第18回鬼平ゆかりの地巡りツアー 【四谷〜内藤新宿見廻り】 第1部

平成15年10月18日

与力たきざわ,四谷の孫四郎さん,目黒の彦十さん,千住の竹蔵さん,本所のご隠居さん,飛び込みのおはるさん,おたまさん,らんぐ亭ぱろおるさん,章奴さん,仕立て屋雷蔵さん,京屋悟雀さん,悟雀ハニーさん,あきさん,みかさん(戒行寺合流),飯撮りの伊佐寅さん,浮き雲のおかんさん(新宿合流),高飛車の満之助さん,菊花さん,代々木のふみさん(四ツ谷駅まで),みかんさん(四谷三丁目まで),


四谷〜内藤新宿地図1
四谷〜内藤新宿地図2


平成15年10月18日の土曜日。前回は「恒例・夏の屋形船」でたらふく飲んで食べて楽しんだ平成の火盗改メ一行。その一ヶ月程後となった今回は「ちゃんと見廻ろう」ということでの「四谷〜内藤新宿見廻り」でございます。
与力とお時間のあった一部の密偵の方々は一足先に集まって「新宿歴史博物館」を見学してから集合地点の四ツ谷駅へ。四ツ谷駅からは四谷の孫四郎さんの先導にて見廻り開始でございます。今回は小説にも度々登場する長谷川組組屋敷のあった界隈や,実在の平蔵菩提寺,その他「ゆかりの地」多数に加えて「剣客商売」ゆかりの地から四谷怪談「お岩さん」ゆかりの地まで盛りだくさんにてのお江戸散歩となります。お手引き下さる四谷の孫四郎さんが丁寧なコース図をお作り下さり,全員に配布。これがあれば百人力,後から見直すときにも非常に役立ちそうな資料です。
さて,うっすらと雲がかかっているとはいえ,時折晴れ間も見えるお天気の中,四ツ谷駅に集合した総勢19名は「火盗」の提灯も勇ましく,見廻りに出発したのでありました。

この色(紺色)の文字は,原作「鬼平犯科帳」からの引用です。

【オプション・四谷三丁目駅集合】〜【新宿歴史博物館見学】〜【四ツ谷駅集合】〜【秋山小兵衛旧道場】〜【西念寺】〜【天王坂〜東福院〜愛染院】〜【戒行寺坂〜宗福寺】〜【戒行寺】〜【西應寺〜勝興寺】〜【須賀神社】〜【本性寺】〜【お岩稲荷】〜【消防博物館】〜【全勝寺】〜【四谷組屋敷のあたり】〜【四谷の弥七宅「武蔵屋」】〜地下駕籠で新宿御苑駅に移動〜【太宗寺】〜【成覚寺】〜【天竜寺】〜【「咲くら」さんで兎忠




江戸 【オプション・新宿歴史博物館】

正式の見廻りの一時間前,お時間のある人だけでまずは「新宿歴史博物館」に行ってみようということになりました。番外ですし,館内撮影禁止でしたのでちゃんとしたご案内も出来ませんが,せっかくですのでちょっとだけ。
「新宿歴史博物館」は新宿通りの四谷と四谷三丁目のちょうど真ん中あたり,津の守坂より一本東側の道を北に切れ込んだところにあります。後の見廻りでも近くを通りますが,古地図ですと「御先手組」なんて文字も散見されるエリアでして,小説上の「四谷組屋敷」想定地点からもほど近いところ。細い坂道を下っていきますと,右手に近代的な博物館が姿を現します。入口の前には四谷見附橋の欄干なんかが飾られていて,中の展示内容にも期待が膨らみます。
入館料300円也を払って展示室に入りますと・・・コレが本当に充実している!古墳時代の出土品の展示から始まり,戦後の文学まで,まさに「新宿の歴史」を一覧出来るという趣向になっています。江戸時代の商家や昭和初期の長屋が再現されていたり,盛り場としての新宿の文化が紹介されていたり。
圧巻だったのは「内藤新宿のDiorama」で,四谷大木戸から現在の駅東口方面までの宿場町がミニチュアで再現されています。現在の新宿通りに沿って建つ旅籠や町屋。その裏側で畑を耕す農民。造り自体は簡素な部分もありましたが,往時の様子がよく伝わってきました。
他にも夏目漱石の原稿など「おっ」と思わせるものがたくさん。もっとゆっくり見たいところではありましたが,集合時間も迫って来ましたので,土器の「接合」実演をスタンバイして下さっていたおねいさんにも別れを告げて(笑)四ツ谷駅に向かったのでありました。

この博物館,本当に充実しています。興味のある方は一度足をお運びになってみては如何でしょうか。
新宿歴史博物館
こんなところに,こんな博物館があるんですね



江戸 【秋山小兵衛旧道場のあたり】

鯛焼き・わかば
さて,事前見廻りを終えて地下鉄四ツ谷駅の改札に向かいますと,既に怪しげな集団がたむろしています(笑)着物姿に提灯持参なんて,例によって周囲の人からチラチラとした視線を感じつつも参加者全員集合完了。四谷の孫四郎さんを先頭に,見廻り出発でございます。
まずは「鬼平」ならぬ「剣客商売」ゆかりの地へ向かいます。「四谷」「剣客商売」といえば最初に思いつくのが「秋山小兵衛の道場」でございましょう(もう一つ思いつく「四谷の弥七」は後からちゃんと行きますからね〜)。秋山小兵衛は引退して鐘ヶ淵に隠宅を構える前,四谷・仲町において自らの道場を営んでおりました。目指すはその「四谷・仲町」界隈でございます。
四ツ谷駅を出発しますと,新宿通りをしばし歩いて二つ目の小路を左へ。「四谷・仲町」という住所は,少なくとも「2.26事件」の頃まではあったようですが(斎藤実内大臣邸の住所が四谷仲町三丁目とされています)現在では若葉町あたりになりますか。


新宿通りから小路に入れば,その若葉町の名所「鯛焼き・わかば」さんの店舗が目に入ります。うーむ,歩き出してまだ数分だというのに女性(男性も?)密偵からは「美味しそう〜」の声が。いや,たしかに美味しそうなんですが,まだ歩きはじめたばかりですし・・・しかもさすがに人気店らしく,お店の中には列も出来ておりました。
で,問題の「秋山小兵衛の道場」があったのが,ざっとこの界隈だと想像されます。細道に区切られた閑静なところなのですが,あたりを見渡しますと目の前に「駿台予備学校」の四谷校及び「駿台個別教育センター」が。

少々無理があるかもしれませんが(笑)まぁ,道場つながりということで,この「駿台予備学校」さんを「秋山小兵衛の旧道場」ということにさせて頂きましょうか。当時から「鯛焼き・わかば」さんがあったとしたら四谷の弥七も稽古の後に寄り道してことでしょうね。
四谷・秋山小兵衛道場
今では剣ではなく学問の道場になっていました。



江戸 【西念寺】

松平信康慰霊塔
松平信康慰霊塔
今では学問に勤しむ場となった秋山道場を過ぎますと,しばし南へ。四谷の小径を突き当たって右に歩けば西念寺の角に出ます。左側の門から中に入ると意外に広い敷地の正面に立派な本堂が。
このお寺,その名になっている「西念」というのは,かの服部半蔵が仏門に入っての名前だそうで,開基はもちろん服部半蔵。服部半蔵が仏門に入ったのは,家康の長男・信康が織田信長から切腹を命じられますが,その際に介錯を命じられてそれが出来ず,悲運を遂げた信康の冥福を祈るため・・・という経緯があるのだそうです。境内奥の墓地に足を運びますと,その服部半蔵の墓碑に加え,松平信康の慰霊塔が残されています。

さて,ここで注目すべきは,その服部半蔵の槍が今でもこのお寺に残されているということ。事前に嘗めて下さった四谷の孫四郎さんの手引きにより,お寺の方がご厚意で我々にもその槍を見せて下さることになりました。

庫裡から本堂に入り,まずは仏様に手を合わせた密偵一同。本堂に置かれた「服部半蔵の槍」に目が釘付けです。現在では刃先や柄の一部が欠けてしまってますが,頂いたパンフレットによると,現在残っている状態でも「重さ7.5kg・長さ258cm」とのこと。実際には更に60センチ程は長かったであろうとのことです。恐らく実際にこれを戦場で振り回していたということは無いでしょうが,当時の服部半蔵という人物を強く印象づけられる貴重な槍だと思います。これは普通に見廻りしていたのではとても見られないもの,本当に貴重なものを見せて頂くことが出来ました。
服部半蔵の槍
手配下さった孫四郎さん,貴重な槍を快くお見せ下さった西念寺の皆さんに心より感謝です。



鬼平 【天王坂〜東福院〜愛染院】

西念寺で見せて頂いた槍の興奮も醒めやらぬままの一行でしたが,次は西念寺北側の小路を西へ。道なりに右に曲がって突き当たりを左折(わかりにくい書き方ですね・笑)しますと,左手に文化放送の建物。
一説にはもともとが教会だったとのことですが,詳しいことはわかりません。いずれにせよアール・デコな感じも「なきにしもあらず」な(笑)文化放送の建物に沿って再び左折しますと,眼前には「うわっ」という声が聞こえてきそうな急な下り坂。右の写真で見ると「そんなに?」と思われるかもしれませんが,いや,実際に歩くと結構な急坂なのでございますよ。

で,この坂が天王坂(東福院坂)と呼ばれているところでございます。道標によりますと「坂の途中に東福院があるから東福院坂」というのは,まぁいいとして(笑)天王坂の由来は「明治以前の須賀神社が牛頭天王社と称していたためこの辺りが天王横町と呼ばれていたことによる」のだそうです。天王横町(横丁)は「鬼平犯科帳」でも「泣き味噌屋」「明神の次郎吉」に登場します。
天王坂(東福院坂)を下って行けば右手に東福院,左手に愛染院でございます。
天王坂
天王坂。見た目よりずっと急勾配なのです。

東福院
東福院さんでございます。
坂の右側には東福院さん。往時の古い建物ではなく,いかにも現代風のお寺ではありますが,四谷界隈,こういったことは全く仕方の無いことでございますね。
「泣き味噌屋」を読み返しますと,同心・川村弥助の妻・さとについて
「さとの実家は喰違御門外の紀伊中納言屋敷の西側の通りに面し,栄風堂・和泉屋清左衛門という菓子舗であった」と書かれています。
物語で,さとはその栄風堂から組屋敷に帰るときに殺害されてしまうのですが,その時の記述に
「その坂道は天王横丁へつながってい,横丁を出れば麹町十三丁目の通りへ出る」「坂道の上の西側に東福院という寺があり,その寺の土塀と,南伊賀町との間に細い坂道があって」となっています。
古地図を見ますと「天王ヨコ丁」の文字が,麹町十三丁目方面から東福院と愛染院の間にある道の北半分に書かれていますので,
「その坂道」というのが「天王坂」にあたると思われます。

東福院さんの先,すぐ左手が愛染院さんになります。ここには「内藤新宿生みの親」とも言える高松喜六の墓碑が残されています。
そもそも「内藤新宿」は甲州街道制定後「日本橋の次の宿場が高井戸では遠すぎるんじゃないか」という意見を,浅草に住んでいた名主の高松喜六が上奏。高遠藩主内藤大和守の屋敷内敷地の一部に宿場を設けることを幕府に願い出て営業圏を獲得したもの。ひとことで「屋敷」って言ったって,当時の内藤氏の敷地はハンパじゃありません。四谷から代々木,大久保といった一帯が全て内藤氏の敷地だったらしく,これなら内藤氏も快く敷地を提供したものでしょう。ともあれ高松喜六をはじめとする事業家がここに宿場を形成したということですから,正に「内藤新宿生みの親」と言えるのではないかと思います。
愛染院は一見して広い境内で,本堂はもっと奥の方にあるようです。高松喜六の墓碑を見るというテもあったのですが,今回は雨も降り始めたことでして,門を見ただけで通過でござんす。
愛染院
こちらが愛染院さん。本堂はずっと奥。



江戸 【戒行寺坂〜宗福寺】

戒行寺坂
戒行寺坂を登ります。
晴女
衝撃スクープ!晴れ女の傘姿
photo by 章奴さん

天王坂を下りきったところで再び左折します。正面に須賀神社へ至る登り坂が見えますが,須賀神社は後で回りますので,まずは左に曲がります。ちょうど怪しい雲行きからポツポツ降っていた雨が少々強くなり始めまして,あたしを含む密偵数名は角の便利煮売屋にて傘を購入。500円也,少々高いかも(笑)
それにしても今日は前回の屋形船で強烈なパワーを発揮した「晴れ女」が居るはずなのですが・・・あ,ひょっとしてあのとき発揮しすぎたせいで・・・?
天王寺坂下を南東にゆるやかに曲がった道を歩くことしばし,今度は右手の坂を上ります。この坂が戒行寺坂。名前の由来になっている「戒行寺」は,鬼平ファンの方には有名な「実在の長谷川平蔵の菩提寺」でございますが,その前に「四谷正宗」のお墓を見に行ってみましょう。

宗福寺は戒行寺坂を上る途中の左側にありまして「四谷正宗」と呼ばれた人気刀匠・源清麿の墓碑があることで知られています。源清麿はもともと信州の出なのだそうですが,江戸末期に江戸の四谷に居を構えてから「四谷正宗」と呼ばれるようになったのでしょう。いわゆる文政の頃以降の新々刀で当時から非常に人気がある刀匠だったようです。墓地の中を覗くと,ちょっと目を惹く墓碑がありますが,これこそが四谷正宗のお墓。よく読むと戒名の下に「刀名・源清麿」とはっきり書かれています。

余談ですが「今宵の虎徹は血に飢えている」で有名な近藤勇の虎徹,実はこの源清麿が造ったものに偽銘を切ったものだという話を聞いたことがあります。当時で有れば虎徹よりは手に入り安いでしょうし,それもあり得るように思いますが,詳しいことは存じません。
四谷正宗墓碑
四谷正宗の墓碑。



鬼平 【戒行寺】

戒行寺
戒行寺さん。外観は何の変哲も無いお寺なんですが。
宗福寺のすぐ目の前(正確にはちょっと坂の上)道を隔てて右側に戒行寺があります。門だけ見ると,お寺というよりもちょっとお金持ちのお屋敷,って感じもしますが(笑)先にも書きましたように,ここは実在の長谷川平蔵の菩提寺でございます。古地図における戒行寺は,場所こそ現在地とほぼ同様ですが,敷地は現在よりもかなり広かったようです。お寺の集中する四谷界隈の中でも比較的敷地の広い部類に入るようで,宗福寺との関係から想像すると,現在残っているのは当時の南側半分くらいというところでしょうか。
戒行寺の門から本堂にかけての境内は,お寺というよりも「庭」という風情。そのお庭沿いに本堂の手前,右手に緑色の大きな石で造られた長谷川平蔵供養碑があります。

この供養碑は平成6年7月に建立されたもの。「長谷川平蔵宜以供養之碑」という文字の他,海雲院殿光遠日耀居士という戒名も書かれています。
戒行寺は長谷川平蔵(長谷川家代々)の菩提寺であることは間違いないのですが,残念ながら墓碑は残っていません。墓碑は明治の頃に杉並区の妙法寺に移されたとという話を聞いたことがありますが,あたしはまだ行ったことが無いのでわかりません。このあたりはもう少し調べて一度行ってみたいものだと思っています。

この戒行寺では,長谷川平蔵の命日にあたる6月26日から近い日曜日に,毎年「鬼平忌」を開催し,平蔵の供養をしているそうです。平成14年に「第4回鬼平ゆかりの地巡りツアー」で訪れたときが,正にその日でした。密偵の中でも昨年の「鬼平忌」に参加された方がいらっしゃいましたが,あたしも一度くらいは参加してみたいように思いますね。
長谷川平蔵供養碑
実在の長谷川平蔵の供養碑です。



江戸 【西應寺〜勝興寺】

戒行寺を出ますと,更に道をまっすぐ進みます。坂も終わり道が平坦になったあたり,左側が西應寺でございます。西應寺には幕末から明治にかけて活躍した剣客・榊原鍵吉の墓碑が残っています。江戸末期から車坂に設けた直心陰流の道場には数多くの外国人も訪れたとか。といっても実はあたしは榊原鍵吉に関する知識は限りなく少なく・・・どういうわけだか見廻り時に撮ったハズの写真も使えそうなものが無かったですので,大変申し訳ないことながら西應寺は写真無しということに・・・(汗)

山田浅右衛門
山田浅右衛門の墓碑。
で,その西應寺の前を右に曲がった小路へ。ちょうど先ほど通った天王坂の延長上にあたる道です。
この道を北に歩くと左側に勝興寺でございます。勝興寺の門を潜りますと,ぐるりと歩いた先に広い境内があり,左正面に本堂が見えます。本堂の左手に墓地が設けられてまして,その墓地の入口すぐのところに「山田浅右衛門」のお墓がありました。

山田浅右衛門といえば「首斬り浅右衛門」という徒名が知られているかもしれません。恥ずかしながらあたしも詳しいことは知らないのですが,とかく山田浅右衛門というと「試し斬り」というイメージがあります。
山田家は代々将軍の刀を試す稼業をしていたといいますが,試刀家として名を知られる一方では,罪人の首を斬るという役目も担っていたそうです。「首斬り浅右衛門」という呼ばれ方も安政の大獄の時に吉田松陰らを刑場にて斬首したことからついたものだとか。
そもそもが山田浅右衛門というのはあくまで世襲名になりますが,何代目だったか忘れましたが(汗)幕府のお墨付きが無かったため「朝右衛門」と名乗ったこともあるそうです。この墓碑には「七世山田浅右衛門」と彫られてありましたが,6代目朝右衛門も同じくここに眠っているのだそうです・・・あ,そうだ!6代目が「朝右衛門」だ!


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