第16回鬼平ゆかりの地巡りツアー 【千住宿見廻り】 第2部

【南千住駅集合】〜【小塚原刑場跡・延命寺・首切地蔵】〜【回向院】〜【素盞雄神社】〜【誓願寺】〜【山王権現】〜【千住大橋】〜【奥の細道矢立初の碑】〜【やっちゃ場通り】〜【千住歴史プチテラス】〜【高札場跡碑】〜【問屋場跡碑】〜【金蔵寺】〜【宿場町通り〜千住本町公園】〜【名倉医院界隈】〜北千住駅から東武線で関屋村(牛田駅)へ移動〜おはるの舟(水上バス)にて両国に移動〜【兎忠タイム(「ちゃんこ江戸沢」総本店)


江戸 【やっちゃ場通り】

再び日光街道に目を移します。現在の国道4号線は千住大橋を渡ったところでぐぐっと左に折れていますが,いわゆる千住宿の宿場通りは大橋から真っ直ぐ直線に延びていた形になります。現在でも大橋を渡ったすぐ右側には足立の青果市場があって,その前の細い路地が「やっちゃ場通り」と呼ばれています。「やっちゃ」というのは農産物セリの掛け声のことだとか。江戸時代にもこのあたりは農産物の集積場として繁栄し,セリの掛け声が盛んに響いていたものと思われます。当時の市場としての賑わいはなかなかのもので,草加・川越方面の農家からも出荷されていたそうです。
この「やっちゃ場通り」こそが,当時の日光街道。今では狭い一方通行の道路に見えますが,道幅もおそらく当時のままではないかと思われます。その旧日光街道は,一見ちょっと寂しげな路地のように見えますが,都内方向に向かう自家用駕籠の抜け道みたいな感じになってまして,実は結構交通量もあったりします。抜け道だけにスピード出してくる駕籠もありますから,徒歩の見廻りでは要注意。


やっちゃ場
現在の「やっちゃ場」。
やっちゃ場通り
今はごく普通の抜け道。もとの日光・奥州街道。

やっちゃ場通りに入るとすぐに「ここは元やっちゃ場南詰」と書かれています。「やっちゃ場」の解説や,往時の店の配置図なんかもありました。看板には「やっちゃ場とは多くの問屋のセリ声がやっちゃやっちゃと聞こえてくる場所(市場)から来たと言われている。古くは戦国末期の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり,江戸,明治と続き大正,昭和が盛んだったと伝え聞いている。(中略)昭和十六年末に第二次大戦勃発と同時に閉鎖となり,以来青果物は東京都青果市場へと変わって行き,やっちゃ場という言葉だけが青果物市場の代名詞として残った。」と書かれていました。

やっちゃ場の看板
此処はもとやっちゃ場南詰。
やっちゃ場の看板
やっちゃ場の朝・・・なのだとか。賑やかです。

この通りはそういった歴史を大切にしているようで,道沿いの会社やお店はもちろん,普通の民家やマンションにも木製の看板に往時の屋号が記されています。今でも同じように営業しているところもあれば,屋号の看板のみというところもありますが,ちゃんと普通の民家にまで屋号看板と「元●●屋」という表示が徹底されているのは面白いですね。



江戸 【千住歴史プチテラス】

さて,やっちゃ場通り=旧日光街道をしばし歩きますと,左手に少し奥まって真っ白な蔵。ここが「千住宿歴史プチテラス」。なんでも江戸時代後期に建造された蔵を移築したものらしく,現在は「区民ギャラリー」として活用されているようです。
当日も「手漉き和紙」の展示会が開かれていました。足立区郷土博物館のホームページには
「足立の農家は,江戸の街から排出される古紙を使った漉返紙(再生紙)づくりを副業として行いました。紙の漉き返しを行う農家には紙漉場が併設されています」(引用)と書かれています。後で訪れる宿場町通りの「横山家」も,もとは紙漉問屋だったのだとか。紙漉というのは,このあたりの小さな伝統産業として残ってきた可能性がありますね。
道路からは小ぎれいな庭を介して蔵へ。蔵も小さなものなのですが,その中に千住宿の資料やなんかも置かれているようでした。蔵の奥には更に小振りですが手入れの行き届いた,清潔感のあるお庭があります。手漉き和紙の展示会をしているだけあって,既に何名かのお客様も入っていましたが,我々も団体でお邪魔。急にどやどやと入っていったのですが,快く迎えて下さった係の方に感謝です。
千住宿歴史プチテラス
清潔感あふれるプチテラスなのです。

なにしろ「火盗提灯」を持っているわ,和服姿の人もいるわ,年齢層も幅広いわ,軍人さんもいるわ(笑)という集団ですので,何人かの方から「どういった集まりですか?」と声を掛けて頂きました。地元の方々の手作り展示館とでもいいましょうか,近くに来た時にはふらりと立ち寄るのも良さそうです。
「プチテラス」を出て,ほんのちょっと先の道路左側を注意してみると,ぽつんと建っている小さな四角い石。見れば「旧日光道中」「是より西へ大師道」等と書かれています。道標ってやつですね(作られたのは平成に入ってからですが)。「大師道」というのはちょっとわかりませんが,恐らく西新井大師に向かう道ということでしょう。江戸市中からはここを通って西新井大師に参詣したのでしょうか。なんか遠回りしているような感じもしますが・・・大川を渡る橋の関係なのかもしれませんね。


こんな看板も
こんな看板も発見。組で分けられていたんですね。



江戸 【高札場跡碑】

更にしばし旧日光街道を進みますと,墨堤通りとの交差点。交差点に面したコンビニの壁には,先程とは逆「元やっちゃ場北詰」の看板が付けられていました。屋号は「古谷・元お酒や・相洲屋」。見ればこのコンビニ,ちゃんとお酒も売っているではありませんか。どうやら江戸時代から「酒ありコンビニ」だったようでございます。

相洲屋
相洲屋の今。


墨堤通りを渡って更に更に進みますと,またまたやや広い道路と交差します。右へ行けば千住の町奉行所・・・じゃなくて警察署。で,この何の変哲もない交差点を,よ〜く注意してみると角にまたしても小さな四角い石が。こちらは「千住宿高札場跡碑」。高札場というのは,人目につきやすい辻などに設けられたもので,幕府や藩などから出される「お触れ」等を掲示していた掲示板でございますね。宿場を行き来する旅人も,このあたりに居を構える農民や商人も,ここで「役所からのお知らせ」を見ていたわけです。今で言えば,区役所や政府のホームページや官報,そういった機能とでもいいましょうか,公的機関の広報メディアであったといえましょう。
高札場跡
ぽつんと建っている高札場跡の碑。



江戸 【宿問屋場跡碑】

その交差点を渡ると「本町センター商店街」に入りまして,現在の宿場町も徐々に買い物客も多く,賑やかになってきます。
その本町商店街の入口を入って間もなく。駐輪場のすみっこを注視。またしても小さな四角い石を発見。今度は「千住宿問屋場跡」でございます。
問屋場というのは各宿場に設けられてまして,宿場に集まる荷物の運搬を手配したり,馬を常備して必要なときに各所に配置したり,駕籠の繋ぎを仕切ったり・・・要は宿場の事務局的な存在だったと思われます。現在でいう卸売業者,つまり「とんや」ではなく「といや」と読みますので,念のため。

問屋場跡
こちらも注意してないと見逃しちゃいそう。
本町センター
photo by 飯撮りの伊佐寅さん


本町商店街は,もうすっかり「地元商店街」の様相です。大型店「トポス」なんてのもあるのですが,その他は小さなお店が軒を連ねて,いかにも「昔ながらの商店街」です。いいお天気の日曜日ということもあってか,人通りも少なくはなく,なかなか活気があります。歩いてみれば「洋服をたくさん売っている呉服屋さん」や「海苔巻きが美味しそうな団子屋さん」等々・・・こういうのがたまりません(笑)このお団子屋さん「三好」さんでは本所のご隠居さんが参加者分のお団子を買って下さいました。



江戸 【金蔵寺】

ちょいと宿場通りから離れてみましょうか。商店街のトポスを過ぎたところで,一行は右手の細道に入っていきます。細道をしばし歩くと,急に左手に墓地が見えてきます。ここが金蔵寺。「かねぐらでら」じゃなくって「こんぞうじ」。
金蔵寺には,千住宿の飯盛女を供養する碑があります。「『飯盛女』とは何ぞや」に関しては,ここで説明するのもアレですから,原作を読んで頂くことにしましょう。「鬼平」の「怨恨」では「井戸屋にいるなじみの飯盛女おきぬと一夜をすごし」等と書かれています。必ずしも全員がそうではないとはいえ,決して恵まれた環境とは言い切れないお仕事。身寄りもなく食売旅籠で病に倒れた飯盛女も少なくはなかったことと思われます。そういった女性達を弔ったのが金蔵寺なのでしょう。病に倒れずとも,何かにつけては飯盛女たちの「駆け込み寺」存在だったのかもしれませんね。碑にはそこで働いていたのであろう遊女達の名前が「大黒屋」など,当時のお店ごとに彫られてありました。作品中何度か登場する「飯盛女」「食売旅籠」というものが,歴史上間違いなくこの一帯に存在していたという事実を,この碑は伝えているのだと,思います。

金蔵寺
金蔵寺
photo by 飯撮りの伊佐寅さん



江戸 【宿場町通り〜千住本町公園】

金蔵寺を出ると,更に細道に入ります。飯盛女でもいそうな雑多なお店の間を抜けて北千住駅に向かう路地へ。飲み屋さんが一杯です。道沿いには千住の竹蔵さんもオススメの居酒屋「千住の永見」さんや,あたしも何度か足を運んだ串揚げ屋さん「天七」等が続きます。

そんな居酒屋通りを抜けると右手に巨大な北千住駅。考えてみればここまでずーっと歩きっぱなしでしたので,予定では休憩タイムだったのですが,この先乗る予定の舟の時間などから休憩は断念。皆さんお疲れなのに本当に申し訳ありませんでした。せめてということで,約10分の雪隠休憩。とりあえず,めいめい「あちこちや」さんのアイスモナカだの缶コーヒー等で一服して頂きました。北千住にいらっしゃる機会がありましたら,駅前の果物屋さんの上にあるフルーツカフェもなかなかですよ。

さて,再び歩き始めた一行は北千住駅から旧街道に戻ります。ここからは商店街の名前も変わって,その名も「宿場町通り」となります。北千住駅の東口一帯は,イトーヨーカドー1号店方面に続く「きたろーど1010(せんじゅう)」,先程歩いてきた旧街道の「本町センター通り」そしてその旧街道が「きたろーど」を挟んで名前を変えた「宿場町通り」という商店街が集まっています(ホントは「サンロード商店街」というらしいのですが,大きな「宿場町通り」の看板もありますので,ここでは「宿場町通り」と呼ばせて頂きますね)。北千住駅ビルのルミネと合わせて,このあたりではかなり大きな商業地帯。あたしも以前はよくお買い物に訪れたものでございます。

宿場町通り
正式には「サンロード商店街」と言うらしいのだが・・・

タイル1 タイル2 タイル3


おっと,話が逸れました。小さな提灯屋さんがあったりする「宿場町通り」ですが,こちらもなかなかの賑わいを見せています。地元商店街らしいという点では,先程までの「本町センター」の方が「下町っぽさ」がありますが,こちらは名前もズバリで,どちらかといえば「もしも観光客なんかも来てくれたらラッキー」という一縷の望みを反映させたかのような商店街になっているような印象です。路面には千住宿をイラスト風に表したタイル(↑)なんかも埋められていたりしました。
その宿場町通りをぶらぶらと歩くこと数分。右手にちょっとした公園が見えてきます。公園には,近くから買い物に来ているとお見受けする家族連れの方や,ご近所の子供達なんかが,のんびり佇んでいました。公園の奥側には,砂場や遊具なんかも置かれていて,子供達も楽しそうにはしゃいでいます。観光客が来るような公園ではなくて,本当に地元の子供達のための公園なのです。
で,その「千住本町公園」ですが,入口には「千住宿」と書かれた門が設けられていまして,「千住の街並み景観を考える会」による高札場に関する解説が書かれた看板も付けられていました。説明書きによれば
「このような高札場は,明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して人々に周知してもらうため,千住宿の入口・出口のところに設置されていました」(引用)のだそうです。この解説によれば,先程「高札場跡碑」を通りましたが,あのあたりが千住宿の入口ということになりますね。解説看板の前には,あまり可愛くないお顔のネコ(笑)がのんびり日向ぼっこしてました。

千住宿入口




江戸 【名倉医院の界隈】

本町公園を過ぎますと,お店の数も減りまして,歩く人の数もまばらになってきます。「ふくよかサイズ」の婦人服専門店「ヤマダヤ洋品店」なんかもあったりします。ひじょーにいい感じのお店です。
このあたり,注意してみますと結構歴史を感じられる建物を見つけることが出来ます。

横山家とお嬢様方
「横山家」と歌舞伎部の面々。似合いすぎます。
photo by 深川の棟梁さん
ふくよかサイズ


まずは左手に「絵馬屋」さん。その向かいには「横山家」というのがありまして,家の前には説明板も設置されているのですが,残念ながら家屋は非公開。今でもお住まいになっている方がいらっしゃるわけですから,これは仕方がございません。
「絵馬屋」さんは,読んで字のごとく「絵馬」を作っているお店です。足立区教育委員会によって建てられた説明書きによれば,江戸中期より絵馬を描いてきた際物問屋で,今でも手書きで絵馬を作っているのだそうです。当代の絵馬師は8代目なのだとか。驚くべき伝統です。

向かい側の「横山家」は,千住の旧家で,往時は地漉き紙問屋として栄えたのだそうです。現代でも残っている家屋は安政の大地震直後のもの。裏にある蔵は天保年間の建物なのだそうです。江戸時代の商家の面影が,そのまま残っているのでございますね。なんでも彰義隊が切りつけた刀傷がある柱なんかもあったりするらしい。説明板とともに,蔵の構造を記したプレートも見ることが出来ます。千住宿の姿が細切れになりながらも,こうして残っているというのは,嬉しいじゃぁございませんか。しかも寺社仏閣ではなくて,民家ですからね。

絵馬屋
こちらが「絵馬屋」さん。
かどや
「槍かけ団子」ってどんな味なんでしょ。
さて,このあたりに旧日光街道と旧水戸街道の分岐点があって,右側(東側)に向かう旧水戸街道があるのですがどの路地も普通の小径になっていて,特に目印もありませんでしたので,どれがそうなのか,残念ながらわかりませんでした。いずれにせよ江戸から水戸へ向かう旅人は千住に一泊した後,ここから分岐して行ったのでございましょう。黄門様も通ったのかな。現在の通称水戸街道といいますと,国道6号線。日光街道である国道4号線よりもずっと東を走っています。ちなみに4号線も6号線も,ずーーーーっと北上して頂くと,与力の住んでいる陸前国・宮城県仙台市に出ます(笑)

そんなこんなで歩いていると,右側にちょっと広めの駐車場。そしてその奥に見える黒くて立派な門こそが「名倉医院」でございます。普段はもっと中まで入れるのですが,日曜日は休診のため駐車場の手前の塀まででございます。ちょっと奥まってますので間近で見られないのは残念。

この「名倉医院」ですが,神田駿河台にある名倉病院のホームページによると,創業は明和7年に千住のこの場所でと書かれています。明和7年ということは,目黒の彦十さん調べ「鬼平研究帳・登場人物の年齢」から考えると「長谷川平蔵が24歳」「木村忠吾が2歳」の頃でございます。とにかくこの病院は当時から「ほねつぎ」として評判を呼び「千住宿の名倉」に診てもらおうという患者の列が街道に溢れていたそうです。時代的にも「火盗改メ」の面々が診療を受けた可能性もございますね。宿場町にも名倉で修行する医生が多く滞在していた模様で,彼らは技術を身につけると全国で「名倉」の名前を冠したほねつぎの診療所を開いていったのだとか。現在でも日本各地に「名倉」という診療所があるそうですが,それらはきっとここで修行して開業した一門なのだと思います。
名倉医院
ちと遠かった・・・

名倉医院の先はもう荒川の土手。宿場町もこのあたりまででございます。ここからは「金八先生ゆかりの地巡りツアー」と改称して荒川の土手を散策しつつ水上バス乗り場に向かおうと考えていたのですが,あたしの時間配分に問題があり,急遽北千住駅に戻って電車移動することにさせて頂きました。「金八先生ファン」及び「土手でのんびりお団子を食べよう」と思っていた皆さん,本当にゴメンナサイ。
というわけでせっかくなので名倉医院の敷地をぐるりと廻って裏道を北千住駅へ戻ります。


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