勤番侍・酒井伴四郎


江戸東京博物館の展示にあった勤番侍の1年は面白かった。感想と疑問をこのホームページに勤番侍という題で載せた。やがて博物館から私の質問に対する回答が寄せられた。より深く知るには展示の原典を見るのが一番である。島村妙子:「幕末下級武士の生活の実態−紀州藩一下士の日記を分析して−」、史苑、立教大学史学会、 No.3, 45, 1972がそれである。千葉にはなく結局国会図書館へ出向いた。私は再々この国会図書館の恩恵を受けている。一般市民がちょっと専門的な調査をしようとするとき、一番頼りになる図書館なのである。私は首都圏に住むから良い。だが地方だと泊まりがけで出てこなければならぬ。近く関西分館が出来るという。こんな公共投資には大賛成である。州毎、準州毎にどんどん分館を造って欲しい。
原典に当たろうと思った理由は、下級武士にしてはえらくリッチな江戸詰め生活だからである。禄高30石では、紀州に父母妻子を残しながら、年26両も使える道理がないと思っていた。それは江戸詰手当に39両/年が藩より支給されていると言う記載で氷解した。おまけに2人扶持以上の米を余計に貰っている。彼は単身赴任の間藩邸の2階建て長屋に3人住まいする。全6間の家だから、私が所長で単身赴任したアパートぐらいである。家賃はタダだから私よりだいぶ条件が良い。彼の紀州の家はやっぱり藩に貸与された一戸建ちで、区画内に長屋を建てて家賃を副収入にしている。金沢で足軽屋敷を見たときの感想に、わが家とトントンと書いているが、住居に関する限り、今の大企業あるいは国家公務員の待遇は、部長所長クラスでもその時の下級武士程度あるいはそれ以下であることが判る。100万都市お江戸の八丁堀同心(足軽相当)藤木紋蔵宅でも敷地は100坪である。(佐藤雅美:「物書同心居眠り紋蔵」、講談社文庫、1998)
江戸詰手当で勤番侍は十分潤っていることが判った。では紀州での平素の生活はどうなのか。藤沢周平「蝉しぐれ」の主人公は3人家族で28石2人扶持だから31.65石取りに等しい。この主人公はえらくつましい生活である。酒井伴四郎は彼よりちょっと条件が悪い。ともかく収入を現代価格に置き換えてみる。調べてみればもっと正確になるのは判っているが、手持ちの材料だけで何処まで言えるかが今の課題である。
江戸と紀州で貨幣価値は替わらないとする。1両10万円でよいか。江戸東京博物館では1両=4-20万円と大きな幅を持たせていた。池波正太郎:「剣客商売−陽炎の男−」、新潮文庫、1998, 270pに1両10万円とある。同じ著者の「鬼平犯科帳1」、文春文庫、1997, 196pでは4-5万円としている。剣客商売は田沼意次時代の話だから幕末の彼とは80-90年の差がある。一方鬼平は80年弱の昔である。江戸切絵図の総解説にはそば換算なら120600円/両(嘉永年間)としている。貨幣価値はどれほど下がったか。その目安に米の値段を調べる。藤沢周平:「用心棒日月抄」、新潮文庫、1997, 39pには1石1両とある。時代は赤穂義士討ち入り事件前だから170年ほどの差。平岩弓枝:「御宿かわせみ−江戸の子守唄−」、文春文庫、1997, 20pには白米が1両0.92石から0.64石へ急に値上がりしたとある。黒船が浦賀へ来た頃である。15年ほどの差か。切米も扶持米も玄米で商人に売り払って現金に換える。上記値段は精米を買う値段だから玄米売価はもっと安い。
切米処分には張紙値段(幕府公定価格)がある。先に引用した居眠り紋蔵さんは当時(幕末の40-50年前)それが100俵40両以下(235p)だったとしている。100俵とは当時35石だった(世界大百科事典)。島村論文に江戸で同居の3人が扶持米の残りを売って5.1両を得たとある。いかほど売ったかは書いてないからあとは推測である。酒井は2人扶持以上だった。だから1人扶持以上が余った。あとの2人も平均してその程度としよう。1日5合が1人扶持だから、年2石/人。売値は0.85両/石。政情不安時代はインフレが付きものだし、当時の自給自足経済で米生産量は消費量とギリギリでバランスしていて、ちょっとした凶作でたちまち飢饉とか米騒動だった。だから1両/0.64石は元に戻らずもっと激しくなって買値2両/石だとしよう。売値は1両/石とする。では1両はいくらか。
今米の小売り価格は1kg400円なら良い米だ。その米は1合=155g(実測)。従って1石=155kg=62000円。これだと1両=31000円。酒井は鰯をしょっちゅう買った。おかずの定番だった。その単価は安定していて1匹=5文。現代70円/匹だそうだからこれでゆくと112000円/両。鰯は外房で大量に捕れ、肥料にしたほどだ。一頃の北海道のニシンのような買い手市場だったろうから、米ほどには価格上昇はなかっただろう。だから112000円/両は徳川安定期の貨幣価値に近いだろう。
金貨の金含有量から何が判るか。世界大百科事典から拾ってみた。家康の頃の慶長大判は44.1匁、小判並なら84%であった。これを8両2分と数えたらしいので、金が今1000円/gとすると、家康の頃で原材料費16306円/両。酒井が江戸に出てきた頃の万延大判では30匁、36.6%となっている。小判は一つ前の安政小判と品位は同じでも2.4匁から0.88匁にされてしまった。万延の改鋳は金の海外流出が激しかったための対策だが、それまでにも幕府は財政の建て直しを貨幣改鋳に依存してきた。だが、小説家が書いたことが正しければ、米価格は幕末までは長期にわたって安定していた。だから徳川期の金貨は何%かの元金保証のある紙幣と同じである。とても兌換率の基礎には出来ない。
紀州に戻った酒井伴四郎は30石の内8.2125石を家族5名で消費した。残り21.7865石を1両/石で売った。締めて21.8両。貨幣価値は4万円/両に下がっていたとして、年87万円。貸し長屋で年400匁=6.67両=26.7万円。総現金収入は114万円ほどである。社宅のサラリーマンと比較するには自家消費米を換算せねばならぬ。それは8.2125X(1-0.1(撞き減り率))X2X4=59.1万円。家賃はタダだが現代は社宅費がかかる。それがまあ60万円。少しばかりの畑で野菜を自給している分が30万円。彼は所得税を納めなくてよい。だが、現代でもこの程度の所得なら直接税は全収入の誤差範囲である。だから今の年額260-270万円のサラリーマンぐらいの生活かな。大学新卒の年収からボーナス分を引いたぐらいだろう。紀州での暮らしは楽ではない。おまけに長州征伐に出兵し、その後藩財政困窮のため半知令による応分の実質減給にあっている。やがて明治維新で禄を離れることとなったろう。中年以降の彼は全く惨めである。
酒井さんの家計簿はこんなものかと私なりに納得していた。しかし本屋で立ち読みしていた歴史書に100石取りとは100俵手取りと書かれていた。江戸東京博物館の館員に新たに教えて貰った文献、土肥鑑高:「江戸の米屋」、吉川弘文館、18pに萩藩士(在府らしい)の例として禄高100石は手取り玄米30石で、そのルールを「三つ成り」と称している。おまけに家賃120匁を払っている。紀州における酒井氏に適用すると、上記金額から72万円ほど差し引いた190万円程度の年収の社宅住まいサラリーマンと云うこととなる。上記は家賃以外の生活比較になっている。家賃は現代とべらぼうに違うから、込みの比較にすると全体像が歪むからである。酒井さんの実収入はだいぶ下がったが、それでも伝えられる開発途上国の人々の年収よりも遙かに高いのは事実である。近代化に自力で成功した理由がここにもある。

(2000/08/27 8/30補 '01/6/30補々)