------ トップへ ------

品川宿見廻り


【京急青物横丁駅集合】〜【海雲寺】〜【品川寺】〜【天妙国寺】〜【街道松】〜【清光院】〜【目黒川〜東海禅寺】〜【細川家墓所】〜【品川神社】〜【荏原神社(貴船明神)】〜【品川宿本陣跡】〜【虚空蔵尊(養願寺)】〜【利田神社・鯨塚】〜【品川浦】〜【土蔵相模跡】〜【問答河岸跡】〜【品川で兎忠】/番外編【品川宿昭和コレクション


品川宿見廻り概要図
↑西↓東/南←→北


平成17年3月19日

与力たきざわ,目黒の彦十さん,じゅうべいさん,四谷の孫四郎さん,上方小僧さん,本所のご隠居さん,飛び込みのおはるさん,千住の竹蔵さん,やーまさん,菊花さん,土田謙之進忠友さん,克五郎さん,みかさん,闇雲のこづえさん,疾風のお久さん,大川端の仁さん,神楽純さん,立葵さん,初音町のえんまさん,

平成17年3月19日の土曜日午後1時半,見事に晴れ上がって気持ちの良い午後。京浜急行青物横丁駅の二階改札口前に続々と年齢性別服装不問の怪しい人影が集まって参ります。うーむ,周囲に人が少ないだけに異様な光景(笑)
この集団,いわずとしれた(?)平成の火付盗賊改メ密偵たち,本日の探索は品川宿がターゲットでございます。鬼平的には本所や深川といった定番スポットからは少々離れた宿場町。とはいえ,実は意外と登場回数もあったりする品川宿。再開発の波からぽつんと取り残されたかのような旧東海道,本日はこの旧東海道を中心に見廻りを進めてみたいと思います。
さて,青物横丁駅を出まして,まずは多くの車が行き交う第一京浜へ。
歩道を南へ歩きますと,道を挟んだ反対側には海晏寺の山門が見えてきます。それなりに由緒あるお寺でございますので,こちらも立ち寄れば宜しいのでしょうが,今回は場所だけ確認して通過。その海晏寺の正面からは当時の参道であろう細道が左に伸びておりますので,そこを左折。すぐに旧東海道に行きつきます。左に曲がれば集合場所の青物横丁駅に一旦戻るコースではありますが,旧東海道の散策,まずはここからスタートすることに致しましょう。
旧東海道は第一京浜の一本東側の道路で,こちらは道幅もそう広くはなく,車の通行も少なめ。近代的ビルが建ち並ぶ第一京浜に比べると両側には古い建物も残っていたりして,一見地味な通りではございます。


この色(紺色)の文字は,原作「鬼平犯科帳」からの引用です。

海晏寺
海晏寺を横目に歩きます。



鬼平 【海雲寺・千體荒神堂】

海雲寺本堂
海雲寺の本堂。小さいながらも見ごたえたっぷり。
旧東海道
道幅は,ほぼ当時のままと言われる旧東海道。
第一京浜から旧道に入った一行,少し歩きますとちょいと左に奥まって海雲寺の山門が。
大きさはさほどではありませんが,とにかく施された彫刻が見事なのでございます。小さな山門とはいえ,これだけでも見て損はありません。門を潜った境内はこざっぱりと開けておりまして,右手の鐘撞堂がまた素晴らしい彫刻の嵐。そして正面にある立派なお堂が千體荒神堂でございます。
品川区教育委員会の説明書きによれば
「千體荒神王は火と水の神として,また台所の神としても有名である。堂内に懸けられている扁額は信徒の奉納によるものであり,全部で27面ある。文字額及び雌雄二鶏図が多く,格天井の中央に龍の図が,その周りに纏図が描かれている。(後略)」(引用)とされていました。実際中に入ってみると見事な扁額の数々に目を奪われます。
鬼平でも「顔」の中に
「この寺の境内にある千体荒神堂は『霊験あらたか・・・』だというので,参詣の人びとが絶えぬ。」(引用)と書かれています。今でもお祭りのときにはかなりの人が集まるようですが,普段の土曜日,参詣の人びとはほとんどおりませんでした。

海雲寺本堂の天井
本堂の天井には纒図がずらり。
海雲寺鐘撞堂の彫刻
鐘撞堂の彫刻の一つ。見事です。

ところで境内にはもう一つ気になるものが・・・ん?平蔵地蔵?「よもや長谷川平蔵の地蔵では」とよく見れば,これが全く無関係(笑)
お地蔵様の横には説明書きがありましたが,要約すれば「鈴ケ森の刑場の番人をしていた3人の乞食。その一人であった平蔵はある日,大金を拾い正直に役所に届けた。ところが仲間の2人は「こっそり山分けすればよかったのだ」と平蔵を殺害。財布の持ち主だった仙台屋敷の武士は,平蔵を気の毒に思い地蔵を作って供養した」ということになりましょう。んー,乞食であれ旗本であれ,平蔵と名の付く人物は立派なものでありますが,それにしても悲しい物語ではございますね。
平成の火盗改メ一行,平蔵地蔵に合掌して次なる目的地,すぐお隣の品川寺(ほんせんじ)に向かいます。
平蔵地蔵
平蔵地蔵でございます。



鬼平 【品川寺(ほんせんじ)】

品川寺山門
品川寺の山門。手前には大きなお地蔵様もいらっしゃいました。
品川寺の大銀杏
本堂の脇には実に見事な大銀杏も。
海雲寺からすぐ,道の左側に大きな品川寺の山門が見えてきます。海雲寺に比べると非常に大きなお寺で,外から見ても境内にはちょっとした林があったりと,別世界な感も。山門を入ってすぐ左手には大仏?大きな地蔵様が鎮座ましましておりまして,こちらが江戸六地蔵の第一番。
品川寺は大同年間の開祖とされ,品川宿でも最も古いお寺なのだとか。品川寺のホームページによりますと
「弘法大師空海上人(774年〜835年)が東日本を教え,導いた時,この地の領主,品河氏に授け,以来,応永2年(1395年)品河左京亮の代まで代々同家に伝えられました。同年,足利・上杉の合戦(上杉禅秀の乱)で品河一族は滅び,それ以後は,草堂に安置され「観音堂」と称され,町の人々の信仰を集めてきました。その後,太田道灌が,この地に勢力を伸ばすと,道灌は「水月観音」を信仰し,あわせて自分の持仏である「聖観音」像をここに移し安置しました。そして,長禄元年(1457年)道灌は,江戸城を築き,城に移るとき,この地に伽藍を建立し,「観音堂」を「金華山普門院大円寺と号しました。」(中略)「承応元年5月(1652年),将軍家綱公より寺領4800坪を拝領し,太田道顕の外護のもと一大伽藍を建立し,金華山普門院品川寺と改称する。のち山号を海照山と改める。江戸時代,諸大名の御祈願所となり,主に松平讃岐守,松平阿波守,太田備中守の三家の外護を受ける。」(引用)とのことです。
本堂の右手には樹齢300年といわれる大銀杏の樹もありました。近づいてみると大きな乳(というらしい)がいくつも垂れ下がっておりまして,なかなかの迫力です。
境内の左手には鐘撞堂がありまして,こちらもなかなか立派。海雲寺のように細かい彫刻があったりするわけではないものの,大きさは海雲寺をはるかに上回ると思います。このあたりのお寺は鐘撞堂に力を入れるんでしょうか(笑)

で,この鐘撞堂ですが,鬼平犯科帳の「顔」の中に登場しています。
平蔵にとっては高杉道場の先輩であり,20年前に切腹させられたハズの井上惣助,その「そっくりさん」(実は腹違いの兄弟)が隠れ住んでいたのが品川寺のすぐ脇。原作では
「井上惣助が住んでいるらしい家は,品川寺の鐘撞堂の南側の木立に接したところにあって,小さいながらも中二階がついている。品川寺の境内との境には塀も垣根もないので,鐘撞堂のうしろからも家の前へ出られる。」(引用)とされています。平蔵は地元のもと御用聞き・富五郎と共に彼の様子を伺い,お縄をかけるのでありました。
現在でも鐘撞堂の南側木立に接してアパートらしきものがありましたが,境内から直接入ることは出来ないように金網で仕切られておりました。まぁ当然といえば当然かもしれませんが(笑)少なくとも
「品川寺の鐘撞堂の南側の木立に接したところ」にアパートがあっただけでも「良し」とせにゃなりませんですね。
井上惣助らしき男の住処
鐘撞堂の南側には井上惣助らしき男の住処。

ところで,かの鬼平「誘拐」の中で,おまさが捕らえられている日野屋なる旅籠(盗人宿)。原作では
「品川の宿外れにある,海辺に近いところの宿屋」「平蔵は品川宿の南品川三丁目のあたりで駕籠を捨て,ぶらりぶらり歩みはじめた。三丁目と四丁目の境に,土地の人びとが『浜道』と呼んでいる細い道がある。日野屋は,この浜道を東へ入って行けばよいはずだ。」(引用)と書かれています。
あたしの持っている古地図に品川界隈が無いのでアレなのですが,現在の住所でいえば,この品川寺や海雲寺のある一帯が「南品川三丁目」ということになります。但し「四丁目」は後に訪れる清光院の方でして,何故か三丁目とは接しておりません。従って三丁目と四丁目の境がどのあたりだったのかはわかりません。
いずれにしてもこれといって問題の「日野屋」を特定出来そうな情報は無いのですが,宿外れの海辺ということから考えますと,ざっとこの界隈から若干海寄りのあたりにあったものではなかろうかと勝手に想像しております。



鬼平 【天妙国寺(妙国寺)】

天妙国寺
天妙国寺の本堂。しかし広い境内です。
品川寺を出まして,再び旧東海道を北上。間もなくの交差点から左を見ますと先ほど集合した青物横丁駅。ちょうどぐるりと一周してきたあんばいになります。交差点をすぎて更に北上しますと「畳松岡」なんていかにも老舗っぽい畳屋さんがあったりしてまして,その先左手,奥まったところに天妙国寺の山門が見えてきました。
天妙国寺の開祖は日蓮の直弟子・天目上人という由緒あるお寺のようででございます。広々とした(木が少ないからか,閑散とした・・・という印象もあったりしますが)境内の奥にある18世紀中頃に再建されたという本堂は実に立派で堂々としております。 このお寺,以前は妙国寺という名称でして,鬼平にも「妙国寺」として「消えた男」「見張りの見張り」「顔」に,更に「天妙国寺」として「霧の朝」に登場しているようです(鶴間のもくさん調べ)。
「見張りの見張り」では,大滝の五郎蔵が,平蔵ら火盗改メに隠れて単独行動をした際の様子を
「東海道を引き返しはじめた大滝の五郎蔵は,妙国寺門前を通りぬけ,南品川四丁目へさしかかった。」(引用)と書いています。

当時の古地図を参照出来ないのでアレですが,品川宿の裏道というのは,東海道に対して山側にあったのだと思います(東海道の海側は,結構すぐに海だったと思いますので,道があったとしても歩行者の姿は目立つと思います)おそらく御殿山方面から現在の第一京浜に近いルートで品川に入り,現在の青物横丁駅手前付近から妙国寺を経て東海道に入ったのではなかろうかと想像しております。



江戸 【街道松】

天妙国寺のちょいと先,左手に小さな公園のような場所がありました。手前に植えられている松は三島市から送られた街道松なのだとか。見れば土蔵っぽいつくりの雪隠もあったりしまして「ここぞ江戸ゆかりの品川宿である」を主張しております。雪隠の雰囲気としては深川江戸資料館近くの「居酒屋風」に近いかも(↓笑)

雪隠?
土蔵風の雪隠。


で,この公園の向かい側あたりが問屋場だったと思われます。そもそも問屋場とは何ぞやといわれますとあたしもあまり詳しくは無いのですが,要は宿場における人馬や飛脚をとりまとめ,その手配を一手に行っていたところであろうと思います。
街道松
とても小さな街道松。

また,いわゆる幕府大名が使う継飛脚等もこの問屋場を中継点としていたかと記憶しております。つまり宿場町における「宿場機能」の総元締め的な役所だったということになりますね。
鬼平では「顔」の中で,捕らえた「嶋田の惣七」らを連れて行った自身番,原作には
「自身番のとなりは,品川の問屋場になっている」(引用)と書かれていますが,宿場町としてのこうした一種の公的機関が問屋場を中心にして建てられていたことが伺えます。



江戸 【清光院】

清光院の境内
清光院の境内は美しい日本庭園。
街道松の先で旧道からはずれまして左折。山側に向かってみたいと思います。
道の左右には昭和を強く感じる小さな飲み屋さんなんかも並んでおりまして,中には「座って飲める立ち飲み・中腰」なんて看板も・・・このあたりは「品川のあまりの素晴らしさに感動して作ってしまった」当ページ特別編「品川宿昭和コレクション」をご参照頂くとしまして(笑)その道をしばし歩けば国道(第一京浜)に出ます。
京浜急行新馬場駅を右に見ますと,先ほどまでの閑静なたたずまいから,こちらは一気に駕籠が行き交う現代国道の姿でございますな。
第一京浜を渡ってまっすぐ歩きますと,急に道幅が細くなります。なんだか今にも倒れてきそうな塀に沿って今度は右折。まもなく右手に清光院の山門でございます。山門をくぐった境内は,あたかも日本旅館の庭園の風情。要所要所に「灰皿」が置かれているのも昨今肩身の狭い喫煙者には嬉しいところでございます。でもって,まずは一服(笑)

大名墓地入口
築地塀に謎の石柱が入口。
大名墓地の中
さすが大名墓地,迫力が違います。

さて,ここの見どころはなんといっても墓地の奥にある大名墓地。この美しい庭園から左手に本堂を見まして裏手に抜けますと,一般の墓地が広がっておりまして,更にその奥にあるのが大名墓地でございます。
見事な築地塀に囲まれた墓地の入口には見たこともないような石造りの門が設けられてまして,重厚な空気が漂います。聞けば豊前中津藩奥平家の墓地なのだとか。
中に入りますと,まずもって大きな墓碑の数々。なんでも全部で89基もあるのだそうで,当時の大名墓地の雰囲気を色濃く感じることが出来ます。なんとなく日本というよりもアジアの景色を見ているよう。でもこれが江戸の景色だったわけですね。



江戸 【目黒川〜東海寺】

清光院を出ますと,北に向かって再び歩き出します。もう目の前には目黒川。右側が京急新馬場駅方面,つまり海側になりまして,左が山手。ゆるやかな流れの護岸はすっかり整備されきっておりますが,位置的には江戸の頃と大幅には違わないと思われます。もっとも更に下流に行きますと現在の品川橋のあたりから大きくコースが変えられてしまっているのではありますが・・・。両岸には桜並木もありますが,本日は残念ながら少々早すぎまして,つぼみもまだまだ固うございました。
目黒川を渡った先の交差点を右折。再び第一京浜方面に向かう右手に「東海禅寺」の立派な石柱。せっかくだから立ち寄ってみます。参堂は両側が生垣になっていて,これが実にきれいに手入れされておりました。境内は禅寺らしくこざっぱりとしておりまして,正面には原爆犠牲者の慰霊碑。この東海寺,もとはかの沢庵和尚により作られたもので,3代将軍家光のバックアップで栄えたようですが,明治以降は衰退。沢庵和尚の墓碑も残念ながら東海寺から離れたところにあるのだそうです。
目黒川
目黒川。桜の季節にはちと早すぎました。



江戸 【細川家墓所】

細川家墓所
名門(?)細川家の墓所に行ってみました。
ここで四谷の孫四郎さんから貴重な情報が。なんと,あの熊本城主「細川家」の墓所がすぐ裏手にあるというのです。こう聞いては黙ってられません(笑)
東海寺を過ぎてほどなく,右手には塀越しにうっそうとした林と墓碑がちらちら見えてきますが,残念ながらこちらからは入ることが出来ません。ぐるりと墓地の敷地を回りまして目黒川沿いの歩道へ。と,孫四郎さん,やおら歩道に面した民家の中に入って行くとインターホンで見学のお願い。うーむ,なんと一般民家の敷地を通らないと細川家墓所には行けないのでございます。孫四郎さんがいらっしゃらなかったら行けないところでした,本当に感謝。
で,その民家の脇を抜けまして奥に入りますと,いや,実に広い墓所が開けていました。周囲は樹木に覆われてしんとした空気が漂います。墓地の中には中央の通路を挟んで大小の墓碑がズラリ。もともとは細川家4代藩主が興した妙解院なる寺域の一部だったとのことですが,今では墓地だけがぽつんと残されたような感じ。
それにしても実に立派な墓地なのではありますが,正直な感想としては「もう少し手入れしようよ,細川さん」というところでして(笑)石柱が一部壊れているのは仕方が無いにしてもゴミが落ちてたりするのはいただけないかな・・・と。


 【品川宿見廻り】 第2部へ進む