| 第16回鬼平ゆかりの地巡りツアー 【千住宿見廻り】 第1部 |
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平成15年4月13日は久々の「日曜開催」となった「第16回鬼平ゆかりの地巡りツアー・千住宿見廻り」でございます。今回は原作にも度々登場するものの「なかなかポイントの特定が難しい」と言われる(?)江戸四宿の一つ,「千住宿」が見廻りエリア。江戸市中から日光・奥羽・水戸に向かう街道の第一宿。松尾芭蕉も千住宿から「奥の細道」に旅立ったのでございました。 当日は前日の雨が嘘のように晴れ上がり,気温もぐんぐん上昇して初夏ともいえる様相。日陰は心地よいのですが,お天道様の下では汗ばむほどの陽気。 そんな陽気の中をJR常磐快速線・日比谷線の南千住駅に午後1時30分,密偵の皆さんが続々と集結。目黒の彦十さんお手製の「江戸名所図会」を絡ませたきれいなレジュメに,嘗役・千住の竹蔵さんの地元&江戸四宿解説レジュメも配布されまして,いざ出発。「鬼平」でも原作では大川の千住大橋を挟んで江戸側が「小千住」日光側が「大千住」等と書かれていますが,それに基づけば,本日は小千住からということになります。 与力は前日知人の祝言に出席しての参加でしたが,そのせいか少々二日酔い&寝不足気味・・・。 |

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平成15年4月13日 与力たきざわ,谷中のうさぎさん,(本郷の番頭さん改め)らんぐ亭ぱろおるさん,目黒の彦十さん,じゅうべいさん(関屋村で合流),千住の竹蔵さん,飯撮りの伊佐寅さん,飛び込みのおはるさん,おはるさんご友人様(兎忠不参加),浮き雲のおかんさん,みかんさん,四谷の孫四郎さん,京屋悟雀さん,悟雀ハニーさん,おたまさん,長屋の隠居さん(兎忠不参加),成田屋お夏さん,みかさん(兎忠のみ),まゆさん,つよやさん,深川の棟梁さん,神楽純さん,土田謙之進忠友さん,おたかさん,下野の木偶の坊さん,下野の木偶の坊さん手の者,仙台堀のおろくさん,田中宏興さん,むらきち&よねこさん(兎忠不参加),藤七さん,鱸とハゼ子さん(兎忠のみ),本所のご隠居さん, |
| 【南千住駅集合】〜【小塚原刑場跡・延命寺・首切地蔵】〜【回向院】〜【素盞雄神社】〜【誓願寺】〜【山王権現】〜【千住大橋】〜【奥の細道矢立初の碑】〜【やっちゃ場通り】〜【千住歴史プチテラス】〜【高札場跡碑】〜【問屋場跡碑】〜【金蔵寺】〜【宿場町通り〜千住本町公園】〜【名倉医院界隈】〜北千住駅から東武線で関屋村(牛田駅)へ移動〜おはるの舟(水上バス)にて両国に移動〜【兎忠タイム(「ちゃんこ江戸沢」総本店)】 |
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鬼平ゆかりの地【小塚原刑場跡】延命寺・首切地蔵 |
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さて,千住の竹蔵さんの先導にて密偵一同は集合場所のJR常磐線出口から反対側の日比谷線南口方面へ。左に折れて一旦高架の下を潜りますと,右手に「小塚原刑場跡・延命寺」の文字が見えてきます。延命寺の門を入るとさほど広くも無い境内の正面に柔和なお顔の,大きなお地蔵様が。お地蔵様の高さは台も含めて4〜5メートル程もありましょうか「ふくよかな体つき」で結構迫力があるのですが,これが最初の目的地「首切地蔵」でございます。 ここは,江戸時代のいわゆる「仕置き場」というやつでございます。江戸にはこの「小塚原」と「鈴ヶ森(品川?)」という二つの仕置き場があったのですが,こちらの「小塚原」では明治になって刑場が廃止になるまでに,ざっと20万人が磔などによって処刑されたとのこと。ちなみに「小塚原」という地名ですが,なんでも「骨ヶ原」という呼び名から来ているのだとか,そうじゃないとか・・・。江戸の頃は荒涼とした原っぱに「刑場」があって累々と骨が積まれていたのでございましょうか・・・写真を撮るのがちとコワイ。・・・何も写ってないですよね・・・。 塀には「小塚原刑場周辺案内図があるので寺務所に声を掛けてみて」みたいなことが書かれていましたが,地元・千住の竹蔵さん曰く「ここの寺務所が開いているのを見たことがない」のだそうです(笑) |
![]() 線路脇にひっそりと首切地蔵さま。 |
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【千住回向院】 |
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この「首切地蔵」を出ますと,道に沿って再びガードを潜ります。南千住駅を右手に見ますと,すぐに千住の回向院があります。回向院といえば両国が有名ですが,こちらは両国の方が手狭になったために,寛文2年に別院として建てられたもののようです。 荒川区のホームページでは「杉田玄白たちが刑場で腑分けに立ち会い,それを契機として「解体新書」を翻訳した。この腑分けを記念してたてられた碑の浮彫青銅板を移して,昭和34年に「観臓記念碑」が建立された。回向院には,安政の大獄や桜田門外の変・坂下門事件などで処刑された人たちが眠っている。また,多くの人材を育成したことで知られる吉田松陰は,安政の大獄(1860年)で捕らえられ,伝馬町の牢で刑死した(享年30歳)。門弟らにより遺体は回向院に葬られたが,のち太夫山(世田谷区若林の松蔭神社)に改葬され、回向院には記念墓が残る。」(引用)とされています。「観臓記念碑」とはまたスゴイ名称ですが・・・意外なところで「解体新書」なんて名前も出てきました。ううむ,日本の西洋医学の発展には,こうした罪人達の屍が大きく貢献している,といえるわけですね。 |
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![]() 奥に墓地があります。 |
回向院の建物の一階はピロティのようになっているのですが,そこから寺院に入りますと,壁には立派な解体新書のレリーフが飾られていました。そういえば昔教科書で見たような記憶のある特徴的な表紙でございます。 ↑の解説にもあるように,寺院の建物の奥には墓地があります。ちょっと土地が狭いせいか,お墓も窮屈そう。看板には「ねずみ小僧」なんてお名前もありました。刑場で処刑された数多くの屍に吉田松陰からねずみ小僧まで。実に幅広いラインナップではございませんか。 ![]() コツ通り。元の日光・奥州街道・・・かな。 |
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回向院を出ますと,道に沿って北西方面へ。この道路に沿って軒を連ねるコツ通り商店街は日曜なので静か。歩道にはずーっと屋根がついてますので涼しくて結構でございます。この静かさといい道幅といい,どことなく同じ日曜日の「かっぱ橋」に似ているような感じもしなくもない。ちなみにこの「コツ通り」の名称も,一説には↑の小塚原刑場跡で書きましたような「罪人の骨が累々と積まれていた」ことから名付けられているとか,そうじゃないとか・・・。 |
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鬼平ゆかりの地【素盞雄神社】 |
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そのコツ通りをしばし歩きますと,正面に日光街道(国道4号線)が見えてきます。現在の日光街道は,ちょうどこのあたりだけ上野方面に向かう上り車線が高架になってまして,まずもって興醒めな景色。その国道との合流地点で横断歩道を渡って町奉行所の交番から奥に切れ込みますと,素盞雄神社でございます。「鬼平」では「怨恨」の中で,磯部の万吉という盗賊が杉井鎌之助という浪人に殺しの依頼をしたのが,飛鳥明神(素盞雄神社)門前の茶屋とされています。 神社の由来に関しては素盞雄神社のホームページから引用させて頂きましょう。「当社の開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩がありました。黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると,平安時代延暦14年(795)4月8日の夜,小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ,「吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し,永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け,黒珍は一祠を建て鄭重にお祀りし,当社が御創建されました。次いでスサノオ大神の御社殿を西向きに御造営し6月3日,アスカ大神の御社殿を南向きに御造営し9月15日,それぞれ御神霊をお遷し致し,4月8日「御創建疫神祭」・6月3日「天王祭」・9月15日「飛鳥祭」の祭禮日が定まりました。江戸時代享保3年(1718),類焼による両社炎上のため、同12年に相殿(あいどの:一つの御社殿)として二柱を祀る御殿(瑞光殿:ずいこうでん)を新たに建築し奉斎しました。」(引用) |
![]() とてもキレイな神社なのです。 |
![]() photo by 深川の棟梁さん 境内にある天王社の大銀杏は「江戸名所図会」にも描かれてます。元禄2年に松尾芭蕉が「奥の細道」出発の際に千住で別れを惜しんだことを記念して建立された句碑なんかもありました。数年前から「奥の細道矢立初めの俳句大会」なんてのも開催されているうようで,とある密偵からは「句会見廻り」等という怖ろしいご意見も出たりして。 この境内はとにかく美しい建物・木々の配置とも相まって,非常に華やかかつ心休まる空間が作られていました。本殿前の狛犬も大きくて躍動感あるれる造形です。 残念ながら「門前の茶屋」に相当するようなお店は見つかりませんでした。 |
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鬼平ゆかりの地【誓願寺】 |
![]() 前を通るだけ〜。 |
素盞雄神社を出て,今度は日光街道を大千住方面へ。誓願寺の前を通ります。「鬼平」では「お熊と茂平」で弥勒寺の下男・茂平が死に臨んで頼みごとをしますが,お熊は茂平の甥で「千住大橋の手前の小塚っ原町の東側」に住む「畳屋の庄八」に茂平の死を伝えに行き,茂平の亡骸を引き取った庄八が呼んだのが「誓願寺」のお坊さん。たしかにそのあたりからなら最寄りのお寺でございます。 で,その「誓願寺のお坊さん」なのですが・・・何故見廻りの時に中に入らずに前を通るだけにしたかについては掲示板などで聞いて下さいませ(笑) |
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鬼平ゆかりの地【山王権現】(山王清兵衛・日枝神社) |
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誓願寺を過ぎますと,すぐに横断歩道。ここで再び南千住側に日光街道を渡ります。上り線の高架を潜ってしばし歩くと,交差点の角にこぢんまりとした鳥居が見えてきます。「鬼平」では「剣客」の中で「千住大橋の南詰を東へ切れ込んだところに,杉木立にかこまれた山王権現の小さな社がある」と書かれています。彦十さんが配って下さったレジュメにある江戸名所図会でも,千住大橋と山王権現の位置関係が確認出来ますが,現在でもほとんど全く同じ位置と思われます。こういうのが嬉しいですね。 再び荒川区のホームページでは「江戸時代,日枝神社は山王社と呼ばれた。旧中村町(千住宿)の鎮守で正和5年(1316年)に建てられたと伝える。この社の入口にあたる旧砂尾堤(スナオヅツミ)土手北端に,歯神清兵衛を祀った小祠(ショウシ)がある。いずれかの藩士清兵衛が,虫歯の痛みに耐えかねて,これ以上の任官はできないことを悲観して,この地で切腹し,遺言によってその霊を祀ったという伝承がある。俗に山王清兵衛と呼ばれ,歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば「婦人が錨(イカリ)をくわえた絵馬」を奉納する習わしであった。」(引用)とされています。虫歯の痛みに耐えられず切腹でございますか。まぁ気持ちはわかりますが・・・ううむ。 |
![]() あたしも歯医者に行くくらいなら・・・。 |
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鬼平ゆかりの地【千住大橋】 |
![]() 堂々たる千住大橋。初代の橋は大川に初めて掛けられたのだ。 山王権現様から再び日光街道に戻って横断歩道を渡りますと,目の前には「八紘一宇」の大きな碑・・・もありますが,北に目を転じると「ちょいと古びた大きな鉄橋」。これがタイドアーチ型というやつでして,昭和2年に出来た現在の千住大橋でございます。最初に千住大橋が架けられたのは文禄3年とのことで,なんと江戸開幕以前のことになります。隅田川に架かった橋としては最初のものなのだそうです。鉄橋には「大橋」とだけ書かれたプレートが付けられていまして「大橋といえば『千住』に決まってるじゃん」とでも言いたいのでしょうか,ちょっと誇らしげ。 |
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![]() 大川を渡ると大千住。 |
「鬼平」では「剣客」の中で松尾喜兵衛を殺した石坂浪人が「千住大橋の南詰を東へ切れこんだところ」にある家を訪ねることになっています。また「犬神の権三」では「千住大橋の北の町を上宿といい,橋の南を下宿とよんで,この下宿に小塚原町と中村町がふくまれている」(引用)と書かれています。このレポートの冒頭に「千住大橋を挟んで江戸側が小千住・日光側が大千住」と書きましたが,「上宿・下宿」という表現もあったようです。ちなみに「犬神の権三」では「下宿の家数は約五百。このうちの七十余軒が旅籠屋で,その中の二十二軒が飯盛女を置く食売旅籠だというから,相当のにぎわいを呈していたわけだ。」(引用)と続きます。エリアとしては小塚原とは逆の,現在の日光街道北側になりましょうか。 現在の千住大橋は北千住方面に向かう下り車線のみ。上野方面への上り車線は無粋な高架橋です。与力は以前この先の綾瀬というところに住んでいたことがあるのですが,自家用駕籠で江戸市中から帰ってくるとき,この千住大橋を渡ると「ほっ」としたものでした。今でも「江戸市中」と「郊外」を区切るランドマークのような存在感を感じさせる橋でございます。 翌日ニュースを見ていたら「千住大橋すぐの隅田川岸で男性のバラバラ死体が発見された」とか・・・。 |
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【奥の細道矢立初の碑】 |
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江戸の日光街道を思い浮かべるにはあまりにも排ガス漂う千住大橋を渡りきると,町方交番手前の左手にほんのちょっとした公園がございます。素盞雄神社の境内にもありましたが,この緑地の中にも「ここが『奥の細道』の出発点である」ことを主張する記念碑が建てられています。あきらかにこちらのものは新しいもの。そして刻まれているのも同じ「行春や鳥啼き魚の目は涙」の句。なんでこんな近場に二つも・・・荒川区と足立区による『われこそ出発地』争いでもあったのでしょうか(笑)小さな公園ですが,その「矢立初の碑」に加えて「奥の細道」のルートマップみたいな,大きな看板も作られていました。仙台在住の与力も見廻りが終わったら「奥の細道」に旅立たなければなりませんです。
ここで恒例(?)自己紹介。今回初めての方も含め,皆さん顔と名前は一致しましたかぁ〜。 |
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