いわし専科


九十九里町に、いわし専科の博物館がある。ガイドブック「ちばの博物館」にも載っていない、地図で見つけた博物館である。網元とか篤志家の作る小さい博物館かと思って出かけたが、案に相違して町立の立派な建物であった。最近の建立なのか。九十九里いわし博物館という。
豊漁期が周期的に現れる魚だそうである。記録に出てくる初めの大漁期が赤穂義士討ち入りの頃、二度目が黒船来航の頃という。今、私が読んでいる藤沢周平の用心棒シリーズが一番目の時代に、平岩弓枝の捕り物シリーズが二番目の時代に相当する。おやおやと思いつつ説明パネルの文字を追う。引っかかりがあると結構読めるものである。いわしがニシン科だとは知らなかった。
いわしの背が青いのは、上から見て、海水の色にとけ込んで発見されにくいためで、腹が白いのは、下から見て、太陽のぎらぎらと紛らわしくするため、つまり保護色だという。完全無防備で、90km/hもでるカジキのような魚がいる中で、泳ぐ速度は人様の半分以下、せいぜい大群を作って、食われる確率を低くする程度しか、種を保存する方法のない魚にとって、保護色は大切な防衛手段になっているのだろう。
そのもう一つの手段、大群を作る性質も、人間に悪用されて一網打尽の漁法に利用されている。そのいわし漁法は、紀州の漂流漁民に学んだ方法を基礎に、土地に合うように改良された。銚子の醤油も紀州の技術だった。紀州と千葉は結構繋がっていたらしい。
いわし漁は江戸時代の綿業と関係が深い。綿の栽培が急速に広がり、魚肥の需要が拡大したのである。水揚げされたいわしは、干鰯や〆粕の形で取り引きされた。〆粕とは、梃子の原理を使った圧搾機で、煮た鰯を圧搾して、煮汁と油を絞った粕である。油は、深川佐賀町あたりに集中していた油問屋の手を経て、行燈の灯油となり、江戸の夜を明るくしたはずである。不飽和度の高いエイコサペンタエン酸(EPA)エステルがたっぷりの油だから臭かったろう。だが匂いの薄い菜種油に比べれば、はるかに安かったはずである。今はEPAは、血中コレステロール低下作用の故に、贅沢病患者に崇められているから皮肉なものである。
事務所の女性に聞いて、鰯料理の店に行く。鰯の蒲焼きが載ったいわし丼、肉団子の入った味噌汁、白子(シラス−稚魚のこと)入りの卵豆腐、つきだし、アワビの殻で焼いた鰯のハンバーグ。サラダと香の物、デザート以外は何らかの形でいわしが顔を出した。品書きを見ると20-30種のいわし料理が並んでいた。鰯の三四郎という店である。結構食べさせるから一度訪ねてはいかが。

('98/02/05)