母への詫び状
投稿者:TN&TN
投稿日:2015年 2月 8日(日)15時21分14秒
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『母への詫び状』 藤原咲子著、山と渓谷社、2,005年
この本の書評としては下のもので十分だとは思う。
(http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072700753.html)
新田次郎と藤原ていの長女が赤裸々に綴(つづ)った半生記。中国東北部で終戦を迎え、母は生まれたばかりの著者を背負い、二人の男児の手をひき、北緯38度線を越え帰国した。引き揚げの壮絶な体験記「流れる星は生きている」は、幼子を守り抜いた母親の強靭(きょうじん)な精神と愛情を記したとしてベストセラーになった。
しかしこの本を12歳のときに読んだ著者は、衝撃を受ける。「背中の咲子を犠牲にして二人の兄を生かす」の表現などから、「私は愛されていなかった」と母への不信感を募らせる。
先年、同書の初版本を偶然書庫で見つけ、著者に宛(あ)てた「ほんとうによく大きくなってくれました」の母の温かい言葉に、凍えた心は一気に溶けた。今は認知症に侵された母に著者は絶叫する。「逝ってはダメ。やっと戻ってきた咲子だよ。もう少しそばにいたいの」。母との確執を克服するまでの魂の軌跡は、読む者を浄化するだろう。
[評者]多賀幹子(フリージャーナリスト)
『父への恋文』(藤原咲子、山と渓谷社。2,001年)と『わが夫 新田次郎』(藤原てい、新潮社、1,981年)を読んだ今、『父への恋文』から4年しか経たない間に、母との確執を克服したとする本筋の話以外にも気になることがいくつかある。
1.藤原ていは『流れる星は生きている』の出版や映画化に際し、新田次郎は貧乏生活を抜け出すために渋々賛成したと書く。本の内容についての新田次郎の役割には夫婦共に一切触れていない。だが、その本を再読した咲子は新田次郎がこの本の構成を手伝ったとすぐに確信する。少なくとも編集者の役割を果たしていたと。そしてあとがきを読み、母が母の日記をもとに書き上げ、事実をもとにした一編の創作であり、小説として書かれたのだと、やっと納得する。それまでに40年以上の年月が必要だった。
母と咲子の関係が主題の本なのにどんな場面でも父・新田次郎がでてくる。『父への恋文 2』でもよかったような。
2.咲子の結婚生活が気になる。「私は、いくつかの恋をして、同数の失恋をして、結婚をして、その結婚にも失敗して、何十年と経た現在振り替える、何ひとつとして確かなものが手に握られていないことに愕然とする。」と書いている。
咲子が大学4年生で失恋した時、ていが無理矢理結婚話をすすめる。そのまま押し切られ結婚し子供もできた。しかし、夫を理解出来ず悩む。そんな時、「無理をしなくてもいいよ、父」というメモをみる。その時、すでに精神的、肉体的限界に達し、体重は激減していた。(多分この時に離婚し:これはTNのかってな想像でした)実家の近くの吉祥寺に移り住む。新田次郎は娘を気遣い頻繁に娘の家を訪れている。メモを残した2年後新田次郎は心筋梗塞で逝った。
咲子が『父への恋文』をようやく出版できたのは父の死後20年経ってからだった。
WEBでも色々調べたが、咲子の夫や子供がどうなっているのか不明のまま。『わが夫 新田次郎』には、吉祥寺の娘の家を買ったのは藤原ていで、「昭和53年春、私たちは又自宅の近くに家を買った。それも大きな借金をかかえ込んで。」と書いている。そこへ娘一家を横浜から呼び寄せた。新田を喜ばすために。新田は毎日、散歩の帰途必ずそこにより、5歳と2歳の孫に昔話を一席話したという。ていが娘の夫への悩みを知っていたのかどうかは不明。
3.父が捕虜収容所に送られたため、母は数多くの死体が横たわる中、一人で幼い二人の兄の手を引き、生まれたばかりの咲子をリュックの中に隠して、命からがら引き揚げ船に乗り込んだという。咲子や二人の兄、それぞれがその時の恐怖を異なる形で記憶している。
咲子は、ほどけかけたリュックの隙間から見えた北極星を覚えていて北極星を見るのが恐怖だった。リュックの白いひもがトラウマとなり、運動会のゴールの白いテープの前で立ちすくむ。
次兄・正彦は、今も川を渡らないし泳がない、という。
長兄・正広は、新田の死後、次兄から旧満州への旅が発案された時、「そういう感覚が俺にはわからない・・・・」と憮然とした表情で吐くように言ったという。
親たちにもむろん苦しい記憶がある。ていは、「この三人の子供達に私たち夫婦は、引きあげのことは、ひとことも話してやらなかった。いつの間にかそのことは禁句になってしまっていた。心の底流には、いつもそれを持ちながらも、その傷痕はあまりに深すぎて、日常の平和な生活の中で、心して黙殺していたのである。」と書いている。
4.藤原てい、なかなかの人だと思う。最初は料理が下手でちょっとがさつい人のような感じをもったのだが、男性的な決断力、行動力があり夫を深く愛した素晴らしい女性のようだ。
凄い女性だなと感じたのは、例えばまとまった収入を得たときさっと家が買える決断力。また、夫の死後、その遺志を尊重するためとはいえ、スイスに出かけアイガー・ユングフラウ・メンヒが一望できるクライネ・シャディックに遺品を埋める。その時、記念碑を建てると決意しスイス政府と3年がかりの交渉の後に実現する。(そんな事情を知っていたら先年スイスに行ったときに訪れておきたかったと悔やまれる。私たちはその周辺の花に気をとられ時間ぎれで新田次郎記念碑はパスしていた。)
また私財を全て投げだすつもりで文芸家協会に新田文学賞を設立を願う。文部省の許可も得た。新田次郎への思慕の深さに圧倒される。
その人が何故娘の深い心の傷を感じることができなかったのだろう?
藤原(新田)一家はそれぞれが『流れる星は生きている』の体験を原点として、精一杯生きたし生きている。もう少し彼や彼女たちの本を読みその生き様を見てみようと思う。
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