歴史人口学で見た日本


世界最古の人口統計は、徳川幕府による江戸時代中期の調査だとは聞いたことがある。流石に幕末の集計結果は見当たらないそうだが、調査はめんめんと明治維新頃まで継続され、今日の国勢調査に引き継がれた。それによると江戸時代は中期以降、飢饉疫病流行などによる凸凹はあっても、均して総人口3000万人程度で、著しくは超えもせず逆に減りもせずに経過したようだ。では国単位、都会単位、町村単位でもそんな風に停滞していたのであろうか。歴史人口学と言う聞き慣れない学問は、近代国勢調査までの人口のミクロな静態動態を研究対象としている。
速水融:「歴史人口学で見た日本」、文春新書、'01を読んだ。著者のライフワークの紹介である。ヨーロッパには教会に教区簿冊が残っている。イギリスには16世紀から、フランスには17世紀から残っているそうだ。著者がヨーロッパに留学した頃、丁度その資料に基ずく歴史人口学が立ち上がりつつあった。著者は、留学前の研究で、日本にも教区簿冊に相当する資料・宗門改帳があることを知っていた。一番古い宗門改帳は江戸初期の17世紀前半である。各々の所属宗派が書き上げられた台帳だが、その個人情報も記載されている。で、そこに千金の価値を見出したというわけだ。教区簿冊も宗門改帳も、元来は異端の邪宗を排斥するための基礎資料であることが面白い。
歴史学は資料次第である。宗門改帳も完全な姿で残っているものはごく僅かのようだ。その中で美濃の西条村には明治に至る約100年間の毎年の全宗門改帳と、補助資料としての庄屋日記が残っていた。その「出稼ぎ」奉公に対する定量性高い解析には全く驚かされた。男は5割、女は6割以上に出稼ぎの経験がある。地主層は流石に少ないが、それでも3-4割が出掛けている。女は時代が下ると共に近隣の町場が多くなるが、男は都会を目指すものが6割前後で時代に依らない。都会は京都がトップである。出稼ぎ特に都会への出稼ぎは「決死のご奉公」であった。何しろ1/3が奉公先で死んでしまう。「おしん」は山形の小作だったが、美濃の小作も子供の時から過酷な運命にある。5歳男子が奉公に出た記録がある。13-14年間奉公して帰ってくるが、結婚とか養子が待ち受けていて、結局出稼ぎ人の2割強ほどしか村に残らない。すると数としては小作がどんどん減る。しかし自作とか地主は分家で下層を補給する。始めて知った動態であった。
江戸100万、京大坂各40-50万が江戸後期の定説である。(尚名古屋は当時10万。現在との比率で云えば名古屋が20倍以上の増加で、もっとも高い。発展性という意味では注目の都市なのかも知れない。)この当時としては世界有数の大都会の人口は飢饉でない平常時でも減少傾向であった。筆者は「都市アリ地獄説」を称えている。「江戸っ子は三代もたないという俗説があるが、これは、江戸は住んでいる人にとっては健康なところでなく、農村から健康な血を入れないと人口の維持ができないと云うことを意味している。」と著者はいう。奈良は大都会ではないが、都会の例として先の西条村と比較してある。10歳から50歳ぐらいまでの所謂働き盛りの死亡率が大袈裟に云ったら、倍半分ぐらいに違うのである。先述の通り都会出稼ぎ人の死亡率も非常に高かった。これも目から鱗の知識であった。
太閤検地のころ、つまり16世紀末には、総人口が1200万位と推定できるそうだ。それが最初の統計が出た1721年には3000万になっていた。この間に大変な人口爆発があったことになる。諏訪藩の人口動態を解析できる資料が残っている。急速に増加したのは17世紀である。爆発はまず大規模所帯の解体から始まった。市場経済化によりコルホーズ方式より個人経営の方が意欲をかきたて能率を上げる。直系だけの家族や核家族化することで結婚出生が増えた。八ヶ岳山麓の新田開発が進んだ。濃尾地方では農具の改良、施肥技術の普及、勤勉思想の浸透などが見られた。驚くべき事実は、その濃尾地方では耕作用の牛馬の数が年々減少することである。牧草地など田畑にしてしまえ、牛馬の代わりはおとっつぁんがやればいいという思想である。それが強制されたものではなく、市場経済の要求に対する自発的なものだという説明には瞠目した。
更に時代を遡る。縄文時代人口40-50万、奈良時代人口560万という数字は、「隼人の古代史」で使わせて貰った。だが、西南日本−海洋民の項では琉球から対馬あたりまでの原日本人を東南アジアからきたのかもと云っている。国立科学博物館などの人骨学者の間に優勢な学説である。遺伝学系の学者は沖縄人も北方民族の南下が源流と考えるようだ。次に予定の本「イヴの七人の娘たち」は遺伝学系である。楽しみにしている。

('02/02/21)