先生まる ちょうだい (3)  


 

これは、1995年還暦の年に出版致しました本の題名です。

20年間の学習塾での子供たちとの触れ合い、思ったこと、感じたこと、

それに若き日の教員時代のことなどおりまぜて、綴ったものです。
 
目 次
 

    不思議な転換(1)   不思議な転換(2)   
    突然パチンと      テニス会話    
    救われたい 救いたい  何故 今になって     
    豊かな土壌に      若い命に支えられ   
    おわりに   


 不思議な転換(1) 俊 君

       

こうして子供達と勉強を始めて十六年になりますが,この間に不思議な変化をした子供が二人います。
 川口俊君は仕事を始めた頃小学校の六年生でしたから、今は二十歳台も後半の立派な社会人になっていることでしょう。真面目でよく勉強していましたが数学がちょっと苦手でした。このクラスはとてもよく勉強するクラスでしたが、集中出来るのは一時間で、後の四十五分はどうしてもおしゃべりしたり、ふざけたりして雰囲気が緩みがちでした。最近はグル−プで勉強に来ないせいもあるのか一人一人独自で最後まで静かにやっていますが・・・・・。
  俊君も皆と同じく一時間集中の一人だったのです。ところが、ある日いつもと調子が違うのです。その時すでに中学3年生になっていたと思いますが、いつもより真剣に取り組んでいるのです。
 「今日は、えらく冴えてるのね」と声を掛けたほどでした。
 一時間過ぎ、まわりの子どもたちがざわざわしても勉強をやめようとしません。しかも苦手だった数学の文章題が解けているのです。
 「がんばってるわね」
 と声を掛けつつも「どうしたのだろう。急に・・・・・。」と、驚いていました。と突然俊君が
 「あ、頭がしびれる」
 と言って寝ころんでしまいました。行儀が悪いと思いましたが、放っておきました。他の生徒の手前、しめしがつかないとも思いましたが、「今日はがんばったものね」
 と好きなようにさせておきました。
 その日以来俊君は数学が得意となり、ここ小田原では一番入学するのが難しいと云われている小田原高校に合格しました。そして成人しコンピュ−タ−の道に進んだと聞いております。
あの日、俊君はどうしてみんなのおしゃべりに加わらず、一人だけ集中して勉強できたのだろう。いや、勉強したのだろう。何か特に発心することでもあったのだろうか。その心を知る由もありません。また、頭の中で何が起こったのか、私には何もわかりません。
教育に携わっておられる方々がテレビや著書の中でよく「学力は努力と比例するようにだんだんと伸びるのではなく、一定期間努力を続けていると突然飛躍するものだ」といっておられますが、あの夜がその飛躍の瞬間だったのかもしれません。俊君のそれまでの真面目な学習態度と努力の積み重ねと、何とか分かりたいという意欲があの飛躍をもたらしたのではないでしょうか。

     クリスマス  ゲームに興ずる子どもたち




   不思議な転換(2) 良太君

 歳の暮れも押し迫った頃でした。
「中学三年生ですが、お願い出来ますか」と言うことでした。
「ええ、よろしいんですが もう幾日もありませんよ」
「行く学校が無いんです。遠くの私立にでもと思って。それまで少しでも面倒みてほしいのです」
 お母さんのせっぱ詰まった気持ちにお役に立てばと言う事で引き受けました。
 杉本良太君は丈も横も大きくとてもたくましく思われました。私は見上げて話さねばならない程でした。 「二ケ月、がんばる?」
「お願いします」
にこっとする笑顔は体に似合わない可愛いらしさです。一週間に三日と言うことで始めました。手も足も付けられないというほどでもなく、行く高校がないとはちょっと変だなと思いました。
 最初の一週間は三日熱心に勉強していましたが、次の週は現れませんでした。「ああ、やっぱりあきらめたかな」と思っていましたら、八時半頃 「遅れてすみません。進学のことで先生が家に来られたので遅くなりました」
 と言うことでした。
 翌日お母さんから電話で、
「昨夜担任の先生がお見えになり、良太が急に、とても真面目に取り組み出したことを教科担任のそれぞれの先生方が認めて、ある学校に推薦しょうという事になり、『三日以内に返事をして下さい』ということですがどうでしょうか」とのことでした。
 その学校はまだ高校の認定は受けていないそうですが、高校卒の検定と大学入試の準備までするところで、真面目な生徒しか採らず、一つの中学校から一人推薦ということのようです。
 お話を聞きながら私自身の高校三年の時の事を思いだしました。夜遅く担任の先生が進学のことで尋ねて来て下さったことが、私の人生を大きく、しかも良い方向に展開し続づけてきたことでした。
「三日あるのですから、まずそこを見に行って良かったらお受けになったらいかがでしょうか。先生達がそろって推薦してくださるのですから天から降ってきたような良いお話のように思えますが」
と申しあげたことでした。そこへ行くと決めた後も、もちろん推薦でもテストはありますのでせっせと勉強に通って三年間の復習を致しました。
 翌春、その学校に入学。私どもの教室は当時高校生は、受け入れていなかったのですが、良太君はここが好きになって、「どうしても来たい、自分で勉強するから」と言ってにこにこしながら毎週二回来ていました。学校が遠く朝早いので眠たいのでしょう、時には机にうつぶせになって眠っていることもありました。一学期は英語は一番だったと満面笑みを浮かべて報告してくれました。
 その後「僕、大学に行くんだ」と張り切っていました。年末のあの悲壮な親子の姿を思うと本当によかったと思うのでした。

   突然 パチンと(2) 良太君

「学君、今日はどうしたの?全然手がついていないじゃない。お母さんに『今日は勉強しなかったんですよ』って言おうかな」
 パチンと、私のほっぺたは突然の平手打ちをもらいました。そして学君は飛び出して行きました。
「どうしたんかね?」
 一緒に来ていたお姉ちゃんに聞いたところ
「お父さんが、厳しいから」という返事でした。
「しまった」と思いました。私が、かねがねしてはいけないと思っていた「他人の権威で子供を治めるな」を、やってしまったのです。
 河本学君(五年生)は三年生からきていて、最近の子どもには珍しくちょろちょろする子で、自分の勉強より上学年の勉強が気になり、それをやってみたい子で、頼もしく思っていました。そういう子ですからいつも冗談を言ったりして、一番打ち解けてやっていたし、お母さんも何かと相談に来られ、親しみを感じていましたので、つい私もふざけて言っちゃったのでした。
 そして、もっと私が驚いたのは、そのことをお姉ちゃんが家で話さなかったということです。
 普通子どもは外であったことは、特に兄弟のことについては親に必ず告げ口するというか、報告するものだと思っていました。が、それが無かったようです。その後この事についてご両親から何にもコメントがなかったのです。お母さんにお会いしましたが全然ご存じないようでした。学君はしばらく来ませんでした。もう、辞めちゃうかなと思っていましたが、ずいぶんしてからきまり悪そうな顔をして入ってきました。私も何もなかったように迎え、一件落着しました。
 お姉ちゃんが、どうしてこんなにも弟をかばうのだろうか?お父さんはそんなに厳しいのだろうか?私には想像出来ない家庭の断面をかいまみた感じがしました。

     

土曜日の午後のフリータームにて




       テニス会話

 1991年10月25日の毎日新聞の朝刊の「日本語はどこに……新国語審の課題」という記事に「すれちがいは平気…テニス会話」という面白いタイトルをみつけました。
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「テスト、知らない問題がでたな」
 
「あしたから部活」
 
「英語のセンコ−、範囲を云わんもんな」
 
「対抗戦、絶対一勝しろって。日曜も練習」・・・・・
 中学生二人の会話。かみあわない。だが、お互いに不満も不便もないようだ。 東京板橋区の中学教諭、四方繁利さん(四十五)は、これを「テニス会話」と呼ぶ。相手に合わせる「キャチボ−ル会話」が普通だが、テニス会話では相手がいないところへ打ち返す。十年くらい前から目立つという。
 これはその記事の一部です。現代っ子の気質の一つを教えてもらったと思いました。一生懸命教えているのにあっちを向いて、聞いているのかいないのか腹が立ちます。でもこの記事を読んでからは開き直る事ができました。 「よし。テニス会話だ。私は彼の、彼女の胸に、頭にボ−ルを打ち込めばいいのだ」と。古い世代の私はチャチボ−ル会話しか知らなかったから腹が立っていたのでした。
 佐藤道夫君は中学三年生。一年の秋頃、入って来ましたが、案外分かっているなと思っていました。しばらくすると、
「宿題していいですか」と言うので
「いいよ」と許しておりました。
 私にはこの子は分かっているという油断があったのです。よく宿題をするようになったので 
「大丈夫? わかっているかな?

「大丈夫です」
「そう、じゃ分からない時は、聞きなさいね」
 と言っていたのですが、殆ど聞きませんでした。ちっともドリルをしないので理解度が分からなくなりました
「宿題みようか」
「いいです」
 困ったなと、思いました。
 テストも近づいたのでそのままではいけないと思い、
「今日は、プリントをしょう」と言ってこちらから課題を与えました
 ところが分かっていると思い込んでいた道夫君が全然分かっていません。
「ああ、好きなようにさせて悪かった。ちゃんと見てあげなくては」
と自分の甘さを反省したことでした。
 が、道夫君は説明していると聞きたくないといわんばかりに横を向いているのです。むかむかしました。その頃この記事を読んだのです。「テニス会話でいいんだ」「テニス会話でいいんだ」とテニス会話に慣れるようむかむかする心を抑えて道夫君と付き合いました。
 ある日、説明しながら道夫君を見ると、顔はあっちを見ていますが、目だけ私の説明するボ−ルペンの先を見ているではありませんか。あら素直にこっちを見れば楽だろうにとおかしかったのですが、自尊心なのでしょうか?分からないということを、認めたくないのでしょう。でも、「分かりたい。分かりたい」と心が叫んでいる事を横目が語っているようでした。
「ああ、そうだったの。聞いていたのね。横向いててもいいわよ。よ−く説明するからね」
 それまでは、横向かれるとこちらも精が出なくて、悲しかったのですが、道夫君の気持ちが分かると熱がこもってテニス会話もやりがいが出てきました。そのうちに素直になって説明する私の方を向くようになりました。道夫君もさぞかし首が楽になっただろうと思います。
 そして「わかりません」「ここ、教えて下さい」という声さえ聞こえるようになりました。若者の心を知ることは私自身の救いとなります

      救われたい 救いたい

  

野口光夫君が、前から勉強に来ていた敏夫君と一緒にやってきました。なんとなくてれて、笑っているような、横向いているような格好で入ってきた光夫君は中学三年生。五月頃でした。体格が良く、私よりずっと背の高い子どもでした。だぶだぶのずぼんに、中学生にしては派手なシャツ、髪の毛も自然とは思えぬ茶色ぽさでした。ちょっと問題がありそうだなという感じでした。
「今、何やってるのかな」と、尋ねると
「何やっとるんけ」と、友達の方を見ています。
「因数分解やろ」
「因数分解」
「そう」と、言ってプリントを渡しました。やっているのをみると、まあまあ出来ていました。次の時間は、ドリルを用意し、同じく因数分解の復習をしてもらいましたが、全然駄目なのです。
「あら、どうしたの?」
「まだ、やってない」
「へ?この前やってるって言ったでしょう」
「学校で話なんか、聞かんのや」
「でも、この前出来てたじゃない?」
「あれは、横にやり方が説明してあったから、見ながらやったんや」
「いや、素晴らしい。説明を読んだだけで出来たなんて。じゃあ前の方復習しようね」
 と言って、多項式をやってもらうことにしました。
慣れて来ると面白い子で何か一言いうと皆がワァ−と笑って女の子達の間で人気がありました。初めは良かったのですがそれがだんだん教室を乱すようになりました。光夫君は、格好よくありたいのです。下級生、しかも女の子の前では特に、「分からない」なんて言いたくなかったのです。何か言うと必ず 「小田高。小田高。ちょろいちょろい。もう、決ってるんだから」と言うのでした。そして何やかや言っては皆を笑わせ、勉強が出来ない雰囲気にしてしまうのです。 「困ったな。このままだったら皆が駄目になっちゃう。さりとて光夫君も本当は入試が近づいてどうにかなりたいと思って来たに違いないのに。どうにかしなくては・・・」
 今までは一つの教室で主人と私が六名づつ受け持つてやっていたのですが、被害を最少にするため、客間の和室を使うことにして、生徒を分けました。
 最初の日まだ学校でやってない所を自分の力で解いた彼ですから理解力はあるのです。また格好良いところを見せたければがんばる根性もあると思いましたので、特別に力を注ぎました。
 ある時、問題を解くのにいきずまっていましたので、ちょっと覗いて
「ああ、それね。公式2を使えばいいのよ」と言うと
「おれにそんなこというなよ。泣けてくるじゃないか」と言うのです。彼が学校で何も聞いてい事を忘れていたのです。悪かったなと思うと同時に、泣けてくると心の内を吐露してくれた光夫君と心の距離が縮まったように感じました。
 光夫君が何とか現状から抜け出したいと思っている事が感じられるので私も一生懸命心を注ぎました。理解力もあり、やれば間に合うと思ったのです。二か月程光夫君と私の二人三脚は苦しいながら続きました。その間も彼は時々隣の教室に顔を出しては女の子たちを笑わせていましたが・・・・。 
 しかし、三年間…いやもっと長いかもしれません…の穴を埋めることは容易ではありません。よほどのやる気と忍耐を必要としました。夏休みに全力を傾注すれば、出来ると思いましたが、夏休みは誘惑の多い季節です。やって欲しかった夏休みには欠席が多く、私もせっかくの力が抜けてしまいました。
 ある時「怠けすぎたな」と彼が一言もらした時がありました。・・・・・・それからしばらくして光男君の姿は見えなくなりました。 残念でした。本当に残念でした。

       何故 今になって

 三田敏君のお母さんが訪ねて来られたのは、歳の暮れも押し迫った十二月の二十日過ぎでした、
 「何年生ですか」
 「三年生です。テストなのに、ちっとも言うこと聞かないのです。『弟達がやかましい』とか、何とか言って、しないんです。しばらくでもいいんです。よろしくお願いします。お宅のことは知っていましたのに早く来れば良かったんですが・・・」ということでした。 敏君は、小さいとき病気がちだったとかで、背も低く、ちょっと弱々しい感じでした。冬休みを利用しての勉強です。基礎から復習しなければならない状態です。説明すると分かるのですが定着していないのです。でも勉強が楽しいらしく毎度生き生きとしてやって来るのでした。その姿を見てつい「なんで、今ごろ?」と、思ってしまった自分を反省しました。
 日頃は、人生はずっと勉強、入学試験だけではなく生涯教育こそが大切なのだと偉そうに言っているのに、私もやはり目前の入試を問題にしている人間だったのです。
敏君ばかりではありません。長くここで勉強している子でも、冬休み前になり、受験する高校が決まってから
 「僕、あそこには、行きたくない」
 と真剣な顔をしてあわてているのです。またそれまで、てれてれしていた子が冬休み前になって受験校も決まってから(神奈川県の高校受験制度では受験校が決まるということは、合格を保証されたことなのです)真剣になる姿は少なくありません。私にはなぜ今?と不思議なのですが、彼らは何の矛盾も感じないように真剣です。こんな日が来ることは前から分かっていたはずです。でも目の前に来るまで気付かないのでしょうか。
 19年前、こちらに引っ越して来て塾を始めて、すぐのアチーブメント・テストが終った時、或る子が
 「ア・テストが終ったので塾は辞めます」
と言って来たときは、そのあまりの現実的な物の考え方に驚きました。高校入試までは勉強に来てくれると思っていましたので、ア・テスト終了で突然ポッツンと縁が切れるのかと、とても寂しい想いをしました。仕事を始めてまだ一年足らずでしたので、心のつながりも出来ておらず、何かやったという満足感もないままでしたので、空しさだけが残る別れでした。
 神奈川県はこれまで「神奈川方式」といって二年生の終わりに県がアチ−ブメントテストを実施し、その成績が、高校選抜の資料として用いられてまいりました。
 当時は、ア・テスト25%、入試%25、内申50%で、内申の内訳も二年と三年が半々で25%ずつでした。しかも、高校入試で不合格者を出さないようにとの配慮から、学区内の中学校が談合して、ア・テストと、二,三年時内申書の成績をもとに各校への受験生の振り分けを行って、各県立高校の志願者が定員をオーバーしないようにしていたため、ア・テストが済めばもう高校はきまったという風潮がありました。 アチーブメントテスト方式はその後、三年生が勉強しないという弊害などが指摘され、廃止されることになりました。
 
ア・テストが終ればすぐ塾を辞めたあのころのあまりにもプラクティカルな中学生に比べて、冬休み前になって真剣になる現今の中学生を見る時、時の流れとでも言うのでしょうか、その変化に驚きます。が 中学卒業前になって真剣になっている、ちょっぴり大人っぽくなった子供達の姿を見ながら、「何故、今ごろ」と思わないことにしました。「これでいいんだ。高校に行ったらきっと伸びる。彼らはこれからなのだ」と未来に期待しています。これまでも高校に行って、良く勉強するようになったとか、大学にいったとか嬉しい報告を耳にしていますから・・・・。
    

 豊かな土壌に

 「場の提供」という言葉を耳にしたのは十八年程前でした。長野県の富士見におられる友人の小林亀太郎さんがたくましい青少年の育成のために、働きながら共同生活をする農場をつくると、敷地にカナディアン・ハウスを三棟建てられました。中高生は農作業、家畜の飼育などをしながら地元の学校に通わせるということでした。当時中学二年でした次男が、その第一期生として参加しましたので、暫くして様子を見に行きました。二十四時間、青少年と寝食をともにしておられる小林ご夫妻のご苦労はいかばかりかとお礼を申し上げると
 「いや、私たちは場を提供しているだけですよ」と言われました。
 謙虚なお言葉だなと思うと同時に面白い表現だなとその言葉が耳に残りました。
 三月になると高校合格の発表があり、子供達は卒業していきます。
 「お世話になりました」とご両親は挨拶されますが、私は、
 「いや、○○君、(○○ちゃん)の力ですよ。ちょっと手助けしただけです」と申し上げます。それは私の実感です。
 塾をはじめたばかりのころは学習の場がなかなか出来ずにずいぶんと苦労しましたが、このごろは黙々と勉強している子供達を眺めている時間が長くなると手持ち無沙汰で何かしゃべりたい衝動にかられることがあるほどです。「邪魔しては駄目」と嬉しい命令を自分に言い聞かせるときすらあります。勉強の習慣が付いていない子供でもしばらくすると場の雰囲気に同化され、だんだんにやるようになってきます。
 また、同じ位の年齢の子供達が集まってお互いにライバル意識を燃やし競い合うこともよい刺激のようです。
 「お前、もうそこやってんのか」

 「やった。やった。ま−だ、そこけ」
「くそ−」
 「なに、いいよ。マイペ−ス、マイペ−ス」
それぞれ反応は違いますが、自分の個性を出しながら仲良くやっているのを見ると、とても頼もしく思います。女の子は男の子のように、露骨に気持ちを表しませんが、やはり随分競い合ってやってるクラスもあり、それなりに力をつけて希望の高校に進んで行きました。いわゆる進学塾としての性格はありませんが、それぞれの子供が、やる気を出して努力し、よい結果を見てきました。
 花が好きで庭をいじりますが、私のすることは、土を耕したり、石を除けたり、水
をやったり、肥料をやったりするくらいです。植物は植物自身が成長して、きれいな-花を咲かせてくれます。
 私の仕事も同じことで生命そのものに、手を加えることは出来ないのです。いくら説明しても分かるのは本人だし、頭の中に手を入れて操作することは出来ません。代わりに単語を覚えてあげるわけにもいきません。言葉を掛けたり、頭をなでたり、肩をたたいたりして励ますことは出来ても、励まされてやりだすのは本人なのです。同じ命が集まって成長し合う、この場が役に立っているように思います。私に出来ることは、この場の形成に邪魔になる、やる気のなさ、おしゃべり、劣等感、人のことばかり気になる心、そんなものを排除するよう心掛けながら、具体的な学習の手助けをすることくらいです。
 草花は、時期が来れば必ず花を咲かせ、実を結びます。同じように人の子も又、生命のままに、成長し花咲かせ、人生の結実を見て行くに違いありません。
 イエス・キリストの寓話にもございます。
 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽生え、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」(マルコ4・3−8)と。---
写真は児童漢険に合格の姉弟

   若い命に支えられ

 生命は生命によって命づけられるのでしょうか。
 いつも私は、ここへ勉強に来てる子どもたちに命を頂いている様な気がしています。気分がすぐれない、疲れた、何もしたくないなと心が沈みがちな時でも仕事の時間が来て、子どもたちに会うと生き生きしてくるのです。
 わたしには年老いた母が熊本におりましたので、頻繁に見舞いに行っていました。長時間の旅と気遣いで疲れ果てて帰って来ると、留守中にひっくりかえった部屋の整理などする気力なんてありません。なのに、一階の教室に降りて行って子どもの相手をしていると、力が湧いてきて、今まで通りの生活を始めることが出来るのでした。
 十年ほど前、私は大きな試練に出会っていました。その時の日記にも
塾は私にとって、蘇生の場だ。
 大きな戦いをして疲れている私の生命を活きかえらせてくれる。不思議なことだ。
 不思議なことに、子供らに会うと、身体の調子が良くなる。 いつも経験することだが、子どもらが私を支えていてくれるのかも知れない。生命は生命で支えられるのかな
などと、記してありました。
 今もそうですが、長い間私は若い生命に力をもらいながら生かされて来たのかも知れません。子どもたちと勉強することは楽しく、そのうえ生命まで付与され、ありがたいことだなと思っています。
 花が好きで小さな庭をいじっていますが、ちょっと手を抜いたり、いい加減にしたりすると、てきめんできれいな花が咲きません。そんなに生命は愛情を必要としているのでしょうか。
 勉強に来る子どもらに私の及ぶかぎりの心と力を注いでその成長を見守りたい、そう思うのです。


 おわりに

 子どもたちの学習のお手伝いをしながら私の心の中に育ってきた想いを、一冊の本にまとめることが出来て嬉しく思っています。
はじめにも書きましたが、この仕事を始めて数年たったころ、ご両親に「大事なお子さんを主人とこんな気持ちでお預かりしています」とお伝えしたくて書き始めたのですが、拙い文章で印刷する勇気が持てず、長い間引き出しの中に入れたまま、原稿用紙も茶色くなってしまっていました。三年ほど前、当時毎日新聞社の記者だった次男の宣明が嫁の純子さんと訪ねてきました。
 その時、二人が突然口をそろえて「お母さん、あの原稿『あせらず、あてにせず、あきらめず』というタイトルにでもして本にするといいと思うよ」と言うのです。私自身、印刷するのをあきらめて半分忘れかけていたものを覚えていてくれ、それなりの評価をしてくれていたことをとても嬉しく思いました。
 「僕も物書きのプロになったんだから、お手伝いするから」
 と言ってくれましたので、その気になり書き改めました。しかし、どのページにも、どのページにも「分からん、何を言っているのかさっぱり分からん、もっと具体的に」などと厳しい批評が返ってくるばかりです。
 「どこが分からんのよ。どうして。ああ、もうやめた」 と何度も匙を投げたくなりました。その時、「ああ、宣明は新聞社に入社して、こんなふうにして鍛えられて来たんだろうな。上司から、分からない、駄目だ、と言われながら記事を書き続けていたのだろうな」と、そんな想いがよぎって、私もがんばらなくちゃと、自ら励ましながら書き改めてまいりました。
 あれから3年の月日が流れ、やっと原稿を仕上げることが出来ました。 たくさんの情報があふれる昨今、期待と不安の中で子育てに奮闘中のお父さん、お母さんの心のやすらぎの一助にして頂けば幸いです。
 小学校の教育に携わってきた両親とティーンエイジャーのころの私を精神的に啓蒙し可愛がってくれた兄がすでに他界していて、この本を読んでもらえないのが残念でなりません。この三人に一番読んでほしかったのです。
 

 一九九五年 還暦の秋に
                      
   岩 本 良 子

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