越中富山の反魂丹


京童は反魂丹をマンキンタンと呼んでいたように思う。ハンゴンタンでは意味不詳だが、マンキンタンなら意味のこじつけが出来たろうからそう訛ったのであろう。発音しやすかったのかも知れぬ。アンポンタンとさらに言い換えて囃子詞にしていたようにも思う。戦中は見なかった富山売薬の家庭配置薬行商人が、また京都の町に出入りしだしたのは戦後3-4年の頃からであった。長くは続かず4-5年ほどで終わった。都会では人の出入りが激しくなり、戦前からの正直律儀を尊ぶ道徳意識が薄れ初め、従来の先用後利という商法、つまり現物を先渡しし翌年使用済みの分だけ代金を受け取ると共に残品は新品と交換するという販売方式では、リスキーに過ぎるようになったのであろう。
そんなわけで富山という地名は小さい頃から知っていたが、実際にそこまで足を伸ばす機会は殆どなかった。宇奈月で高分子夏期大学という講習会があったとき初めて富山に滞在した。それがおそらく20年から昔のことだろう。2年半ほど前、八尾町のおわら風の盆を見物にバスツアーで出かけたのが2回目の富山訪問であった。行商元締めの薬屋にも立ち寄った。和漢薬中心ではなくなっているようだった。現代の行商については聞きそびれた。
今回の立山アルペンルートと黒部峡谷トロッコ電車は3回目の旅である。黒部平駅では待ち時間に駅員が観光案内をやった。聴衆の気を逸らさないように上手に喋った。最後に「立山黒部物語」という本を販売した。天平18年に越中国主として赴任した大伴家持から解き起こし、現代までの歴史を立山中心に述べたなかなか格調高い小冊子であった。それをきっかけに越の国を越中中心にすこし勉強してみた。われわれが学んだ日本史では、木曽義仲と平氏の倶利伽羅峠の戦いと、信長勢と上杉勢の争いぐらいでしか越中の出番はなかったから。
古い国である。神代には大国主命の出雲の国と同じような半独立国であったらしい。越の国が前中後に別れたのは大和王朝の支配力が高まった7世紀末である。越前越後がそののちさらに細分化されたのに対し越中はそのままだった。中央政治には殆ど影響を与えなかった地域である。地理的に孤立した中型平野で大勢力の統一地方政権を作れなかったためなのだろう。江戸時代最後は加賀藩とその支藩の富山藩の支配下にあった。金沢文化圏に属していたと言える。今県民所得は全国第10位で、生活指標的には生活しやすい場所という事になっている。穀倉地帯であり、富山湾の漁業資源にも恵まれ、適度に工業県でもある。
一向宗の勢力が浸透した地域である。現在は一向宗とは云わず真宗とか浄土真宗と言われている。越中の一向宗とは本願寺派の浄土真宗と思うが私には定かではない。本願寺は一向宗と呼ばれるのが嫌いで江戸時代にたびたび宗名を変更したいと幕府に掛け合っているが、浄土宗の増上寺に反対されて変更は明治に持ち越したとある。立山信仰は全く知らなかった。峻険な高山を神に見立てた自然神に、土着信仰の影響を受けた仏教が組み合わさった神仏混淆の宗教であった。特異なのは、うば尊−オンバサマ−という黄泉の国の主宰神で、不気味な老婆姿であった。そのため神仏分離のとき「醜態、言語道断の邪神」ときめつけられ、廃仏毀釈で仏の道は絶たれた。今は雄山神社の神道だけとなっている。
イスラム・タリバンの偶像破壊運動でバーミヤン石窟大仏立像2体が木っ端微塵になったし、中国文化大革命のときには毛語録片手の紅衛兵による洞窟仏像の被害も起こった。信仰心希薄な現代平均的日本人には宗教に関する狂信的破壊行為はなかなか理解できない。しかしついこの間ともいえる130-140年前にわれわれもそうであった。素朴な狂気は常に民衆の中に潜んでいる。その狂気に火を付けるか鎮めるか、間違ったリーダーシップに同調しないように備える個々の訓練が大切である。

('01/04/30)