苦海浄土 5(最終)
投稿者:TN&TN
投稿日:2018年 1月28日(日)16時08分12秒
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第3部
石牟礼が尊敬し慕った細川一医師が昭和45年10月11日に死去。石牟礼が細川と直接話せたのは四,五回だけだが、細川の業績や人柄に深く魅せられていた。臨終が間近に迫る頃映画「水俣」に細川一家を撮ろうと東プロダクションは企画したが断られ、映画スタッフは石牟礼が細川と会う場面だけでも撮りたいと依頼するが、断り続けたという。石牟礼の細川への敬慕がそうさせたのだと思う。
見舞ったとき「あの子供たち・・・・ずいぶん大きくなったでしょうね。どうしていますかしら・・・」と聞かれる。細川カルテにあった胎児性水俣病の子供たちのことである。元気にしていますと言えばそらぞらしい。「おおきくなりました」と。
第3部は川本輝夫が中心になって話が進む。川本は何回も水俣病認定申請を出した上で自力で認定を勝ち取る。その間もそれ以降も「隠れ水俣病」患者を掘り起こし認定を勝ち取るサポートを続ける。水俣病市民会議や告発する会の会員にも「隠れ水俣病」患者を見つける臭覚を持つ人がでてきて川本に協力する。昭和46年(1971)10月6日になって川本輝夫らが新たに認定された。
川本グループの患者は昭和46年にチッソとの直接交渉(自主交渉)を開始する。告発する会や学生は全力で支援に当たる。しかし市民会議には突出する川本グループへの支援にためらいが見られた。
7月3日の自主交渉のテープ記録が601頁〜609頁にある。チッソと患者たちのやり取りは興味深い。
同年11月には自主派グループはチッソ水俣工場前で座り込む。12月には自主交渉の場を東京本社4階に移す。本社から強制排除された学生支援者は本社前路上にテントを設置。朝ビラまき、昼は4階チッソへ交渉要求の申し入れ、夕方街頭カンパとフル稼働。
「支援者は患者の前に出ず下働きに徹すべし」と熊本水俣病を告発する会は抑制的な方法論で全面支援。石牟礼は「このような運動ではいかにおのれを無にして働くかが自分の志への唯一の踏み絵となる。ことに水俣病受難史の中では、筆者などは、一種の羞恥に頬かたむけながら隠れて働く人々に助けられ続け、ほとんど患者なみに手厚い保護さえ受けて余命を保ち、このような文章を書き、いたずらに虚名のみを残すことになる」と書く。1972年の6月に白内障手術を受けることになる石牟礼は本社での自主交渉中からほとんど左目は見えていなかった。
支援者には、吉野源三郎、丸山邦男、なだいなだ、矢内原伊作、望月優子、木下順二、野坂昭如・・・・など多数の著名人。なるほどと納得する人が多い。
川本が検挙されたとき、救おうと支援者に抗議書への蓮著の依頼の電話をかけ続ける石牟礼に一人の著名氏が、「あなたはそういうことをせずに、じっと辛抱して書くべきですよ作品を。多数の人間の、役にも立たない抗議文書より、一人の人間の思いをこらした文学がどんなに効果を発するか。あなたも知らないわけはないでしょう」と忠告したという。そのおことばは胸に応えた。応えすぎた、と石牟礼。
自主交渉を支援するの「告発する会」のメンバーや学生達は、カンパや支援のための広報に全力でしかも無償で取り組んだ。しかし、患者たちの受け止め方は様々だった。集まったカンパが支援者たちの「給料」になっていると誤解したり、カンパ金は全学患者に分配すべきと考える人が多かったらしい。支援に必要な経費(印刷費を含む情宣費、電話代など)が高額支出になるということについては理解出来なかったらしい。
1973年3月20日には、熊本水俣病第一次訴訟に対しても原告勝訴の判決が下された。すでに熊本県で水俣病が発生したあとに起きた新潟水俣病の場合と異なり、熊本での水俣病の発生は世界でもはじめての出来事であった。そのため、熊本第一次訴訟で被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はない」と主張していた。判決はこれについても、化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するとして、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした。
「判決前後、弁護団と県民会議は、全国の社・共連合戦線と総評系労働運動を背景として、患者の闘いを「水俣病裁判勝利」と祝う全国公害反対闘争のおまつりさわぎの中にからめとろうとして、判決前後、全国的に大動員をかけている。しかし注目すべきなのは、その中で日共の指導権が日増しに強化されていることである」。 それまで何も支援してこなかった日共は、患者の闘いを、党派的利害のために成果を収奪しようとするハゲタカであると、日共を毛嫌いしている。日共は大学紛争の時にも同じことをしていたなと私は理解する。
判決後、自主交渉派と訴訟派の患者がチッソと交渉するのを支援する「告発する会」は訴訟弁護団や県民会議と決別した。社・共連合戦線と総評系労働運動のように組織の論理で行動する団体と、患者個人の救済を最優先に考えるグループとの確執が露骨になった勝訴判決だったのでしょう。
チッソと自主交渉派13名と旧訴訟派29名のチッソとの第一回交渉は昭和48年(1973)年3月22日にあった。これもテープ記録としてこの本に掲載されている。よく練られた交渉戦術がうかがえる。
第3部があつかった昭和45年から48年の間にも多数の水俣病患者が亡くなった。石牟礼はそれらの人々の死をいかにも彼女らしく詩的に記録した。
長い長い読後感になりました。読むのが辛かったけれど、読んでよかったと思っています。水俣病や石牟礼道子のその後についても調べてみようと思います。
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