広岡さんを偲んで 2

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月31日(月)20時03分4秒

   たった三年間であんなに長くなった。50年分をこの調子で書いていれば大変な量になってしまう。自分史も兼ねてとという厚かましい思惑はすて、できる限り広岡さんの事だけになるようにしてみようと思う。といっても広岡さんと所属を異にするようになってからは、それぞれの交際範囲が増え、時たま交差する関係者とのことを時間立てて思い出すのは至難であり、必然的に書けることもすくなくなる。

 Webで「nkysdy:広岡公夫」で検索すると広岡論文の共著回数と共著者名が分かる。それによると、169:広岡公夫、28:酒井英男、23:中島正志、10:川井直人・・・・となっている。「nkysd:中島正志」では76:中島正志、23:広岡公夫、22:藤井純子、12:川井直人、10:夏原信義・・・・であった。このデータの意味はそれなりに面白いが、広岡&中島は常に共同研究者であったと言えるだろう。

 広岡さんの福井大学への転任は1971年の1月だったので、私たちは1970年中はせっせと試料採取に励み古地磁気研究に打ち込んだ。広岡、中島、夏原で出かけた北海道サンプリングは、学部4年生だった鳥居くんの協力もあり翌年にはJGG論文になった。考古地磁気による地磁気永年変化の解明のため、全国各地の古窯の焼土採取や三宅島での溶岩採取なども実施している。

 1970年の9月から11月に広岡さんは川井先生と時枝さんとでイランに出かけている。その間に福井大学に行く前に学位論文を京都大学理学部に提出しろという話になり、私と夏原君で今までの考古地磁気測定結果の最終整理や図表の作成を分担した。広岡さんの必死の追い込みで「Archaeomagnetic study for the past 2000 years in southwest Japan」として結実した。この学位論文は今も考古地磁気年代推定のための最も重要な基礎資料として使われている。

 この年の寒い日、アメリカからの研究者夫婦を広岡さんの車に乗せ、私は技官の田中さんの車に乗って城崎にサンプリングに出かけた。サンプリングが終わり宿に向かう夕暮れ時、田中さんが橋を見誤り、車は川へ。車は3回転して橋桁にぶつかり停止した。割れたドアの窓ガラスから脱出したが寒さに震えた。転落中、こんなことで死ぬのかと不思議に冷めた気持ちだった。広岡さんも田中さんも学生の私がもしケガをしていたら大変なことになっていたろうと、顔色がなかったことを覚えている。

 忙しさに紛れ広岡さんと分かれる寂しさを紛らわしていたが出て行かれたあとの古地磁気測定室は侘しかった。夏原君や鳥居君たちとよく酒を呑んだ。夏原君の家で酔い潰れていた1971年2月10日、父が急死した。葬式には広岡さんや時枝夫婦が福井、松江から駆けつけてくれた。

 広岡さんは阪大時代はビールも酒もほとんど呑まなかった。しかし、福井に奥様たちが来られるまで酒屋の2階を間借りされていたためか少しずつ酒を呑むようになられた。

1971年7月5日〜7月20日,72年5月28日〜6月20日
「伊豆・小笠原・マリアナ弧状列島に沿った古地磁気永年変化の研究および古地磁気,K-Ar,Srアイソトープ比の測定による弧状列島の成因の研究」
学振日米科学 日代表:小嶋 稔(東大助教授)、米代表 R.T Merrill(ワシントン大助教授)、座主繁男(東大技官)、広岡公夫(福井大助教授)、川井直人(阪大教授)、青木豊(東大院生)、中島正志(阪大院生)、E.E. Larson(コロラド大教授)、R.L.Reynold(コロラド大院生)、S.Levi(ワシントン大院生)

 1971年と1972年には上のような日米共同研究に参加した。この時の記録は
 TN&TN's Blog(2015年7月14日)「海外調査の思い出(3)−パガン、サイパン、グアム」に詳しい。

 阪大・福井大は地磁気永年変化、東大は年代測定やアイソトープ比の測定、米国組は岩石組成や古地磁気とそれぞれ得意分野が少しずつ異なるが、研究への興味は重なっていて結構よいチームだった。この調査で、東大やワシントン大、コロラド大の研究者たちと一緒に調査をして、阪大グループの研究方法や技術にそれなりの自信を持てたことが最大の収穫だったように思う。
  当時、火山岩の古地磁気測定で確かめたいと思っていたことを、パガンでいろいろやってみた。後に結論が出たものもあるが、検証できなかったものもある。写真をみているとそのいくつかの試行を懐かしく思いだす。広岡さんも私も若かった・・・。
  為替が固定レートだったのは1972年まででこの旅行が最後でした。そして、大学院生を研究者として遇し正規の調査隊員にしてくれる最後ということでした。その後は大学院生を海外に連れて行くときは臨時に教務職員に採用した形にするようになった。学生では事故が起きたときの保障ができないからという理由らしい。


 この日米共同研究は私の学位論文にも繋がるだろうという思惑が私や川井先生にはあった。しかし、琵琶湖での200mコア試料の古地磁気研究という仕事が舞い込み事情は一変した。川井研究室の古地磁気関係者全てを動員しなければならない大仕事になり私はこれにかかりきりになった。コア試料を福井大学の積雪研究室に保管して貰った。そしてそのコアを夏原君が制作したカッターで縦半分に切断し、一辺2cmのプラスチックキューブを連続して埋め込み、それをコアから取り出し残留磁化測定用試料とした。この作業を福井大学で実施したので、広岡さんには随分お世話になった。
 測定しなければならない試料が6000個以上あり、皆さんの協力を仰ぐしかなかったが私はほぼ毎日、研究室に泊まり込んでいた。
 結果として「Secular Variation of Geomagntic Field in the Quternary」という学位論文になった。またもや夏原君が私のドタバタを見かねて図表の作成のすべてをやってくれた。また鳥居君、浅井君、高木君にも助けて貰った。本当に皆様のおかげでした。

 博士課程修了後の二年間(1973年、1974年)は日本学術振興会の奨励研究員として引き続き川井研究室で研究生活を続けた。東大海洋研と共同で、海洋からのコア試料についても測定を始めた。広岡さんとの協力関係は密接で多数の論文になって残っている。


1970年 城崎サンプリング




1971年 パガンにて






広岡さんとの共著論文
1.Kawai, N., Hirooka, K. and Nakajima, T., 1969, Palaeomagnetic and Potassium-Argon Age Informations Supporting Cretaceous-Tertiary Hypothetic Bend of the Main Island Japan. Palaeogeography, Palaeoclimatol., Palaeoecol., Vol.6, pp.277-282.
2.Kawai, N., Nakajima, T., Torii, M., Hirooka, K. and K. Yaskawa, 1971, On a Possible Land Block Movement of Hokkaido Relative to the Main Island of Japan. J. Geomag. Geoelectr., Vol.23, pp.243-248.
3.Kawai, N., Nakajima, T. and Hirooka, K., 1971, The Evolution of the Island Arc of Japan and the Formation of Granites in the Circum-Pacific Belt. J. Geomag. Geoelectr., Vol.23, pp.267-293.
4.Kawai, N., Hirooka, K., Nakajima, T., Tokieda, K. and Toshi, M., 1972, Archaeomagnetism in Iran. Nature, Vol.236, pp.223-225.
5. Kawai, N., Nakajima, T., Yaskawa, K., Hirooka, K. and Kobayashi, K., 1973, The Oscillation of Field in the Matuyama Geomagnetic Epoch. Proc. Japan Acad., Vol.49, pp.619-622.
6.Kawai, N., Nakajima, T., Hirooka, K. and  Kobayashi, K., 1973, The Transition of Field at the Brunhes and Jaramillo Boundaries in the Matuyama Geomagnetic Epoch. Proc. Japan Acad., Vol.49, pp.820-824.
7.Kawai, N., Nakajima, T., Hirooka, K. and Kobayashi, K., 1973, The Oscillation of Field in the Matuyama Geomagnetic Epoch and the Fine Structure of the Geomagnetic Transition. Rock Mag. Paleogeophys., Vol.1, pp.53-58.
8.Larson, E.E., Reynolds, R.L., Merrill, R., Levi, S., Ozima, M., Kinoshita, H., Zasshu, S., Kawai, N., Nakajima, T. and Hirooka, K., 1974, Major-element Petrochemistry of Some Extrusive Rocks from the Volcanically Active Mariana Islands. Bull. Volcanolog., Vol.38, pp.361-377.
9.Larson, E.E., Reynolds, R.L., Ozima, M., Aoki, Y., Kinoshita, H., Zasshu, S., Kawai, N., Nakajima, T., Hirooka, K., Merrill, R. and Levi, S., 1975, Paleomagnetism of Miocene Volcanic Rocks of Guam and the Curvature of the Southern Mariana Island Arc. Geol. Soc. Am. Bull., Vol.86, pp.346-350.
10.Levi, S., Merrill, R., Larson, E.E., Reynolds, R.L., Aoki, Y., Kinoshita, H., Ozima, M., Kawai, N., Nakajima, T. and Hirooka, K., 1975, Paleosecular Variation of Lavas from the Marianas in the Western Pacific Ocean. J. Geomag. Geoelectr., Vol.27, pp.57-66.
11.Kawai, N., Nakajima, T., Tokieda, K. and Hirooka, K., 1975, Palaeomagnetism and Palaeoclimate. Rock Mag. Paleogeophys., Vol.3, pp.110-117.


 

広岡公夫さんを偲んで 1

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月30日(日)08時45分5秒

   私にとって最も大事な人の一人であり、恩師ともいうべき広岡公夫(80歳)さんが、2018年12月24日の夜、突然に亡くなられた。通夜、葬儀が済んだ今も悔しく未練が残る。

 大阪大学基礎工学部材料工学科の学生だった時から、50年以上の長きに渡ってずっとお世話になってきた。基礎工は阪大の中でも新しい学部で材料工学科が開設された1962年に川井直人先生が京都大学理学部から教授として、その翌年、広岡さんが京大理学部の博士課程を中退し助手として赴任された。広岡さんは川井先生のまさに片腕で川井研究室の事務の全てを任され、超高圧物理と古地磁気学の研究に取り組んでおられた。
 広岡さんは3年生の学生実験を担当されていたが私は指導を受けた覚えがなく、実際に指導していただいたのは4年生(1967年)になって川井研究室に所属してからであった。
 川井研究室で、最初は澤岡助手のマイクロボンベを使った高圧実験の手伝いをしていたが、いつの間にか広岡さんの古地磁気測定室に入り浸るようになっていた。ここには広岡さんの他に修士課程の時枝克安さん(島根大学名誉教授)と測定補助の中路佳子さん(時枝夫人)がおられ楽しい雰囲気で研究が進められていた。大学院に進学する時もう一度高圧物理か古地磁気かの選択に迷ったがやはり古地磁気を選んだ。
 川井先生と広岡さんは京都大学では地質学鉱物学教室で古地磁気学が主な研究テーマだったが、基礎工では物性物理を教える学科なので「超高圧物理」が主たる研究テーマということになっていた。実際には広岡さんの主テーマは古地磁気学で、川井先生は古地磁気は趣味という感じだった。しかし、川井先生も私が古地磁気を選んだとき内心では喜んでくれていたと思っている。


広岡さん、川井先生、中島 1967年














 修士課程は忙しかったが充実していた。
 毎週のように堺市の泉北丘陵に分布し発掘調査がされた須恵器古窯にでかけ、考古地磁気用試料を採取した。研究室ではその残留磁化測定を手分けして続けた。広岡さんの学位論文となる地磁気永年変化の研究のためであった。この試料採取には技官であった夏原信義君も時々参加してくれた。夏原くんはその試料採取の方法を色々と改良・開発してくれた。現在の古地磁気試料採取・測定方法のほとんどは夏原君が開発してくれたものである。また当時大阪府の教育委員会にいた中村浩君(大谷女子大学名誉教授)とも親しくなった。

1968年12月10日〜69年1月22日
「セイロン島における考古地磁気の研究」
科研費 代表:川井直人(阪大教授)、広岡公夫(阪大助手)、時枝克安(阪大修士2年)、中島正志(阪大修士1年)の4人

 上の科研費が認められ、古地磁気研究を始めたばかりの私までインド、セイロンに出かけることになった。この時の記録は

TN&TN's Blog(2015年7月29日)「海外調査の思い出(2)−セイロン」

に詳しいのでここでは省略する。海外は初めての私や時枝さんの面倒を最後まで見てくれた広岡さんに感謝し続けている。


コロンボの考古学局にて






 広岡さんの家は大学の近くの池田市井口堂にあった。時々、そこでご馳走になった。奥様は美人で可愛く、いつも「中島くん」と呼んでくれ可愛がっていただいた。結婚記念日には必ずホテル(六甲だったか宝塚だったか?)にステーキを食べに行くという話が羨ましかったことを覚えている。

 修士2年(1969年)になって修士論文のテーマが「日本列島の折れ曲がり」に決まった。最初の「日本列島折れ曲がり」説は1961年のKawai, Ito and Kume 論文で公表された。この時は折れ曲がり時期が特定できていなかった。1960年代に河野・植田が根本列島の火成岩の年代測定を精力的に行い結果を公表していたので東北地方の花崗岩の生成年代が明らかになっていた。これらの岩石の古地磁気測定から日本列島の折れ曲がり時期を特定しようというのが修論の目的であった。
 東北大学の植田先生を訪ね年代測定結果が公表されている試料岩石の採取地点を地形図に写させていただいた。初めて他大学の教授室を訪ねた。物怖じしない厚かましい学生に呆れられただろうと後になって冷や汗ものだった事を思い出す。その地形図をもとに広岡さんに東北まで車を出していただき、試料を採取して回った。時枝さんも手伝ってくれた。その頃の広岡さんの車はサニー1000だった。
 その後も何度も広岡さんの車で試料採取のために全国を回った。それで私の車運転の師匠は広岡さんだと、かってに思っている。広岡さんの運転をいつも真似ていたように思う。

 この年、阪大の学生運動はピークに達し学部の建物封鎖まで行われた。封鎖期間中、私たちは試料採取にうちこんだ。秋まで続いた。運動家の学生達を好きにはなれなかったがピケ学生排除に出動してきた機動隊はもっと憎たらしかった。

 研究室の人の動きも慌ただしかった。京都大学で広岡さんの先輩になる安川克己さんが福井大学教育学部助教授から基礎工学部に助教授で転任してこられた。例によって「超高圧物理」を主として研究するという約束だった。福井大学の安川さんの後任として広岡さんが次年度に転出することが決まった。また時枝さんまで島根大学理学部に助手として就職することが決まった。中路さんも時枝さんと結婚するためにやめることになった。次年度からの古地磁気研究は私一人だと思うと肩の荷が重かった。

 年度末になってバタバタと追い込みをかけ修論を仕上げた。基礎工の修論は日本語で良いのに川井先生が英語でないとダメと勘違いして英語で書かなければならなくなった。苦手な英語を自分で書いていては測定が間に合わない。というわけで結局、英文は川井先生が書いたので論文だけ期日前に出来上がっていた。測定結果や結論は締切直前に間に合った。おまけに試料採取だなんだと出歩いたので、講義はさぼりっぱなしで修士修了に必要な単位が全く取れていなかった。学務からどうするのだと問い合わせがあり、慌てて先生方に単位を下さいと頼み回った。皆さんレポート提出で単位を出してくれた。たぶん古き良き時代の院生と教授さんとの関係だったのだろうと今も感謝している。(まるで久坂部羊の阪大医学部時代みたいだなと気付き、阪大は気楽なところがあったのかなと)

 修論はKawai, Nakajima and Hirooka でJGG(1971年)に投稿し受理された。








 

広岡さんの急死

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月27日(木)07時07分37秒
  TNにとって最も大事な人の一人であり、恩師ともいうべき
広岡公夫(80歳)さんが亡くなった。

 昨日、外出中、携帯に「広岡公夫」の表示、あれ珍しいとでると
息子さんから、「通夜」だと・・・。落ち着け、落ち着けと
言い聞かせながらもパニック状態。

 通夜、馴染みのお経だったので唱和しながら泣きました。

 急なことだったので、次男家族と親類の女性1人そして
TN、NN、HNの3人だけでした。寂しいけれど心のこもった
お別れの会でした。


2018年12月27日

今日の葬式
13時半から14時半
公益社 石橋会館


葬式

 長男と親類の方々が多数出席されました。富山大学、大谷女子大学、
福井大学、大阪大学の関係者も多数参列しました。

 なんで喪主や遺族をきちんと紹介しないのかなど葬儀屋にたいする疑問が
いくつも頭をよぎり疲れました。
 「家族葬」と呼ぶべきものの中に、広岡さんの友人や弟子が混じっている
という感じなのでしょう。町内(近隣)の人の参列が皆無の葬式は初めての
経験でした。だんだんこうなるのでしょうね。

 またTNがブツブツ言っていると広岡さんは笑っていたでしょうね。


夜、NN君と電話で。次は誰になるかは分からないけれど、各自、それなりの
準備をしておこうと。NNくんは知らせるのはTNとMT君だけで良いといってあると。
それならTNはNN、MT、JFの3人かな・・・。

広岡家は日蓮宗、TN家も同じなので、月参りやお盆などで読経しながら
広岡ご夫妻のことを思います。
 

タイヤ交換

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月25日(火)10時23分0秒

   昨日、スタッドレスに交換しました。プリウスになってからは
トヨタでして貰っています。4本で2160円、無理をして腰痛に泣く
ことを思って必要経費と諦めています。

 それで最近全くタイヤ交換をしていないので、プリウスの
ジャッキアップ・ポイントを知らないことに気付き、マニュアルを
みたが説明不足で理解出来ない。こんな時はネットで検索、
「プリウスのタイヤ交換」で幾つかあり、ポイントが分かりました。

 
 

頭医者青春期

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月23日(日)09時20分43秒
  「頭医者青春期」
加賀乙彦、毎日新聞社、1980年

 図書館でたまたま見つけ、著者の名前をどこかでみたことが有るような気がして借りてみた。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 加賀乙彦:[生]1929.4.22. 東京
 小説家。本名,小木貞孝。東京大学医学部で犯罪心理学と精神医学を学び,東京拘置所医務技官,東京医科歯科大学助教授,上智大学教授などを歴任した精神科医でもある。
1957〜60年にかけてフランスに留学し,それに取材した小説『フランドルの冬』 (1967) で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。『宣告』 (79) では死刑囚との交流をもとに,その極限の心理状態や獄舎の実態を描いて日本文学大賞を受賞した。ほかに,第2次世界大戦時の軍国教育を受けた少年が終戦時に体験した悲劇を描き,戦後の天皇制問題に一石を投じた『帰らざる夏』 (73) や,同大戦時の駐米大使,栗栖一家をモデルとする『錨のない船』 (82) ,新聞連載小説の『湿原』 (85,大仏次郎賞) など,重厚な長編が知られる。また,精神医学に関する著作に『死刑囚と無期囚の心理』 (74) がある。

 本名や仮名(と言ってもが小木→古義といった程度ですが)入り混じっていて何処までが事実で何が創作か分からないけれど多分自伝なのでしょう。主に東京拘置所医務技官時代の話が描かれている。時々、医者らしい傲慢さが鼻につくが話は面白い。拘置所では後に学位論文「日本に於ける死刑ならびに無期刑受刑者の犯罪学的精神病理学的研究」に結びつく仕事をする。受刑者を研究材料としかみていないような気がして、エリート医者はやっぱり嫌だなという気持ちも湧いてくる。

 非常に多種多様な読書をしている人らしい。頭も良く切れる。運も強い。

 著者には「1943年4月、100倍の倍率を突破して名古屋陸軍幼年学校に入学」という経歴がある。ここでフランス語を学んだという話が出てきて、幼年学校はナポレオンを崇拝するので有名だったというような話にはあの日本陸軍がと吃驚でした。

 さて他の本も読んでみましょうか? あまり気が進まないかも・・・





 

やっぱり師走

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月21日(金)10時11分40秒

  今週に入ってから毎日何かがあり気忙しい。

昨日は近所の親しい人がバイクでひっくり返り
病院に送ってくれと言うので吃驚して車をだしました。

あばら骨にヒビが入っていてコルセットで固定。
この程度ですんで良かった!

夫婦二人の生活、どちらかがケガでもしたら大変です。
他人事ではありません。


 

灰谷健次郎

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月17日(月)08時31分48秒

  の本を久しぶりに読みました。

「島物語」、理論社、1999年、です。

 灰谷の本は「兎の眼」で感動し、大好きです。児童書と認識していたので子供や孫に読ませたいと思っていましたが誰も読んでくれませんでした。

 「島物語」を読みながら、これは大人が読んで色々考えるべき本で児童には難しいだろうなと感じました。
 児童書というのはどういう物を指すのかなと考えさせられます。読者対象が児童なのが児童書と単純に考えていたのですが、そうでもないようです。児童について書かれていれば児童書、これもちょっと違うようです。

 まあ、いろいろ考えさせてくれる本でした。




 

クリスマスイブニング

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月16日(日)08時40分38秒

   梅花女子大学でイベント「クリスマスイブニング」が開催されていたので、散歩をかねてでかけました。大学は約20分の距離にあります。

 15時から澤山記念館のホールで、早稲田摂陵高校の「マーチィング」、梅花女子歌劇団「Xmasパフォーマンス」、プロ歌手・演奏家4人による「クリスマスコンサート」、梅花中学・高校チアリーディング部レイダースの「チアリーディングパフォーマンス」を楽しみました。

 レイダースのパフォーマンスは今年は何回も見る機会があり、すっかりフアンになっています。いつ見ても感動です。
















 クリスマスコンサートは2人のソプラノ歌手とヴァイオリン、ピアノの計4人の演奏。みなさん若く美人でした。大阪音大卒が3人で1人は大阪教育大卒でした。


クリスマスコンサート










  早稲田摂陵高校のウインドバンドは大活躍でした。摂陵高校は男子校と思い込んでいたのに全員女子高生だったので吃驚しました。
 普通科に吹奏楽コースというのがあって全員女子らしい。このウインドバンドは吹奏楽のパイオニアとして50年前に創立された「阪急少年音楽隊」の伝統とサウンドを継承するものだそうです。知りませんでした!


音と光のハーモニー 早稲田摂陵高校ウインドバンド















 

センチュリーのコンサートに

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月 8日(土)08時50分45秒

  日本センチュリー交響楽団「第231回定期演奏会」に。

12月6日(木)19時〜 at ザ・シンフォニーホール

  茨木市の「広報いばらき」で定期演奏会へ100名の無料招待の案内があり、応募しました。無料なので予想通りの2階席の後部座席でした。双眼鏡が役に立ちました。
 どこがこの費用を負担しているのかと調べましたが良くわかりません、市ではないような、となるとセンチュリー? 客の入りは7割程度、満席とはいえません。大丈夫なのかなと大阪府から資金を断たれた楽団が心配ですが、文化庁やアフィニス文化財団の助成金を獲得しているようです。

 指揮 川瀬賢太郎は「題名のない音楽会」に何遍も出演している有名人ですが、実物を見るのは初めてでした。身振り手振りが大きく、絵になる指揮ぶりでした。

 今日の最大の見所はチェンバロ演奏でした。奏者のマハン・エスファニハは今最も注目されているチェンバリストと作家の有栖川有栖が紹介しています。演奏された「ナイマンのチェンバロ協奏曲」は日本では初演だったそうです。
 チェンバロは見るのも聞くのも初めてでした。まずその音色に吃驚です。ピアノのような鍵盤楽器なのに、弦楽器のような音が???
 家に帰って調べると「ピアノではフェルトで被われたハンマーが弦を叩きます。つまり打弦楽器です。これに対してチェンバロでは、プレクトラム呼ばれる長さ5〜8mmほどの小さなツメが、弦をはじきます。つまり撥弦(はつげん)楽器なのです。」とありました。 不思議な魅力的な音でした。熱演でした!!

 オーケストラの定期演奏会では当たり前なのかどうかは知りませんが、トークが一切無いというのは寂しいものでした。佐渡裕や藤岡幸夫、大植英次などが指揮するコンサートでは、彼ら自身のトークで聴衆を楽しませてくれるのにと不満が残りました。

 行くときは雨でしたが、帰りはやんでいました。あちこちでソフトバンクの携帯不通が話題になっていました。







 

西本願寺と東本願寺

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月 4日(火)11時03分40秒

   クリスマスの日が(て)の母の命日なので、12月に京都にでかる機会があれば西本願寺に御参りに行っています。今年は1日に雅楽演奏会があったので、この機にと思い御参りしました。
 土曜日なので有名な紅葉名所は人出が凄いだろうと敬遠し、西本願寺の近くを散歩することにしました。観たかった「龍谷大学龍谷ミュージアム」は展示替え期間中だったのか休館していました。それではと、今まで一度も行ったことのない「東本願寺」と「渉成園」によることにしました。

 東本願寺は城のような石垣があり、建物は西本願寺と比較して何となくケバイ感じがしました。家康が寄進したというので家康の趣味かなと思いました。

 渉成園は東本願寺の飛地境内地(別邸)で池泉回遊式庭園が美しく気に入りました。四季の花も綺麗なようです。パンフレッドに園内に咲く野草まで紹介していました。



 初めての東本願寺だったので、西本願寺と東本願寺の関係について調べてみました。本願寺の相続争いに家康がつけ込んで、1602年に東本願寺を寄進し、東西に分かれたらしい。家康が秀吉を憎んだドロドロとした怨念の歴史を紹介したのがありました。京都の歴史は深いです。


(YAHOO知恵袋 浄土真宗の西本願寺と東本願寺の「西」と「東・・・の回答)

京都に豊国廟(秀吉の墓)があります。秀吉死後朝廷から「豊国大明神」が送られ豊国神社に神として祭られていました。これら豊国廟と豊国神社の正面に本願寺があります。生前秀吉は本願寺をすこぶる大切にし保護していました。自身の死後に神となった後守りとして墓の真正面で今の西本願寺の場所に本願寺を誘致し建てさせています。大明神秀吉の守りとして本願寺が当初は存在していました。

しかし、大明神となった秀吉に家康がどのようなことをしたかと言うと、明治時代に豊国廟が発掘されたさい、秀吉と思われる遺体が発見され、平民と同じ埋葬方式で粗末な壷に屈葬された遺体が発掘され、家康によって埋葬され直した痕跡が判りました。家康は神となった秀吉を引きずりおろしたのです。また豊国廟にある方広寺は秀吉の氏寺だったものを家康は秀吉と敵対していた天台宗の寺に変えさせています。

  更にこれだけではなく、秀吉の墓と豊国神社の真正面にあって秀吉を守る意味をもたせていた本願寺との間に、知積院を家康は建てさせています。これは秀吉が焼き討ちしたねごろ衆の寺で秀吉を最も憎んでいる人達の寺です。しかも、この寺を建立するうえで、秀吉の長子鶴松の菩提寺・祥雲寺を壊してこの地に建立させているのです。恐ろしくなるほど死者へ徹底した封じ込めを行っています。

  この一環で本来秀吉の死後の守りとして機能させていた本願寺を2分させ災いが徳川家に及ばないようにしたものです。本願寺を移動させると徳川家に災いが及びます。そこで、秀吉封じと絡めて、秀吉を守る西本願寺に東(家康)の息のかかった東本願寺を設置させる配置を作ったそうです。



西本願寺








西本願寺の伝道院




西本願寺から東本願寺につきあたる道




東本願寺








渉成園















 

雅楽、トーク、ジャズ

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月 3日(月)11時37分7秒

   12月1日(土)、京都劇場で開催された「音輪会 第19回雅楽演奏会」に出かけました。成就寺さんが鳳笙の演奏者という縁で随分前にも一度、雅楽演奏会に出かけた事がありますがどんなものだったかすっかり忘れているので、初めてと同じです。

 16時30分開演で4時開場なので15時15分では早すぎるかなと思っていたのに、既に行列が出来ていました。全部自由席だったからなのでしょう。会場はほぼ満席でした。音羽会のメンバーの家族や知り合いの方が多いためか、まるで学芸会の雰囲気だなと思いました。

 成就寺さんは鳳笙の主管演奏者、奥さんは鳳笙の演奏者でもあり舞もされました。

 1千年を越える日本の伝統音楽『雅楽』のなんと単調なこと、管絃も舞楽もです。同じ旋律が延々と繰り返され、同じ様式の舞が延々と続きます。流石に眠たくなりました。ぐっすり寝てしまえばスッキリするのでしょうが中途半端でしんどかったのです。

 譜面というのも6音だけで表される単調なものらしい。

















 12月2日(日)、大阪で開催中の「第32回日本エイズ学会学術集会・総会」の一般向けイベントの「エイズ啓発スペシャルトーク」に出かけました。久坂部羊という好きな作家と、その友人の中野徹というので、是非、実物をみてみたいという好奇心からです。
 前日の雅楽演奏会とは異なり、がら空きの聴衆で、中央公会堂が広いので寒々とした感じ。しかしトークは久坂部「節」が炸裂し結構熱くなっていました。エイズとまったく関係ない二人が呼ばれたのはエイズ学会会長・白阪拓磨も阪大医学部の同期だということかららしい。なんだというネタバレのアホらしさ。「現代医療が救える死、救えない死−それを知った上でどう生きるか」といういつもの久坂部の本のテーマなので、既知感がありました。まあ、「医療が出来ることは限られているので、あまり期待せず、いつか必ずくる死を自然に受け止められるような心構えを」というような話だったのかな。


 15時にトークが終わったとたん、若い人達がどっと増えました。次のイベント「JUZZ CONCERT」が目当ての人達でした。

 15時から17時半までコンサートが予定されていたのですが、大阪大学と高槻市立冠中学の演奏だけを聴いて16時に帰路に。冠中学の演奏は清々しく気持ちが良かったです。清々しいジャズというのもちょっと変かな・・・、でも好きでした。

 ジャズは楽しかったのですが、前日の雅楽の記憶も強烈で、自分の中で音楽が混乱し今日はもうダメと切り上げました。














 

新聞記事

 投稿者:TN&TN  投稿日:2018年12月 2日(日)18時14分50秒

  昨日の毎日の朝刊に下のような記事が出ました。
内容から父親とはTNの大学・大学院時代の友人・Kのことだとわかり
悔しい思いをしました。人の弱みにつけ込む詐欺師に憤り
を感じます。というようなことを親友のNNにメールしたら
朝日の記事を送ってくれた。それには息子の名前は実名で
出ています。確かに借金をした息子が馬鹿なのですが・・・・、
武士の情け(?)はないのでしょうね朝日には。