ヨーロッパものしり紀行
- 紅山雪夫:「ヨーロッパものしり紀行 《神話・キリスト教》編」、新潮文庫、'03を読む。本書は国立西洋美術館の売店で、ルーブル美術館展を見た帰りに買った。中世近代西洋美術の鑑賞にギリシャ・ローマ神話、キリスト教の教養は必須である。数ある候補から最も安い本書を選んだ。著者についての記憶は全くないが、カバーの記事から幾多の紀行文をを発表している人と知った。「はじめに」に、日本からのヨーロッパ旅行者に答えるつもりで書いたとある。彼らは、美術館にはいると、私と同じスタンスの質問をしてくるそうだ。取っ掛かりの資料として適当ではなかろうか。
- レンブラント:「夜警」は名画中の名画である。だが調べてみると、あの絵には、レンブラントが晩年を窮乏の中で過ごさねばならなかったヒントの一つが隠されている。スポットライトのあたる隊長、副隊長以外のその他大勢の隊員たちや市民たちが背景の引き立て役として描かれている。中には顔が半分になったり、半身が隠れている人もいる。ところが彼ら脇役たちが注文主の肖像だそうだ。本書に当時の常識が出ている。絵と言えば神話画や宗教画だったが、注文主はたとえば妻をヴィーナス像に描かせたり、12使徒の1人に自身を写させたりした。主人公をすり替えた疑似肖像画が当たり前であった。レンブラントは注文主を主役準主役にしなかったために不評を買った。ついでだが、あの絵の表題:「夜警」は間違いで、「昼警」が本当なのだそうだ。制作されてから3.7世紀が経過する間にニスが暗褐色に変質したため、夜景と間違えられたが、実は昼の景色だったそうだ。
- ヴィーナスは再々登場するテーマで、私だって美の女神であることぐらいは知っている。ヴィーナスは英語読みで、古代ローマ語ではウェヌスと言った。塩野七生:「ローマ人の物語」にも再々指摘があったと記憶するが、先進ギリシャ文明を尊んだローマ人はギリシャの神々を自分らの神々と同化してしまった。ギリシャ神話ではアフロディテが相当女神だとある。古代オリエントまでその起源は遡れるという。もう1例を挙げよう。ギリシャのゼウスはローマのユピテル、ゲルマンのドナールで、印欧系種族共通の天空神だという。でも驚く程の女たらしであったとは知らなかった。次々に子供を設けて行く。神話学者は、これらの子神たちは、ギリシャ民族が征服していった各地方の、土着の神々であったと考える。上述の塩野さんの著作にも、ローマ人はギリシャばかりか他のあらゆる征服地の神々をローマに取り入れていったとあった。
- ヒンドゥー教でも仏教でも神道でも、神々の相互乗り入れあるいは取り込みは普通に行われる。神道の本地垂迹説は最も新しい相互乗り入れである。私たちはキリスト教圏、イスラム教圏、ユダヤ教圏、共産教圏、独裁教圏の鋭い対立を毎日眺めている。一神教の限界を見る思いだ。塩野さんも言っていたと思うが、多神教のこの懐の広さはグローバル化した世界の共栄共存のために不可欠の思想である。クシティ・モーハン・セーン:「ヒンドゥー教」にはヒンドゥー教は一神教だと書かれていた。絶対神があって、目的毎にその化身が下位の神々となって現れ慈悲を垂れる、だから一見多神教のごとくに見えるというのだった。その論法では、仏教なら大日如来、神道なら天照大神の一神教である。仏教には確かに化身という発想がある。ギリシャの神々の頭目はゼウスと言うことなのだろう。でも世間で言う一神教とは絶対神の絶対性が遙かに緩やかで、今はやりの言葉で言うならば、神の世界は地方分権の進んだ政治形態に似る。
- ユダヤ人はモーゼの十戒の頃までは厳密な意味での一神教徒ではなかったという。旧約聖書のアダムとイブの時代には神々がいた。本書に言うとおり、私にとって聖書は食わず嫌いの本であるが、旧約聖書に関しては、遠くシュメール人の伝承にまで遡る歴史書として読むと意外に面白いという。記事の中の史実に入る事件の数々には、ギリシャ神話や日本神話の神々と同じ生臭い覇権者の行動が記述されていて、下手な小説など足下にも寄せ付けないとある。古代バビロンにバベルの塔のモデルとなった方形の塔があって、遺構から90mHだったと解っている。絵画には円錐螺旋状に描かれているのは、イラクのイスラム遺跡としての塔がモデルである。52mHあって螺旋階段には手すりが無くしかも外側に傾斜しているから、登るのは怖いの何のってと書かれている。旧約聖書は3大一神教徒共通の教典である。キリスト教のそれとユダヤ教のそれの内容には少々差違が存在するとある。イスラム教のそれには触れてないが、もっと差が大きいはずだ。キリスト教には新約聖書、イスラム教には新約聖書+コーランが別にあり、教えのウェイト付けには自ずから差が出てくる。とは申せ、中世近世に起こった異教徒(多神教徒)排斥と同じエネルギーで、起源を同一とする一神教徒同士がいがみ合う姿は一体何なんだと思わずにおられない。
- 映画:「華の乱」の劇中劇に、ヨハネの生首にサロメが語りかけるシーンがあった。サロメを松阪慶子の松井須磨子が演じた。なかなかの名演技で印象深かったが、劇の背景は全く知らなかった。この物語は新約聖書を踏まえている。ヨハネはユダヤ教の洗礼者でイエスの師、美少女サロメはローマ帝国傀儡のユダヤ国家の王の義理の娘である。ルーブル美術館展に「大工ヨセフ」が出品されていた。処女懐妊のマリアの夫がユダヤ人大工・ヨセフ、従ってイエスの義理の父だとは知らなかった。聖母が結婚したとは思ったこともなかった。「ペトロの涙」のペトロは一番弟子だったそうで、マリアの前で涙を見せる意味が深まる。
- ヨコメシの食卓で塩入れを倒すと、相手に非常に縁起が悪いと思われるという。ヨコメシとは西洋人同席の食事のことだ。そんな常識はなかったので、大急ぎで三井物産広報室編:「ヨコメシガイド」を調べたが載っていなかった。聖書随一の悪役ユダが最後の晩餐の時に裏切りを見抜かれ、慌てて塩入れをひっくり返したように描かれたのが、その起源だという。
- クルーズ船・飛鳥にはキャビンと言わずレストランと言わず、あちこちにオーニソガラム(子宝草)の一輪挿しが飾られている。東欧出身のウェイトレスはそれをスター・オブ・ベツレヘムと言った。間違いではなく別名のようであった。ベツレヘムの星とは東方の3博士を導いたキリスト誕生の証しである。キリストが飼い葉桶で産湯を使う彫刻があるそうだ。博士たちは馬小屋に赤子のキリストを訪ねることになる。ここらまでは私も知っていたが、キリスト一家はヘロデ王の幼児虐殺を避けるために、エジプト逃避行する話は知らなかった。
- 正教に纏わる記述は耳新しかった。本書にあるとおり、私どもにとって正教は遠い遠い存在なのだ。正教徒は世界のキリスト教徒の14%で、西方教会の60%に及ばない最大の理由は受難の歴史にある。東方教会を総括するときはギリシャ正教ないしただの正教と呼ぶが、ロシア、セルビア、ブルガリア、ルーマニアと国別の正教が立っていて、相互に独立の関係にある。ギリシャはギリシャ正教だが、狭義のギリシャ正教で、コンスタンチノープルに総本山を置く広義のギリシャ正教とは一線を画している。東ローマ帝国から受け継いだ広義のギリシャ正教は、その権威的筋合いから、支配者のトルコにキリスト教信者統治手段として優遇され、トルコの犬になっていったという。だから式典とか建築様式あるいは美術形式などからは同一グループと見なされるのにもかかわらず、民族主義勃興時の精神的支柱となった各国教会組織とは犬猿の仲なのだ。ギリシャ人の信仰心は今も厚いが、社会主義の洗礼を受けた諸国での信仰は高年齢層に偏っているようだ。
- キリール文字はギリシャ文字からの発想で、正教の僧侶が布教の便利から発明したものという。当時の東欧圏の後進性を象徴するような話である。ついでだが、ルーマニアはトルコから解放されてのち、ローマ字を採用した。塩野さんによると、今でもイタリア語と半分ぐらい共通というラテン民族だから自然な選択であった。私は現役を研究者として過ごしたから、ロシア語文献にも時にはぶつかった。PECTPAHはレストランと読む。私にはローマ字と音が全然合わないことよりも、読めば欧米と同じ意味になることの方が重要であった。科学用語は多少の変化に目を瞑れば、万国共通なケースが多いのである。だからなんとか図表の意味ぐらいはロシア語が出来なくとも解った。旅番組で正教教会内部と活動状況が映像として届けられるようになり、本書にあるカトリック教会との相違が、目に見える形で理解出来るようになった。
- あれだけ偶像崇拝を忌み嫌い、ギリシャ、ローマの美術品を破壊し尽くしたキリスト教徒であったが、現代のキリスト社会には偶像が満ち溢れている。イスラム社会やユダヤ社会との、目に見える大きな相違点である。いまや偶像の数は我らが仏教徒顔負けの繁盛ぶりだ。キリスト像を間違えることはないだろうが、あまりにもその他の偶像種類が多くて見分けが付かぬ状態になってきたから、像には誰を表すかの符号が付いている。ペトロには鍵、ユダには皮袋。他にも聖人が何百人もいるらしい。大衆の教化には「形あるもの」を見せるのが一番と教皇が悟ったからだ。トップダウン式に教皇の悟りが先であったのか、ボトムアップ式に大衆の素朴な信心形態が教皇を悟らしめたのか、多分後者であったろう。法王庁内の経緯がバチカン美術館に保存されている。その事情をNHKは5/2の「ハイビジョン特集 教皇の美術館 バチカンの至宝 第1回 ローマの威信を取り戻せ ルネサンスと古代彫刻」と言う映像の中で描写して見せた。偶像はエジプトのミイラから復権している。古代彫刻復権の最高の目玉は「ラオコーン像」である。
- 1506年、古代ギリシャの「ラオコーン像」(1世紀に既に世界最高傑作の芸術品と紹介されている。腕が欠落した姿で発見されたが、その補修がいろいろ試みられた。別途発見された腕の残骸がその欠落部分だとして取り付けられたのが、現在の像である。トロイの木馬を城内に引き入れることに反対したトロイの神官が、ギリシャの神の怒りに触れ息子2人共々に蛇に絞め殺される図という。本書にはそんな記事はなかった。)が発掘され、法王ユリウス2世は、"異教の神々の像"であるにもかかわらず、他の古代彫刻と共にバチカン宮の中庭でこれを公開した。
- 読み終わってから、「ヴァティカン美術館」、講談社、世界の美術館シリーズ、'66を取り出して、どれほど西洋神話画宗教画に対する造形が深まったかを試してみた。一度読んだだけでは人名など記憶に残らないから、それを割り引くと、結構親しみを持って鑑賞出来るレベルに近づいたと自己評価した。「ヴァティカン美術館」は全くの死蔵本で、購入以来一度も開いたことがなかった。なかなか立派な装丁で、図版毎に詳細な解説がある。でも本書程度のイントロがないと面白くも可笑しくもない解説だった。
('09/05/05)