「地はおのずから実を結ばせる」  マルコ4:26ー29

                2000年4月9日 みくにチャペル日曜礼拝にて 

古今東西、いろいろな説話や童話などがありますが、種をテーマにした話には、いくつかの共通性があります。例えば、西洋の説話にある「ジャックと豆の木」と日本の「猿蟹合戦」、最近(といっても30年ぐらい前)の童話に「空色の種」というものがありますが、主人公が種の最初の持ち主と何かと交換するということろから話が始まります

「ジャックと豆の木」では、ジャックは家の牛を市場に売りにいき、きれいな豆の種と交換してしまい、それに怒った母親に種を庭に捨てられてしまいます。その豆が育って、結局は大きな財産を手に入れることになります。「猿蟹合戦」では、種の最初の持ち主である猿が、今食べられるおにぎりと種を交換してもらいます。種を受け取った蟹は、種を植え、水を注ぎ、実がなるまで大切に育てます。すると最初の持ち主である猿があらわれて、それを横取りしようとする訳です。「空色の種」も話の展開は似ています。いずれにせよ、初め、種はつまらないもの、役にたたないものとして取り扱われます。何故かというと、種はそのまま食べられないからです。今の空腹を満たすことができない。今の楽しみにならない。だから種をおにぎりと交換する訳です。目に見える効果がすぐにはあらわれないものを、何か即物的な効果を持つものを交換しようとすることは私達の周りでも見られることです。種の力を理解しないものにはつまらないものとしか映らないからです。そして、どの話の中でも、種は必ず大きく育ち、何らかの結果を持ち主にもたらすというように話が進みます。しかし、これらの話では、「種」に注意は向けられていますが、種を宿す土、種が植えられる土地については何の言及もありません。

 イエス様も種の譬え話をなさいました。イエス様は「種」を神の言葉、「地」を「それを聞く人」になぞらえて語られましたが、イエス様ほど種を宿す土地が受ける祝福、種と土との祝福の関係について、述べられた方は他にありません。イエス様は、神の言葉とそれを宿す私達人間の関係がどんなに祝福されているかを私達に知ってもらいたいと願っておられます。今日は、マルコ4:26ム29を読みたいと思います。この箇所は、その直前にある「種まきの譬え」程有名ではありませんが、御言葉とそれを聞く人間の関係、結実の原理を明らかにしたものとして、非常に重要です。ここを一緒に学び、イエス様が与えようとしておられる祝福のすばらしさを知りたいと思います。

 

1 結実のメカニズム

イエス様は、地に蒔いた種は芽をだし、人手によらず実をならせると言われました。これは、誰でも理解できる自然現象ではありますが、イエス様は自然の現象について教えておられるわけではありません。「神の国」、神の支配されるところは、このようなものだ。神の支配が人間に及ぶ時、このようなことが起きると述べられているのであります。イエス様がここで語られている、「種」や「地」というのは象徴的な表現で、イエス様御自身が「種まきの譬え」で説明しておられるように、「種」と「地」はそれぞれ「御言葉」(神の言葉)と「人」を指しています。神と人間の関係について話しておられるのです。つまり、神の言葉は人間に向かって語られ、それを心に留める人は、おのずから豊かな実を実らせるとおっしゃっています。ここでイエス様が語っておられることの意味を少し詳しく見ていきましょう。

 本題に入る前に、「御言葉」(神の言葉)という言葉について一言申し添えます。「神の言葉」と言われる時、現代に生きる私達にとって、それはほとんどの場合聖書の言葉を指していると考えて差し支えありません。イエス・キリストを啓示するものとして聖書は完全・完結したものです。神と人に関する原則は全て聖書に記されています。一方、神は今も私達に個人的に語られることがありますから、そのような時は、その励ましや忠告の言葉を神の言葉として受け取って下さい。しかし、神が私達に直接語られることはそう頻繁に起こることではありませんから、私達は日常的に聖書を読んで聖書に記してある神の言葉を心に蓄えることが大切です。

さて、イエス様は「地」を「人」になぞらえておられますが、これはユダヤ的な発想から言うとごく自然なことです。ヘブル語で「人」のことを「アダム」と言います。神が最初に創造された人はアダムと呼ばれますが、人名としても人一般をあらわす言葉もどちらもアダムです。そして、土のことを「アダマー」と言います。創世記2:7に、「神である主は、土地のちりで人を形作り、その鼻に命の息を吹き込まれた。それで、人は生き物となった」とありますが、この「土地のちり」が「アダマーのちり」であります。語源的には「アダムは、アダマーから作ったもの」という意味だと語源辞典にも書いてありますが、聖書では、アダムとアダマー、すなわち人と地は密接な関係があります。罪を犯して、神との関係が切れてしまった人に対して、神は次のようにいわれました。「あなたは土に帰る。あなたはそこからとられたのだから。あなたは塵だから塵に帰らなければならない」(創世記3:19)。罪を犯した人に対して「あなたは土だ」と神は宣言しておられます。ですから、イエス様が「神の国は、人が地に種を蒔くようなものだ」、「地は人手によらず実をならせる」とおっしゃっている時、この「地/土」は人を意味しているということを心にとめなければなりません。

 ついでながら、イエス様は何語を話しておられたかということが問題になることがありますが、以前は「イエスはアラム語を話していた」といわれることがありましたが、近年の文献資料および考古学的な検証からS.サフライというヘブライ大学の聖書学者は「イエスが日常的にヘブライ語を話していたことは確実である」と述べています(『イエス時代の背景』ミルトス)。となると、イエス様は、ここで「アダマーに種を蒔く」「アダマーは人手によらず実をならせる」と語っておられたということになり(ヘブライ語訳の新約聖書にもここでghに対してアダマーを用いている)、聞く人にとって「アダマー」(地)と「アダム」(人)との関連は一層明確であり、「アダム(人)に種を蒔く」「アダム(人)は人手によらず実をならせる」ということをイエス様が意味しておられたということは、我々日本人の言語感覚よりも分かりやすかったと思われます。

 では、イエス様はこの譬えによって私達に何を教えようとなさっているのでしょうか。結論から言いますと、罪よって神のかたち(狭義の「神のかたち」)が壊れてしまい、ただの土に等しいものになってしまった人に神の言葉という種を植え付け、この土からもう一度神のかたち、イエス様の姿を刈り取ろうとするのが神の御心であると言うことです。そして、それが人間的な努力によるものでもなく、神の言葉と、それを植え付けられる人の心相互の適合性により、おのずから豊かな実を結ぶ。すなわち、神の言葉と人の心の祝福された関係により、輝かしい神の姿が結実すると教えておられるのであります。このことについて段階をおって説明したいと思います。

 

原則1 命は種の中に隠されている

種とそれから生じる葉や花、実などを比べると、大きな違いがあります。種だけを見ると、そこからこれほど美しい花が咲いたり、何百倍にもなる実が実ることなど、私達の想像の及ばないことだとは思いませんか。しかし、種にはそれだけの命の計画を持っているのです。「初めに苗、次に穂、そして穂の中に実が入る。」それがどのような順番で、どのように行われるか、種の中に隠されている命の中にすでに決定されています。

これと同じように、聖書の言葉そのものとイエス様の姿との間には、大きな違いがあるように思われます。しかし、聖書の言葉は私達を導き、私達を照らし、私達を満たし、私達の人格に働きかける作用があります。そしてそれがイエス様の姿という人格にまで育つとうことが、御言葉の命の中にすでに折り込まれているというのであります。聖書の言葉には物凄い力があります。一見種のように世の人からは価値のないもののように見られるものでありますが、信じるものたちには神の力、神の祝福の源が込められているのが聖書の言葉です。

 

原則2 種は土地を必要とする

どんなに素晴らしい植物の種であっても、地に蒔かれなければ、芽もでないし、育ち実を結ぶこともありません。種は土地を必要としています。神の言葉は、私達人間の精神に植えられて始めて価値を生じるのであります。聖書は、私達の心の中に植え付けられなければ、だたの紙とインクに過ぎません。これだけでは、ただの物です。また、オウムやインコに聖書の言葉をおぼえさせても、何の実も結びません。聖書の言葉は、私達の心に植え付けられ、私達の内に留まってはじめてイエス様の姿として結実するのです。

イエス様は言われました。「人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」(ヨハネ15:5)。そして、イエス様にとどまるとは、イエス様の言葉にとどまることだと教えておられます。

言葉がとどまるとはどういうことでしょうか。これは単に覚えるということではありません。ある言葉が心に残り、その人の行動を変えさせるようなことをいうのであります。例えば、今もまだやっているか知りませんが、一月前にユーカリが丘のPonyユsの閉店大売り出しのちらしが新聞に入りました。輸入有名ブランド品のバッグや時計、衣料その他が、50%から90%引きと書いてありました。すると、その次の日曜日、あのユーカリが丘の橋に続く道は、路上駐車の車で一杯。多くの人が買に来ていました。「輸入有名ブランド品が50%から90%引き」という言葉が、あの時買い物に来ていた人たちの心にとどまり、買い物に行くという行動にそれが表れたのです。「スーツ1着1000円先着50名様」とかいう広告で、開店の何時間も前から並ぶ人をテレビで見たことがあります。彼等は、「スーツ1着1000円先着50名様」「スーツ1着1000円先着50名様」とずっと心の中で思い続けていますね。これらすべて、広告の言葉がその人達の心にとどまり、開店前からでも並ぼうとういう行動に表れたわけです。好きな人からラブレターをもらった時など、もっと心にどどまります。覚えてしまう程何度も何度も読むのではないですか。そして、自分もその人を大切に思っているということを知ってもらうために、プレゼントをしたり、手紙を書いたり、自分のできる最大のことをしたりするのではないでしょうか。言葉がとどまるというのはそういう状態を言っているのです。

聖書の言葉は、神からの私達へのラブレターです。聖書の言葉が私達の心にとどまる時、私たちの心に大きな変化が起こるだけでなく、大きな行動の変化を生じます。人によって最初に心にとどまる聖書の言葉は違うでしょうが、例えば「キリストは私達のために命をお捨てになった。それによって私達に愛が分かった」(。ヨハネ3:16)という言葉が心にとどまる時、「キリストは私のために命を捨てて下さった」という言葉を心の中で何度も繰り返しています。そして、これまで、神はいるかいないかと考えていたり、神とはこういう方であるに違いないと、神を思考の対象にしていた人が、「天のお父様」と、神に対して「あなた」と呼び掛けるようになるのです。これまで歴史上の人物としてだけ認識していたイエス様に対して「あなた」と呼び掛け、イエス様との関係に入るのです。そして、心から喜ぶことを知らなかった者が、神の前に喜ぶようになり、感謝するようになり、神を賛美するものとなるのです。これほど大きな変化はありません。

御言葉の種は、私達人間の心の中に植え付けられなければ、それはそのままです。どんなに価値があっても、それが命を芽吹くことはありません。御言葉の種は、その命を発芽させるために私達の心を必要としておられます。そして心の中に植えられる時、心の中にその人の行動を変えさせるような大きな喜びを与えるのです。

 

原則3 地はおのずから実を結ばせる。

この譬えの主題ですが、種が豊かな実を実らせるのは、誰かが頑張るからではないと言っています。猿蟹合戦で、なぜ蟹は「早く芽を出せ柿の種。出さなきゃはさみでちょん切るぞ」というのか。蟹には待つしかないからです。蟹にはコントロールできない。どんなに一生懸命やっても、それは環境を整えるだけの働きであり、結実のミステリーには関与できないからです。結実のプログラムは種の命の中にあります。しかし、土がそれを支え、大きくしていくのです。ここで、「人手によらず」と訳されているのはautomatoVですが、automatoVは、「それを生じせしめる外的な原因がなく」という意味です。

 

イエス様も「どのようにしてか、人は知りません」と、メカニズムは私達に隠されているとおっしゃっています。神の言葉が私達に植え付けられる時、私達は自分の頑張りでなく、人の働きかけによるのでもなく、神のかたち、神の姿を結実するものなのだとイエス様は教えておられるのです。

パウロもコリント第一の手紙で「パウロは植え、アポロは水を注いだ。しかし、大切なのは成長させて下さる神である」と言って、「これは人間の業ではない、神の業である」ということを強調しております。

アダム(人)は、神のかたちに創造されました(創世記1:26ム27)。神のかたちをあらわすこと、これがアダム(人)の本質であります。罪のためその本質、神のかたち(狭義の「神のかたち」)は壊されましたが、神の言葉という種を植え付けられると、もう一度そのかたち、「イエス・キリストの姿」が結実するように作られているのがアダム(人)であります。神は人をこのように素晴らしく作っておられるのです。土と植物の種程お互いに適合しあっているものの例を他に見ることはできません。種は土に植えられるためにあり、土は種を宿すためにあると言っても過言ではありません。種は土の中で芽をだし、根を張り、土に支えられて、土からの水分や栄養分を吸収しながら育ち実を結びます。人間と神の言葉もこれと同じように適合し合っていると言うのがイエス様の主張であり、教えなのです。あなたの心の中に蒔かれ植えられた神の言葉の種は、あなたの心の中で芽を出し、心の中に根を張り、大きく成長します。あなたの中にイエス様の人格が結実する。あなたは、このように素晴らしく作られている。神はあなたをそのような尊いものとして創造しておられるのであります。

 

2 地を守られる主

 「地はおのずから、人手によらず実を結ばせる」というと、種、神の言葉を一度植えると、神は土地、人をほったらかしにするかのような印象を受けるかも知れませんが、そうではありません。太陽を昇らせ、雨を降らせるのは神です。一日でも太陽が昇らなければ、植物は死にます。雨が降らなければ、土地は乾き、そこに生える植物も死んでしまうのです。土地を耕し私達の心から石を取り除くのも、種を植えるのも、雑草を取り除くのも、水をやるのも、太陽を昇らせるのも、神の業です。神は種を植え付けられた私達の心をほったらかしにすることはありません。

 子供達が学校などの教材で種をもらったりして、家で植木鉢に種を植えることがありますが、種を植えてそのままということはありません。毎日自分で水をやりにいきますし、雑草が生えると抜きます。そして、「ひまわりさんは、今日は元気かな」と言って、花が咲くまでいつも心にとめているのです。神が私達に目をとめて下さるのは、これ以上です。今日もあなたに愛の光を照らし、心の乾きを癒し、いつも必要なものを与えようとして見つめ続けていて下さるのです。

 私達は、聖書の言葉を心に保っていても、心が乾くことがあります。私達の心は命の水を必要としています。そんな時、命の水が注がれなければ、私達の心は死にます。せっかく心に蓄えた聖書の言葉も成長しないのです。主は言われました。

 

主は暁の光のように、確かに現れ

、大雨のように私達のところに来、

後の雨のように、地を潤される ホセア6:3

 

主はあなた方を義とするために、

初めの雨を賜り、大雨を降らせ、

前のように、初めの雨と後の雨を

降らせて下さるからだ。

打ち場は穀物で満ち、

石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。ヨエル2:23

 

わたしは潤いのない地に水を注ぎ、

乾いた地に豊かな流れを注ぎ、

私の霊をあなたのすえに、

私の祝福をあなたの子孫に注ごう。イザヤ44:3

 主は、私達に雨を降らせ、豊かに潤され、命の水を注いで生き返らせて下さいます。もし、心に乾きを覚えている方がいらっしゃるならば、神はあなたの上に今日雨を降らせて下さるのです。

 

3 主の姿のように

イエス様は、神はアダム(人)に御言葉を蒔くと言われましたが、「御言葉」と言う言葉は、聖書の言葉という意味の他にイエス・キリスト御自身を指すものとしても使われます。ヨハネの福音書の冒頭に「言葉は神であった」とあります。先程、聖書の言葉が私達人間の心に植えられるとイエス・キリストの姿に結実すると言いましたが、聖書の言葉が私達にとどまる時、イエス様が私達の中に住みはじめるのです。どうぞみなさん、覚えて下さい。聖書の言葉があなたの心の中にとどまり始めたその時から、イエス様があなたの中に住んでおられるのです。あなたはイエス様が中に住んで下さる程尊い存在なのです。そしてそれは初めそれが自分ではキリストとは思えないような小さな始まりであっても、どんどん大きくなり、成長し「キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」(エペソ4:13)と聖書は言っているのであります。

私達は自分を見れば、土にすぎない自分を意識するでしょう。いつまでたっても代わり

映えしないと落胆することがあるかも知れません。しかし、パウロは、「私達はこの宝を土の器に持っている。そのはかり知れない力が神に属していて、私達から出たものでないことが明らかにされるためだ」(「コリント4:7)と言いました。私達は土に過ぎません。しかし、神は土である私達をこよなく愛し、私達の中にキリストを住まわせ、キリストの姿を結実させ、それを刈り取り、さらに大きな働きに用いようとなさっているのです。

 主は御霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。私達はみな、顔の覆いを取りのけられて、鏡のように主の栄光を繁栄させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。「コリント3:17ム18

 私達は変えられてきました。さらに栄光から栄光へと変えられていきます。お互いの中にイエス・キリストの姿を見ることができること程祝福されたことはありません。私達が以前いた教会に、子供達から「イエス様」というあだ名をつけられていた人がいました。その人は若く天に召されて行きましたが、大人も「あの人はイエス様のような人だった」と言ってその人格を慕っていました。みなさん、私達全員にこれと同じ祝福、世の人が私達を見て、「キリストのようだ」と言うような祝福を主は備えてくださっています。もうすでに、みなさんの中にそれが始まっています。なんと言う幸せでしょうか。私達が右を見ても左を見ても、「イエス様のような人がいる」というような状況、これをもたらすためにイエス様は天から下って私達人間の中に住み、御言葉を語って下さったのであります。

 私達、自分の中にそしてお互いの中に蒔かれ植え付けられている御言葉の種を大切にしましょう。そしてさらに御言葉を求め続け、心の中に蓄えていきましょう。あなたもそしてあなたの隣に座っている方も、この御言葉の種からキリストの姿が結実するように、素晴らしく作られているのですから。

  祈りましょう。

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