酒井抱一と江戸琳派U
- またまた千葉市美術館に足を運んだ。3回目である。展覧会に大幅な展示替えがあったからだ。この展覧会から私らは友の会のファミリー会員になった。前にも述べたが、この美術館は意欲的な企画をするからというのともう一つ、私の散歩コースとして少しがんばらねばと思うほどの往復距離、6kmはあるというのが理由だ。今回も2時間はたっぷりかけた。週日であったせいもあってか、観客は多くもなし少なくもなしで、美術館として理想的であった。毎度のことながら、少し離れて鑑賞していると平気で目の前に入り込んでくる、マナーの悪い観客も何人か見かけた。
- その前に県立美術館の県展(後期)を観た。工芸と洋画であった。工芸の特に陶芸は素人と思えぬ作品がいっぱいで、見応えがあった。洋画のプロとアマ作品の差は私でも判るほどに歴然としている。その画題の豊かさに現代を感じた。人物像だけ取り上げても、裸像、諸外国人、和装、正装、洋装など抱一の時代にない様々な人姿がとらえられている。ポーズだって座像、立像、静止像、作業像、運動像などまことに自在奔放だ。背景の多様性を入れると抱一らの時代の窮屈さがしのばれた。
- 新展示は1/4ぐらいであったろう。上述のごとく画題もポーズも限られている上に、お師匠の傑作と同じ構図で描いてみるという制作姿勢があるし、源氏物語、三十六歌仙、業平東下りなど歴史に則った絵も同じ題材が多い。だからどれが入れ替わったか眼で見分けられるかどうか不安だったが、存外に覚えているものである。9割方は区別が付いた。もっとも絵の内容ではなく、置いてある位置や説明文から、それと察したものもある。つまり記憶は3D的状況判断が結構働いているということである。私は社交ダンスをちょっこし習っている。単位の踊りであるフィギュアの繋がりを、アマルガメーションという。きちんとレッスンに使うアマルガメーションを記憶していると思っても、ホールが変わると出てこない時がある。これなども3D的状況判断が記憶に重要な役目を果たしている証拠である。
- 市美術館にまたまたまた出かけた。4度目である。同じ展覧会に出かけた数としては記録的だ。会員証で出入り出来るから気楽なものだ。今回は10Fの「かぼちゃわいんレストラン」で家内とランチを食った。12:40頃に到着したが、満員でかなり待たされた。ここはかぼちゃスープが特徴だ。場所は思い出せないが、千葉のどこかにある同じ名のレストランにだいぶ以前に入っている。そっちが本店なのだろう。美術館には2時前に入った。しばらくしてギャラリートークの案内がアナウンスされたので、約1時間だったがそれについて歩いた。説明者はボランティアというおじいさんだった。前2回で見覚えた江戸琳派の系譜が主な話で新味は少なかった。
- 保存状態が良くても、絹本紙本という日本画の支持体は時間とともに劣化で褐色に変わって行く。洋画の画布(カンバス)だって同じだろうが、日本画では支持体の地肌が絵にもろに出ているから、劣化が絵の価値に大きく影響する。描かれてからまだ200年ほどでしかないのに、すでにそれが目立つ作品が結構多い。今回のような昭和前期までの江戸琳派としての展示では、劣化の進み方まで判ってそれはそれで面白かった。絹本も紙本も当初はもちろん真っ白だった。金屏風はその点全く劣化がないという意味で昔日と同じ姿で鑑賞出来ている。でも銀屏風は幾分黒ずんでくる。硫化物系の大気汚染物質が銀と反応して硫化銀に変えている。鈴木其一「萩月図襖」の左双の白萩にかかる上弦の月がどうも銀粉で表現されているらしい。描かれた時はもっと美しく輝いた月であったのかも知れない。
- 植物が写実的にかつ図案的に描かれているのに対し、動物は今一動的でない。鈴木其一に「夏宵月に水鶏図」がある。水鶏はクイナで、私は其一のいた江戸近郊にこんな鳥が飛来してきていたとは知らなかった。今も関東に来るのかな。冬に滞在する渡り鳥という。私は未だ野生の姿で見たことはない。クイナは他の絵にも描かれていたと思う。クイナで有名なのは琉球のヤンバルクイナだ。この鳥はほとんど飛ぶことが出来ず、野犬野猫マングースなどの餌食になってどんどん個体数を減らしていると聞く。絶滅危惧種である。描かれているのは飛べるクイナ科の鳥だ。ヤブコウジ、ワレモコウが入っていたのは中野其明「白菊に水仙図」であったか。江戸琳派の草木は図鑑と照らし合わせば種名が判るほどに克明に描かれているようだ。
- ギャラリートーク後もう一回ぐるっと回って美術館を後にした。今回見学も2時間ほどかかった。
('11/11/14)