「山上の説教・ 霊的貧者の祝福」 マタイの福音書5章1−3
今日から何回かに分けて「山上の説教」と呼ばれるイエス様の説教について学びたいと思います。これは、マタイの福音書では5章から7章に亙るもので、イエス様が弟子たちに「これは、おまえたちに伝えておきたい大切なことだ」と言って、正式に説教されたものです。(「山に上ること」「座る」「口を開く」のユダヤ的意味の説明)
イエス様は口を開いて八つの「最高の祝福」について語られました。この八つの幸福についての言葉はすべて、「〜の者は、幸いです」という形になっていますが、原文のニュアンスは、「何と幸いな、祝福されていることだろう。〜の者は」とでも表現されるものであるということです。文語訳の聖書では「幸いなるかな」と訳されていました。
今、八つの祝福を読みましたが、どれも私たちが日頃「幸せ」と考えているものとは、随分違ったものではありませんか。イエス様のものの見方と、私たちのものの見方は随分違うということです。ですから、私たちもイエス様のお心を知ろう、イエス様がどういう方であったか知りたいと思うならば、ここでイエス様が教えておられる祝福とは何かを知る必要があります。今日は、その第一について学びます。
1.「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
みなさんは、この言葉を聞いて、どのように感じますか。私たちは、普通「あの人は心が貧しい」と言えば、その人が心の狭い、ケチな、しみったれた人であるということを意味しています。イエス様は「ケチな人は幸いです」とおっしゃったのでしょうか。
ここで「心が貧しい」とはどういう事なのでしょうか。
ギリシャ語の原文では、「霊において貧しい人たち」となりますが、ここでいう「貧しい」という言葉ptwcoVは、極度の貧困状態、しかも、運命的な、恒常的なものであるとギリシャ語の辞書に書いてあります。つまり、「今月はバイトが少ないから金がなくて貧しい」とか、「今は貧乏だけれども、チャンスがあって、もっと頑張れば生活が楽になる」とかいうような種類の貧しさではなく、言うならば、努力や頑張りによっては解決されないような「極度の貧困状態」を表わします。福音書の中では「身体に障害があったり、慢性的な病のため、他の人に物乞いをしなければ生きていけない状態の人」「夫に先立たれ、生産活動によっては生活の糧を得ることのできないやもめ」などにこの言葉が使われています。ですから、「霊において極度の貧困状態にある人は幸いだ」ということになります。どういう意味なのでしょうか。
ptwcoVは人から施しを受けなければ生きていけないような極貧者を表わす言葉ですから、霊的な極貧者とは、自分の霊を、自分の魂の渇きを自分ではどんなに頑張っても、満たすことのできない人間、頑張ることさえできず、ただ「神様、助けて!」と叫ばざるをえない人間です。そういう人間は何と祝福されていることか、とイエス様は、教えられたのです。
2.新約聖書には、霊の渇きを覚えた人とイエス様との対話がいくつか記録されていますが、今日二つご紹介したいと思います。一つは「富める青年」と呼ばれる人とイエス様の対話、もう一つはザアカイという取税人とイエス様の対話です。
マタイ19: 16-26
この青年は、永遠の生命が自分に欠けていると感じていました。ですから、イエス様のところに行って質問しました。「永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」このひとは、自分の努力や頑張りで永遠の命を自分のものとすることができると考えていました。自分の力で自分の霊を救い満たすことができると考えていたのです。彼は永遠の命が自分にないことは知っていましたが、霊的に極貧の状態ではなかったのです。いやむしろ、極貧の状態であったにもかかわらず、それを認めることができませんでした。イエス様は、彼に十戒の中から五つを示しました。「殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証を立てるな。父と母を敬え。」これは、人間同士の関係に関する六つの戒めの内の五つです。彼は「それらはすべて小さいときから守っています」と答えました。しかし、イエス様は、この人が十戒の他の五つの戒めを守っていないことを見抜いておられました。そのうち四つは神様との正しい関係について定めたもの、もう一つは「隣人の家を貪ってはならない」というものでした。この人は、神様との正しい関係を第一にしていませんでした。神様を愛していませんでした。神様との交わりを大切にしていませんでした。また、金を貪るように愛していたのです。イエス様はこの人の、この霊的な問題を指摘して、おっしゃいました。「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」金を頼みとせず、金を自分の神とせず、神を愛することを、イエス様について行くこと、イエス様に頼ることによって経験しなさい。これによってこそ、神の国を自分のものとすることができる、永遠の命を自分の物として受け取ることができる道なのだ、と教えておられます。永遠の命とは、金にしがみつきながら神との関係を第一としていないのに、何か良いことをすれば得られるよ
うなものではない。ところが、この青年は「そんなことはできない」と思い、悲しんで立ち去りました。霊的な渇きはあったでしょう。しかし、そこまでして、自分が霊的に極貧の状態である、神だけに頼らなければ救われない状態であるということを認めることができなかったのです。
もう一人の人も金持ち出した。ザアカイという取税人でした。ルカ19−9
取税人というのは、イスラエル人でしたが、当時のローマ帝国のために徴税請負業をしている人で、ローマ帝国の威を笠に着て、決められた額以上の取立をし、貧しいイスラエル民衆の中で豪奢に暮らしていました。ですから、イスラエル人からは売国奴と呼ばれて、軽蔑され、憎まれていました。
エリコのイチジク桑の木。ザアカイガイエス様を見ようと登った木。このザアカイという人は、そういう取税人のかしらで、金持ちでした。しかし、彼は、自分も、人も、決してどうすることもできない心の痛みを抱えていました。彼は「背が低かった」と書いてあります。特別な背の低さだったのです。おそらく何かの病気だったのでしょう。彼は、小さいときから自分の体が他の人と違うことに気付いて育ちました。他の子供たちから苛められました。大人になっても、馬鹿にされたりして、心の傷は深まるばかりです。ザアカイは思ったに違いありません。「今に見ていろ。この痛みは倍にして返してやる。」彼は、ローマの徴税請負人、取税人として自分を傷つけ馬鹿にした人々から税金をむしり取り、しかも決められた額以上をだまし取って、彼等に復讐し、贅沢な暮らしをして、心を満たそうとしました。しかし、ローマの威を着てどんなに威張り散らしても、贅沢に暮らしても、決して満たされることのない、心の痛み、霊の渇きをどうすることもできませんでした。
そんなとき、イエス様の噂を聞きました。イエス様が病人を癒し、貧しいものに福音を語る偉大な方だということを聞いていました。自分のすんでいるエリコの町をイエス様がお通りになることを、知りました。ザアカイは、一目でいいからイエス様を見たかった。出会うだけで苦しんでいるものたちの運命を回復させることのできるイエス様に出会いたかったのです。彼は、人垣の間からはイエス様が見えませんでしたから、木に登りました。見物人から嘲られることは分かっていました。実際多くの人が木に登ったサアカイを見て笑い物にしたことでしょう。しかし、人に笑われることよりも、恥をかくことよりも、このイエス様、人の運命を回復することのできる方を一目でもいい、見ることができるならば、と願ったのです。ザアカイは金持ちでした。しかし、自分の霊が極貧の状態であること、自分ではこれを満たすことも、救うこともできない、努力することすらできないことを痛いほど知っていました。ザアカイは木に登りました。イエス様の姿を見ました。ザアカイは心の中で叫んだでしょう。「イエス様!こっちを見てくれ!」イエス様は、ザアカイの心の叫びを聞かれました。そして言われました。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まることにしているから。」前もって予約していたわけではありません。初対面でした。しかし、イエス様はザアカイのすべてをご存じでした。ザアカイに霊的な癒しをもたらすためにここを通られたのです。
宴会の席でザアカイはイエス様に言いました。「私の財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれからでも、わたしがだまし取ったものは、四倍にして返します。」これまでたくさんの人を騙して税金を取り立ててきました。半分を貧しいものに施した上で、すべて騙した人に四倍にして返したら、どうなることでしょうか。しかし、ザアカイは仮に自分の財産のすべてを失ったとしても、それにまさる宝、神の国を手にいれたのです。霊の貧しさ、霊的極貧状態にある自分を豊かに満たし、溢れさせて下さるイエス様との個人的関係を与えられたのです。それまでの痛み苦しみを癒し覆って余ある神の国の祝福を経験したのです。
3.今日、富める青年とイエス様、ザアカイとイエス様の関係を通して、「霊的極貧状態にある者の祝福」とは何かということについてお話しました。あなたは、「富める青年」のようでありたいですか、それともザアカイのようでありたいですか。私たちは、自分が抱える問題のうち、自分で努力したり、頑張ったりして解決できるものにつては、頑張らなければなりません。しかし、もし、あなたが自分の内面に、これだけはどうしても駄目なんだ、何度努力しようとしても失敗した、努力したり頑張ることでは解決されない問題があるのだということに気付き、これに神による解決が必要であると感じ、それを求めるならば、イエス様は、そのことについて、「ああ、何と祝福されているのだろう」とおっしゃるのです。イエス様はそれに解決を与えることができるお方だからです。ザアカイが木の上で心の中で叫んだように、「イエス様、私のほうを見てください」と、あなたの心の中で叫ぶなら、イエス様は必ず応えてくださいます。イエス様はあなたのすべてをご存じです。あなたの心の痛みも、すべてを覆いつくし、癒すことのできるお方なのです。そして、「私のところに来なさい。わたしはあなたのところに泊まるから」とおっしゃり、あなたと親しく交わり、あなたの運命を回復して下さるのです。