飛鳥の都

吉川真司:「シリーズ日本古代史B〜飛鳥の都〜」、岩波新書、'11を読む。明日香村には何度も行った。小学生だった息子を連れて民宿に泊まったことがある。もう彼は中学生の子どもを連れているから、30年以上昔のことである。健脚だった。談山神社から尾根を越して石舞台に出たこともあった。今では立派な県道が通っているが、当時の山越え道は心細い細道だった。発見後の大騒ぎから落ち着きが戻ったころに、高松塚古墳の見学に出かけた。さすがに本物には入れてもらえなかったが、模造古墳で雰囲気を味わった。学生の頃だったか、夕暮れの頃、無遠慮に訪ねていった川原寺の住職が、懇切に周辺発掘現場の説明をしてくれた記憶がある。まだ考古学が今日のようなブームになっていない時代で、明日香は大和の田舎の雰囲気を残こしていた。
大化の造寺援助策は天武の時代に打ち切られた。天皇家の経営するお寺は、大官大寺、川原寺、薬師寺と滅亡した蘇我氏の氏寺・飛鳥寺だった。飛鳥寺は飛鳥に行くたびに立ち寄っている。はじめは飛鳥大仏だけだったが、だんだん発掘が進み周辺も歴史的に意味のある景色になってきた。本書にはこの大仏が中金堂のご本尊で創建来位置を変えていないとある。薬師寺とは今はもう礎石だけの本薬師寺のことだ。藤原京南西にある。今の西の京の薬師寺は平城京遷都後に移転された。「薬師」とは命をお助けくださるありがたい仏だからだろう、平城京にはさらに新薬師寺が光明皇后の手で造営された。このお寺には創建来の塑像の12神将(内1体は補作)が伝わっている。小学校の遠足の時に訪れたのが始まりで何度も見に来た。本堂が実は昔の食堂であると説明されていた。
藤原京東南の大官大寺は平城宮遷都後大安寺となって都の中央に据えられた。今は大幅に規模を縮小し、昔を偲ばせる面影など無いお寺だが、建立の頃は東大寺と並ぶ大寺だった。1度だけだが寺域を散策したことがある。文献的に大官大寺が百済大寺を移転したものらしいとは判っていた。その百済大寺が、ちょっと離れた吉備池廃寺であることが国の発掘調査で明らかにされた。その塔は九重とされていたが、遺跡は巨大でおそらくは文献通りであったと推定されている。上宮王家の斑鳩宮斑鳩寺に対する押坂王家の百済宮百済大寺だとしてある。上宮王家は聖徳太子一族である。押坂王家は聞き慣れないが、天智天武に繋がる非蘇我系の一族である。
押坂王家から天皇を出す頃になって中国王朝は唐時代に入り、遣隋使の頃からの留学生留学僧が帰国、国家改革に実力官僚実力僧侶となって働くようになる。隋の二代目煬帝に提出した「日出づる処の天子、・・」の国書は聖徳太子の突っ張り気分を伝えて面白い。でも実質は朝貢だから文言にあまりこだわらない方がいい。隋が交際条件と示唆した仏法と礼儀を受容し、お付き合いいただける国際水準の文明国になろうと、彼の地の文明を懸命に吸収し我が国に植え付けようとする。冠位12階、憲法17条から律令政治へ移ってゆく。
大化改新の2本柱は公民制と官僚制の確立である。古いイデオロギーからの決別に仏教、儒教が活用される。房総風土記の丘には大小様々の100を超える古墳群がある。岩屋古墳は大型方墳として名高い。それに隣接して竜角寺がある。伽藍創建は7世紀に遡る関東屈指の古寺だ。奈良時代という古仏も名高い。本書にはイデオロギー遷移の物証として述べられている。頭の切り替えは云うに易く実行に困難な難物である。冠位12階の制度適用でも、当初は王家はもちろん蘇我氏ほかの豪族も埒外だった。公民制は、権力闘争に新思想派が勝ったことにより急速に実施が進む。山背大兄王、古人大兄皇子、蘇我入鹿が次々とクーデターで倒され中大兄皇子が権力を確立した。押坂王家だけでも所領1.5万戸で、それは倭の支配人口の1割と云うから、天皇支配下に入った部民は全人口の半数を超えていたのだろう。公民化は急速に進んだ。部民とは王家豪族支配の私民のことである。
人心刷新に遷都する。旧習陋習の人を遠ざけ、意欲の新人ことに唐帰りを重用し、一気に新制度を展開する。孝徳天皇は難波宮遷都を実行した。大阪城南側の難波宮址を見学したことはある。大阪はついこの前までは水の都といわれていたし、古代では大阪城のある上町台地と生駒山地の間に沼地が広がっていた。新都は唐風朝廷の儀礼、官僚政治体制を目指す大がかりな構造であった。だが完成後1ヶ年で都の実体は、孝徳天皇を難波に残して飛鳥に還える。飛鳥宮跡は見学したことがない。難波宮ほどには壮麗ではなかったが、外周に必要施設を整えた。歴博でであったか、水落遺跡の漏刻機構や苑地遺構の流水状況をアニメで見た覚えがある。この無血クーデターは中大兄皇子の実力行使であった。中央政権制の確立が急がれた重大は理由は、朝鮮半島事情が急を告げていたことである。統一なり西突厥を破った唐が新羅と連合して高句麗、百済攻めに転じる。我が国は親高句麗、親百済だから、遣唐使が、唐軍集結中であったために、機密保持のため長安に幽閉されるといった事件もあった。彼らが帰途についたとき百済は滅んでいた。我が国では東北の蝦夷の取り込みが本格化しつつあった。
百済の役には、5万を超える兵士が動員された。本書では日本全戸数15万戸、実質兵役拠出が1戸1人であれば全軍で15万。鬼頭宏:「人口から読む日本の歴史」、講談社学術文庫、'00では、3−4世紀の邪馬台国時代の戸数が15.9万で、1戸10人、奈良時代の7世紀前期に20万戸で、1戸20人としている。人口は東高西低で防人が東国から出た理由の一つであろう。鬼頭本ではもう少し徴兵数は多くなるが、いずれにせよ当時は国運を賭けた大戦争で、しかもそれに敗れる。来るべき唐・新羅連合軍の本土上陸作戦に対処するために、朝廷は果断に行動した。北九州に上陸軍を想定し、政庁機関太宰府を南方に移転。今の太宰府跡は移転後のものだ。水城を作り朝鮮式山城を備えに作る。防塞は近畿に至る要所要所に築城された。そして近江大津宮への遷都。敗戦は責任論を伴ったであろう。政治的には弱体化した政権にとって飛鳥は危険な地域であったろうし、逢坂山という天然の防壁をもう一重追加するという敵への備えを重視した遷都なのかも知れない。最悪の場合の琵琶湖経由の退路も考えたのかも知れない。
大津宮は長い間正確な所在が不明だった。大学のヨット艇庫が柳が崎にあり、私は京津電車の浜大津駅から歩いて通っていた。調べてみると、その経路の中間のヨット部の合宿所あたりが、なんと大津宮の南端あたりであったらしい。叡山側に、正月の百人一首競技で有名な近江神宮がある。今は人家が密集しているようだが、学生の頃ではまだ田畑が残っていた。壬申の乱は戦中の学校歴史には出てこなかった。皇統を巡る争いなど天皇を神と教えた時代には忌避事項であった。戦後になって関連解説書籍がどっと出た。その一冊を読んだ記憶がある。敗れた近江朝・大友皇子は自決、重臣は天武朝に残留できたものがおらぬほどに、徹底した斬刑、流刑を受けた。明治に入り名誉回復され、天智天皇の忌中(殯)であったので即位の事実はなかったが、弘文天皇と諡された。天皇陵は大津宮南の皇子が丘にある。近くに源義光元服の新羅大明神がある。昔は静謐な場所であった。大津宮は天智天皇1代5年で終わり、次は飛鳥浄御原宮である。
唐・新羅の抗争で大陸からの侵攻はなかった。だがそのプレッシャーは、臨戦態勢下の天子主導の改革事業として実力者たちのコンセンサスを得た。大化改新により歩き出した専制的国家体制は、天智朝の近江令により詳細に官僚制と公民制に実質強化が行われ、その律令体制をそのままに受け継いだ天武朝が成果を享受することになった。戸単位の管理であった公民が個人に及ぶようになり、賤民(奴婢、奴隷)の私有にも認可制を告げる民部・家部の制が出ている。前出の鬼頭氏の著書では、8世紀前半での賤民数を良民数の4.4%としている。儒教・仏教の尊重ばかりが目に付くが、伝統の神祇祭祀も国家体制正当化のイデオロギーとして維持された。
唐軍侵攻の脅威が去り、平時体制への転換が行われる。一つは天武10年の浄御原令編纂である。ゥ司への配布は8年後で持統天皇の代になっていた。その1条も後世に伝わっていないが、近江令の完成に眼目が置かれていたことは明らかだ。服装、礼儀、言語に至る官人作法が、きめ細かく厳格に定められる。聖徳太子の時は12階であった冠位は、天智時代の倍の48階冠位に細分される。埴輪でおなじみの古墳時代から続いた倭風服装は中国式に改められ、跪礼・匍匐礼は廃止されこれも中国式の立礼になった。天子の前に進み出るとき、それまでは匍匐(ハイハイ)だったと思うとなんだか愉快だ。日本書紀・古事記もこの頃の編纂だ。近江朝に関しては、記録が焼失していたためと敵対関係であったために、記事の精粗と観点には注意せねばならない。戸籍が固まり、6年1度の戸籍改めが始まった。正丁4人に1人の徴兵率も確立した。天武天皇は次の都藤原京の調査を開始する。
藤原京は本邦最初の計画都市だ。10条10坊の正方形の王都だ。中心の2条2坊の区画が藤原宮である。5.3(東西)x4.8(南北)km=25平方kmの藤原京は、大和3山の部分があるが、24平方kmの平城京、23平方kmの平安京よりややでかい。発掘後の宮跡はよく整備されているという。一度訪れてみたい。今、橋下知事が大阪副都案を東京に提案している。災害の多い国では、国政に限らず私企業でも中枢機能の分散あるいはダブル化が必要だ。大震災の跡誰しもが痛感していると思うが、口に出すトップがいない中で、目立つ発言だった。実行にどこまで踏み込めるか見物である。古代でも副都の必要性は認識されていたらしい。難波宮でも近江宮でも飛鳥の宮は健在で副都になっていたと思われる。天智天皇は難波宮を副都とするはずだった。だが大蔵省の失火で全焼し、計画倒れに終わった。
最後に岐阜県関市長良川畔の弥勒寺遺跡群の考古学的成果を、文献史と対比させながら解説する。TVの街角案内で、ヨーロッパの中世時には古代の町並みが保存されている風景をうらやましく感じることがある。我が国ではすべてが朽ち果てるか焼失転用で姿を消す。中央の歴史はまだ史書に残るが、地方のそれはめったに残らない。我が国の歴史学では、土中に残された木簡とか建造物跡などの精密な考察による考古学との連携が、石の文化の国よりもはるかに重要であろう。

('11/07/10)