「山上の説教・ 主に従うものの祝福」 マタイの福音書5章5節

  今日は、前回に引き続きイエス様の山上の説教、イエス様が山の上で弟子たちに、大切な教えとして正式に説教なさった説教のなかから学びたいと思います。聖書の箇所はマタイの福音書5章5節です。

 

  乳と密の流れる地 カナンの地


柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐからです。

 ここでイエス様が何をおっしゃっているのかを理解するためには、「柔和」「地を受け継ぐ」という2つの言葉の意味を知る必要があります。

1.皆さん、「柔和」という言葉は、どのような意味だと思いますか。この日本語の言葉の辞書的な意味は「やさしくて、穏やかな様子」ということです。日本語的に理解すると、「やさしくて、穏やかな人は祝福されている」ということになりますが、イエス様は性格的なことをおっしゃっているのでしょうか。

 日本語の「やさしい」という言葉は、歴史的にもその意味が変遷してきており、現在においても何がやさしいのか、何をやさしいと認めるのかということに関しては揺れがあります。古い日本語では、「身がやせるように感じる。恥ずかしい」「その人に差し向かうと、こちらが恥ずかしくなるほど、優美だ」というような意味を持っていました。現在では「親切で情がある」というのが中心的な意味ですが、「すなおでおとなしい」という意味もあります。「やさしい」というのと「親切」というのはニュアンスが違います。やさしくなくても親切な人はいます。「やさしい」というのはある種の弱さを意味するときにも用いられる表現です。「ノー」を貫けない弱さ、他の人と対立することを恐れる心の反映として「やさしさ」を身につけている場合もあるわけです。 イエス様がここでおっしゃっているのは、ギリシャ語ではpraeiV(prauVの複数形)ですが、ヘブル語では'anawです。元来、「卑しい抑圧された奴隷状態にある」という意味で、それから転義して「自己を神の貧しい僕とみなし、神の意思に完全に従順であり、それゆえにまた隣人にたして怒りや傲慢な思いを抱かない状態」(新聖書大辞典)という意味で使われるようになりました。従って、聖書が言う「柔和」という言葉は、「やさしい」とか「穏やか」といった性格に関するものではなく、神様とどのような関係にあるのか、どのような関係を欲するのかという、私たちの神様に対する心のあり方、態度や意志と関わる言葉だということです。これは、「従順」という言葉で表わされる人間の神様に対する態度、姿勢を意味しています。神様の前にへりくだって、神様の意志に従う、神様の御心に自分を委ねるということです。ですからイエス様は「神に従順に従うもの、神の御心に自分を委ねるものは、何と祝福されているだろうか」とおっしゃったわけです。 しかし、「ヘリ下る」とか「従順」とか「神の御旨に自分を委ねる」という言葉を聞くと、何か屈辱的なものを感じたりする人があるかもしれません。自分の自由が侵害されているように感じることもあるかもしれません。へたにキリスト教に関係すると何か自分のしたくないことをさせられるんじゃないかと警戒する人もいるかもしれませんね。また、そんなに卑屈にならなくても自分の力で頑張って世の中をよくしていけばいいじゃないかと思う人もいるかもしれません。ですから、私たちは、何故、ヘリ下るもの、従順なもの、神の御旨に自分を委ねるもの、すなわち柔和なものが祝福されているのか、を問う必要があります。イエス様は「その人は、地を受け継ぐからです」とおっしゃいました。では、「地を受け継ぐ」とはどういうことでしょうか。

2.「地を受け継ぐ」とは、親からの相続財産として土地を相続するという意味ではなく、基本的には「現在敵の所有となっている土地を神の約束として勝ち取る」という意味でした。ここでいう「土地」とは、ただa piece of landというだけの意味ではなく、その土地から得られる地の産物、葡萄酒や穀物、その土地で繁殖する羊や牛など、すべての祝福を表わします。イエス様は「神様があなたがたに約束したすべての祝福を豊かに、有り余るほど豊かに頂くことができる」とおっしゃっているわけです。ここで大切なことは「神様がもうすでに、このことを約束して下さっている」ということです。「手に入るか入らないか分からないけれど、頑張ってみよう」ということではありません。すでに私たちのものになることが約束されているということです。

 とすると、「神に従い抜く、御旨に自分を委ねるものは、これらの祝福を約束として受け取る。だから祝福されているのだ」ということになります。しかし、これでも何か分かったような、分からないような、と感じておられることでしょう。これは、「従う」とか「御旨に自分を委ねる」ということがなかなか分かりにくいことだからです。

3.エジプトで奴隷だったイスラエルの民を導き出したモーセという人がいます。この人は、「柔和なこと地上のすべての人にまさっていた」(民数記12:3)と言われるほど、神様に対して従順でした。しかし、この人も初めから従順だったのではありません。若いときには自分の同胞のイスラエル人を助けようと思い、一人のエジプト人を密かに殺害しました。自分の力でイスラエルの民を救えると思い、自分の意志を行おうと思ったのです。しかもそれが神の意志だと思っていました。しかし、自分のことを尊敬してくれると思っていたイスラエルの民からはかえって排斥されてしまい、さらにエジプト人殺害が露見し、このことがもとでエジプトから逃げ出さなければならなくなりました。自分の才能と力に自信があり、自分の力で同胞を助けられると思っていましたが、そのような思い上がりは無残にも崩れ去りました。「自分が、俺が」と思ってやったことは、結局誰の助けにもならず、自らの人生を狂わせる結果となったのでした。しかし、この経験によってモーセは、「自分の意志を行おうとしても、誰も助けることはできない。自分の解決方法では駄目なんだ」ということを思い知らされました。40年の後、ホレブの山で神様に出会い「お前をエジプトに遣わす。わたしの民をエジプトの地から導き出せ」と命じられたときも、「自分なんかにはできない」と言いました。自分の失敗の苦い思い出があり、自分の限界を良く知っていたからです。結局神様の説得に負けて、不承不承出かけて行きました。しかし、モーセはこの時、自分の解決法ではなく、ただ神の解決法に委ね切る人間に変わっていました。「神の方法でなければ駄目なんだ」という徹底した理解。これが、モーセを柔和な人、神に従い抜く人に変えたのでした。

 時の最高権力を持つエジプト王の前に立つとき、成人男性だけで60万人のイスラエルの民を導き出すとき、エジプトの軍隊に攻め込まれたとき、荒野で水や食料がなくなり、イスラエルの民が苦しみモーセと神を非難したとき、モーセは自分の力と理解を超えた神の救いを叫び求め祈りました。神の解決を求めました。その時、神はモーセの祈りに応えられたのです。

4.モーセと同様、私たち人間は生まれながらの姿では神の意志を行うことはできません。パウロという伝道者は「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」(ローマ8:7)と言って、私たち人間が自分の力では、神様に対して従順に生きることができないことを指摘しています。私たち人間は、どうしても自分の意志、自分の思いを実現しようとして、神様の御心をないがしろにしてしまう。これが罪に縛られた人間の姿だというのです。

 しかし、パウロは説いています。イエス様の御霊、聖霊が私たちのうちに注がれ、留まるときに、私たちは神様に対して本当に従順で柔和なものに変えられていくと。ここで「柔和」と訳されている言葉は、パウロが御霊の実として挙げた、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の一つです。御霊が私たちを神に従順なもの、柔和なもと変えて下さると教えています。私たち人間は、自分の力では神様の御心を行うことはできません。御霊によって祈るときに、神様に従順になり、柔和なものとなり、神様の御心を行うことができる人間に変えられていくのです。私たちに、自分の知恵と力によらない、神の解決法が与えらるからです。そして、神様との深い交わりのなかに、神様の深い愛とその御心を知っていくようになります。自分の気持ちが実現していくことが最善なのか、それとも神様の御心が実現していくことが最善なのかを深く理解することができるようになるのです。

 Aさんというクリスチャンがいました。Aさんは若いころからクリスチャンでしたが、いろいろなことに腹を立てやすいという性格的な問題を抱えていました。Aさんの職場にBさんという人がいました。Aさんは日頃からBさんの問題発言や問題行動を快く思っていませんでした。ところがある日、Bさんがしたことによって、Aさんは自分の仕事上の領域が侵され、荒されたと感じました。Aさんは怒りに満たされてしまいました。Bさんの行為に対する対抗措置をこうじました。しかし、それでは収まらずに、何とかBさんに報復したいという気持ちが湧き上がってくるのです。問題を解決しようとするのではなく、自分の怒りを自分の方法で解決したいという破壊的な考えが湧き上がってくるのです。Aさんは、こういうときこそ祈らなければと思い、祈ろうとしました。でも集中できません。そこでAさんは祈りました。「聖霊様、わたしは、祈るために、あなたの助けを必要としています。イエス様の御心を求めるために、あなたの助けを必要としています。」その時、Aさんの心に示されたものがありました。それは、イエス様がBさんを愛しておられるということでした。AさんはBさんのために祈り始めました。Aさんは自分の方法でない、イエス様の方法が問題を解決して下さることを知ることができました。聖霊なるイエス様がAさんの心に働きかけ、従順な心を与えて下さったのです。このことを通して、Aさんは、自分の気持ちや意志を実現するのが最善なのか、それとも神様の意志を求め、それが実現されていくのが最善なのか知ることができました。

 先程ご紹介したモーセは、人生の失敗ということを通して「従順」「柔和」ということを学びました。しかし、私たちは人生に失敗しなければ「従順」「柔和」ということを学べないということではありません。中には「従順ということを学ぶため、ちょっとぐらい失敗して鼻っ柱をへし折られたほうがいい」などという人もいるかもしれませんが、イエス様は、私たちに豊かに聖霊を注ぎ、ともに住んで下さることによって、私たちを「柔和」なものとし、神の御心、御業をこの地上に表わしていくことができる人間に変えることができるお方なのです。ですから、「『従順』『柔和』を学ぶために人生で失敗する必要があるのかな」などと思う必要はありません。(実はわたしは若いときそう思っていました。)聖霊を豊かに注ぐことによって御心に従って生きる人生へと導いて下さるからです。

 私たちが人生に失敗しても、しなくても、イエス様は私たちの人生を変えることができるお方です。私たちの性格を変えることができるお方です。すぐに人を傷つけてしまう、ちょっとしたことで怒り、人にその怒りをぶつけてしまう私たちが、平和を作り出すものに変えられていくのです。これは、聖霊なるイエス様の働きなのです。

5.先程、「地を受け継ぐ」とは「約束として与えられる神の豊かな祝福を受け取ること」であると説明しました。また、「柔和」「従順」とは聖霊の実であると学びました。聖霊が豊かに注がれるとき、私たちは柔和従順なものと変えられ、サタンの力が砕かれて、約束として与えられる神の豊かな祝福を受け取るのだということです。パウロは言いました。

神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子として下さる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が私たちの霊とともにあかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストの共同相続人であります。  ローマ8:14-17

神様が約束して下さっている豊かな祝福を勝ち取ることができるのは、御霊が私たちに注がれるとき、私たちが神の子どもとなるからだと聖書は言っているのです。神の子どもとして約束の祝福を受けるのです。神様は、私たちをご自分の子どもとして扱っていて下さるのです。私たちが、この愛の父親である神様に心開き、その御心に従うとき、約束された豊かな祝福の世界が私たちの前に開かれるのです。神様に従うとき、サタンが逃げ去っていくからです(ヤコブ4:7)。

 私たちは、何かえたいのしれないものに従おうとしているのではありません。すべてのものに愛を注ぎ、生かし、祝福することのできるお方。私たちを創造し、自らの子供として私たちを見ていて下さる愛にあふれた父。私たちの人生を祝福し、満たし、私たちのねじ曲がった性格をもそのまま受け入れ、造り変えることのできるお方に従おうとしているのです。この方を求め、聖霊に満たされ、神の子とされ、従順なものとされ、神様がすでに約束して下さっている溢れるばかりに豊かな祝福を受け取ろうではありませんか。

ホームへ
聖書の目次へ