足軽目付犯科帳


高橋義夫:「足軽目付犯科帳−近世酒田湊の事件簿−」、中公新書、'05を読む。あとがきを見ると著者は時代小説家だそうだ。昔、「伊予小松藩会所日記」を読んだ。たった1万石の、お城も持てなかった外様大名の領内の出来事を、家老職他の幹部級が150年を余って記録している。今回は庄内藩・酒井家の海運都市・酒田を足軽目付という立場から記録した亀崎足軽目付御用扣(以下扣(ひかえ)という。)からのメモである。亀崎は酒田にあった庄内藩の支城を指す。今は地名しか残っていない。この扣は後任者への心得帳のような意図で書かれているという。足軽目付とは町を預かる最下層の役人で、お役手当を入れても給与はたったの8石だった。庄内藩は藤沢周平:「義民が駆ける」に見られるように、一般には富裕と見られ、中規模(14万石弱)ながら譜代で幕閣に対してもそこそこの発言力を保持していた。なにやかやと小松藩とは対照的なのが興味をそそる。
江戸や京・大坂なら町を預かるのは町奉行とその配下−与力、同心、目明かし、捕方他−である。足軽目付が登場した捕物帖など知らない。酒田でも町奉行とその配下はちゃんと活動している。それから盗賊改という役人もいる。業務分担はどうなっているのかなかなか理解できない。足軽目付は今日の行政機関に当てはめれば、巡査長と市役所職員を兼ねたようなものだったと紹介されている。5名2シフト制で24時間勤務する。だから常駐2名で、1万数千名からの市民を、滞りなく生活させるための活動を受け持つのである。上部機構は(御)徒目付でその上は大目付である。目付は元来侍身分が対象で、その監視が主な任務であった。準侍の足軽に町民を対象に加えた酒井家独特の組織であったのかも知れない。
酒田には50名の足軽の他に、浮組と称する旧主最上家(1622年改易)以来の土着の足軽が200名ほどいて、その浮組の小頭から足軽目付を選んだとある。旧主家来対策として作られた制度なのかもしれない。土佐の郷士(坂本龍馬などの旧長曽我部家家臣系列)を思わせる。「義民が駆ける」をもう一度斜交いに読んでみた。扣との時代は合っている。見落としがあるかもしれないが、その範囲では足軽目付は出てこなかった。義民とは庄内藩の農民で、酒田の町民ではないと言う点はある。だが、酒田の町も騒動に引きずり込まれていた。黒幕の本間家はそこを根城にしていた。足軽目付は政治の主軸ではなかったと言うことだろう。巻末の参考書目にも扣は出てこなかった。
天明の飢饉のころの酒田湊が数字で描かれている。後年沖出し米が年に90万俵近くに及んだ湊だが、飢饉の年はゼロになっている。荷揚げ人足は職を失い、街は灯が消えたような状態になった。餓えが忍び寄る。津軽藩は餓死者だけでも10万人あまりを数えた。庄内藩は救援米を放出し、拝借金を下げ渡す。目立って役立ったのは豪商たちの救恤金であった。本間家は半分の250両を拠出している。値上がりしたが、米は1両で半石程度は買えた。おかげで庄内藩では死者は通年よりは多かったものの、餓死者は数えるほどで済んだという。だが、流れ者の増加や困窮による犯罪増加で足軽目付は多忙になる。
「盗む者も盗まれる者も貧しい。」と書いてある。筆者は自身の敗戦期の記憶を書いているが、私も同様の経験を思い出す。私の家に隣の婆さんが泥棒に入った。狙ったのは炊きあがった飯であった。婆さんはもう足腰が立たずに病床でふせっているという噂だった。その婆さんが這いながら隣の私の家に飯を盗みに入ったのである。余談ながら、母は一切を隣家にも近所にも告げずに事件を闇に葬った。隣組竹槍訓練で、「天皇陛下の御盾になろう」と誓い合った隣人の、あまりにも浅ましい姿に胸が潰れたのであろう。斬罪に処せられた盗賊の盗品をリストアップできる。食品が多い。江戸では10両盗むと死罪と云われている。でも酒田では評価換算しても10両以下である。
この春の日本一周クルーズでは大時化のために予定の酒田港に入れなかった。だがかってかなり時間をかけて観光に歩いたことがあった。思い出しながら地図と対応させてみる。本の内容となかなか対比できない。本の山王社が日枝神社であることはすぐ分かる。海向寺は日枝神社麓の寺である。町年寄・鐙屋惣右衛門が米相場の話に出ている。旧鐙屋屋敷は彼が住んだ家だろう。旧本間家屋敷同様に見学させてくれた。ここらあたりまではよかったが、本書に出てくる町名も社寺の名称もほとんど現在と違っている。同じなのは船場町ぐらいだ。せめて町名だけでも対応がつけば、過去との対応がついて、実感が湧くのにと残念である。維新後にも大火で焼け野原となったことがあったそうだから、再建時に名を変えたのだろうか。木造建築の国では名を捨てることは歴史を捨てることに繋がる。
幕末に庄内藩は他の4藩と共に江戸市中取締りを命じられ、大人数を出して江戸を守った。足軽目付も同行している。江戸は旗本八万騎のお膝元である。なぜ庄内藩ほかが、お膝元の市中取り締まりの下請けをせねばならなかったのかよく分からない。同じことは対外国軍艦防塁建設と守備兵の割り当てについても云える。誇り高き八万騎は、結局徳川幕府の存続に何の実効的働きを見せずに明治を迎えた。御用盗事件が起こり、薩摩藩邸の焼き討ちに庄内藩は加わった。江戸の町奉行は弱腰で、薩摩邸に手出しするのを躊躇するものだから、市中取り締まりは御免こうむると強談判をし、やっと攻撃を認めさせたとある。戊辰戦争では藩主酒井忠篤は譜代の面目を発揮した。町人を兵に組み入れてまで参戦したのである。朝廷側に立った秋田藩の攻略に進軍。もともと外様の秋田藩の押さえとして庄内藩が設置されたのであるから、酒井忠篤は忠実に祖宗以来の役目を果たそうとしたのであった。やがて朝廷側の鉄砲に圧倒されて敗戦を迎える。明治2年に足軽目付は借り上げ役所を引き上げ歴史を閉じる。

('05/07/24)