漢字と日本人


高島俊男:「漢字と日本人」、文春新書、'05を読む。著者は中国文学者である。平易で穏やかな文体だから、私よりは年上の先生だろうと思ったが、よく見ると年下だった。書店では平積みにしてあったから、てっきり出来立ての新書だと思って、最後のページまで読んで出版日を確かめたら、平成13年の第4版となっていた。
表題のテーマは、この地に住む人間にとって、棺桶に入るまで無関心ではおれない問題である。私の漢字は学業半ばで旧国語体制から新国語体制へ移行した。だから頭の中では旧字と新字がゴッチャに往来している。よいこともある。過去の文書はそのままで読める。昔と言葉が通じないと文化遺産が貰えない。筆者が一番強調しているところである。台湾旅行したばかりで鮮明に思い出せるが、この国で読める範囲が広い。台湾は昔からの文字−我々の云う旧字−を使っている。永年の当用漢字字体使用で忘れかけていても、突然そのときは旧字が甦る。三つ子の魂いつまでもとはよく言ったものだ。
この本の結論は最後の章の最後の方に出ている。「漢字は、日本人にとってやっかいな重荷である。それもからだに癒着してしまった重荷である。もともと日本語の体質にはあわないのだから、いつまでたってもしっくりしない。しかし、この重荷を切除すれば日本語は、幼児化する。へたをすれば死ぬ。この、からだに癒着した重荷は、日本語に害をなすこと多かったが、しかし日本語は、これなしにはやってゆけないこともたしかである。腐れ縁である。・・・日本語は、畸型のまま生きてゆくよりほか生存の方法はない。」なんだか悲しいご宣託のようにも受け取れるが、私もだいたい似た考えでいる。ただ、書かれたときから4年経って、日本人の使う漢語の欠点−例えば同音熟語−をどんどんワープロが補い出したのを知っているから、畸型をそう悲観していない。世界に例のない珍無類の言語だとおっしゃっても、立派に先進国化(この言葉は西洋の「一神教的(私見)」で文明の「多価値」を認めぬ歴史観の産物で、先生は批判的である。)してきた自信はゆらがないのである。漢字からローマ字へ植民政策により転換させられた国がある。ベトナムだ。ただしベトナム人は漢語と同系統の言葉を話すと聞く。重荷を切除してどうだったか、私はベトナム文化史を一度は勉強してみたいと思う。
著者は国語審議会には批判的立場である。当用漢字を作って日本人の漢字感覚を台無しにしたと、負の文化功績を攻撃している。国語審議会の歴史が述べられている。国語の音標文字化を明治政府が決定し、その審議機関として生まれた。この会の目的は、かな文字化するかローマ字化するかを審議することであって、文字が背負ってきた日本文化体系を維持するか棄てるかではなかった。広辞苑の新村出委員が、いかに孤軍奮闘しても、音標化の既定路線を阻むことは出来なかった。会ではそんな雰囲気だったが、日本全体の、敗戦までの現実は、会の意図に反して、音標化どころか数千数万の新漢字語が創出され使用されると云う「矛盾」事態に陥り、会はそれを捌くことが出来なかった。戦いに敗れて、日本はまたもや文明ショックに直面し、進歩的文化人はこぞって音標文字化を唱えることとなる。敗戦の年に読売新聞は「漢字を廃止せよ」という社説を掲げたそうだ。占領政策としての米軍の強力なバックアップもあった。国語審議会は息を吹き返し、ついに当用漢字制定で音標文字化の第一歩を歩き出した(と彼らは思った、現実にはそれが大誤算だったのであるが。)。
NHKスペシアル「驚異の小宇宙人体V遺伝子DNAB日本人のルーツ」、「日本人はるかな旅@マンモスハンター、シベリアからの旅立ち」では最新の考古学の成果として、日本人は1/3の血を北方民族から、残りの大半を中国朝鮮の大陸民族から、少々の部分を南方系民族から受け継いでいるという。古い集落跡には防御設備など備えていないところを見ると、小さな村落が周辺との紛争を避けた平和な生活を続けてきたように思う。まあ海川山に隔てられて、現代の太平洋に浮かぶ島々のような状態に永年置かれていたのであろう。言葉は発達する必要もなかった。日本語は言語学的には親類筋が見当たらぬ、音の少ない孤立言語である。そこへ高度文明の中国から音の豊かな漢語漢字が導入された。一語一音節一字の単語から成り立っている全く別種の言語である。抽象的概念を表す言葉には、ことごとくと言って良いほどに漢語を採用せざるを得なかった。それもひどい日本訛で。漢字崇拝が生じた。日本語の発達は止まってしまった。
和製漢語は興味深い。漢字崇拝だから日本文化が成熟して行くのに合わせてどんどん作られてゆく。江戸時代までのは健全だという。耳で聞いて分かるから。仲間(チュウゲン)、成敗(セイバイ)、奉行、与力、同心、家老、役人、番頭、丁稚、芸者・・・。女郎なんてな言葉もそうだろう。中国人にはなんだかさっぱり分からない欠点はある。だが明治に入って西洋文明が導入され、新しい概念をさあ日本語に植え付けようとしたとき、現代のように生でそのままというわけにはゆかなかった。今ある言葉に訳さねばならなかった。そのとき音が軽視され字意が重視された。私はそれも西洋語の特徴がなせる技だったと思う。electricと言う形容詞のつく熟語の訳には、皆、「電」をどこかにはめると云った具合に。明治以後の和製漢語は、江戸時代までと違って耳で聞いても分からないが、字で見ると分かる単語になっている。デントーは電灯か、伝統かと言う問題だ。ついでだが、和製漢語は中国にも輸出されかなりが日本と共通だという。
日本人は話の脈略から瞬間的に電灯と伝統のどちらだと悟り話を進められる。私らは何も不思議と思わない。だがこんな芸当を民族規模でやっていて平気なのは、日本人だけだという。電灯と伝統の区別ぐらいならまだしも、同音漢語が10も20も出てくるようでは流石に嫌気がさすし誤解も生じよう。著者も新村出先生を引用しつつ、漢語漢字は出来るだけ使用を慎みましょうと云っている。私も賛成だ。漢字をわざわざ訓読みして使う必要はないと思っている。韓国では漢字は最小限になっていて、ほとんどハングル文字だけで通している。韓国歴史ドラマを見ると、ついこの間まで漢文でやっていたことが分かる。そこまでの大変革でなくて良い。ワープロソフトの一太郎でデントーを入れた短文を打ってみる。脈略と一致する選択をチャンとやってくれる。私の一太郎はversionが古い。最新のであれば、この同音異義語からの選択は、もっと進歩しているだろう。自動翻訳機も同様に進歩するだろう。過去の日本文化から切り離された、根無し草の日本人なぞあり得ない。完全音標文字化なんて暴論をはかぬ事だ。
新しい概念は日本も含めた世界中から日々発生し続ける。文字は漢字と仮名しかなかった明治とは違う。これからは原語を出来るだけそのままに受け入れて、今のようなカタカナ表記ではなく原字のままで表記する時代がやってくると私は思う。そのとき広辞苑にカタカナで現れる外来語はそのままカタカナにすべきである。文化の継承というものだ。さし当たっては原字はローマ字止まりである。ロシア文字とかハングル文字とかイスラム文字とかが、新聞に生で現れる時代はだいぶ先の話だろう。それから当用漢字は廃止すべきだ。この本にもあるが、キーボード入力で書くのが一般的になり出したから、省略する意味が無くなっている。先述の通り当用漢字以前の日本との文化隔絶をもたらし、しかも隣国との共通性も失われて、反日の国をますますブラックボックス化してしまう。

('05/12/21)