伽羅


香料化学も私の教科に入っている。香料が歴史に与えた影響を述べよとは私の年度末の試験に出てくる得意の出題である。ただしおまけ出題でどうにも点の採れぬ連中が食いつく定食である。大航海時代の幕開け、地中海貿易の没落、アジア・アフリカの植民地化、アメリカ発見みんな元を正せば香辛料と言った話が、断片的に出てくるのが相場である。織田信長が切り取った正倉院の香木の話は、さて歴史とどう直結するか迷うらしい、あまり書かれない。ロシヤ革命の水兵の反乱が腐肉と香辛料に関係があると云う話は時折顔を出す。
京都物産展が県都に来た。お香の老舗が二店出店していた。白檀、沈香、伽羅と馴染みの香木をグラム売りしている。馴染みと云っても伽羅ぐらいになると、名前を知っているだけで、どんな香りかはずかしながら知らない。知ったかぶりで雲上天女の香りなどと云っているのだから、先生とはいい加減なものだと思っていた。その日頃の罪悪感が伽羅を目の前にしたとたん吹き出てしまった。買ってしまったのである。グラムいくらと思いますか。数千円はするんです。女房が私の買い物を目聡く見つけて半グラムにできんかと店の女将と渡り合う。こんなけちな買い物客は見たことがないと云う顔をされて引き下がった。女房の気持ちが分かるので私は申し訳なさそうな顔をせざるを得なかった。
皆さんの鼻はきく方ですか。私はどの感覚器官にも観賞力の鋭さに共通の性行があるように思うようになった。1000円のワインしか飲まぬ人には2000円以上のワインの聴き分けは出来ない。5000円のチケットしか買わぬ音楽愛好家は10000円のオーケストラの良さは分からぬ。1000万円の絵しか見たことがない人は1億の絵は何故高いか分からない。触覚だってそうなんだよ。女の柔肌だって上ものに通じていない人には所詮佳人の味は分からないんだ。そんな講義はアルコールでもまわらない限りやらない。話を戻すが、鼻もその通り。500円のお香で満足する人には5千円の伽羅は猫に小判である。しょせん文化は暇と金であると。
香炉にくべると思いどうりの香りである。香道では香は聴くものだそうだ。さてどんな風に応用しようか。ちょっとタイミングが悪く聴かす相手は卒業してしまい、もう講義の時間はない。お茶でやっちゃったから同じ先生では気の毒だ。と言うことで白羽の矢を女性教授に立てることとした。三顧の礼をもって旧帝大系の国立大学からスカウトしたという評判の教授である。彼女がどんな風に鼻を鳴らすか楽しみにしている。

('95/03/26)