「山上の説教・ 心の清いもの」  マタイの福音書5章8節

アメンドウ

 今週も引き続きイエス様の祝福について学びます。今日の箇所はマタイの福音書5章8節です。

 心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです

  皆さん、この言葉を聞いて、どう思いますか。何か、自分とは関係ないと感じている人もいるかもしれませんね。「私は、清い心を持っているわけではないし、別に神を見なくてもかまわない」「そもそも、神を見るというのが非現実的であるし、神を見なければ信仰が持てないというわけではないでしょう」とか、ちょっと距離を置きたくなるような言葉だと感じている人もいるかもしれませんね。しかし、これはイエス様の祝福の言葉のなかでも、特に人間に対する神の愛がほとばしり出ている言葉であるよう私には感じられます。どうして、その様に感じられるかを今日はお話ししたいと思います。

 1.「神を見る」とはどういう意味でしょうか。「ねえ、きょうA先生見た?」「うん、廊下を歩いているのを見たよ」というような会話でいうような意味でしょうか。「ねえ、きょう、神様見た?」「うん、さっき教会から出てきたのを見たよ。あなたも一緒にいたじゃない。」「えっ、わたしには見えなかった。」「あなた、今日は心がきたないんじゃない」とかいうのとは違いますね。ここで言うところの「見る」とは、全人格的に神にまみえることをいうのです。

 私が大学の一年生の時に読んで大変感動し、影響を受けた本に、マルチン・ブーバーという人の『我と汝』という本があります。内容をかいつまんで言うと、次のようなものです。「人間の精神の様態は、外界とどのように関わるかによって、2重である。すなわち、人間には二つの精神の様態がある。そして、外界も人間の二つの精神の様態に対応して2種類の在り方がある。これら人間の精神と外界との関わりの第一は、『我−汝』であり、第二は『我−それ/彼/彼女』である。『我−汝』とは現在における全存在的な『関係』であり、『心をつくし、精神をつくし、知恵をつくし、力をつくして愛する』愛の関係である。人間は、この関係を神と持つことができる。これに対して、『我−それ/彼/彼女』とは、自分の全存在を費やすことなしに関わることで、その言葉を語るときには、ある人、物との過去の『経験』があるだけである。あるとき神と『我−汝』の関係に入っても、その時を過ぎれば、神は『汝』から『彼』になる。常に神に『汝』と呼びかける現在の関係を求めることが大切だ。」私は、この本を読んだときに、自分には神と「我−汝」の関係に入ったことがないと感じ、そのことを求め始めましたが、なかなか「我−汝」の関係とはどういうことか分かりませんでした。これが本当に分かったのは、その本を読んでから3年たったときでした。「神を見る」というのは、このような神との全存在的な愛の関係、「我と汝」の関係に入ることを意味しているといってもいいでしょう。

 今この話を聞いている皆さんも、「神との『我と汝』の関係」と言われてもよく分からないと感じている人がいると思います。わたしも分かりませんでした。端的にいえば神と見つめ合うような関係ですが、ここにいる全ての人がこのような祝福された神との関係に入ることができると聖書は言っています。ですから、皆さんが「もし、そういう関係というのがあるのならば、それを知ってみたい」と思われるようになったら素晴しいと思います。そのためには、神がどのようなお方であるかをお話しすることが必要かと思います。

 2.聖書が私たちに語りかけていることは、私たちが神と見つめ合うような関係に入りたいと願う以上に、神が私たちとのこの関係を求めておられるということです。人間が神とのその様な関係を求めていなくても、別の言葉で言えば、人間が神を愛したいと思わなくても、人間が神と一緒にいることを欲していなくても、神は人間を愛し、一緒にいることを欲しておられるのです。人間との「愛の関係」、先程の言葉で言えば「我と汝」の関係を神が熱望しておられるということです。

聖書の創世記というところに、最初の人類アダムとエバの話があります。アダムは神の姿をこの地上に映すものとして創造されました。しかし、サタンにそそのかされて、神に食べてはならないと禁じられた「知恵の木の実」を食べ、罪が入ってきました。彼等は自分たちが裸であったことを知り、イチジクの葉をつづり合わせて腰に巻きました。

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妃は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼におおせられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」(創世記3:8-10)

 神は、自分の姿に創造した人と語り合い、交わりを持つことを本当に楽しみ喜んでおられたのです。神はこの時も人と語り合うためにやって来られました。ところが人は神を避けて、隠れました。そして言いました。「私は裸なので、恐れて、隠れました。」裸であること自体は罪ではないのです。人は裸で母の胎から出てきますが、そのことを不愉快に思う親がいるでしょうか。裸のまま受け入れ愛するのです。神の人間に対する愛はこれ以上のものです。ところが、人に罪が入って来た時、彼らは汚れた思いを抱かずに裸を見ることができなくなってしまったのです。ですから、人は自分が裸であること

を恐れました。神に受け入れられていないと思い込みました。神の前に出ることが耐えられない苦痛となってしまったのでした。「神から隠れる」とは「神との関係を欲しない」ということです。しかし、神はそんな人に対し、「あなたはどこにいるのか」と語りかけ、探し求めておられるのです。罪を犯す前も、罪を犯したあとも、また、罪を犯している最中であっても、神が人を探し求め、人と親しい愛の関係を結びたいと願われる、そのお心は変わりないと聖書は語っています。

 人は、自分の恥を隠すためにイチジクの葉をつづり合わせて腰に巻き、自分の恥を隠そうとしましたが、そのようなもので隠し切れるものではありません。

 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せて下さった。(同21)

 神は、人間に対し、「自分の罪の後始末は自分でしなさい」とはおっしゃらず、自ら皮の衣を作って、着せて、恥を覆って下さるのでした。皮の衣を作るということは、動物を殺すことを意味しています。動物の命と引き替えに人に見られたくない恥ずかしい部分を隠して下さる。これが聖書の神のなさり方です。またそのお心です。何よりも人を大切にし、罪を犯していない動物の血を流しても人の罪を覆って下さるのです。

 3.神は、さらに人が恐れずに、大胆に神に近づき、神を見るような関係に入ることができるように、道を備え招いて下さっています。それは、心を清めるという方法によってです。人は、神が動物を殺し、その皮を着せて恥を覆って下さっても、罪を犯し続け神を避け、さらに「_過ちの記憶に伴う恥と痛み」、「罪の意識が与える苦痛」に責められ、神の前に出ていくことができないでいます。ところが神は、どうしてもこの人間をご自分の近くに引き寄せたい、ご自分との祝福された関係の中に回復させたくて仕方がないのです。それほど神は人間が好きなのです。

 例えるならば、愛する妃が逆賊の首領にそそのかされて自分のところからいなくなっても、その妃を愛し続ける王のようなものです。逆賊の首領のところに走った妃は、たとえ連れ戻されても、スリルに満ちた罪の生活を思い出したり、一方では良心の責めなどによって、王の顔を面と向かっては見つめることができないでしょう。しかし、王はその妃に自分が彼女を赦し愛していることを知ってもらいたい、そして、妃がもう一度自分の目を恐れずに見ることを、笑顔を交すことができることを本当に願っているのです。どうしたらこの妃は、王の目を恐れずに見つめることができるようになるのでしょうか。自分の過ち、罪を責められれば責められるほど、王の目を見るどころか、また逃げ出したくなってしまうことでしょう。妃から罪の性質と過ちの記憶に伴う恥と痛み、罪の意識が与える苦痛を消し去ることによってしか、このことはなしえないのです。

 神は、人間からこのような「罪の性質」と「_過ちの記憶に伴う恥と痛み、罪の意識が与える苦痛」を取り除き、人間が神の目を恐れずに見て、神と笑顔を交すような関係に戻ってくることを願っておられます。聖書は、神がこのことをイエス様の十字架の血潮によってなして下さると言っています。

まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、行ける神に仕えるものとすることでしょうか。(ブル書9:14)

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(同9:22)

 聖書は、私たちがイエス様の十字架の血潮を注がれるときに汚れた良心が清められ、神の御前に大胆に進み出ることができると言っています。神を見るような関係に入るということです。先程から言っていますように、一方的に見るということではありません。神と見つめ合うような関係です。もう一度このような関係に招きいれて下さるためにイエス様が十字架にながして下さった血を、私たちに注ぎかけて下さるというのです。

 4.イエス様は「心の清いものは幸いだ。その人は神を見るから」とおっしゃいましたが、「修業努力して心の清さに到達しなさい。そうしたら神が見えるようになるから」とおっしゃったのではありません。「心にキリストの血を注ぎかけられ、良心を清められたものは、主の御前に出て、主と見つめ合うような関係に入れられる。何と祝福されていることか」ということです。わたしたちが心に留めたいのは、神が人間を本当に愛し、人間のことが大好きでいらっしゃるということです。ご自分から離れて行こうとする人間を探し求め、動物を殺して皮の衣を着せ恥を覆い、さらにイエス様ご自身が十字架から血を注いで、私たちの良心を清め、恐れずに神に近づく道を開いて下さっています。それ程までにcareしてくださる。神は私たち一人一人を愛して下さっているのです。

 今も、神は私たち一人一人に語りかけておられます。「人よ、あなたはどこにいるのか。」勿論、神は私たちがどこにいるかご存じです。しかし、人は、神から隠れている

つもりでも、自分が本当にどこにいるのか分からなくなっているのではないでしょうか。「あなたはどこにいるのか」という語りかけは、責めたて、罰するために探す言葉ではありません。隠れているつもりで、自分がどこにいるのか分からなくなってしまっている人間に対して、「私のところに帰ってきなさい。私のところに祝福と平安があるんだ」と呼びかけておられるのです。この神の御声に耳を傾けることができるならばなんと幸いなことでしょう。神はイエス様の十字架の血を注いで私たちを清め、もう一度神との豊かな祝福の関係に入れてくださろうとしておられるのです。

 「人よ、あなたはどこにいるのか」という神の問いかけに、私たちはどのように答えたら良いのでしょうか。「主よ。私はここにいます。あなたのところに帰ります。十字架の血で清めてください。」十字架の血が注がれ、心が清められるとき、神と目と目を合わせるような関係の中に入れられます。そのことを期待して祈りましょう。

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