先生まる ちょうだい
これは、1995年還暦の年に出版致しました本の題名です。
20年間の学習塾での子供たちとの触れ合い、思ったこと、感じたこと、
それに若き日の教員時代のことなどおりまぜて、綴ったものです。
目 次
はじめに 分かれば 楽し
私の勉強 教職に縁深くー私の履歴
岩本教室の紹介 先生 まる ちょうだい
買い物だったら出来るのに 親も 私も 子どもも 辛抱
公文式算数との出会い 心を大切に
挨拶 兄と弟
育つ お母さん
まず 算数から 数学は労働よ
漢字の学習にもひと工夫 あせらず あてにせず あきらめず
以下は先生 まる ちょうだい(2)のファイルに掲載いたします
CAI導入 問われる私の許容量
10年の月日が流れて 一つひとつ まるをつけて
辞書を友に 努力はやっぱり金
忘れられない教育実習
以下は先生 まる ちょうだい(3)のファイルに掲載いたします
不思議な転換(1)俊 君 不思議な転換(2)良太君
突然 パチンと テニス会話
救われたい 救いたい なぜ 今になって
豊かな土壌に 若い命に支えられ
おわりに
はじめに
「奥さんはお花がすきですね。これどうぞ」
三畳にも満たない庭の草取りをしていると、
見知らぬ方が紫の可憐なおだまきのポットを玄関先 に置いて行かれました。
「有難うございます。」
大きな声でお礼を言っていると
「どうしたんだね。」
と主人が玄関を開けて出てきました 「これ知らない方に頂いたんですよ。このごろよくお花を頂くのよね。花を可愛がっていると花が集まって来るようですね。」
「人を愛したら人が集まって来るよ。」
「そうなりたいですね。」
酒匂大道の借家の玄関先で主人と話したことを覚えています。あれから十数年、多くの子供たちがわが家の門をくぐり、春には高校生になって巣立っていきました。もうお父さんお母さんになった方々もいます。そのころ大学や高校へ行っていた娘や息子たちも皆家庭を持ち、私は四人の元気な男の子のお祖母ちゃんになってしまいました。毎週毎週やってきた子供達の姿を思い浮かべると、とても懐かしい気持ちになります。元気溢れる子供達とぶつかりあったことや、反抗する子に身構えて緊張したこと。なかなか勉強が分からなかった子が、解決の糸口を見つけた時見せる笑顔。その笑顔を見つけた私の喜び。そして、少しでも子ども達の勉強の助けになれば、とよりよい教材を求めて書店に通ったた日々、指導法を知りたくて本に夢中になった毎日。学習塾を始めたばかりのころの、私自身のことも思い出します。
子ども達と勉強を始めて五年ほどたった頃、子供達と毎日接していて私が感じたことや考えたことを、お父さんやお母さんに知って頂きたいと思って、随想を書き始めました。でも人に読まれることもなく、引出しの中で眠っていました。それから、また十年の時が過ぎ、私の心もまた育ったことと思います。懐かしいあの子、この子の姿を思い浮かべながら、喜びと失意の繰り返しのなかから私が学んだこと、見つけたこと、感動したことなどを、書き直してみたくなって、筆の向くまま書いてみました。
分かれば楽し
「先生、和久君消しゴム投げるよ」
「僕じゃないもんね」
「そうだもんね。和久君だもんね」
「お前が先に投げたんじゃんか」
「違うもんね。お前じゃんか」
だんだん雰囲気が険悪になってきます。
「だれかな、悪さしてるのは」
酒匂に教室を移した頃は
、八畳のお座敷に 伊豆でホテルをしている友人から頂いた使い古しの長い食卓を六つ並べ子供達はそれに一人または二人座っていました。学年はばらばら、一年生もいれば三年生も六年生もいます。教科も国語をしている子供、算数をしている子供、それぞれが学校で勉強してきたことを復習しています。私は一人一人の勉強ぶりを見てまわりながら、前に座っては丸を付けたり、説明したりします。辺りを見回すと案の定、本田和久君(小学三年)が私の目を盗んでカッタ−で消しゴムを小さなサイコロに刻んでいるではありませんか。
「和久君、どこまで出来たかな」
と声をかけますとびくっと顔をあげて、にやっ。
「あ〜あ、お母さんに買ってもらった消しゴム1日でパ−ね」
ちょっとやそっとの注意や叱責で、いたずらが治まるものではありません。
次には紙に何かを書いて丸めています。広げてみると 「バカ」「あほ」「お前の母さんでべそ」「うんこたれ」などが書かれてあります。それを投げつけられた女の子の中には涙が出てくる子もいます。そんな騒ぎの中でも、叱ったりおだてたりしながら子供の間を回っていると、どうにか予定のドリルを仕上げて子供達は帰っていきます。
「どうしたら静かに勉強してくれるだろう?」と疲れがどっと出てこちらが泣きたくなってしまうのでした。そんなある日、和久君がやって来るとすぐ黙々とドリルをするではありませんか。覗くと新しい単元のかけ算をしています。ほとんど正解です。
「やぁ 良くできてるようだね。どれ、答あわせしよう」
「先生 かけ算面白いね」
とにっこり。その笑顔の可愛いこと。
「そう」私も嬉しくて頭を撫でながら
「学校でよ−く先生のお話聞いていたんでしょう。偉かったね。勉強面白いでしょう」
「うん」
「良かった。良かった」
と言いながら隣の子供の席に移る私の胸は喜びでいっぱいで、ついつい説明に熱がこもってしまいました。その日は奇跡のようにみんなが良く勉強したのでした。疲れを全然感じない一日でした。
そうか。どんなに遊びざかりの子供達にとっても理解できれば勉強は面白いものなのだな。和久君が今まで騒いで勉強しなかったのは分からなかったからなんだ。□を使った式や、文章題だったから難しかったんだな、どうしていいか分からなくて騒ぐんだから騒いでもしかたない。分かるようにしてあげなくては。私の胸の中に熱いものが湧いてくるのでした。
私の勉強
「分かるように教えたい。なんとかよい方法はないものだろうか」と、本屋で良さそうなタイトルを見つけると買ってきては読み、参考になることは片っ端からやってみました。
岡田 進・野沢 茂・石川充夫共著「親子で学ぶ算数教室」からは、子共達が一番苦手な文章題の指導法や割り算の商の見つけ方など学ぶことが多く、今ではそれが私のやりかたとして身に付いているようです。
岡野公二郎著の「算数ならお父さんが教えてあげる」では、各学年のつまずき易い所の導き方や、子供との接し方を教えられました。
高田かおりちゃんは、もういくつになているでしょうか?結婚しているかもしれません。良く出来る子供でした。小学校の六年で、分数の割り算があります。ドリルをしながら
「どうしてかな?」
と、頭をかしげています。
「どうしたの?全部出来てるじゃないの」
「どうしたらいいか、答の出し方は分かるんだけど、どうしてかな?どうして割り算は分子と分母をひっくり返して掛けるのかな?」
「教科書になんて書いてあるかな、みてみようか」
l
−
と、ありました。
「塗った面積を使った量で割れば、1dlで塗れる面積が分かるんだから、式は

になるね、じゃ、この式を考えてみようね。求めたいのは1dlで塗れる面積なんだから、4分の4dlで塗れる面積と同じだよね。4分の4dlは4分の1の4倍だから、まず4分の1dlで塗れる面積を求めて、後から4倍しちゃえばいいね。
4分の3では5分の2u塗れるんだから、これを3で割ると4分の1dlで塗れる面積が分かるね。それを4倍するってことは、4を掛けるってことだから、3で割って4を掛けることだね。ということは3分の4を掛けるのと同じになるね」
「そのことも分かるんだけど、でもどうしてかな?どうして、かけ算の様に分母は分母、分子は分子で割っていけないのかな?」
私も、とっさに答が出てきません。 「一緒に考えようよ。
割れないね。じゃ7分の5を倍分しちゃおう。2でもと3でもで割れなくちゃいけないんだから分子分母に最小公倍数(2×3)を掛けて

あら、分子と分母が反対になっちゃったね。じゃ、もうひとつ、足し算の様に、同じ大きさに通分して、割ってみようか。

分母の21は数の大きさを表しているのだから、考えなくていいから、

になるね。やっぱり、ひっくり返して掛けたのと同じになちゃったね」
「先生、もういいよ。」
「でも、かおりちゃん。素晴らしよ。かおりちゃん数学の先生になったらいいと思うよ。答の出し方が分かっているのに、こんなに考えるなんて、とても素晴らしいことよ」
その後、仕事が終っても私の頭から、割り算が離れません。かおりちゃんは「もういい」と云ったけれど、私にはまだ「どうして?」と言う疑問が取れないのです。いつまでも台所で紙切れに分数を書いてごちゃごちゃやっているので「なにしているんだ」と主人に笑われました。
その後、「親子で学なぶ算数教室」の”分数の意味と計算”を読んだりして、今までの知識の整理が出来ました。分母同志、分子同志割るのは、答はでるが、量の裏付けがなく、具体的意味をつけにくいので難点があると、説明があり、納得しました。暫くしてから、「広中平祐の数学教室」を読んで、算数や数学を教える上で大切な事を学びました。一つは、「・・・現実には、やたらと因数分解のテクニックばかり先行して、何のためにやっているのか、さっぱりわからず、難しさだけが頭に残ったりしてしまう。・・・・・・」もう一つは、「記号の経済学」と云う言葉で、「計算には約束ごとがある。それは、どんなに約束してもいいのだけど、これから数学をしていく上で、又現実の生活をしていく上で、出来るだけ簡単に、便利な様に配慮して、先人達が考えたものだ」と言うような言葉でした。
何故こうするのかと、理論を説明する必要もあるし、あまり説明していると、混乱してかえって分からなくしてしまうことも往々にしてあるので、約束ごととして説明したり、理解力を考慮して、テクニックを習得させることも、悪いことではないな、と思ったことでした。
教職に縁深く−私の履歴
私は 生まれた時から小学校四年生の冬頃まで学校の中で育ちました。
父母は、若い頃から熊本で小学校の先生をしていましたが、昭和九年に父が当時植民地であった台湾の台南州台南市の南門小学校に転勤になり、私は台南で生まれました。父はまもなくして阿里山小学校の校長になりました。阿里山というのは台湾の中部にあり標高一千八百メ−トルから二千四百メ−トルの高原地帯で日本占領の当時、密林の伐採事業で有名になった所です。当時日本で一番高い山はというと”新高山”(玉山)と答えたものですが阿里山はその登山路にありました。(現在富士山が三千七百七十六メ−トルで最高ですが新高山は三千九百九十七メ−トルありました。)
阿里山小学校は樹木の伐採事業にたずさわる営林局のかたがたの子供達のために建てられた学校で全校生徒五十名いたでしょうか。複式学級で一二年 三四年五六年 高等科の四学級でした。校長宿舎は学校と廊下づたいでした。営林局の官舎は学校と離れていましたし、だいたい子供が少ないのですから私に友達など居るはずがありません。
幼稚園に通う年ごろには、授業が始まると一人で廊下をつたって学校に行き、四つの教室を窓ガラス越しに見て回るのが私の日課でした。一二年生が体育で運動場にいっている留守に教室に入って、新入生がもらうお道具箱にはいっている赤と黄色の三角形や四角形の色板を持ち出して、母や祖母に「良子は泥棒だ」と泣きながら叱られたことが忘れられません。
学校の庭で 昔々の写真です。
二年生の時、父が嘉義市 の斗六国民学校(戦中は小学校を国民学校と呼んでいました)に転勤になり山を下りました。今度は廊下づたいではありませんでしたが、やはり学校の敷地内に家があり放課後は校庭が遊び場でした。夕方「ご飯ですよ」と呼ばれるまで鉄棒、登り棒などで独りで遊んでいましたので器械体操は得意でした。
四年生の夏、敗戦となり五年生の春に、父母の生まれ故郷の熊本に引き揚げて来ました。父は校長であっため軍国主義教育に従事したということで公職に就くことが出来ず保険の勧誘の仕事などしていましたが、親戚が原紙を製造していましたのでそれを学校に販売に行き始めました。昔の同僚や先生になった教え子達が買って下さり、そのうち学用品や、学研の学習雑誌なども扱うようになりました。
昭和二十二年教育基本法が制定され、六・三・三・四制が実施され新制中学が出来ましたが、戦後のこととて何の設備もありませんでした。父母は貧乏していましたが教育だけはちゃんとさせなくてはと言ってお金持ちのお嬢さんがいく私立の中学校にいれてくれました。高校は県立に移りました。受験校でしたが、私は一日も早く自立して両親を楽にしたいと思い就職コ−スを選びました。たった五名で珠算、簿記を教わりました。
高校三年の秋の夜のことでした。担任の平尾 久先生が突然訪ねて来られ、
「粟津さんは、大学に行かないと言っているが受験のために適正検査は受けていたほうがいいのではありませんか。明日が締切ですから私が必要事項は全部書いてきました。ここにお父さんが印鑑を押してくださるだけで終ります。」と言われました。
当時昭和二十九年頃は共通一次、共通テストとはちょっと違いますが受験前に適正検査というものがあったのです。又、「合格しても大学に行かなくてもいいから、受験だけはしたらどうですか。」と言って帰って行かれました。
就職試験は二つの銀行を受けました。私も周囲の者も合格と信じていましたのに二つとも駄目でした。母が「良子ちゃん 大学に行きなさい。多分神様がそう言っていらっしゃるんだと思うよ」と言ってくれましたので 冬休みから受験勉強を始めました。二年間で教員の免許をもらえる教育学部に入学、奨学金や家庭教師のアルバイト料で学生生活を送りました。
卒業後 熊本市の慶徳小学校に赴任、こともあろうに一年生の受持ちになりました。普通新卒は三、四年生を受け持つらしいのですが、その年は教員移動が遅れたためこんなはめになりました。先生も生徒も一年生で、騒ぐ生徒を鎮めきれず、泣きたい毎日でした。給食のおかずをついでいる時不覚にも涙を出して、可愛い女の子に大きな目をして「先生、どうして泣いてるの」と云われちゃいました。その時の教室の様子、女の子の顔今でも懐かしく、時々思い出しては笑ってしまいます。
先生も生徒も1年生
秋に主人と出会って四月には結婚ということになり退職、長崎に参りました。一年後銀行員だった主人はキリスト教の伝道者を志し退職、名古屋、福岡で布教活動をしましたが、聖書を原典で読むためにキリストの生誕地イスラエルに留学。三人の子供を抱えてはたと困りました。世間知らずの私がどうして生きていこうか色々考えました。
学校だったら免許もあるしと思い付きましたが、結婚するとき再び学校に勤めるとはつゆ思わず免許状もどこかへなくしていました。熊本にいる父に免許状の再交付と大学での成績証明書をもらうことを頼みました。親孝行をしたいと思った私でしたが、心配をさせ、面倒をかけることになってしまいました。
怖いものしらずの私は、その書類を持って大阪府教育委員会に行き、事情を話して、臨時の採用をお願いしました。幸いに、堺養護学校で二人続いて産休で休む先生がいるからという事ですぐ採用になりました。通う所は、分校で新大阪駅の近くの中津川整枝学園といい、手術や治療の必要な小児マヒの子供達、筋萎縮症その他私の知らない難病を患っている子供達が入院している病院の中にある学校でした。車椅子に乗ったり、松葉杖を使ったりして教室に来れる子供もいましたが、ベッドに寝たっきりで枕元に私達が出かけるケ−スが多かったのです。自分の意志でなく勝手に動く手足のために箱の様なものに入れられている子供もいました。私にはこのような子供達との出会いは初めてでした。ベッドでにっこり笑って迎えてくれる子供もいましたが、横を向いて拒絶する子供もいました。どのようにして子供達と触れ合っていったか、今思いだしませんが、今日の一日をどのようにして生きたら良いかと、祈り心地で地下鉄に乗っていた事だけ覚えています。
次は、大阪市のまん中にある小学校で、これ又幸いなことに二人続けて産休があり、あちこちの学校を回る事なく主人の留守を守る事が出来ました。子供達とやっと馴染んで、これからと云うところで別れなければならない産休補助教員というのは辛いなと思いました。
昭和四十年暮主人が帰国してからは、教職を離れキリストの伝道をする主人と共に岐阜、札幌、三重と生活の場を移りましたが、四十五年主人の母が住んでいる、主人にとっても第二の故郷である長崎に赴任いたしました。私の子供達も中学に行くようになりましたので、再び産休補助教員として教職に就くことになり、長崎市及びその郊外の小中学校にまいりました。あちこちで色々な体験をし、学ぶことが沢山ありました。
当時は、無気力・無関心・無責任の三無主義が取り沙汰された頃だったかとも思いますが、中学校では苦労しました。 教壇に立って、何か尋ねても誰も手を挙げない、ものを云わない時のどうしょうもなさ、授業を放棄して出て行きたい衝動に駆られましたが出て行けば私の負けだと思って、名指しで或は席順にでも答えさせてその場を切り抜けねばなりませんでした。そのうちに、言葉では答えないけれど作業はすることがわかり、せっせとプリントを作って授業を進めることにしました。作業をしている生徒の間を回って声を掛け、少しずつコミニュケ−ションを作っていきました。 長いスカ−トをはいて薄いピンクのシャツ(これは明らかに校則違反なのですが)を胸を開けて着ている中二の少女が、´何で勉強しないといけないのよ´といわんばかりの態度で座っています。無視すればそれでも時間は終りますが、「どおお、出来た?」と声を掛ければまんざら嫌でもなさそうで鉛筆を動かし始めます。
教室の雰囲気がこのようですから毎時間教室の戸を開けて入るのが恐怖と云っても過言ではありませんでした。私は臨時だし、キャリヤもないからと思って、先輩の先生に相談したら「私も、教室の戸に手を置いて、一瞬立ち止まるんですよ」とおしゃたので、私だけではないのだ、がんばらなければと思ったことでした。
そういう中でも時々生徒が職員室に質問に来たりすると、「ああ、私の言うこと聞いていてくれる生徒がいるんだ。熱心に勉強している生徒もいるんだ」と、どんなに励まされたか分かりません。三か月経つと私の任期は終ります。もうすぐお別れと云うとき二人の女生徒が大きな包を持って、「二人で編んだものです」と、三角形のショ−ルをプレゼントしてくれました。 「私に?」「ええ」びっくりしました。担任でもありません、いわば行きずりの臨時の私に心を込めて編んでくれたのかと、純真な心にかえって恥ずかしい気持ちでした。
長崎大学付属養護学校にも行きました。精神薄弱、ダウン症、自閉症などの子供達の学校でした。もちろん担任は決まっていますが、全校が家庭のように和やかで先生達は生徒達を名前で呼んで和気愛愛とした雰囲気でした。学年別にも学習しますが、全校(小中高)でするリズム体操、音楽、畑仕事等が多く先生とは親子の様に、生徒同志は兄弟の様にとても良い関係でした。特殊教育の単位を履修していない私も先生方に教えて頂きながら、又勉強しながらやることが出来ました。数や文字の指導など実物や、模型、カ−ドなどを利用して根気よく何回も何回も繰り返すことを訓練されました。付属ですから当然教育実習もあります。私には肩の荷の重い務めでしたが、若い学生と夕方遅くまで、時には電気がともっても帰らず、ああでもない、こうでもない(ああだ、こうだ)と特殊教育に情熱を燃やして語り合えたのはとても素晴らしい時でした。今も南福岡の養護学校に務めおられる佐伯博由先生から年賀状を頂き、恐縮しています。ある時先生方がこんな話をしておられました。
「こんなに良い学校があるだろうか」 「多分、ないでしょう」 「別世界に居るような気がするのです、でも時々どっちが本当なのだろうかと思うんですよ。世の中の方がおかしくて、ここが本当なのじゃないかって」 私は先生達のその会話を聞きながら、本当にこの学校は良い学校なのだ、素晴らしい教育が行われている所だなと、しばらくでもここに置いて頂いた事を幸せに思いました。 生涯キリスト教の伝道を続けると思っていましたが、昭和四十八年指導者の死去という出来事からどこの世界でもあることですが、グル−プの中に混乱が生じましたので、二年後の五十年に第一線から身を引き、新たな人生を歩き始めることにしました。
教室の紹介
岩本教室は、小田原市を貫流している酒匂川の東、巡礼街道沿いの中里という住宅街にあります。
教室の広さは十坪、中央に会議用の長いテ−ブルを四個、二個ずつ合わせて、生徒が向い合わせに座るようになっています。窓際にはCAI(コンピュ−タ−による学習機器)とその机が七個づつに、事務用のパソコンが並んでいます。椅子は回転椅子が十六ありますが、生徒は主人と私が一人で六名ずつ担当することにしていますので、残りの椅子は生徒の横に座って教える私達の為のものです。
昭和五十年に、主人四十八才、私四十才の時、新しい人生の再出発に、学習塾の仕事を選びました。資本金ゼロからの出発でしたから、六畳の間にホテルの食事に使う長いテ−ブルを並べて、文字通り寺子屋同然の出発でした。最初に借りた家は、やはり中里で今の教室のすぐ近くでしたが、一年余りして、五百メ−トルばかり離れた酒匂大道に少し大きな家を借りて引越しました。それから十三年経て、親が遺してくれたもので、今の場所に新しい教室を建てることが出来ました。
教室を始めました時、看板に「家庭学習のお手伝いをする岩本教室」と書きました。それはキリスト教の伝道をしていた主人と、教員生活の経験を少しばかり持つ私たち二人に出来る学習塾とはどんなものだろう、と考えたとき家庭学習のお手伝いなら出来るだろうと思ったからでした。
私は学校で教えていた時、授業の終わりを告げるチャイムがなって、「ああ、もう少し時間がほしい」と思ったことがよくありました。放課後教えてあげたいと思いましたが、会議やその他雑用があったりで、なかなか思うにまかせず、時だけが流れていってしまいました。又母としては、仕事を持っていて忙しく、自分の子供達が学習面で何か困ってはいないか、つまずいてはいないかと細かく気遣う事も出来ず、放ったままでした。二つの立場で充分果たせなかった想いを、教室に通ってくる子供達に向けることが出来たらと思いました。
また、当初思いました事の一つは、予習はしたくないということでした。それは、学校で新しい単元に取り組む時、その導入に先生方がどんなに力を注いでおられるか、
生徒達もまた新しい事柄との出会いに驚き、興味をおぼえることを知っていますので、この新鮮な経験だけは学校で味わってほしいと思ったからでした。
もう一つ大きな問題は教材の事でした。小学一年から六年までの国語、算数、中学一年から三年の英語、数学の毎時、毎時のプリントを作成、準備することは、私たちの能力にあまることでしたので、市販の教科書準拠のドリルを使うことにしました。本当は自分で作らねばという気持ちがありましたので、抵抗がありましたが、いたしかたないことでした
この様なことで、全てが手探りの中で始まった私たちの仕事でした。
先生 まる ちょうだい
私は、ドリルの答に×を付けないことにしています。正解ならもちろん丸ですが、間違えても説明の後で正解になったら二重マル。「よく考えたね」とか「むつかしかったね」と言いながら労をねぎらう想いで二重マル、三重マルを付けます。
こどもはマルをもらうことが余程嬉しいようです。分からなかった所を説明して隣の子供に移り、また次の子、次の子と回ってさっきの子供の所へ行くと、何にもしないでいるのです。
「あら、どうしたの?」
「まだ、マルもらってないもん」
「あ、そう。どれ・・・・はい、出来てました。マル」
すると嬉しそうににっこり。
「これからは、済んだら先に進んでいてね。回ってくるからね」という具合いです。中学三年生になっても同じことがあります。つい大人扱いにして、横から見て
「ああ、出来てるよ。じゃ、次に進んで」と何気なく言いますと、
「先生、丸頂戴」
と、恥ずかしそうに言って微笑みます。マルを貰うことがそんなに嬉しいことなのかとあらためて子供心を思ってみるのです。
喜び、満足感、それは学習する上に欠く事の出来ない推進力の様です。中学校の社会科の教員である加藤文三氏が地歴社より出版された著書に『すべての生徒が100点を』があります。日教組の第二十五次教育研究全国集会で発表されたレポートをもとに執筆されたそうです。三人の中学浪人を出したという悲しい出来事から、「すべてのこどもに、ゆきとどいた教育を」という教組のスロ−ガンにもかかわらず、すべての生徒にゆきとどいた教育をしていなかったと自分を恥じ、もっと具体的に「すべての生徒が100点を」というスロ−ガンに置き換えたと言っておられます。
取り組まれた教材は歴史暗記もののテストで人名、事件、年代、歴史的語句等の社会に生きていくために必要な基本的な知識で、第一回テスト、再テスト、第三回テスト・・・すべてが100点を取るまで、続けられるというものです。もちろんそこには、がんばれ、がんばれと尻をたたく先生ではなく、一点でも伸びればほめ、励ます情熱に溢れる先生の姿が感じられました。
同僚の先生方には、異なった教育理念を持つ方もあり、父兄からは批判もあるなかで二度と中学浪人を出すという悲しい事はあってはならないという熱意でご自分の選ばれた道を歩まれたようです。
こんな事が書いてありました。「遅れた子供が100点を取ることは、たんなる知識や認識の問題ではなく意欲の問題であり、生き方にもかかわる問題でもあることがわかった。いわば、社会科の学力等という問題をこえて、全人間的な生きようとする意欲をどう起こさせるかという問題なのではないか」と。テストは材料であって先生は生徒達に命を注いでおられるように感じられました。
もう一箇所、感銘したのは「『100点というのは、それほど、大事なのだろうか。自分の子どもは、どうせ、能力がないのだから、前より少しでもよい成績をとれば、それでよいのではないか』という意見がありました。・・・・・・・・しかし、私は『自分は、どうせ、能力がないのだ』と思っている生徒に、一度でいいから、100点をとらせてあげたいのです。・・・・・・・・・・・・『100点をとったのは、何回めだ』ときくと、たいていは『中学に入ってから始めてだ』とか『小学校に入ってから始めてだ』と、うれしそうに答えます。努力すれば、よい成績がとれること、社会科でよい成績がとれれば、ほかの教科でも、努力すれば、よい成績がとれるということを、体験させ、自信をつけさせたいのです。」というところです。先生の生徒への思いが感じられました。
この本を読んでから、私は子どものドリルにペケを付けるのをやめ、マルだけあげることにしたのです。この「すべての子供に100点を」ばかりでなく、子供達とのふれ合いに対する心構えの指針や、私自身の心の糧を求め、しばしば書店に行っては多方面の教育者や心理学者の著書で、これはと心引かれるタイトルを見つけると購入し、読みました。
塾の子供ばかりではなく、私自身すでに青年後期にある息子、娘を持ち、問題を抱えておりました。それらの本からいろいろ教えられ、育てられ今日まで一歩一歩、歩いて来たように思います。
買い物だったら出来るのに
小学三年生の森里子ちゃんは いつもにこにこしながらちょぴり恥ずかしそうに入って来ます。
三年生は三桁以上の足し算 引き算、そして掛け算、割り算は 掛けらる数 割られる数が二桁から入ります。里子ちゃんは足し算はどうにかやるのですが、まだ全て指に頼っていたのでした。分からないとすぐ涙が出てきます。反対に分かったときの笑顔、それはなんともいえない素敵な笑顔でした。
まずは
十までの計算が指無しで出来るようになったらと、オハジキやタイルを使ってゲ−ム感覚で練習してから、同じ事をドリルでやったり、いろいろと工夫しました。
50−20もさっとは出てきません。が
「五十円もってお店に行って二十円のサイコロキャンディ買ったら お釣りはいくらかな。」
「三十円」かんぱつを入れず元気な声。
「じゃ、少し高くなって二十三円だったら」
「二十七円」
里子ちゃんだけではありませんでした。この事はしばしば経験することでした。どんなに計算は苦手でもお金の問題になると案外答えは早いのです。キロメ−トル、キログラムでは出来なくても、同じ数に円を付け代えると答が出るから不思議です。生活に密着しない、馴れないものには心が拒絶反応するのでしょうか。
数の指導では色板、お金、棒は、入学当時の導入の段階で使用するもので、すぐに、正方形の半具体物「タイル」が用いられるようになり、数の抽象化に到達しなければならないのですが・・・・。


お金が親しみやすいと云っても実物を使用するわけもいかず、玩具屋に行ってみました。一円、五円、十円、・・・・千円、五千円、一万円全て本物そっくりの物がありました。位どりの問題、繰下がりの計算など抽象化が難しいと思われる場合には、一番抵抗のないこれを取り出して、用いています。
中学に入ってのプラス・マイナスや文字式の理解が困難なのも、円では分かるが数値だけでは困難という問題と同じなのでしょうか。小学校の六年間で学んだ足し算、引き算は子供の頭の中にがっちりと定着していて、プラスの数、マイナスの数という新たな概念への移行を難しくしているということがよく見受けられます。ここでも具体例がいつまでも登場しなければなりません。ここを乗り越えると中学の数学は前進出来るようです。
親も 私も 子供も 辛抱
塾に入ってまもなくして「良く分かるようになって良かったです」と喜ばれることが時にはあります。そういう子は、たぶんもともと理解力はあるのに授業時間に良く聞いていなかったり、復習が足りなかったりとかなどの理由で今まで良い成果を見ることが出来なかったのではなかろうかと思います。
こんなに速い効果は特別としても大体一か月二か月たてばなんらかの効果は現れる−これが塾を始めた当初の私の経験でした。
ところが、酒匂に教室を移転してすぐ最初に住んだ中里の家の近所の方が 四年生の泰子ちゃんを連れてこられました。前から知っているからお願いしたいと云うことでわざわざ来られたのです。吉田泰子ちゃんは六年生かと思われるほど大きな体格をしていましたが、おとなしく幼く感じられました。
「全く出来ないのでよろしく」と言うことでしたが、お母さんが言われるとおり、教科書準拠のドリルが一つも出来ませんでした。その時、何をしていたか、十数年前の事で、よく覚えて居ませんが、小数の掛け算か割り算ではなかったかと思います。「二か月たてばなんらかの成果を見る」と当時私は思っていましたがそうはいきませんでした。
お母さんの方にも、もう効果があっても良さそうなものと期待があるでしょうし、私にもわざわざ来て下さったんだから早く喜んで頂きたいというあせりもありました。
「悪いなあ、 なんだか詐欺をしているよう」
と感じてお断りしょうかとも思ったり、でもそんなことしたら
「あなたのお子さんは望みありません」
ということになり、そんな恐ろしいことは口にすることも出来ません。
「どうしよう・・・どうしよう・・・」と主人に相談しても
「うん・・・・困ったな」と、うなっているだけで答えは返ってまいりません。ところが五か月位たった頃でしょうか、ドリルに、一つ、二つ丸が付くようになりました。少しでも正解があると云うことは、理解できたということです。間違いは九九の覚え違いか、繰下がりや繰上がりかのことで、泰子ちゃんと一緒に間違いを見つけることが出来ます。初めは小さな芽で、よく間違い直しをしなくてはならず、可愛そうでしたが一ペ−ジの殆んどが間違わなくなるのには、そんなに時間はかかりませんでした
国語の内容の読み取りも、初めはまったくチンプンカンプンで、一つ、一つ一緒に読みながら、考えていったものですが、算数と平行して独りで出来るようになりました。漢字も少しずつ覚えられるようになりました。
「ああ、親御さんも良く辛抱なさったなあ。私も辛抱した。子供も嫌だと言わずによく辛抱して通ってきたな」とどんなに嬉しかったかわかりません。
チュ−リップは十月に植え付けて、春先に芽が出るまで時間が
かかりますので、毎日庭を眺める私にはとても待ち遠しく感じられますが、その間に地中では根をだし、白い根がぐんぐん成長して春の芽生えの準備をしているのです。根の成長には 寒気と水分が必要だと聞きました。
五か月間の間に 泰子ちゃんのなかに 何が形成されていったのでしょうか。
それから一年程して、
泰子ちゃんは大阪へ引越していきました。ちょっと残念でしたが、新しい学校では十分やっていけるなあと思うと安心してお別れすることができました。
泰子ちゃんは、私に素晴らしいプレゼント−理解力や、能力は時に隠れていて無い様に見えることがあっても、時がくると、芽をだし、豊かな成長をするものだと云う確証−を置いていってくれました。この出来事は、今も私の「忍待」(忍んで待つ)のベ−スになっています。
公文式算数との出会い
仕事を始めた頃とて、里子ちゃんや泰子ちゃん達をどうしたらよいか、その指導法に頭を痛め、あれこれ本を読みながら試行錯誤していました。昭和五十四年頃、「公文式算数の秘密」と云う本を読みました。現在日本全国津津浦浦に公文教室がありますが、簡単に云うと「一日二十分三十分の計算を持続するだけで、無理せず数学の理念を悟りうる」と云うようなお話でした。教材は例えば
この様なもので、「すこしずつ数が変わっていくので、無理なく独りで出来て、考えなくても即座に答が出るようになり、小学生でも、方程式が解けるようになるのも、そう大変な事ではない」と云うことでした。その理念に賛同したと云うことではないのですが、もしそうであれば素晴らしいことですし、教材に魅力がありました。公文式の教材が欲しかったのです。さりとて全学年の教材が手にいるはずもなく、(今は、公文ドリルは店頭で販売されていますが当時は無かったようです。)岩本教室手作りの公文式もどきの教材を作りました。
A 数の構成−10のまで数、20までの数の繰上がり、繰下がり
B 二位数と一位数の計算
C
二位数の加減
D かけ算九九、加減
E 乗除初歩、加減
F 二位数・三位数と一位数の乗除
G 二位数以上の乗除、小数の加減
H 小数と整数の乗除、大きな数の加減乗除、同分母分数の加減
I 小数乗除
J 異分母分数の加減、分数と整数の乗除
K 分数の乗除、四則、分数小数整数混合の計算
AからKまでそれぞれに付きA4で20ペ−ジから40ペ−ジ用意するのですが、その1ペ−ジに25題の問題を作りました。今でしたら、ワ−プロもあり、コピ−もありますから、マザ−だけ作っておけば、いつでも利用出来ます。
しかし当時は、手書きまたはタイプライタ−で原紙を切り、謄写版で印刷ですからいつでも使えるようにするためには、一つ一つの問題を数十枚備えておかねばなりませんので、その作業は大変なものでした。ダンボ−ル箱に幾箱もの問題を作りました。
若かったとはいえ、よくもやったものだと、その情熱とエネルギ−に自分でも感心してしまいます。よく利用しましたが、使い始めると前もって解答を作って置くことが必要な事がわかり、これ又一仕事です。幸い長男が大学に通っていたので、アルバイトとしてこの仕事をして貰ったことでした。
現在では、CAI(コンピュ−タ−学習機器)の普及で、計算の反復練習はそれを用いますので、さんざん苦労して作った問題はマザ−だけ本棚に眠っていて、時々利用される位です。ダンボ−ルに一杯あった問題用紙はちり紙と交換されてしまいました。
心をを大切に
小学校の教師をしていた頃のことですが、こんなことを思い出します。
二十分の休み時間が終ると生徒がどやどやと教室に入ってきます。口をとがらせてプンプン言いながら二人の男の子が入ってきました。、ドッチボ−ルでもしていてボ−ルを渡し損なったのか、当たった場所が悪かったのか、何事かあったらしいのです。二人共怒りが治まらず授業が始まっても後ろを向いて顔で文句を云い、片方もまたフンといった状態が続きます。全体の授業を邪魔するほどではありませんがその一時間は二人の頭の中に勉強のことなど何にも入ることは出来ませんでした。
また 人の事が気になって全然私の云うことなど耳にも入らない子。自分で考えれば分かるものを、自信がないために友達の答が気になっておろおろする子。分からないために素直になれない子等。学習を邪魔している子供達の色々な心を見せられました。
能力の差 これはもちろんあると思います。が、心が能力の発揮を邪魔している事も多いように思われます。
友達のお孫さんの大川美幸ちゃんが勉強に来ることになりました。私の知っている美幸ちゃんはとても活発な元気なお嬢さんなのですが、教室に入ってきた美幸ちゃんは、別人のように 声も出ません。長い髪の毛でドリルを隠し鉛筆を動かしてはいますが、何も進んではいません。いつも元気な姿を見ていただけに、びっくりしました。余程劣等感を持っているのかな、その姿が痛ましく、なんとか助けてあげたいと思いました。
私の教室では本来は予習はしないことにしています。最初にも書きましたが新しい単元に入った時 新鮮な思いで先生と一緒に取り組んできて欲しいからです。あくまでも学校生活を充実出来るように、持って生まれた能力を人生の表舞台で遺憾なく発揮出来るように、心豊かな人生が送れるようにそんな願いを込めてしている仕事ですから、子供達の生活を裏で手助けすることをモット−とし、復習 習熟を主な作業としております。
けれども、美幸ちゃんには予習が必要だと思いました。まず教室で自信を持つことが、何より大切なことではないかと思ったからです。教科書を予習していけば、教室で先生のおっしゃることがいくらか分かるだろうし、時には手を挙げることも出来るだろう。問題も正解が得られる時があるだろう。そんな期待をもって始めました。翌週は、「学校では、分かったかな」「予習の効果はあったかな」と気になってドリルで復習してみましたら、大体理解していて私からも丸を沢山もらいました。「ああ、よかった」と採った処方箋に幾らか安心して予習復習を繰り返すうちに、最初の様な暗い感じは少しづつとれて、三か月もたつと随分元気になりました。そのころ学年は違いましたが近くのお友達が一緒に勉強するようになったのも幸いして、笑顔が見えるようになり、ほっとしました。五か月もたつと「出来ました」「分かりません」と大きな声も聞こえる様になり、もう予習も止めて私も特別な心遣いをしなくなりました。
「心を大切にしなくては」とつくづく思います。子供が教室に入って来るとまず顔を見ます。「元気かな」「嬉しそうだな」「どうしたんだろう」等、色々なことを感じますが、何かと声を掛けて勉強に取り掛かります。嬉しそうにはしゃいでいる時「勉強、勉強」と言っても無視されてしまいます。しばらく会話の中にはいって、しばらくしてから[じゃあ そろそろ勉強しようか」と始めています。つまらなそうな、時には涙顔で入って来た時、しばらくそうっとしておいて話しかけます。心を無視して勉強を押し付けても決して入って行かないからです。
昭和五十六年五月と申しますと、塾の仕事を初めて六年程経った頃ですが、日記にこんな事が書いてありました。
中学一年数学の時間。長谷川君は、激しい性格のようだ。隣の吉田君のいたずらに、無言のポカン。それで、一件落着。びっくりしたが、二人とも、黙って勉強を続ける。ところが、答はめちゃくちゃ。明日は入学して初めての中間テストと云うのに、残念だ。よく出来るので、自信を持たせてテストに臨ませてやりたかったのに。心とはおそろしいもの、どうか平常心でテストを受けて欲しい。
十数年前の日記を読み返しながら、生活は便利になり、環境は色々変わったけれど、心の世界は少しも変わっていないんだ、こんな事があり、こんな事を考えたんだなと懐かしく思いだしました。
場面場面で起こる心の動きは、その場かぎりですから、時間が経てば気分転換も出来るし、忘れてしまうこともありますが、訳もなくいらいらしている、落ち着きがないと云う状態は、もっと難しく心理学の分野になると思います。そうゆう状態から立ち直るには時間もかかり、周囲の暖かい愛情と根気と抱擁力が何よりの薬だと聞いております。
「油断する事なくあなたの心を守れ。命の泉は これから流れるからである」と聖書に書かれてありますが、「学習意欲や集中力もここ(心)から流れ出るからである」と実感して、子供達の心を大事にし、私自身の心も大事にしております。
挨 拶
中学生との挨拶には随分困りました。
ガラガラガラ
玄関の戸が開く音に「誰かな?」私は反射的に思いますが
「・・・・・・・ 」
暫くすると、部屋の障子がすうう−と開いてぬうう−と現れる男の子。
「黙ってよその家にはいるってことはないでしょう。玄関で『今晩は』とか『おじゃまします』とか云ってはいってくるものよ」
「・・・・・・・」
ついついお説教してしまいました。気まずい空気が流れます。一人だけならまだいいのですが、元気な声で挨拶して入って来る子のほうがずっと少ないのですから、嫌になってしまいます。後からくる子に注意すると前に来ていた子が「また言ってる」という顔をしたり、友達同志で苦笑したり、これから仲良く勉強しなくてはいけないのに、はじめからお互い不愉快な思いをしていたのではしようがありません。でも挨拶無しに入ってこられるとカチンときて一言云いたくなる私でした。 ある時、《あら私は挨拶したかな?》「挨拶しない」と注意ばかりして自分が挨拶するのを忘れてたと気付きました。黙って入って来る子に「今晩は」とか「いらっしゃい」と声を掛けることにしました。「今晩は」と応えてくれる子もいれば それでも無視されることもあるのです。「『今晩は』って挨拶しているのに黙っているってことはないでしょう」とまたお説教。そんな自分が嫌になるのですが言わずにおられないのです。それでいやいやでも挨拶してくれればなんとかいいのですが、それでも無視されると他の子達がくすっと笑ったり冷やかな目で私の方を見たりします。挨拶することはそんなに嫌な事かなとしない子達にこそ不思議さを感じるのですが挨拶の事で先ず心の交流が絶たれ、辛い思いをしたものです。 十五、六年たった今でも声を出して挨拶をする子供はまれです。新しい教室は入口のドア−がガラスなので玄関に物音がすると誰が入ってきたか分かります。私は必ず顔を見て「今晩は」「いらっしゃい」と声を掛けます。 下を見て何かほかの事をしていたら 子供達は挨拶を返答してくれなかったと思うのでしょうが、ほとんどの子供が返答しているのです。首で挨拶する子、目だけでする子、にこっと微笑む子、唇だけで「こんばんは」と云う子さまざまです。そのしぐさを見ていると、「あら、ちゃんと応えてくれてるのね」と今まで気付かなかった子供達のしぐさの一つ一つが微笑ましく嬉しくなります。でもやっぱり声を出して「今晩は」と言い合えるのが一番嬉しいので私は必ず聞こえる様に声を掛けることにしています。なかなか声の出ない子でも時には「今晩は」と応えてくれます。「あ、応えてくれた」ってその時はとても嬉しくなります。私は、どうしてこんなに挨拶にこだわるのかなと、思うのですが。 しかし、不思議な事に一時間半、あるいは二時間近く勉強して帰るとき「有難うございました」とか「さようなら」と云わない子供はいないのです。二時間の学習の間になされたコミニュケ−ションが子供達の心と通い合って自然と挨拶が口に出るのでしょう。出会いの最初に挨拶が出来ないのは、玄関に入って来る子供達の心が、学校や家庭での様々な出来事や色々な想いの中にあって、私との関係がまだ出来てないからではないかと思うようになりました。 つい最近のことです。二人の女の子がおしゃべりしながら入って来ました。「今晩は」と言いましたが、無視されました。暫くして思い付いたように「あ、今晩は」と応答したのです。私はせっかちでした。おしゃべりしている二人の中には私の入る隙間は無かったのです。顔を見たらすぐコミニュケ−ションが始まるのでは無いことを知りました。
兄 と 弟
秀雄君が玄関に姿を現した時は、さすがにどきっとしました。
大きな花柄のシャツにだぶだぶのズボン姿で、髪の毛は茶色に染めた大柄の男の子が、塾生と一緒に入って来たのです。
「先生、工藤君が塾に入りたいそうです」
「ああ、そう。いらっしゃい。じゃあ、教室に入っててね」
平静を装って応対したものの、「困ったな 大丈夫かな うまくやっていけるかな」など心中の思いを鎮めながら教室に入りました。でも秀雄君はそんなに心がすさんでいる様子もなく、反抗することもなくほっとして一日目が終りました。暫くして分かったのですが一緒に勉強に来ていた二、三人の男の子は仲間で秀雄君はどうもその仲間のボスだったようです。
「おい、おまえそれも分からんのか」とか、「しゃべらんと勉強しろよ」とか言ったり、逆に時には仲間が「あにき−」とか言うのを聞いてなんとなく彼らの人間関係を察しました。秀雄君は母子家庭でちょっと複雑な事情もあったようでした。言葉のはしばしにそんな事を感じますので私も彼を大事に優しくすることに心掛けました。そんな気持ちも通じたのか良く勉強し、仲間をまとめてくれました。勉強も一番良く出来ましたから。
初対面の時 先ず外見で偏見を持った自分を恥ずかしいと思いました。心の柔らかな優しい子でした。
或晩、何という髪型なのでしょうか、額を斜めに剃り上げて油で髪を前に固めた姿で彼がやって来ました。びっくりしました。他の小さい子達はびっくりした恐しい様な顔を隠し得ないようでした。即座に何か一言出そうでしたが、出ませんでした。当り前に勉強を済ませ帰るとき、玄関で主人が
「工藤君、ここへ来るときはな、その髪やめてくれないかな。みんながびっくりするからな」と言うと、「はい、分かりました」素直な返事です。「おい、工藤君、ここへ来る子達可愛がってくれよな」「はい」そう言って帰っていきました。その日以後固めた髪の毛を洗って剃り上げた額が隠れるようにざんばらにして来てくれました。その数日後、友達を誘ってきました。そればかりではなく、弟を連れてきました。
弟の紀夫君は、やはりがっちりした体格でしたが、服装は派手でもなく、目だつようなことは何一つありませんでした。お兄ちゃんと良い関係が結べたので私も喜んで迎えたのですが、思うようにいきませんでした。殆どものを言わない子で、間違っているところを説明しても訂正しないので、分かっているのやら 分からないのやら 私の言葉が心の中に入らないで私に跳ね返って来る感じでした。家庭の事情が複雑なようだとうすうす感じていましたので、随分と気も使って優しくしましたが秀雄君のように心を開いてはくれませんでした。今の私でしたら暫くそうっとしておくのですが、若かったし経験も浅かったので、ほっておけず時には我慢できず叱ったりしました。叱ってもそれに奮起してやるのでなくかえってむっと反抗されました。何とか良い結果をと願いましたが続かず、日ならずして来なくなりました。とても短い期間でしたのでその当時どのように対応したのか記憶もはっきりしませんが、あんなに心を閉ざすのには何か訳があったのでしょう。
それなのにその心に触れることが出来なかったこと、良かれと思って、弟を連れてきた秀雄君にも済まない事をしたと自分の不甲斐なさが後々までも悔やまれました。
秀雄君は弟の事については何も云いませんでした。あいかわらず仲間とわいわいがやがやいいながら卒業まで勉強して高校へ巣立って行きました。今でもあの兄弟はどうしているかなと時々思いだします。
育 つ
もう二、三年も前になりましょうか、春のことでした。鴨の宮駅前の商店街でひょっこり卒業生のご両親とお会いしました。にこにこなさって息子が大学に推薦入学したとおしゃるのです。
忘れもしません、ある日、玄関の戸が開いたと同時に
「うちの息子、駄目ですかね」
と、大きな男性の声が聞こえてきました。どなたかしらと思って出て行くと近所なので顔見知りになっていた山田昭夫君(四年生)のお父さんでした。がっちりした体格のたくましそうなお方です。
「とんでもありません。これからではありませんか」
狼狽しながらも、とっさに答えました。でも内心は自信は無かったのです。単刀直入なお父さんにじっくり私の気持ちなどお話出来ず、私も単刀直入こんな言葉が出たのだと思います。
その頃の昭夫君は、落ち着かず私が説明している時でも、隣の子をつついたり、鉛筆箱をいじったり、じっとしていないのです。でもちっとも憎めない子で「こらっ」と言いながらも口元が笑っているという具合いでした。学力も学年相当のものがついてはいません。特に驚いたのは、語彙の貧しいこと、国語の問題を読んでいて一つ一つ意味が分からないと言ったのです。これが分からなくては内容が分かるはずがないと思いました。分からなければいたずらでもしなければと・・・・彼の落ち着きのなさの原因が分かった様な気がしました。一つ一つ言葉を説明し豊かな言語生活から培っていかなければと、思ったものでした。その頃、長崎から遊びに来ていた主人の母が、教室の隣の部屋にいて、私と昭夫君のやり取りを聞いていたのでしょう、仕事が終ってから
「良子さん、あなたの仕事も大変だね。あんなにも分からないんものかねぇ」と、ねぎらってくれたことも忘れられません。が、少しずつ落ち着いて勉強も出来るようになり、六年生頃には、算数はよく分かるようになりました。中学に入学してからは理解力、洞察力共に充実したばかりではなく、勉強が好きな、ファイトマンになって、友達と競争で楽しく学習していました。英語は、ちょっと時間がかかりましたが、卒業する頃には、これまた中学生としては充分の力をつけて高校へ巣立っていきました。
前にお話した泰子ちゃんや昭夫君のように、その学年相当の力がついていないと、心配したりあせったりしますが、このように生長し、変わっていく子供達を見るにつけ´子供達自身の中に伸びる力が内在しているのだなぁ´と確信が持てるようになりました。

土曜日の午後のフリータイムで作成
お母さん
「お母さん・・・・・・、あ、間違えちゃった」
と、首をすくめて恥かしそうに笑っているのは、五年生の畠中理恵ちゃん。丸顔で大きな目をくりくりさせている元気はつらつとした女の子です。
「ううん、いいのよ。嬉しくなあちゃう。理恵ちゃんにお母さんって呼ばれて」
「せんせえ−、ここどうすんだったけ?」
ああ、この子は私のモットウとしているアットホ−ムな雰囲気の中で勉強してるんだなと安心しました。
初めに、教室の紹介のところでも述べましたが、「家庭学習のお手伝いをする岩本教室」を看板にして始めた私どもの学習塾は、進学塾ではなく、補習塾です。とかく「学校と塾」といって対立した存在としてマスコミで取り扱われますが、私はそんな対立心など感じたこともありませんし、あってはならないと注意しています。
学校は表舞台で、私の仕事は裏の仕事です。学校と張り合ったり、学校の邪魔になるなど思ったこともありません。学校という全人格を形成する大きな使命の前に私の存在など小さなもので、手仕事で細かな繕い物をするようなものです。これは家庭の仕事かもしれません。
三人の子供が育つ頃、キリスト教の伝道をしていましたので、来客は多く、出掛けることもしばしばでした。そのほか文書伝道のためタイプを打ったり、印刷をしたり忙しい毎日でした。またそんな中で、学校に勤めていましたので、生徒達を教えながら自分の子供には目も注げない自分に矛盾を感じました。特にテストの時期になると家の子もそろそろテストなんだと思いつつも、帰れば食事、洗濯と色々な事が待っていますので、昼間思った事など忘れてしまっています。今日は学校で何があったのかな、嫌なことがあったのではなかろうかなどと細かく子供の心を覗いたり、分からないところは無かったのと手を取ってやったりすることもなくその日その日を生きるのが精一杯の私でした。
女には、母であると同時に家庭の主婦として、妻として、嫁として様々な仕事や務めがあり、子供の事が気にかかっていてもどうしてもあげられない時があります。子供は放っていても育つとよく言います。それも一つの真理かもしれませんが、植物でも培い育てると素晴らしい花が咲くように、子供にも暖かい心と手をかけることは大切な事と思います。しかし、現実の生活は厳しく悲しくもあります。
色々な仕事や務めに忙しいお母さん達の子供に対する気持ちはみんな同じですから、その一担をお手伝い出来ればというのが、私の気持ちです。
まず、算数から
小学生は算数と国語、中学生は数学と英語を主に教えていますが、不思議なことにほとんどの子が、算数、数学から出来るようになります。何故でしょうか?国語の漢字を覚えるのもなかなか大変なようです。また内容の理解は算数のように器械的にはいかないからでしょうか。が、それ以上に読む力が無いようです。読解の問題の答が間違っていたり、白紙だったりしている子でも
「じゃあ、一緒に考えようか」
といって、本文を読んであげるだけでほとんどの子が正解を出します。
「分かってるじゃない。それを書けばいいのよ」
と言うと、にこっとしています。
中学生が単語を覚えることも随分と困難のようです。覚えようとしない子が多いのです。
「テストに出ないもん」
と、言うのです。確かにテストには単語そのものの問題や英作文は殆んどありません。かっこの中に、簡単な前置詞、動詞、代名詞等を入れる問題とか、並べ替えだとか、正しい答を選ぶとかというものが多いので子供達はそう考えるようです。目先の事が出来れば良いと思うのでしょう、単語を覚えて英語を本当に書けるようになろうとはしないので、力がつかず簡単な問題すら出来なくなるのです。「英語力は単語力に比例するのよ」といつも言うのですが、努力家は少ないのが現実です。
数学は労働よ
数学を教えていていつも出会うことですが、まるで自分が天才かの様に暗算で答を出そうとするのです。式の計算にしても、方程式にしても、順序よく書いていけば答は自ずから出て来るのに頭で考えてノ−トのすみっこにメモして答を出そうとするので、間違ってしまいます。
「あなた達、数学は頭ですると思っているでしょう。数学は紙と鉛筆でするのよ。理屈が分かったら後は何も考えなくてもいいのよ。公式どおり鉛筆で一段一段飛び越えないでやったら答に着くんだから。学校の階段をよく二段ずつ上がってずっこける事があるでしょう。数学も一緒、飛ばすとずっこけるのよ」
ずいぶん口すっぱく言っても、なかなか言うことを聞いてくれません。ちょこちょこと部分的に計算するので間違ってしまうのです。怠け者なのかなと思ってしまいます。そういう子には
「数学は労働よ」と言ってぽんと肩をたたいたりしてねじを巻いたりします。
前に述べました単語の問題にしても、この数学の問題にしても、テレビで育ち本を読まなくても色々な事が耳目に入り、豊かな物の中で、手を出しさえすれば何でも欲しい物が自分の物になる、お母さんはよく手を掛けてくれる、そんな時代に育った子供達の特性でしょうか。努力しょうという姿はなかなか見受けられません。できるだけ簡単に答が分かればいい、答さえ分かればいい、そんな思いが先だって結局実力がつかず、やる気を失っていくそんな現代っ子のジレンマを感じることがあります。
漢字の学習にも一工夫
漢字を覚え易くするにはどうしたら良いかも、一つの課題でした。色々漢字教育の本を読み、参考にしました。
[太郎次郎社]から出ている「ひと」……教師と父母と学生・生徒のための月刊誌……に、漢字入門期のの指導という奥田公喜氏の一文があります。漢字の発生から指導するのですが、わが家では主人が絵が得意なので絵カ−ド・絵文字カ−ド・漢字カ−ドと三枚一組のカ−ドを名刺型の紙で作ってカルタ取り、神経衰弱などして遊びながら漢字の成り立ちを話しました。
夏休みには、「これなら楽しく出来る漢字の教え方」−岡田進著−の巻末にある漢字ドリルを、葉書大に作ってみんなで楽しんだものでした。名刺や葉書のカ−ドは父兄である印刷屋さんが、使えなくなった社紋入りの物をダンボ−ルに幾箱も持ってきて下さったのです。
最近では、やはり[太郎次郎社]から出てる´漢字がたのしくなる本……500字で漢字がぜんぶわかる……´というドリルを夏休みには使ったりしています。
幼稚園で漢字教育をと提唱しておられる石井勳先生の事をテレビで知って御自宅の教室を訪ねたことがありました。幼稚園児や、そこまで達していないよちよち歩きの子供が論語を読んでいるのをみて驚き、もし、子供が漢字を早くから読めて、子供百科事典や新聞を読むことが出来れば素晴らしい事だと思い、わが家でも幼児プレイル−ムでも開こうかと計画し石井先生の著作集や、教材を買ったり随分投資もしましたが、小田原では幼児教育は需要がなく、孫にちょっと試みてみましたがこれはやはり母親がやる気をもって四六時中意識していなければ出来ない事だと分かって断念しました。わが子が大きくなっていたのががちょっと残念だった気もしました。
あせらず、あてにせず、あきらめず
川口瞳ちゃん、もう高校も卒業してお勤めしているかな?大学にいっているかな?と時々思い出します。四年生から来ていましたが、小柄で大人しく声も小さく「なに?」と耳を側へもっていって答を聞かねば聞き取れないほどでした。理解する力が無く、算数も学年相当の物が出来ず、先に述べました自作のドリルで計算の練習をすることが多く、中学に入るとプラス・マイナスの計算がありますが、いつもいつも具体例をもって、例えばプラスを貰ったお金、マイナスを使ったお金にしてお金は増えたかな、減ったかな、いくらかなと例を使わないと答が出ないのです。一つ一つこんなにしていると疲れて嫌になることもしばしばでした。やっと分かってやれやれと思っていると次に来たときは、またすっかり忘れていて、前日の繰り返しです。でも瞳ちゃん自身は、それが苦痛のようでもなく、二年になっても三年になっても方程式をやる時でも、個々の計算は具体例を持ちだして問題を解き進めるという具合いでした。ですから学校で点に結び付く成果があるはずがありません。私も疲れ果てて、何度かお断りしようかと思ったりもしましたが、やはり出来ませんでした。
ある時、お父さんから
「うちの子は駄目でしょうかね」
とお電話がありました。自ら悩みながらも「見込みありません」とお返事する勇気はありませんでした。お父さんお母さんは高い月謝を納めて何の効果も無いここ数年どんなに悩まれたかと思います。でも一番悲しかったのは、瞳ちゃん自身だったと思います。決して嫌がらず、ものは言いませんがにこっと笑って入ってくる瞳ちゃんでした。この子がやると言う限り私が断念してはいけないと思いました。
その頃、私の部屋には
「あせらず、あてにせず、あきらめず」という下手な字で書いた色紙が掲げてありました。これはNHKの放送を聞いて感銘した言葉でした。残念なことに番組の名前もこの言葉をおしゃった先生のお名前も忘れてしまったのですが、ユニ−クな教育をしておられる高等学校の校長先生だったと覚えています。
「三つのあ」といったお話しでした。その時深く教えられましたので、習い始めの下手な字でしたが、すぐに色紙に書いて私の座有の銘と致しました。
前にも述べましたが、当然到達していなければならない事を、身に付けていないとつい焦ってしまいます。特に始めて来た子が掛け算の九九も覚えていないとか、アルファベットも、書けないと知ると、「こりゃ、大変。早く覚えさせなくちゃ」と思い、「九九を覚えようね」とか「アルファベットを書けるようになろうね」とか不用意に口にするとすぐ通じるもので子供が固くなってしまうのです。最初の出会いで不安を与えたり、劣等感を感じさせるようではいけないと反省しました。初めて出会った子供がどんなに遅れていてもあせらないようにする、これを自分に言い聞かせました。今ではもう身に付いて「ああ、大丈夫」とか「人生は、長距離競走よ。一緒にやろうね」と安心できる、くつろいだ出会いが出来るようになりました。
中学に入って第一番にぶつかるのが、プラス・マイナスです。これは全く新しい思考の範ちゅうなので、これを理解し、計算を習得するのは、なかなか大変です。隣の友達が分かっているようなのに自分は分からない。それに気付くといよいよあせってしまいます。しかし、そんな時「これは小学校では知らなかった世界なのよ。分からないのは当然よ。心配しなくても大丈夫。すぐ分かるようになるからね」「うん」と安心したような、でも不安だというようにうなずいていますが、あれこれと具体例を挙げてのんびり説明します。
とは申せ、同じ事を何回説明しても間違えると、こちらも参ってしまいます。年をとると物忘れがひどいと嘆きますが、子供達の忘れの酷さには、驚きます。子供たちを取り巻く情報量の多さのせいでしょうか、「もう分かったね」と喜んで帰しても、次の時間には、また同じ間違いをして澄ましているのです。分かった筈との期待は見事に裏切られます。「この間、教えたでしょう」「この間は分かってたでしょう」と大きな声でいいたいところですが、「そうだ、あてにせずと言われたのは、ここだ」と、二つ目の「あ」を悟りました。分からないと言うことは、悪いことでも、叱られるべきことでもないからです。テ−プレコ−ダ−の様に同じ事を説明することは、忍耐の要る事ですが、私が注がねばならない、努力だと思っています。
瞳ちゃんは、まさにこの「あせらず、あてにせず」の毎日でした。私もご両親
もあきらめようとした時がありましたが、本人が負けずに通ってきましたので、中学三年生の夏休みにはプラス・マイナスも定着し、間違えると「あ、しまった」という顔をして笑うようになったのです。 翌春、公立高校を受験すると聞いた時の驚き、合格の知らせを耳にした時の喜び・・・・・・「よかったね、よかったね」って何回も言ってしまいました。
お父さんから駄目ですかと電話を頂いたとき、ご両親も私も「もう一度、やってみよう」と思いとどまった事を嬉しく思いだします。「三つ目のあ、あきらめず」でした。
瞳ちゃんは、今も私の傍らにいて「あせらず、あてにせず、あきらめず」と微笑んでくれるのです。

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