。写真の説明はあえてつけなかった。(中島正志 平成15年1月)

かなり誤りも含まれているので改訂したいと随分前から思ってはいたが,読み直すと辛いので今まで手をつけられなかった。10年を経てやっと写真などをもう一度整理し,改訂する気力がでてきた。今日(平成25年5月29日)から着手。

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中島達志の思い出1 投稿日:2002年 7月 1日(月)


昭和51年(1976年)

 5月10日(火)の午後5時11分に中島正志(当時32歳)・てみ子(28歳)の次男として生まれる。血液型はてみ子と同じO型,体重は2,400gしかなく未熟児だった。誕生直後の14日(金)に,叔父・藤本省吾(母・はまの兄)が急死した。藤本家の長男・隆君の結婚式のはずの16日(日)が葬式になり,私(正志)と母(はま)が三重県津市まで出かけねばならなくなり,誕生後わずか5日目に堀内産院をでて茨木市元町の自宅にもどる。叔父の急死は,今から思えば波乱に満ちた達志の人生を予感させる悲しい出来事であった。

 辰年生まれであることからその読みが同じ達,この字は亡父の戒名・智達院からとった。そして,正志から志をとり達志と名付けた。元気な子でタッちゃんと呼ばれ皆に愛されたが,あだち充の人気漫画「タッチ」のせいか「達也」だと思っている人も多かった。


 当時,正志は大阪大学基礎工学部の助手,てみ子が吹田保健所摂津支所で保健婦として勤務していた。母はこれからしばらくは,長男・大智と私の妹(成沢正子)の長女・紀代,そして達志と,3人の幼子の面倒をみることになる。元町の家は借家だったが私が生まれ育った家であった。市役所,図書館,消防署などが建ち並ぶ茨木市の中心街に近く,茨木神社の境内や中央公園,旧茨木川につくられた遊歩道などが子ども達の絶好の遊び場であった。夕食後,達志が眠る前,毎日のようにダッコして茨木神社につれだし,茨木神社の神々に元気で健やかに賢い子に育つよう祈ったものだった。眠ったと思って家に連れて帰るとまた泣き出す。そんな平凡なことの繰り返しの日々が今無性に懐かしい。出来ることなら昔に戻りたいと涙がでてくる。

 達志が誕生するまではバイクで通勤していたが,子どもが二人になったことから家族で出かけることなどを考え,自動車運転免許をとり7月に初めての自家用車(ホンダ・シビック)を中古で購入した。茨木市の中心地で駐車場がなく,暑い盛り産後の体調があまり良くないときに駐車場探しで苦労したことを,てみ子は後々までよく愚痴った。

 未熟児として生まれたにもかかわらず毎日よく牛乳を飲んだためかすくすくと大きく育った。大智と達志はよく牛乳を飲んだ。家族で旅行したとき,特に田舎に出かけた時などはその日の牛乳の確保が大変だった。また昔は今のように新年早々から開店しているスーパーがなかったため,正月休みの間の牛乳確保は我が家の大問題であった。牛乳で思い出すことがある。たった1度だが,幼い大智と達志を大阪大学の研究室に連れて行き,私の恩師・故川井直人教授にあわせたことがあった。その時,先生は二人に「牛乳をいっぱい飲んで大きい賢い子になりなさい」と頭をなでながら言ってくださった。子どものなかった先生が,私に羨ましいとおっしゃったことなど,この日のことをなぜか鮮明に覚えている。

 大智は優しい顔立ちでよく女の子と間違えられた。しかし達志は,みるからにやんちゃ坊主できかん気丸出しの男の子という印象を他人に与えたようである。その印象は,達志は良く熱を出し皮膚が弱くかぶれたりするため,丸坊主頭にしていたからだと親は思う。後には双子と間違われることの多い二人の顔立ちに大きな違いがあったとは思えない。




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中島達志の思い出2 投稿日:2002年 7月 6日(土)


昭和52年(1977年)

 私のホンダ・シビックの運転練習コースは箕面国定公園のドライブウェイだった。今は草花の季節の移り変わりを楽しみながらゆっくり走るコースだが,その頃はカーブが続く山道を,ただひたすらブレーキをなるべく踏まないで素早く通過する“上手な運転”を意識した初心者らしい運転だった。毎晩のように大智と達志を乗せドライブに出た。元町の家から約1時間のコース。てみ子が忙しくて付き合えない時は,達志を運転中の私の膝の上に載せた。今思えば危険な事を平気でしていた。先日,啓子(達志の妻)にその話をすると,達志も隆一(達志の長男)を膝に乗せ同じ事をしていたらしい。達志は私の悪いところを全て引き継いでいるとよくてみ子がぼやいたが,なぜか納得する親子の習性である。

 一歳の誕生日を迎える直前の5月のゴールデンウイークに島根県松江市に旅行した(写真は松江に向かう列車の中)。私と同じ研究室に所属し博士課程の学生だった野津君が,実家のある松江で車を買った。奥さんの八重子さんが運転するのだが松江から大阪へ運ぶ自信がないので,私たち一家が松江に観光に出かけ,その帰りに私がその車を運転して大阪に帰るということになった。経済的に余裕のない若い頃の話で,家族旅行をかねて出かけるのは嬉しかった。一家4人ででかけ,先輩で当時島根大学助教授の時枝さん(Qちゃん)の島大宿舎と野津君の実家に1泊ずつし,どちらでも歓待していただいた。このとき達志はQちゃんの車(ホンダ・アコード)が珍しかったらしく,アコードのダッシュボードを興味深くさわり回していた。例の掲示板(達志の熱傷)にQ氏はそのころのことを書いてくれている。初めての大山ドライブなど結構印象に残る旅だった。

 この前後よくドライブにでかけている。その年(昭和52年)の1月2日に奈良,2月20日に枚岡梅林,3月20,21日は従姉妹の寛子ちゃんが生まれたのでお祝いに富田林によってから,三重県伊賀上野から御在所へ,このときロープウエイの待合いで達志のおしめを替えている写真が残っていて,よくこのドライブを思い出す。4月3日は奥琵琶湖まで桜を見に行ったのにまだで,帰ってくると茨木の中央公園が満開で奥琵琶湖よりはるかにきれいだった。6月5日には東条湖と,まったく幼子をよく連れ出したものだ。達志に,親が勝手に自分らの好きなところへ行っただけで,全く覚えていないと言われたことがある。その通りかも知れないなと思う。

 元町の我が家は,町中にあり風呂がなかった。銭湯の「稲荷湯」がすぐ近くにあった。子どもが小さい頃,なるべくきれいな湯に入れたいので,比較的時間の自由がきく私が銭湯が開く4時に家に戻り,大智と達志を風呂に連れて行く事が多かった。風呂に入れてから大学に戻った。この時間の銭湯は開くのを待ちかまえているお年寄りがほとんどだった。男風呂では子どもが少ないためか,二人はいつも人気者だった。風呂を上がると毎日そのお年寄り達がジュースやアイスクリームを買い与えてくれた。子ども達はそれも楽しみで風呂が大好きだった。銭湯育ちは人見知りをしないというがその通りであった。




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中島達志の思い出3 投稿日:2002年 7月21日(日)


 達志が歩き始める前の写真を見ると背が赤い布のバギー車が目に付く。達志が乗りその両横に大智と紀代ちゃんがいる光景をすぐ思いだす。このバギー車はどこへ行くときも持ち運んだものだと懐かしい。

 ハイハイをせずにいきなり歩き出す子どもが増えたと聴いたことがあるが,息子達は歩き出す前に,ちゃんとハイハイをして動き回っていた。歩けるようになると,大智も達志も茨木神社の本殿前の階段を何回も得意げに往復した。おしめでふくらんだお尻がモガモガと動いていた光景がやけに目に焼き付いている。飽きると石の狛犬さんの背にまたがって一騒ぎしそれから,旧茨木川の堤防に出る。ここはモミジ並木が綺麗なところで,私が子どもの頃に木登りで遊んだ枝が残っていて,その枝にまたがらせたりした。六軒町橋の近くにはブランコ,シーソーや滑り台などを備えた幼児のための小さな公園があり,そこでもよく遊ばせた。その公園で遊んでいる他の子ども達と比べると,兄弟揃っているという強みからか息子達は元気がよかった。それでも,大智はちょっと用心深いところがあり,なんでも初体験の時には若干ためらいがちに手を出した。しかし,達志は兄の仕草をみていて自分もやりたくてたまらないことが多いため,ためらうことなくすぐに手をだした。兄と弟というのはこんなところでさえ違いがでてくるものなのかと面白かった。

 もう少し大きくなると,母が達志を家の外に連れ出す範囲はさらに広がった。中央公園の端にあり子ども達に交通ルールを教えるためにつくられた公園(私達は汽車公園と呼んでいた)で遊ばせ,市民会館の中で休憩し,売店でアイスクリームなどを買い与え,さらに消防署まで連れて行き消防自動車をみせるなど,今から思えば大変な距離を母は毎日良く連れ歩いてくれたものだと感謝する。

 大智は,達志が生まれた年の4月から私立橘保育園に入れた。1年間は橘保育園でお世話になり2年目から茨木市立中央保育園に移った。大智が保育園に行っている間,達志は母が世話してくれていた。そのころ気に入っていた赤い大きな自動車の玩具(コンビカー)があった。ハンドルがあり自分の足で地面を蹴って前に進む。最初は家の中,慣れてくると茨木神社や中央公園で動きまわった。何歳の頃であったか正確な記憶はないが,達志が保育園に通い出す前,一人で茨木神社にコンビカーをもって遊びに行けるようになっていたころ,家から神社まで約50mほどの距離の一般道路では絶対にコンビカーに乗ってはいけないと,母からきつく注意されていた。たまたまその約束を破って一般道路で気持ちよさそうにコンビカーを走らせている達志に出くわした。その瞬間の吃驚した表情と,すぐ「おばあに言うなよ!」と私に口止めの脅迫をした達志を忘れられない。達志にとっては親よりも祖母の方が身近で怖い存在だったのである。

 同じ頃,行方不明事件があった。母が大智を迎えに行こうと達志を探したがみあたらない。思い当たるところすべて探してもみあたらず,母は心配でたまらなかったがとりあえず大智を迎えに行ってからと,中央保育園にでかけた。なんと達志は保育園で遊んでいた。達志にすれば,家に帰ったのにおばあちゃんが見あたらない。きっと保育園だと考え,おばあちゃんを迎えに行ったらしい。活発なのはありがたいのだが,幼い頃から大人の意表をつく行動が多く心配ばかりしてきたように思う。



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中島達志の思い出4 投稿日:2002年 7月27日(土)

 昭和53年(1978年)(達志2歳)

私にとっては忙しい年だった。大阪大学では超高圧実験施設の助手としての仕事(主に「ダイヤモンドの焼結」というテーマでの研究)と,大学院の時代からの古地磁気研究の両方を,いまから思えば素晴らしい仲間にめぐまれて一生懸命やっていた。そして,後者の研究としてスエーデンとの国際協力研究のプロジェクトが認められスエーデンに川井直人先生と出かけることになっていた。その出発の時期に,福井大学に助教授として採用されることが決まった。スエーデンは来年でも行けると考えこの年は辞退した。しかし翌年,スエーデンと英国へ一緒にでかける予定だった川井先生に死なれてしまった(昭和53年7月3日,享年58歳)。そのショックから立ち直れず,結局,翌年も辞退し代わりに金沢大学の藤則雄先生に行って貰った。


 福井大学にはとりあえず単身赴任した(色々な事情から今も単身;平成22年3月まで続いた)。鯖江市にある公務員宿舎に入った。以来,普通は月に2回,土日に茨木に帰り月曜日の早朝に福井へという生活を続ける。子ども達の幼い頃は2ヶ月に1度ぐらいのペースで,てみ子が子ども達をつれて鯖江に来てくれた。母もたまに1週間の予定で鯖江にきてくれた。その時は保育園に通う前の達志を連れてきた。宿舎の前はまだ広場で遊び場所には恵まれていた(現在は駐車場)。達志は,同じ宿舎におられた工学部の先生の子ども(たぶん,礼文(レイモン)君)や近所の子ども達とも仲良く遊んだ。その子達を家に連れてくることもあった。福井弁にも興味を示し,さらっとマネをしていた。

東尋坊,越前海岸の水仙,奥越の紅葉,足羽山の紫陽花,三里浜のラッキョと,34歳になって初めて茨木を離れて生活することになった福井県の自然が気に入って,家族と共に福井県のいろいろな場所に出かけた。大阪と比べると土地に余裕が有るためか子ども達が喜んで遊ぶ公園もゆったりしていた。福井市の運動公園(機関車の実物,大きな滑り台,池に浮かべられたいかだ等がお気に入りだった),足羽山(桜の名所,今はいないが当時はサルなどがいた),三国の海浜公園(アスレチック),和泉村の国民休暇村(アスレチック,プール)と,家で毎日子ども達と遊べなくなった分,よけいに連れ歩いた。

 大阪ではめったに経験できない積雪はさすがに大喜びであった。雪だるま,雪合戦,プラスチック製の子供用のソリとはしゃぎ廻っていた。福井の雪は水分が多い,所謂,べた雪であり,宿舎に帰ってくるとずぶぬれになっていた。

 大雪の中,長距離のドライブは結構緊張する。吹雪くと前が全く見えずただ前の車のテールランプだけが頼りの心細い思いをしている時でさえ,達志は雪だ雪だと喜んだ。



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昭和54年(1979年)(達志3歳)

 この年もあちこち連れ歩いた。茨木神社や能勢妙見へ初詣。



 3月の連休には,いったん福井に来てから岐阜県の高山や平湯温泉へ一泊旅行にでかけた。この日,前夜から雪が降ったため急遽,スパイクタイヤにはきかえた。乗鞍への山道で多くの車が立ち往生したり,チェーンを巻く作業をしている中を,すいすいと通過する時,めったに味合わない「雪国の車」という優越感に浸った。大阪では,大阪城公園,天王寺動物園,京都のお寺,箕面のモミジ。福井では,丸岡城,大野から白山スーパー林道を越え石川県の山城温泉,三国の海や越前海岸と,休日毎にどこかに出かけていたようである。

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中島達志の思い出5 投稿日:2002年 8月10日(土)


昭和55年(1980年)(達志4歳)

 4月3日から行きたくて行きたくてたまらなかった保育所にかよいだした。毎日,母と大智を迎えに行っていたので,初日,連絡ノートに先生が「勝手しったる庭で・・・園庭で走りまわっていました。でもお兄ちゃんの方が良いらしく,いないなーと思うとお兄ちゃんのお部屋で遊んでいます」と書いてくれました。あれだけ楽しみにしていた保育所ですがなれない集団生活,とくに昼寝はいやだったらしく,4月の初めは保育所へ行くのを嫌がったようです。連絡ノートのてみ子と保母さんのやりとりにその様子が克明に書かれています。私はこの時すでに福井に赴任していたので,朝の様子を知らないことと,大智の時は1年間ほとんど毎朝,大泣きしているのをなんとかなだめながら私が保育所に連れて行ったイメージが強く,達志が嫌がった記憶はなかった。

 家での誕生会,ケーキがあったのでクリスマスと同じだと思い,クリスマスツリーをだせとせがみ,大笑いさせてくれました。6月,いつもは母と達志が福井へ来てくれていたのですが,珍しく大智が福井で達志が残りました。私の都合で母と大智は2週間も福井にいました。朝晩,達志は大智と電話でいろいろ話をしたようです。てみ子はこの時,「一緒にいるとケンカばかりしているのに,離れると恋しくなるのですね」と連絡ノートに書いています。大智を連れて帰った日,とても仲良く遊び,翌朝はもうケンカ・・・・・,だったようです。この年,福井で初海水浴,冷夏で私の妹一家と越前海岸に遊びに行ったときは,8月なのに涼しすぎて,長くは海に入っておれなかった。保育所ではプール遊びが大好きになっていました。

 9月,補助輪のある自転車では物足りなくなったらしく,隙をねらって兄の自転車を持ち出し,茨木神社の境内で一人で一所懸命に練習していたようで,19日に何とか乗れるようになりました。保母さんが,「達ちゃん自転車乗れるの?」「ウン,コマナシやで!」「練習したん?」「ウン!」と得意絶頂の達志の様子を書いてくれています。

 9月の連休に,乗鞍岳へ,もちろんスカイラインでドライブ。熊牧場やはじまりかけた紅葉の美しさが記憶に残るドライブでした。箕面公園の川での魚取り,西河原公園の大滑り台への挑戦,保育所でのケンカ,ぐんぐん成長していくのが目に見える歳でした。「気が弱そうに見えるけど,とっても頑張りやさんなんですね。保育所でも,何でもちゃんとできないと,嫌らしくて,頑張っていますよ。運動面でも,今日みたいな絵や製作でも,はっきり理解したり,できたりするまで,ききにきたり,練習したりする努力をするんです。この気持ちいつまでも続かせてあげたいですね。」と保母さん。



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中島達志の思い出6の1 投稿日:2002年 8月10日(土)

昭和56年(1981年)(達志5歳)

 前年の12月から福井は記録的な大雪に見舞われる。12月24〜26日兵庫県の加古川で考古地磁気の試料を採取し,富山大学の広岡さんを送って富山へ。北陸自動車道は吹雪,翌日,福井に戻る。この時はまだ富山の方が積雪量は多かった。28日,雪が降り出し,鯖江の宿舎の駐車場から道路までの除雪が9時から12時までかかったが,とにかく脱出成功。茨木に帰り,北陸自動車道は雪のため通行止めのニュースを聞く。

 正月は茨木神社,勝尾寺といつもの平穏な正月。しかし,福井は大雪のニュースに,スパイクタイヤを履いているものの,心配になりチェーンを購入。7日,てみ子と福井へ。雪でスリップして横転したトラックなどに緊張しながら凍りついた道を,朝に出発したのに夕方ようやく宿舎にたどりつく。宿舎前の広場や駐車場は2m近い積雪で接近不能。近所のスーパー石川に無理矢理頼み込み車を1晩だけ除雪されていた駐車場に置かせてもらう。翌日,宿舎周辺や大学周辺の駐車場を探すがなし。仕方がないので,てみ子と茨木に引き返す。結局,1月30日,当時2年生だった中川登美男君に手伝ってもらって宿舎の駐車場の除雪をするまで車は茨木に置いたままだった。

 1月10日(土),共通一次試験の監督の為,前日から泊まり込む。雪の中を何時間も歩いて受験場にたどり着く学生のため,大学も早朝から控え室を暖めていた。控え室の存在も知らず試験場が開くまで外で震えながら待つ受験生。全国一斉,同条件での受験が売り物の共通一次ですら雪国という大きなハンディに何の考慮もないことに怒りさえ感じた。11日(日)に試験が終わり鯖江へ戻るとき,大雪になり交通機関は麻痺状態,結局,大学から鯖江の宿舎までの約13kmを歩き通す。4〜5時間かかってやっとたどり着いた宿舎には,「宿舎の除雪作業に出られなかったので,ペナルティとして屋上の除雪を4時間やるように」と書かれた紙がドアに貼り付けてあった。情けなくなってその日,酒をあおるようにのみ泥酔した。1月17日,福井市の積雪は194cmになった。教育学部屋上の雪下ろしも実施された。雪下ろしをしながらどうせなら2mこえろと何人かが口にした。やけくそだった。この大雪を56(ごう・ろく)豪雪という,38(さん・ぱち)豪雪以来の大雪で,その後,これをこえる雪はない。そして,たいていの雪に驚かなくなった。

 私にとっては豪雪は大きな転機であった。それまで,てみ子に良い職場が有れば家族全員で福井に移るつもりだったが,この雪の中を高齢の母が生活すること,また私たちも歳をとってからの生活は無理だと思えた。単身赴任のままで良いと決めてしまった。そして,茨木で家を買うことになった。今の豊原町の家である。2月に契約し,4月11日に,住み慣れた元町の借家から引っ越した。引っ越しの日,阪大から夏原君,渋谷君,三島君が,福井大の教え子の南さんも,また妹の旦那の成沢君や保健婦の柾木さん,母の知り合いの宮崎さんなどが手伝いに来てくれた。賑やかな引っ越しであった。当時は仲間の引っ越しは手伝って当たり前だった。それだけみんな若く金がなかったのかもしれない。懐かしい。今は学生の引っ越しまでプロに頼んでいる。時代の差か。

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中島達志の思い出6の2 投稿日:2002年 8月10日(土)

 大智は福井小学校に入学,達志は中央保育所の2年目になった。てみ子が吹田保健所摂津支所への通勤に,保育所まで自転車にのせていき,帰りも自転車で迎えに行くという大変な生活になった。その忙しさの為もあり,前年とはまったくことなり連絡ノートへのてみ子の書き込みは極端に少ない。しかし達志は確実に成長し,4月の身長112.1cmから年度末の3月には119.3cmに,体重は17.8kgから21.0kgに増えている。

 この年の7月17日から8月28日まで,私は神戸大学の海外調査隊に参加し,南太平洋のキリバス共和国へ出かけている。4回目の海外調査,しかし恩師の川井先生や広岡さん(広岡公夫富山大学教授)がメンバーでない海外調査は初めてなので,いろいろそれまでと異なる経験をした。息子達と1ヶ月以上離れるのも初体験,親離れ子離れの予行演習となった。しかし,今だに子離れは駄目のようだ。卒論を指導していた3人の女子学生や金沢大学の藤先生からあづかっていた男子学生1人もたぶん私の留守中は大変だったのだろうと思う。彼女たちを秋に神戸大学での学会に連れて行き我が家に泊めている。先日(8月8日),その一人であった林(旧姓:牧野)さんが大崎さんと一緒に大学に来てくれた。達志の子ども時代を知っている学生達が訪ねてくれるのは大変嬉しいのだが,そのあとよけいに寂しくなるのも事実だ。

 今回はあまり関係ないことばかり書いてしまった。てみ子が連絡ノートの最後(3月17日)に書いた文章を引用し,この年度の思い出の最後とする。

 「生活習慣は,ほぼ自立してやれるようになりましたが,夜寝るのが遅くて困ります。10時頃でないと寝られないようです。朝,もっと早く起こせば,少しは早く寝るように成るかなと思います(7時20分を6時40分に)。これから春夏に向けては,夜が早く明けるのでしやすいかもしれません。
 保育所では,やはり緊張しているというか家とは違う感じがするのですが・・・。家では兄とケンカばかり,いつもいじめられる立場なので,要領が良く,うまくその場をきりぬけているようです。ただ,勝ち気なので,これはと思うことが思うようにいかないと,ダダをこねて,それはそれは怒ります。でも私は怒りが爆発して全身で表すことはまだまだあって欲しいし,その時の親の対処で成長していくのだと思います。下の子はこういう時,案外と甘く対処してしまいがちですが・・・。忍耐力とか自ら切り抜けてということは難しいですね。色々な体験の積み重ねでしょうか・・・。兄弟二人故の生活のまずさをおぎなってくれるのが集団だと思います。保育所では親に見えない部分(児の)がたくさんあると思います。保育所のよさ,家庭の良さ,保育所の延長みたいな家庭でも困るし,家庭の延長みたいな保育所でも困ると思います。抽象的になりました。」

 保母さんの,「達ちゃんは,保育所では何でもスムースに出来ていてお兄さん格という感じであるが,たまに少しつまずくことがあると,どうしようかとウロたえて落ち込むことがある。こんな時にもう少し,耐える力,自分で何とかしようという自立心みたいなものが出てきて欲しい。」という5歳の子にはとうてい無理と思えるコメントへの返事である。てみ子はこの先生があまり好きではなかったようで,結構,斜めに構えて書いているような気がする。



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中島達志の思い出7 投稿日:2002年 8月13日(火)

昭和57年(1982年)(達志6歳)

 4〜6歳の子どもの発想・言動には大人の意表をつくものがたくさんある。達志にもいくつかあった。

 雪の中,滋賀県の湖北の国道を福井へ向かう車の中で,ワイパーがフロントガラスについた雪を払い,払いきれず残った雪をフロントグラスの下(ボンネットの直上)に押しつけているのをみて,「ペッタン,ペッタンお餅つき」と歌い出し,雪のお餅つきと大喜びだった。

 元町の家から茨木神社へ遊びに行きたい時,一般道に車の通行量が多くなかなか渡れない。道を譲ってくれない車に,「ブレーキが壊れているのかな,あの車は。」と不満を訴えた。

 保育所の昼寝の時間が苦痛だった達志は,「本田先生はいいな」「どうして?」「だってお昼寝しなくていいもん」といったそうです。それを聞いた藤沢先生は「イヤー,私だけお昼寝してるみたいで恥ずかしい!」。金曜日は「明日は,お昼帰りや」と昼寝がない嬉しさを何度も表現したらしい。

 茨木市民プールへつれていったとき,達志を見失った。必死になって探していると,「中島達志君のお父さん事務所までおいでください」と放送があった。達志がお父さんが迷子になったので探してくれと頼みにいったらしい。大人よりもずっと適切な対処法であった。そのころから達志には,自分の要求を人に伝えるのに何のためらいもなかったようである。

 スイカの玉でなく切身ばかり買っていた頃,「お母さん,大きなスイカはまだ高いんだね?」と大きな声で八百屋さんの店先で尋ねてくれる。などなど,いつも新鮮な驚きを私たちに与えてくれた。

 豊原町の家の周りに今は空き地がほとんど無いが,歯科医院や島野さんの家はまだなく空き地がたくさんあった。建て売りの家を買う家族は経済力が似ているためか同じような年齢構成の家が多く,大智や達志と同学年というのはいなかったように思うが,前後の学年の子ども達がたくさんいた。空き地で,よく集まって遊んだ。日曜日や夏休みなどの休暇には私やご近所の他の大人も仲間に入り,ソフトボールのまねごとをした。空き地からは,毎年の恒例行事である茨木弁天の夏の花火祭りの様子がよく見え,涼みがてら,ご近所の人達が子供らと共に集まって花火に興じた。また,近くの小川には蛍がいた。子供らがもっと幼いときに鯖江の福井鉄道の三十八社駅近くの田圃に見に連れて行った時に見た蛍より数こそ少ないが,茨木に良く残っていたと感動した。見つけたときは近所の人にも教え小川に沿って散歩した。(その後の小川の改修工事で,今は蛍は極めて少ない。今(平成25年)は壊滅状態。)

 昭和57年の正月,引っ越した最初の正月,それまでたこ揚げは茨木中央公園だったが近所の田圃の中で揚げた。てみ子の従姉妹の斉藤さん一家と勝尾寺に初詣,また生駒山のドライブウエーから信貴山にも出かけている。生駒のドライブウエイを下って戻るときの大阪市内の夜景がきれいなので当時良く出かけた。私のドライブコースは癖があり,同じところへ何回も出かけ,ふっと行かなくなる。最近は生駒ドライブウエイを走ったことがない。5月のゴールデンウイークに子供会で豊原町から万博公園までハイキングし,万博公園で遊んでいる。達志がよく歩けたと今でも感心する。仲間が大勢いると楽しいからなのだろうけれど。7月には斉藤さん一家も車をだして福井に遊びに来た。当時福井大4年生だった大崎さんに三国町雄島の民宿を世話してもらい,あと一泊は鯖江の宿舎。海で泳ぎ,三国海浜公園のアスレチックを楽しみ,国見林道や,奥琵琶湖ドライブウエイの景観を楽しんだ。大智小学2年生,達志保育所の最終学年,今から思えば比較的平穏な1年であった。





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中島達志の思い出8 投稿日:2002年 8月16日(金)





昭和58年(1983年)(達志7歳;1年生)

 小学校に入学した年。1月29日(土)に「新入生のための集い」が市民会館であり,達志をつれて市民会館へ行き,漫画映画や手品を見たと手帳には書いてあるのだが,どんなものであったか記憶にない。2月12日(土)にスイミングスクールで達志の必要品を購入している。(13日,瀬古が東京マラソンに優勝。)大智は前年にスイミングスクールに入った。達志はこの年3月から通い出した。JR茨木駅の近くにあった茨木中央スイミングスクールで,てみ子や母が阪急バスで付き添っていた。二人とも水泳はすぐ上達した。4月5日(火)に,私は初めてスイミングに付き添い,「大智は良く泳ぎ驚く」と手帳に書いている。2階の付き添い家族の待合い室から,子ども達の練習の様子を見学できた。

 二人とも小学校の間はスイミングに通った。クロール,平泳ぎ,背泳,バタフライのメドレーが進級テストだったように思う。どれも見ていてほれぼれする綺麗な型で泳いだ。川でも,海でも二人そろって泳ぐと目立った。親ばかとしてはちょっと自慢したい気分だった。スイミングスクールでは,スクール対抗の競技会にも出してくれた。達志を選手育成コースにというお誘いもあったが,本人にその気はなく,私たちも水泳の選手にするつもりはなかった。



 3月28日(日)に母と大智,達志が特急雷鳥で福井に来て,4月3日(日)に車で茨木に連れて帰っている。鯖江の宿舎から歩くと30分以上はかかるショッピングセンターの「アゼリア」へ,玩具かお菓子を買うために二人ででかけ,開店前にならび,その時知り合って仲良くなった子を宿舎に連れてきた。母と福井市のショッピングセンター「ベル」にでかけたり,大学のパソコンでゲームをしたり,運動公園や足羽山などでも充分遊び,家が二つある利点を充分堪能していたと思う。

 4月,茨木市立福井小学校に入学,式の日の嬉しそうな写真がある。朝は集団登校,大智が1年の時は,隣のマンション「シャルム」の集団に合流していたが,達志が入学した時にはヌーベル・メゾン(我々の,18世帯の団地の名前,気恥ずかしくなる大げさな名前なのであまり使わない)だけで1つの集団を形成していた。

 これから3年間,放課後の夕方までは,毎日小学校の運動場の隅っこにあったプレハブ教室での学童保育「つくしんぼ教室」のお世話になった。大智にはいつも(保育所でも,近所でも,小学校でも)同じぐらいの運動能力や体力のライバルがいたが,達志にとっては目標と当面のライバルは常に兄であったように思う。つくしんぼ教室でお世話になってすぐのこと,大智の同学年の子が達志にからみ,さらにそこへ相手の兄(5年か6年生?)まで介入してきた。大智(当時3年生)がすかさず俺の弟に何をすると助けに入った。兄弟の絆を想うときいつも思い出す出来事である。

 蛍,箕面公園の紅葉,子供会の餅つきと比較的平穏な1年が過ぎる。


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中島達志の思い出9の1 投稿日:2002年 8月31日(土)

昭和59年(1984年)(達志8歳,2年生)

 私(40歳)にとってかなり多くの出来事があり,あっという間に過ぎ去った年。1月2日,一家5人で奈良へ。千里丘の毎日放送の近くにある毎日ミリカプールが冬期間アイススケート場になる。1月5日と2月11日は,てみ子,大智,達志とスケート。子ども達は,すぐ滑れるようになったので,スケートは楽しみだった。この冬,雪はそれなりに多かった。1月28日(土),大雪で福井県脱出に3時間かかり,大学を14時30分に出て家に20時にやっとたどり着いている。29日(日)は大阪も積雪があり名神高速道は通行止め。2月7日福井の積雪量90cm,小浜で127cm。3月にも積雪があった。3月18日,「つくしんぼ教室」の遠足で,宝塚ファミリーランドへ。家族4人がそろって「つくしんぼ教室」の行事に参加したのはこれが最初で最後であった。

 4月から鯖江の鳥羽宿舎の管理人,つつじヶ丘自治会の班長も兼ねる。単身赴任でどうなることかと心配であったが,1度やれば少なくとも24年間(宿舎は1棟で全部で24世帯が入居)は断わる理由が出来ると居直り引き受けた。また,鯖江にある福井工専の非常勤講師を無理矢理頼まれ,土木科で地学を教えた。大学生と異なり生徒は真面目だったが,よそで教えて初めて福井大学のレベルは結構高いのだと感じた。講義に対する反応がまったく違った。2年生が対象なので相手は高校生,高校の先生は私には勤まらないと実感。翌年もやむなく引き受けたが,それ以降は固辞した。

 5月の連休明けにはM教授の行方不明事件など忘れがたいことが頻発するが,なんと言っても私にとってこの年最大のイベントは,人類の起源を探る調査隊に参加して,ケニアにでかけたことである。マラリヤの予防薬の手配,黄熱病の予防注射などいろいろ事前にかたづけて,8月4日成田出発,10月6日帰国。大変な調査隊であったが,これまでの先輩・友人とは全く異なる専門分野の人たちと親交出来たことが最大の収穫であった。帰国した翌日は,福井小学校の運動会。小学校の運動会を見に行く親達は自分の子どもばかりを探し求め,写真をとりまくっている。私も例外でない親ばかの代表であった。「あれ,・・・ちゃんや。ほら,目立つように・・・色のソックスをはかせてるからすぐに見つかるやろ。」と得意げに話す親たちに,こちらまで気恥ずかしくなった。10月10日(日)は子供会のソフトボール大会。この年から大智は少年野球チームのサンボーイに入団しているので,日曜は野球の試合につきあう事が多くなる。もちろん,達志もやりたくてうずうずしていた。

 年末には三浦教授の還暦記念パーティ,その準備にも振り回された。まったく忙しく慌ただしく過ぎ去った1年であった。たまに茨木に帰れる日曜日くらいは親子水入らずで遊びたいのに,子供会だサンボーイだと,息子達をとられた。近頃の大人は子どもの遊びに係わりすぎだと,自分のことは棚に上げ,「息子を返せ」と腹立たしく思っていたかってな父親であった。



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中島達志の思い出9の2 投稿日:2002年 8月31日(土)

 正確な日時は不明だが,達志がペットをほしがったのでハムスターのつがいをショップで買った。雌はすぐ死んでしまったが,雄は結構長生きした。時々駕籠から抜け出し,探すのに大騒ぎしたことが懐かしい。死んだとき子ども達と小川の縁の木の下に埋めた。その時の達志の悲しげな様子が今も目に浮かぶ。また,ある日,学童保育の教室の近くに駕籠に入れて捨てられていた兎を,達志が自分が飼うといって持って帰ってきた。結構,大きな兎だったので,よく一人で運べたものだと,達志の体力を見直した。兎はなかなか人に懐かないので飼うのは大変だった。ベランダに置いて飼っていたが,時々,近くの公園で遊ばせた。この兎は達志が5年生になるまでは生きていた。

 このころ任天堂のファミコンがブームだった。クリスマスの頃,買ってやるつもりで茨木中の玩具屋を探したが品切れだった。仕方がないのでセガの類似品を買い与えた。隣の子ども達がファミコンを持っていたので,時々,交換しては楽しんでいたようである。


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中島達志の思い出10  投稿日:2002年 9月16日(月)


昭和60年(1985年)(達志9歳,3年生)

 1月2日,元町の頃いつも世話になった銭湯の「稲荷湯」の朝風呂にでかける。大智,達志が大きくなったと昔の常連さんたちに取り囲まれた。3月までは宿舎の管理人だった。1月5日の鯖江のつつじヶ丘町内会に役員として出席するため,5日の朝,てみ子,大智,達志と鯖江に向かう。2時について4時頃まで除雪。翌日の6日(日)に茨木に戻り8日からの新学期に備える。

 昨年ケニヤで採取した岩石試料が1月12日に福井大学に到着,この年私は論文を書いたり徹夜で測定したり,あたらしい測定機械を購入する算段・手続きで,非常に慌ただしい生活になる。そのせいか達志の写真も極端にすくない。町内の子供会でサーカーをしている写真,兄のサンボーイのスケート大会についていったらしい写真,福井県の三国にあった「迷路」で遊んだ写真しかみあたらない。4年生になるとかなりしっかりした顔になるが,この年の写真はいかにも幼い。

 ミリカスケートリンクにはこの年も何回か出かけた。3月24日(日)に達志の算数の勉強(たぶん宿題か)をみたあと,関西大倉高校まで散歩し,ツクシをみつけた。達志はよく散歩についてきた。ふざけながら私に纏い付いて歩いていた達志を思い出す。しかし何を話していたのかは思い出せないのが悔しい。4月にセガのゲーム機が故障し,達志と製造工場まで車で走った。私と一緒で,待つことが苦手な達志だった。日曜日は大智がサンボーイで野球,達志はスイミングという平和な生活の繰り返し。

 お盆休みは,8月13日にてみ子,大智,達志と茨木を出て,郡上八幡,和泉村を経て鯖江へ。前にも書いたがこの時大智・達志は木曽川で泳ぎ,見事な泳ぎっぷりで周りの見物客の目を惹く。越前海岸で泳いだり,映画を見たりで比較的ゆっくりと福井での盆休みを楽しみ,17日に茨木に戻っている。

 仕事の野外調査や福井と茨木の往復で,2代目のシビックは走行距離20万Kmを越えた。さすがにあちこち故障した。高速道路でエンジントラブルでJAFの世話になったこともある。ついに運転席側ドアのガラスがすとんと落ちた。テープで留めて走ってみたが窓ガラスが普通に開けられないと料金所などで大変だということがわかり修理工場に行った。20万Kmを越えたというので喜んでくれ,隣の解体工場から使えそうなドアを探して付け替えてくれた。結構,愛着があり新車に買い換えたのは翌年であった。 



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中島達志の思い出11 投稿日:2002年 9月29日(日)


昭和61年(1986年)(達志10歳,4年生)

 この年も雪の多い年で,1月28日(火)に福井で積雪120cmとなった。これは史上4位の記録。このころから,痛風に悩まされ毎年,春とくに5月頃に発症した。疼痛は長くても1週間ほどで正常に戻るので,このころはまだ痛風と認識していなかった。また,痔ろうにも悩まされ,ヒサヤ大黒堂の高い薬を買っている。学生時代からの無理や酒タバコの害が蓄積された結果が表面に現れだしたのだろう。

 10月から11月は2回目のケニヤでの調査隊に参加など,この年も私は仕事に没頭していた。新しい残留磁化測定装置が納入され,パソコンも16ビットのPC9800VM2になった。これで初めてMS-DOSを学び,このころから世に出てきた一太郎や松などのワープロソフトを感激しながら使いこなすようになった。

 達志は待ちかねていた少年野球のサンボーイに入団,以後,野球が中心の生活になる。2月2日(日),万博公園内の周遊道路で行われた茨木市民マラソン大会に,サンボーイから兄弟で参加している。また2月9日にはスケートと,野球のオフシーズンにはバーベキュウ大会などいろいろやっていただいた。私たちは共稼ぎであまり手伝えないので,せいぜいグランドの草刈りに参加したり,試合の時に車をだし,子ども達を試合場に運ぶことで協力した。6月末に車は,シビックからインテグラに変わった。サンボーイだけではなく,地区スポーツ大会にも兄弟はかり出され,7月6日(日)のソフトボール大会は,大智はサードで4番,達志はファーストで5番だった。

 サンボーイでは,大智(6年)は4番でファーストが多かったように思う。達志は5年生チームに入れてもらっていて,ピッチャーだった。8月9日(土)・10日(日),福井県若狭の阿納海岸に,てみ子と兄弟がサンボーイから海水浴にでかけている。10日の夕方,私は福井から彼らを迎えに行き,鯖江に連れて帰った。若狭の国道は海水浴客で渋滞していた。鯖江の西山公園でレッサパンダが蝉を食べるのをみたり,三国のMAZU(迷路)で遊んだり,また12日には和泉村にある国民休暇村の冷たいプールで遊んでいる。

 11月に一家全員で,姉一家が買った和歌山県白浜のリゾートマンションに出かけた。和歌山まではまだ高速道路が続いていなかったので結構時間がかかり大変だったが,白浜の水族館やサファリなど結構,みんな喜んでくれた。ただ,ケニヤで本物のサファリを経験した目にライオンが何匹ものんびりと昼寝している光景には違和感があった。



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中島達志の思い出12 投稿日:2002年10月12日(土)


昭和62年(1987年)(達志11歳,小学5年生)

 2月11日(建国記念日),第8回茨木中央スイミングスクール水泳競技大会の男子9・10才 50m自由型で優勝(39秒89),50m平泳ぎ2位(53秒49)の表彰状が残っている。その半年ほど後の9月23日のJSSチャンピオンシップ(同系列のスイミングスクールが寄り集まっての大会だったような記憶がある。試合にはこれまでも何回か連れて行ってもらっていたようである。) での記録は,50m自由形37秒68,50m平泳ぎ50秒30で,一気に2秒も,3秒も短縮している。さすがに伸び盛りの年頃なのだと実感できる。


 茨木市立福井小学校では,4年から6年まで担任は橘高きみ代先生だった。橘高先生には,その後も,ずっと達志のことを心にかけていただいた。年賀状もいつも先生の方からいただいた。返事もろくに出せない達志だったが橘高先生を敬愛し信頼していたと思う。それは,先生のご主人が亡くなられたと聞くや,高校の授業などまったく気にせず葬式に駆けつけたことからも伺える。

「○年生のあゆみ」と名付けられた通知簿の「生活や学習の所見」には,いつも,いっぱい書き込んでもらっている。 「4年生のあゆみ」には『いつも明るく積極的に行動できています。働くことをいやがらず清掃なども良く協力してやることができ,友だちにも好かれています。自分で工夫して新しいことを生み出すことが得意な中島君ですから,もう少し落ち着いて考える習慣も身につけていきたいですね。』『三学期も積極的に行動できました。周囲の人に対する気配りができるようになり,話し合いの中でも適切な考えや意見,あるいは話し合いに対する注意などが公平にできるようになりました。学習面でも字のまちがいなどのミスがだんだん少なくなってきています。5年生でもしっかりがんばってくださいね。』と書かれていた。

「5年生の歩み」には,『よくがんばっています。学習に対する意欲の現れの成果ですね。遊びや体育の面でもよくリーダーシップをとってグループをまとめています。今後はいろいろな立場の人のことを思いやって,遊べるように努力してください。三学期もがんばりましょう。』『何に対しても意欲的に取り組んでいる様子が良く伝わってきます。学習面では単純なミスがよくありますが,応用力は徐々についてきています。良く見直してください。自分の考えは持っていますが,他の人の意見を受け入れる態度も十分に出てきました。無理をせずに,体力,体調に応じてスポーツでも持てる力を十分に発揮して下さい。』とある。先生の暖かい視線が感じられ親として感謝したい。


 7月25,26日に島根県で卒論生と岩石試料採取,7月28から30日は福岡県で考古学遺跡の焼土から試料採取と,この年も車で東奔西走した。7月31日になってやっと休みを取り,大阪南港からフェリーのサンフラワーにのり親子4人で鹿児島へ里帰り。てみ子の父親もまだ健在だった。てみ子のお兄さんやお姉さんのそれぞれの家で歓待され,私は芋焼酎に酔いしれた。いろいろ観光もしたが仕事がらみで姶良火山灰も採取している。このころから火山灰,特に2.5万年前に姶良カルデラから噴出した姶良火山灰に研究の興味が移り,この火山灰を探しに10月にはてみ子と福島県にまで出かけている。8月6日の朝,鹿児島から大阪に戻った。4人そろって鹿児島へ行ったのはこれが最後である。





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中島達志の思い出13 投稿日:2002年10月19日(土)

昭和63年(1988年)(達志12歳,小学校6年生)

 小学校の最終学年でのびのびと良くがんばっていた。サンボーイではピッチャー,4番打者と大活躍。また,小学校に陸上に熱心な先生がおられ,何度も陸上競技会につれていってくれていたようだ。9月15日にあった第6回大阪小学生陸上競技会で,400mで1位になって表彰状をもらってきた。記録は58.8秒,大阪で1位はさすがに嬉しかった。

 詳しい状況は忘れたが,児童会の話になり,たぶん近頃は役員に立候補する子が少ないというようなことを達志が言ったのだと思う。冗談半分に,立候補をけしかけたら,本当に会長に自分から名乗りをあげた。サンボーイの仲間の一人が対立候補となった。監督さんがこれではどちらを応援すべきかわからないと困っていた。結果は達志が選ばれた。

 10月2日の,小学校最後の運動会は達志の大活躍の日であった。みんなの前で大きな声で開会の宣言をしたり,1500mでは余裕の1位,リレ−ではものすごい追い上げで大歓声の中,相手をごぼう抜き。てみ子の従姉妹の斎藤さんから借りたビデオで達志をとり続けた。母も大喜びで応援していた。

 運動会の興奮もさめやらぬ10月5日,母が中学生の自転車にはねられ足を骨折,救急車で病院に運ばれた。手術やリハビリなどで12月24日まで入院した。このとき,私たちは地獄を見た感じがした。大智や達志も口にこそ出さなかったが,祖母を気遣っている様子がけなげだった。母は,その後足が極端に弱くなった。元気を取り戻していたが,達志の死後,母はほとんど自分で動く気力を無くし,寝たきり状態。また別の地獄が始まった。

 



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中島達志の思い出14-1 投稿日:2002年10月20日(日)


平成元年(1989年)

 昭和64年1月7日,昭和天皇崩御。1月8日より平成元年。達志の小学時代はもうすぐ終わる。 1月22日(日),市民駅伝大会に出場。てみ子と万博公園まで応援に行く。小学校の先生5人が引率してくれていた。達志は1区に出場し,1位(区間賞)。1月29日(日)は,39度の高熱にうなされている。達志はよく扁桃腺を腫らし高熱に苦しんだ。 

 この年も私たちには色々な出来事があった。2月1日朝,鹿児島の義兄(前田)が亡くなる。大学で急用のみをかたづけ,14時に初代インテグラで茨木に着く,休憩するまもなくてみ子と鹿児島まで走る。2月2日の午前2時に鹿児島県郡山町の前田宅に到着。11時から葬式,現役の町の収入役の突然死で,葬儀には約600人が詰めかけた。私たち夫婦の(義)兄弟姉妹の死は初めてで大きなショックを受けた。

 2月12日は,引っ越していった達志の元同級生の葬式。達志は橘高先生に連れて行ってもらった。朝は,野球の試合をこなしている。
 2月26日,サンボーイ最後の試合,9対0で完敗。
 3月18日(土),卒業式。中学に行っても野球をしますと宣言していた。

 「6年生のあゆみ」には,『学習にも遊びにも一生懸命に取り組んでいる様子が伺えます。が,勘違いや思い違い等の小さなミスも目立ちますのでこれをなくしていきましょう。他の人を引っ張る力を十分に生かし,それに他人に対する思いやりをプラスして,三学期がんばりましょう。』『この一年間,各場面で,十分力を発揮してきました。児童会会長,水泳,陸上などでたくさんの事を学んだと思います。それらの経験を生かしこれからは,自分の意見を持ち,それをみんなの前にだすこと,論理的に物事を考えることをやってみてください。リーダーとしての力が発揮できると思います。』と書いて頂いた。








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中島達志の思い出14−2 投稿日:2002年10月26日(土)

 平成元年4月,達志は茨木市立北中学校1年生。4月8日(土),中国南京大学から福井大学に研修に来ていた孫君を茨木の家に連れて帰った。翌,日曜日,孫君,てみ子,達志と私は自転車で万博公園へ。大智(北中,3年)はたぶん部活だったのだと思う。孫君は車酔いするので自転車は大喜びだった。日本庭園や民族博物館を案内した。

 孫君は英語は上手に話せたが,日本語は少しだけしか話せなかった。しかし,我が家族とはすぐになかよくなった。達志と一緒にファミコンで遊んでいる写真が残っている。このころの達志の写真は,大智と比べるとさすがにまだ小学生的な幼い感じが強い。


 この時期,南京大学との研究交流があったことから,例年夏休みに地学教室の全員が参加している地質野外実習を中国でという話が具体化し学生達もパスポートを申請した。初めての海外旅行になる学生達にウキウキした気分が漂っていた6月4日,天安門事件が発生した。人民解放軍による武力弾圧により学生・市民側の死者は約3700人,負傷者約1万人と言われている。中国での実習は中止となり,四国の高知になった。この時のパスポートは,無駄にしてしまった人,あるいは新婚旅行で初めて使った人など色々だった。





 8月19日から25日まで,夫婦で初めてアメリカのてみ子の姉の家を尋ねた。カリフォルニヤのサリナスで菊の栽培・販売をされている。てみ子の初めての海外旅行,義兄もまだ元気で,モントレー,ヨセミテ渓谷,タホ湖,サクラメント,サンフランシスコといろいろ案内してもらい,今も忘れがたい楽しい思い出の1つである。


 息子達は中学になりあまり私たちと一緒には出歩かなくなっていた。ただ欲しい物のあるときは別であった。8月26日:大智にCDラジカセ,9月3日は達志にスパイクシューズなどと買い物の記録ばかりが残っている。近くの豊臣書店へはよく一緒にでかけた。

 達志も大智も野球部だった。9月24日(日)に野球部の練習を父兄に見学さす催しがあった。サンボーイの監督やコーチも見学にこられていた。


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中島達志の思い出15 投稿日:2002年12月30日(月)

平成2年(1990年,大阪花博開催の年)

 前回の「達志の思い出14−2」からかなり時間がたった。忙しかったこともあるが,中学生になった達志は書きにくい。まだまだ親との接点は多いけれど,親の思いとは別のところに彼自身の生活の重心が移り始めていた。そのずれを強く意識してからは書く気力をなくした。しかし,12月になって親友達と飲み,達志のことを聞いてもらう機会が増えた。そして,やはり私の達志への想いを残しておきたいという気力がよみがえった。


 1月の新学期が始まる前(達志は中学1年),宿舎の駐車場の除雪の手助けに達志が福井に来ている。5日は,私が大学で仕事をしている間,達志は映画「Back to the future 2とK9」を観にいき,その日,茨木に戻った。この冬の心配事は長男大智の高校入試だった。私の日記に達志のことは「達志は部活」とか「達志の靴を買った」というようなことしか書かれていない。2月2日の校内一年マラソン大会では2位(21分00秒61)の記録が残っている。

 茨木市立北中学校一年七組で担任が福本久美先生。成績通知票の所見には「書写に秀でています。スポーツにも自信をもっており中心になって活動しています。」「責任感が強く生活委員の仕事も真面目に取り組みました。」「地味だがクラスでは存在感があり,みんなからの信望は厚い。」と書かれている。彼が残した字をみていると書写に秀で・・は間違いではと思うが,小学校から習字を同じ町内の山本さんのお祖母さんに習っていて,毛筆の部三段の認定書が残っている。

(5月3日:藤井(旧姓宇野)純子君の結婚式)

 このころはまだ野の草花にはそれほど興味はなく,鯖江市西山公園のツツジ,三国海浜公園の菖蒲,福井市足羽山のアジサイなどを観て喜んでいた。大学の方は三浦先生の退官記念事業の寄付集め,記念論文集の編集,記念パーティの準備で多忙だった。

 8月にアメリカにいるてみ子の姉さんの長男の山下勉君が来日し,勉君,枚方にいるてみ子の姪である養父家3姉妹と睦子姉さん,てみ子,大智,達志と私の9人で花博にでかけた。達志とこの4人の「いとこ」とは,最後の出会いとなった。

 二年二組,担任は大槻誠子先生。成績通知票の所見には,「林間での活躍はすばらしいものがありました。自信になったと思います。これからもどんどんいろんなことに挑戦しよう。」「クラスでの存在感は大きく何事にも前向きに取り組んでくれました。」などと書いていただいた。





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中島達志の思い出16 投稿者:中島正志  投稿日:12月30日(月)


平成3年(1991年)

 中学2年最後の班ノートに,達志は次のように書き残している(大槻先生からコピーをいただいた)。「3月22日(金) 2年最後の班ノートを書きます。いろいろあったけれど,またいいクラスでした。前の1年7組もよかったです。でもやっぱり,この2組の方が楽しいことが多かったなと想います。なぜなんだろう。やっぱり,自分が中心となってがんばったことが多かったからだと思います。まず林間学舎でした。堀川君との「たぶうーち」(解読不能だが,嫌いだったT先生をまねた漫才のようなことをしたらしい)はこれまで最高の楽しさでした。ブロックリーダーもなかなかのものでした。スポーツ大会,合唱コンクールもみんなで一生懸命がんばりました。このクラスの思い出をばねにして,3年になってもがんばっていきたい。」 


 今まではメモ程度の日記があり,日付など確かめながら書いてきた。しかし,メモを書く余裕もなくなったのか,私の日記は途絶える。従ってこれからの思い出は,記憶だけに頼ったものであまり正確でないことを,お許しいただきたい。


 北中学校3年生,野球をやっている達志のイメージが強い。大智は高校では野球ができないものと覚悟して,野球部のない大阪府立摂津高校に入った。かつてサッカーが強く,同部がグランドを優先的に使用していた。しかし,先輩や先生方の尽力で入学した年から野球部が正式に認可され,大智も勧誘され野球部に入り活躍していた。大智の夏の高校野球大会の試合と達志たちが勝ち進んだ中学大会の試合日が重なった。それまでは斉藤さん(てみ子の従姉妹)から借りたビデオカメラで試合などを撮っていたが,そのカメラ1台では駄目だということになり,試合日の前日,和光電気に買いに走った。15万円ほどの投資だった。私が大智の試合を,てみ子が達志の試合を撮りに行った。親バカもまるだしだった。

 勉強の方は,たまに試験前日に私が教える時間のあったときの数学や理科は結構良い成績をとっていたのであまり心配はしていなかった。集中力はあるのでやり出せば何とかなるだろうと気楽に考えていた。しかし,たぶん志望校(春日丘高校だと思う)に届くか届かないかと言う程度の成績だったので進路にかなり悩んでいたのかも知れない。担任であり野球部の顧問でもあった一色千尋先生が,京都の野球名門校の京都西高への野球入学を勧められた。やりとりは忘れてしまったが,その話を聞いたとたん,私は腹をたて,担任に電話で,貴方に達志の将来をまかせたつもりはない,とかなりの剣幕で断った。それに対し達志は恨みがましいことは言わなかった。しかし,あの時,彼の気持ちをもっとじっくり聞くべきだったのではなかったかと,甲子園の高校野球の時期がくると思い出す。

断続的というかほんの気まぐれに思いついたときに書いた達志の日記が残された。93年8月19日(木:晴れ,高校2年)の日記には,「京都西も勝ったようや。京都西の先発は2年生やった。テレビで観ている限り,さほどの投手やないようやった。もしかしたらこいつの代わりに甲子園のマウンドに立っていたかも。でもこんなん言うてもしゃあないな。でも惜しいことしたな。」 と書いてある。複雑な思いに捕らわれる。

 一色先生は通知票の所見に,「今,課題を乗り越えようと頑張っているのかな・・・?君が選んだ道は一番しんどい。そのしんどいことから逃げないよう頑張れ!! 担任としてのつき合いも終わりです。先生がもっていなかったらたぶん福井高校以外へ行っていたかもね。どっちがよかったか。それは君自身にかかっている。」 と書き残された。担任と達志の間になにがあったのか知らない。親の直感としてはこの先生と達志とは合わなかったのだと思う。達志が本当に心を開いたのは,達志を溺愛した祖母と同じように徹底的に優しい先生であり指導者だった。小学校の橘高先生やサンボーイの藤本監督のように,そのままの達志を受け入れてくれる方を慕った。そして指導者として強く導こうとするタイプの方には彼なりの意地をはって生きていた,と思っている。息子だと強く感じる。愛おしい。


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中島達志の思い出17 投稿者:中島正志  投稿日:12月31日(火)


平成4年(1992年)

 中学3年の後半、これまであれほど何事にも一途だった彼が手抜きをし始めている。3学期,1月25日の校内マラソン大会の記録から読みとれる。15位,21分35秒では,1年次の2位,21分00秒の同一人とは思えない。遊んだなと言う感じがする。
 進路に悩んだ結果は他の学校は受験もせず,大阪府立福井高校に進学した。そしてあれほど愛した野球を捨てた。親は相談役にもなれなかった。悲しい思い出である。  


 高校に入学する前の3月に達志は鹿児島の親戚を尋ねて一人旅をした。てみ子が梅田のバス停まで送っていき,夜行バスで鹿児島へ,そこでは従兄弟の伸也君が迎えにきてくれた。この旅行は彼にとって貴重な体験となった。亡くなる前,大智の結婚式に鹿児島の前田敏子義姉さんが出てくれたとき,達志は近い内に鹿児島を是非訪ねたいと,敏子義姉さんにくどいほど言っていた。後で死の予感が言わせたのかと私は思った。




 彼の日記の最初である。ここだけはそのまま紹介したい。

 '92.3.28土
 9:00頃,伸ちゃんに起こしてもらった。もう甲子園は始まっていた。

 今日は満叔父さんと貴子さんと伸ちゃんにゴールドパークと武家屋敷,それと知覧に連れて行ってもらった。こっちの方は歴史関係が多く,知覧は特に俺にとってはパッパラパーだった。でもゴールドパークの地底ステーションのあの深さとモービルジャンボやロードボルダンプの現代機械の凄さにはなかなか驚いた。やはり機械という物はものすごい。

 武家屋敷に向かう途中の砂浜は結構有名だったらしいけど俺にはさっぱり。伸ちゃん達は三大砂丘に入る,入らないと言い合っていた。お母んはどっちというだろう?知覧で特攻隊の飛行機を海から引き上げたという物があったが,とにかく悲惨という感じ。兵隊の着る服があったがよくあんな物を着て戦ったという感じ。

 帰りは貴子さんが車を運転したが少し不安だったかなと言う感じ。

 夜は千鶴子叔母さん達はどこかにいって,満叔父さんは送別会ということで家には三人。お祖父ちゃんは早く寝た。

 今日,心に決めたことだが考えたことはすぐに実行すると決心した。


3月29日
 今日は香代子さんのところと利夫叔父さんのところへ行った。行く途中フェリーに乗ったが,まったく桜島が見えず物足りない気分。だけどバクハツするのを密かに期待していた俺。海岸沿いに少し走った。めちゃめちゃ感動。海のはてしなさを見ていると,人間の小いささと大きさの両方が感じ取れた。

 昼は少しシャレた店で食べたがスパゲティというものは食べにくい。焼きそばの方がいいかな。夜は焼き肉,なかなかよく食べた。
 今日の一番の吃驚は伸ちゃん達の頭の後ろに俺と同じ出っ張りがあったこと。本当に従兄弟なんだなと感じた今日。



3月31日
 昨日,書けなかったから今日は二日分だ。昨日,敏子叔母さんの所にタケノコ掘りに行った。叔母さんは見つけるのがうまかった。僕は掘るだけ。

 敏子叔母さんは寂しそうだった。香代子ちゃんは結婚したし,利久さんは大島に5年間も。あの家で一人,太郎(亡き義兄が可愛がっていた犬),お前はしっかり叔母さんのことを看てくんだぞ。叔母さんの顔,体を見ていたらしわがいっぱいで俺は泣きそうだった,いや泣きたかった。最後に叔母さんに,もう会えないからと言われた。叔母さんは違う意味で言ったのだが。僕には,一生あえない予感がした。

 それから桜島に行った。海の景色が凄く良かった。

 俺もここに住みたいと思ったが,こっちにきたらみんなに無駄な気をつかわせるだけだろうと思った。

 夜遅くまでドンジャラ。伸ちゃんが隣に寝た。


 今日は,朝からJRの48時間ストで・・・・。貴子さん香代子さんはどうしたんだろう。伸ちゃんは辞任式。驚いたことに鹿児島は高校の合格とか先生の異動が全部新聞にのるらしい。ただ凄い。

 昼,まち乃叔母さんの働いているワシントンホテルの三十三間堂に食べに行った。メニュウが何がなんだかわからなくてきしめん御膳を頼んでしまった。失敗!

 夕方,六時頃,車の中で兄貴のウオークマンの充電器を忘れたのに気付いた。やっぱり俺はどこかに行ったら何かを忘れる。

 最後まで迷惑をかけた。おみやげも叔母さん,伸ちゃんがたくさんくれた。

 楽しかった鹿児島,満叔父さん,千鶴子叔母さん,敏子叔母さん,利夫叔父さん,まち乃叔母さん,伸ちゃん,貴子さん,和代さん,ほんとうにありがとうございました。

 お祖父ちゃん,まだまだ生きてな。


4月1日
 朝七時頃,大阪梅田駅到着。家に電話したらお祖母ちゃんが出た。(以下,省略)

(よほど嬉しかったのかすぐ福井に電話してきた。声が弾んでいたのを思い出す。)
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中島達志の思い出18 投稿日:2003年 1月 2日(木)


平成4年(1992年)

 大阪府立福井高校に入学が決まったものの,不本意な高校という意識が強すぎて勉学に対する意欲は最初から最後までなかった。
 鹿児島旅行でも気持ちは切り替えられなかった。

『4月5日の日記,
 ・・・・省略。
 家に帰ったのは7:30だった。お母んが言った,「あんまり夜うろついたらあかんで」。うるさい,俺ばっかり。

 夜に「お母ん,バイトしたい」言うたら,「あかん」。ふざけんな。前まで「自分でお金ためなさい」,言うてたやろ。そして,「そんなん言うてたら心臓とまってしまいそうやわ」,とお母んが言った。なんという親や,俺もお母んが心臓悪いのわかってるけど,俺は親が子に向かって言う言葉じゃないと思う。子に心配させてそれでいいんか。そのことで俺らが気をつかってやりたいことが何も出来なくなってしまう。いいかげんにむかつく。』


 こんなすれ違いの繰り返しの3年間だった。

 野球部の先輩や仲間が達志を野球部に入れようと説得したが無駄だった。柔道部に入った。気の強い達志には,個人競技が向いているかも知れないと思った。昇級(段)試験も順調に合格し,10月14日には初段になった。指導にこられていた年輩の方を尊敬していた。しかし,柔道部は1年も続かなかった。部顧問の教師と上級生達が喧嘩し,達志は上級生に同調し柔道部を辞めた。それ以後,部活はせず,時々,大阪市淡路にあったボクシング・ジムに通った。そのためにお金がいるらしく,2年になってからはアルバイトが主の生活になっていた。

 入学して間もない頃,達志は停学処分を受けた。何があったのかと驚き福井県からとんで帰った。知り合いの一人が多数によって袋だたきにあうところを達志が「卑怯なことをするな,やるなら1対1でやれ」とケンカの中に割って入った,それが停学の理由だった。家に様子を見に来られた担任から理由説明を受けた。その時も今もその行為がどうして停学に価するのか理解出来ないが,達志の物怖じすることのない正義感の強さをあらわす事件として強く印象に残る。この今の言葉で言えば「いじめ」の被害者はあまり友人もいなかったようである。その彼の親からは達志に迷惑をかけたと詫びる電話があり,その後その彼はしばらくして転校した。私や達志には高校の規則や指導方針に対する不満が残った。




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中島達志の思い出19 投稿日:2003年 1月 3日(金)

 平成5年(1993年)

 1年の最後は,ジムに行くための資金を貯めるために新聞配達やエキスポランドのバイトと大忙しのようである。

『平成5年3月12日の日記
・・・・・省略。
 おバアがしんどい言うとる。死ぬんちゃうか。俺らのメシの用意はちゃんとしてくれよる。どんなにしんどくとも俺らのためにやってくれよる。俺はいい家庭に生まれたんか,そうでないのか,まったくわからん。』

 この日記帳には3人の友人の電話番号のほかに,私の宿舎と大学の電話番号が大きく書き込まれていた。


 勉学は低空飛行,アルバイトに明け暮れる生活。ミドリ電気の配送の助手をしていた。

 『8月4日(水,晴れ)の日記
 今日のバイトは内田さんで,車の中で話していたら「娘を大学に行かせるために,休みは1年間で1週間くらいや」言うてた。凄いと思った。やっぱり親というもんは俺らが考えている以上に凄い。そう考えたら俺はやっぱりアホな息子やな。

 俺の親も内田さんに絶対負けへん親で,何で俺みたいなやつが生まれたんかわからんぐらいの親で,これからの俺の生き方の手本になるのは確かや。

 お父ちゃんは一人福井で大学の教授をし,週末たまに長い道のり,日曜だけこっちにいるために車を走らせて帰ってきよる。月曜の朝,まだ真っ黒の中を福井に戻る。

 お母んは仕事が終わってから俺らのメシをつくって,家のことをして,俺のわがままをきく。なんで親は俺みたいな息子のために一所懸命になるんやろ。俺はこの親になにをしてやれるかわからん。ま,何にもしてあげられへんやろな。ありがとうしか言えへん。』


 この後すぐ私とてみ子は鹿児島へ出かけた(平成5年8月6日(金))。久しぶりの里帰りというより,私の研究のため姶良火山(2.5万年前の大噴火で陥没し姶良カルデラ(鹿児島湾)になっている)から噴出した火山灰,溶結凝灰岩の採取が主な目的であった。

 鹿児島へ直行するフェリーが満席だったので,別府までのフェリーに乗った。この日,鹿児島は記録的な集中豪雨に見舞われた。敏子義姉さんの郡山の家は浸水し大被害を受け,鹿児島行きのフェリーは運休していた。それほどの被害とはつゆ知らず私たちはのんびり阿蘇を廻って鹿児島の満義兄さんの家に着いた。途中で何回か義兄さんに電話したが鹿児島地域は見舞い電話が殺到し混線していたためか,全く通じなかったので,着いたときは大騒ぎになっていた。

 その日の達志の日記,『バイトから帰ったらまだお母ん達は鹿児島・・・と書いた瞬間,電話がなった。どうやら無事のようだ。おバアの声が明るいので上にいてもすぐ分かると書いていると,おバアが下から「お母さんから電話があったで」,「ふん,どうでもええわい」。ほんま素直になれへんやつや。それを聞いてか兄貴も活動しはじめたようや。ほんまに親に似て心配性の固まりやな。』


 鹿児島の親類の方々には多大な心配と迷惑をかけることになったが,私の方は大雨で水量の増加した宮崎県の渓谷でそれなりの恐怖と戦いながらも最低限の試料採取をすませた。この時の溢れる川水が渦巻く河岸での試料採取の様子を写したスライドは何回も学会発表で使った。日暮れが迫る中,鹿児島への帰途,てみ子と二人で車窓から見た虹の美しさは忘れられない。この時の研究成果は,後に藤井純子君の学位論文に連なる仕事へと発展した。試料採取後,のんびりするまもなく,近づいてきた2つの台風に追われるように鹿児島をさった。


 達志がたまに学校で情熱を燃やしたのは文化祭のような行事の時だった。1993年9月25日発行の文化祭を振り返った文集に次のような文を載せている。『みんなようがんばってくれた。文化祭当日は最後の最後まで,ここをこうしてくれ,ああしてくれ言うて,やっぱりこうしたらよかったとか,いろいろ思いながら終わってしまった。今日ビデオみたらすごくよかった。充実感がある。今日の文化祭に神経を使って頑張ってくれた人は,ビデオを見たときオレと同じように思っているやろう。まあ,しんどかったけどこの充実感を味わえるのはオレ達だけや。協力しなかったやつは最低なやつじゃないかわいそうなヤツや。』 同じ文集に中尾君は,『・・・・。はっきりいって今考えてもオレがいなくても,中島や長田がおったからうまいこといったと思う。』と書いてくれている。



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中島達志の思い出20 投稿日:2003年 1月 4日(土)

平成6年(1994年)

 高校3年,6月16日の体育祭,応援団で燃えていた。応援団員が着る衣装のデザイン,製作も自分たちでやった。達志たちが出来ないところを母やてみ子が手伝った。残された何枚ものスナップ写真の満足げな顔から成功したことがわかる。

 その夜,彼らは打ち上げの飲み食いではめをはずした。その何日か後,後輩がその打ち上げの時のスナップ写真を高校内で落とし,先生に見つかった。そして高校生の飲酒がばれた。芋蔓式に露見し,達志たちは停学処分となった。達志は2回目,今回はそれほど驚きもしなかったがうんざりした。調べに対してどう答えたのだと尋ねると,「酔っていたので何も覚えていない。」で押し通したと言う。他人は巻き込まないと言う,達志の意志はすぐに分かった。


 夏休みに,島根県の自動車学校で合宿して運転免許をとった。バイクは絶対駄目と禁止していたので,その不満は大きく,免許を取りたくてたまらなかったようだ。仮免許証を紛失したり,修了までに予定より時間がかかったりで金を送れと言ってきた。たまたま山口県や島根県に試料採取に出かけたので,達志を自動車学校に尋ね金を渡した。親ばかである。


 卒業するのがやっとという成績だった。当然,進学も就職も無理,本人は卒業後1年かけてやりたいことを見つけ専門学校にでも行くと気楽なものだった。卒業文集には,『高校3年間,自分にとっては空白の思い出でもあるし,貴重な思い出でもある。ほんまにふざけた学校でとうとう最後までなじめへんかった。これだけ何もなく面白くない経験ができたのは大変貴重やったと思っている。これからはこの貴重な経験を生かして頑張っていきたい。』と書いた。正直な気持ちだったのだろうと思う。


 車を運転したくてたまらなかったようである。卒業するまでは駄目という私たちと絶えず口喧嘩になった。とはいえ拒否ばかりしていても,すぐに卒業し,勝手にへたな運転をされるよりと思い,時間があれば私が横に乗って運転練習をさせた。

 1995年1月17日の早朝,福井に戻る前,達志の運転で箕面に向かっていた。5時47分,車がハンドルを取られたように揺れた。パンクと思いすぐに停車させ車外に出た。近くの,看板が揺れていた。神戸方面の西の山が短時間,朝焼けのように真っ赤になった。地震とは分かったが,あれほどの大地震とは知らず,万博の外周道路に出て自宅に戻った。名神は通行止め,171号線も車はすでに全て停車していた。裏道を通り自宅に戻った。

 落ちてきた食器で,てみ子は軽いけがをしていた。7時ごろ,もう一度グラッと大きく揺れた。我が家の被害は壁にヒビ割れが多く,特に浴室はひどかった。水が満杯の浴槽が大きくずれていた。この日,もちろん福井には戻れなかった。大学浪人中の大智が受験用の健康診断に行く予定の病院には交通手段がなく,急遽,近くの警察病院で受診した。空いていた。テレビが伝える報道により,時間がたつにつれ,被害の悲惨さが明らかになっていった。








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中島達志の思い出21 投稿日:2003年 1月 4日(土)

平成7年(1995年)〜

 大阪府立福井高校を卒業してすぐ,福井に一人でやって来た。一泊しただけだった。私を大学に送った後,一人で車で海にでかけた。子どもの頃,よく連れて行った越前海岸である。寝に行くのだと言ったが,ゆっくり大好きな海を眺めながら将来のことを考えたかったのだと思っている。しかし,結論のでないまま4月からアルバイト生活を始めた。


 いつからかシゲムラ建設で働きだしていた。社長は我が家の隣のマンションの住人だった。達志を可愛がって呼びに来てくれる社員の方も近くに住んでいた。社内旅行まで誘いにきて下さっていた。専門学校へ行くのか,正式に働くことにするのか迷っていたが,いつまでも私の扶養家族として健康保険などを使えないということから,1年後の平成8年からシゲムラ建設で正式に雇ってもらうことになる。地盤改良工事が主な仕事とする会社だった。朝早くから出かけ,作業服をどろんこにして夜遅く帰ってきた。洗濯はてみ子だった。


 このあたりからは,精神的には親とは全く関係のないところで達志は生活していた。平成8年(1996年)には会社の方々からスーツをプレゼントされ,上機嫌で成人式に出席している。専門学校進学は頭から消えたようである。シゲムラ建設はそれなりに彼に合っていたのだろう。遊びも,ここでいろいろ教えてもらった。最初にのめり込んだのはジェットスキー,軽トラックにジェットスキーを積み淀川へでかけていた。その軽トラは4輪ともアルミホイルをつけていた。ささやかな達志の見栄である。パチンコ,競馬,ゴルフ・・・・なんでも適当に経験していったようである。




 平成11年(?),それまではシゲムラ建設の中島班だったのが,中島組として形の上ではシゲムラから独立し,達志は経営者になる。このあたりの事情は私達にはよく分からない。不況下に会社が生き残るための一つの方策なのだろうと理解している。年齢に似合わぬ大きな責任に押しつぶされないことを願っていた。


 いつごろからか同じ会社に勤めていた黒川啓子さんとつき合っていた。そして,平成12年3月,結婚することを私たちに認めさすために,啓子さんを連れてきた。私は初対面だったのに,随分,きついことを質問した。私たちからみてまだまだ子供としか思えない達志と結婚して本当にやっていけるのかという心配であった。二人の決意は固たかった。隆一君の学校の事を考え,4月に新居に移り入籍した。結婚式の代わりに,7月2日に両方の親と兄弟が集まって,京都ホテルで食事会を行った。


 平成14年3月10日,兄大智の結婚式,普段こんなに兄弟意識が強かったかなと不思議に思うくらい「俺が弟だ!」と頑張っていた。義姉にはくどいほど鹿児島へ隆一達をつれていきたいと・・・・・。そのころ達志は中島組をもっと発展させるためにいろいろ考えることがあったらしく,金を貸してくれと言ってきた。大金だったが,彼が親に正式に申し込んだ始めての借金だった,すぐ振り込んだ。彼はその金の使い方をいろいろ迷っていた,そしてあの5月・・・・・。


 
 ただ思い出を風化させたくないという想いだけでここまできました。書くたびにいろいろな思い出がよみがえり,こんどはその何分の一しか書けない文章力の不足に腹が立ちました。改めて,ここまでつき合っていただいた皆様に厚く御礼申し上げます。






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