山上の説教・ 平和を作るもの

           マタイの福音書5章9節

 

 

 これまで、イエス様の語られた「山上の説教」の冒頭の部分を学んできました。今日は9節です。

 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

ここでポイントとなるのは、「平和をつくる」という言葉です。今日はこの言葉を中心に見ていきましょう。

 1.「平和をつくる」とはどういう意味でしょうか。戦争をしている国や民族を調停し、争いがない状態にするということでしょうか。現在もそのような働きをしている多くの人々がいます。国連はこのような働きの機関として設置されたものです。その他、おおくの国や、NGO、ボランティアの人々にも争いのあるところに平和を齎そうとして働いておられる素晴しい方々がいます。このような働きでの「平和」とは「争いのない状態」と指すと考えられますが、日本語の聖書が「平和」と訳しているヘブライ語のshalomという言葉は、「争いのない状態」という意味ではありません。

 shalomとは、今もユダヤ人が挨拶に用いる言葉ですが、「満ち充つる状況、繁栄、成功、安定、充溢」という意味を含んだ語です。「平安」と訳されることが多いです。エペソ人への手紙というところに、「教会は、キリストの体であり、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられるところです」(1:23)という言葉がありますが、すべてのものをすべてのものによって満たす方が満ちておられる状況をshalomというのです。神が内にも外にも満ち溢れている状況です。争いがないというのは、その結果であって、争いがないことがその中心的な意味ではないのです。イエス様が墓から甦って弟子たちに現われたときこのshalomという言葉を語っておられますが、これは単に挨拶の言葉を言われたと解釈すべきではありません。恐れ、何も信じられなくなった弟子たちに、「平安があるように。神の充ち溢れる生命がおまえたちの中に充ち溢れるように」という意味です。

 ですから、「平和をつくる者」とは平和運動をしているものという意味ではなく、まさに神ご自身の別名であるということです。神がおられるところ、喜びが満ち溢れ、繁栄が齎される。このような不思議な状況のなかに私たちも入れられ、shalomに満たされる経験をしたいものです。私たちがshalomに満たされるとき、私たちが行くところにshalomがもたらされる祝福を経験するでしょう。

2.では、神はどのようにして私たちをこのshalomの中に入れようとしておられるのでしょうか。聖書は、イエス様によって、イエス様の十字架の血によって私たちはshalomの中に入れられるといっています。イエス様こそshalomをつくる方、shalomの本質を表わした方です。ですから、イエス様は「平和の君」と呼ばれました。イザヤ書の9章に

「その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」とあります。イエス様の十字架の血潮が平安を作り出すからです。つぎのように聖書にあります。

 

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物をご自分と和解させて下さったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させて下さったのです。

あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されることのなものとして御前にたたせて下さるためでした。(コロサイ1:19-22)

 

「十字架の血によって平和をつくり」とありますが、どういう意味でしょうか。普通は、血が流されることによってさらに争いが激化します。血が流されることによっては平和は来ないというのが一般の考え方です。ですから「十字架の血によって平和をつくり」というとき、この血は普通の血ではないということに気付くことでしょう。血は命を表わします。イエス様に宿っていた命の本質、満ち満ちた神の本質、これをイエス様の血と呼ぶのです。満ち満ちた神の命は、十字架に架かるまではイエス様の中に押し止められていました。しかし、イエス様が十字架に血を流して下さったことによって、この満ち満ちた命が外に向かって解放され、イエス様の十字架の血を仰ぐものたちに豊かに溢れるばかりに注がれ、私たちは完全なshalomの中に生かされるのです。

 聖書は2千年も前に書かれたものですが、近代医学の観点から見ても、イエス様の血が持つ力がどのようなものであるかよくわかります。現代に生きる私たちは、血に力があることを、様々な事例から知ることができます。血を失い瀕死の状態の人が輸血をしてもらうと本当に元気になるそうです。どんなに高級なステーキを食べるよりも栄養がある、力になると聞きました。輸血してもらうと力が湧いてくるのを感じるという人もいました。誰かが「血は最高の食物である」というのを聞いたことがあります。(輸血のことを指して言っているのですが。)さらに、血液は酸素や栄養を運ぶだけでなく、体内の二酸化炭素を排出し、侵入してくる細菌を撃退し殺す働きもあります。イエス様の血は、私たちが毎日必要とする霊的な栄養や酸素を与えて下さいます。これは愛、喜び、感謝、賛美、力や知恵などです。それだけでなく、様々な老廃物、すなわち疲れや汚れ、罪を除き取る働き、さらに私たちの中に侵入して蝕もうとするサタンの菌を撃退し殺す働きを持っているのです。栄養と酸素の補給、老廃物の除去、細菌の撃退という血液の持っている三つの機能を、イエス様の血は霊的に持っています。私たちが十字架の血を求めそれを注がれるとき、力が与えられ、汚れが取り除かれ、サタンの策略が砕かれます。

 このように、イエス様の血には私たちを完全なものとする力があるのです。イエス様の十字架の血が注がれるとき、満ち満ちた神の本質が私たちのうちに満たされます。イエス様の十字架の血がshalomをつくるとはこのような意味です。これは、頭で分かるというより、霊的に分かる、経験的に分かるものですから、このことを皆さんが霊的に、また経験的に知ることができるようにご一緒に祈りたいと思います。

3.さらに、私たちが十字架の血を注がれるとき、私たちが満たされるということに止まらまい祝福が周囲に起こってきます。「あの人と一緒にいるだけで喜びが湧いてくる。苛々がなくなる。赦せなかった人が赦せるようになる。自分のことしか考えていなかったのに、他の人を助けようとする気持ちが湧いてくる。人を憎んでいたのに、祝福したくなる。あの人と一緒にいると、心が清められるような気がする。自分も清くなりたいとおもう。」一緒にいるだけで周囲の人にこのように思わせることができる人は何と祝福されていることでしょうか。人を説得して、「苛々するな」「人を赦せ」とか「自分のことばかりでなく、人のことも考えなさい」「きれいな心になれ」と言うことは簡単です。しかし、そのような言葉では人は動きません。私たちに溢れるばかりに注がれるキリストの血が私たちをそのような祝福された人間にするのです。これは努力の結果ではありません。キリストの十字架の血が私たちを潤し、私たちの中に流れるときに、私たちはそのようなものに変えられるのです。満ち満ちた平安を周囲に溢れさせ、平安を作る神のお働きの一部を担わせていただくことができるのです。そのとき「ああ、祝福された神の子どもたち」と呼ばれるというのです。神が「我が子よ」と呼んで下さるのです。何と祝福されたことでしょうか。

4.今日は二つのことをお祈りしたいと思います。まず、第一に私たち一人一人が十字架の血を注がれることです。十字架の血が注がれるとき、満ち満ちた神の本質が私たちのうちに与えられ、私たちは全き神の平安、shalomの中に入れられます。私たちは、「イエス様、あなたの十字架の血を注いでください」と祈るだけでいいのです。そのことを今思い、祈ってください。また、折にふれそのように祈ってください。必ず、これまでに知らなかった祝福の世界を経験することでしょう。

 第二に祈りたいことは、私たちが満ち満ちた神の平安を周囲に齎すことのできる人間となることです。アシジの聖フランシスという人が有名な祈りを残しています。

 

Lord, make me an instrument of Thy peace:

Where there is hatred, let me sow love;

Where there is injury, pardon;

Where there is doubt, faith;

Where there is despair, hope;

Where there is darkness, light;

Where there is sadness, joy.

 

O Divine Master, grant that I may not so much seek

To be consoled as to console,

To be understood as to understand,

To be loved as to love;

For it is in giving that we receive;

It is in pardoning that we are pardoned;

It is in dying that we are born to eternal life!

 

主よ、私をあなたの平和の道具としてください。

憎しみのあるところに、愛を

痛みのあるところに、赦しを

疑いのあるところに、信仰を

絶望のあるところに、希望を

闇に光を

悲しみのあるところに、喜びを

もたらすことのできるものとしてください。

 

聖なる主よ、

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

求めることができるようにしてください。

私たちは、与えることによって、受け

赦すことによって、赦され

死ぬことによって、永遠の命に生まれるのですから。

 

ここに表わされている「平和の道具」とは、イエス様のお姿そのものでした。私たち、イエス様の十字架の血を注がれ、少しでもイエス様に似た者と変えられるならば、そのことを神はどんなに喜ばれることでしょうか。皆さんでこの「平和の祈り」を祈りながら読み、一緒に祈りましょう。

ホームへ
聖書の目次へ