「山上の説教・ 嘆き悲しむものの祝福」      マタイの福音書5章4節

  今日は、前回に引き続きイエス様の山上の説教、イエス様が山の上で弟子たちに、大切な教えとして正式に説教なさった御言葉のなかから5章の4節をお読みいたします。

 


悲しむ人は幸いです。その人は慰められるからです



前回も「心の貧しい人」というのがどういう意味なのかということなのから、その御言葉の意味を考えましたが、今日も「悲しむ人」という言葉の持つ意味から、イエス様のこの祝福の言葉の意味を考えていきましょう。



ハガルの嘆き  ギュスターヴ・ドレ画集より


1.注解書によると、ここで使われている「悲しむ」と訳されているギリシャ語のpenqewという言葉は、悲しみを表わす4つの言葉のうち、最も強い悲しみを表わす言葉だそうで、英語では 'to mourn' という訳を当てています。すなわち、親しい人が亡くなったときに経験するような悲しみを表わします。日本語では「嘆く」という言葉がこれに当たるかもしれません。

 私たちは、肉親を失い、深い悲しみの中にある人に対しては、全く言葉を失います。何と言っていいか分からなくなります。また、反対に深い悲しみの中にあるとき、どんな慰めの言葉をかけてもらっても、悲しみが深ければ深いほど、心に届かない、慰められることすら拒むような状態になります。エレミヤ書という預言者の書に「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きの声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている」(エレミヤ書31:15)という言葉があります。これは、戦争で国が滅ぼされ、子供たちが奴隷として連れて行かれる母の嘆きを預言したものです。また、同じこの言葉が、ヘロデ王によって幼い子供たちを殺害された母親たちの嘆きを表わすために使われています。ここで、イエス様が「悲しみ」とおっしゃったのは、このような悲しみ、人が慰めてやることも、どうすることもできない、慰められることさえ拒むような悲しみを意味するのです。イエス様は、この様な人は祝福されているとおっしゃいました。どうしてこういう人が祝福されているのでしょうか。普通の価値観とは違います。イエス様がここで「ああ、何と祝福されていることか、嘆き悲しむものたちは」とおっしゃるとき、ここに、私たち人間が知っている祝福観とイエス様の祝福観が違うことを聖書は教えています。ここで私たちは、この言葉に表わされているイエス様のお心を知りたいと願います。

 2.旧約聖書を読みますと、そこには嘆き、悲しみ、泣く多くの人達の姿を見ることができます。自分の主人に苛められる女奴隷の嘆き。自分の父親に捨てられ、命を落としそうになる少年の嘆き悲しみ。子供を与えられない婦人の嘆き。奴隷として過酷な労働を強いられる人々の嘆き苦しみ。罪の深さ、重大さを知って絶望に泣く人々の悲しみ。多くの人々が嘆き、悲しみ、泣く姿が旧約聖書に書いてあります。しかし、彼等は、嘆き、悲しみ、泣くだけでは終わりません。聖書には、「主は、〜の悲しみを心にとめられた」「主は〜の涙を覚えられた」「主は〜の嘆きの声を聞かれた」という表現が数多く見られます。そして、神様は彼等の運命を回復し、祝福を与えて下さるのでした。イエス様は、嘆き、悲しみ、泣く者に応える神様がいるということを、「ああ、何と祝福されているのだろう」という言葉で教えて下さっているのです。今日は、この中から、創世記に出てくるイシュマエルという少年の悲しみと、それに応えられた神様についてご紹介したいと思います。
  イシュマエルというのは、ユダヤ人の父またアラブ人の父と呼ばれるアブラハムの子でした。アブラハムは、主なる神様から今のイスラエルの地に導いて来られ、「あなたの子孫は天の星のようになる。あなたの子孫にこの土地を与える」と言われました。しかし、アブラハムと妻サラには子供が産まれませんでした。そこでサラは自分の女奴隷ハガルを夫のアブラハムに与え、アブラハムはハガルによって男の子を得ました。この子供がイシュマエルです。イシュマエルは13歳になるまでアブラハムの跡取りとして大切に育てられました。ところが、すでに老人になっていた正妻サラに男の子が産まれました。イサクです。サラは、自分の子供のイサクがイシュマエルにからかわれるのを見て、我慢ならず、ハガルとイシュマエルを家(天幕)から追放するようにアブラハムに強く迫りました。アブラハムはサラの要求を受け入れ、二人を家から追放しました。ロバもラクダも与えず、パンと水を入れた皮袋一つだけを与えました。乾燥した荒れ地です。これは、ハガルとイシュマエルにとっては「死ね」と言うことと等しいことでした。

 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルにあたえ、それを彼女の肩にのせ、その子供とともに送り出した。それで、彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の灌木の下に投げ出し、自分は、矢の届くほど離れた向こうに行って座った。それは、彼女が「私は子供の死ぬのを見たくない」と思ったからである。それで、はなれて座ったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。(創世記21:14-16)

  イシュマエルは13歳になるまで跡取りとして大切に育てられました。父親の愛を受けて育ったはずです。しかし、正妻のサラに息子が産まれてから、父親の自分に対する態度が変わったことに気付いていたことでしょう。さらに、死を意味する家からの追放を経験しました。確かにアブラハムは、喜んでハガルとイシュマエルを家から追い出したわけではありません。イシュマエルに対する思いとサラとの間に板ばさみになり、葛藤しました。アブラハムは神に祈り、どうすべきか尋ねました。神に「わたしはイシュマエルを祝福する。安心して妻サラの言うとおりせよ」と言われ、彼等を追い出すことにしました。しかし、いくらアブラハムが葛藤したとしても、神の保護の約束を頂いていたとしても、イシュマエルは父親に捨てられたのです。追放されるイシュマエルは、自分の父親に「お前は産まれてこなくてもよかった。もう生きていなくていい」と言われたと思ったことでしょう。水がなくなり、渇き、死ぬばかりになったとき、イシュマエルが味わった悲しみ、嘆き、苦しみは如何ばかりであったでしょうか。自分の親に捨てられる子供の苦しみは、経験したことのあるものでなければ、決して知ることのできない、人の同情を受け付けないような悲しみです。言葉に表わせない深い深い悲しみです。しかもイシュマエルが死にそうになったとき、母のハガルは悲しみに耐えきれず、自分を見捨てて離れて行ってしまったのです。イシュマエルは、もう言葉にならない嘆き、悲しみの中に息を引き取ろうとしていました。声もでない状態でした。しかし、「神は少年の声を聞かれた。」神様は、父親に捨てられ、灼熱の乾燥した荒野の中で今にも息を引き取ろうとしていたこの少年の深い悲しみをご存じでした。そして心の呻き、嘆きに耳を傾け、助け出してくださいました。

神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行って、あの少年を起し、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで弓を射るものとなった。同17-20

 イシュマエルは今のアラブ人の祖先となった人です。私は、これを読んだとき、「イシュマエルがこの時死んでいれば、現在にまで及ぶイスラエルとアラブの対立もなく、中東はもっと平和だったのになあ」と思いました。しかし、神様は違います。神様のお心はそうではありません。親に捨てられ、絶望のなか、悲しみの中で一人の少年が死んでいくことを、神様はお見過ごしにならないのです。これが神様のお心、イエス様のお心なのです。このイシュマエルの悲しみをしっかりと受け止め、これに祝福をお与えになるのが聖書の神様なのです。イシュマエルは父親に捨てられた悲しみ、痛みをどうすることもできなかったでしょう。しかし、「神が少年とともにおられた」と書いてあります。イシュマエルの心の傷、他の何者によっても埋め合わせることのできない心の空虚な場所に神様が入って来て下さいました。満たしてくださいました。そして、祝福をあたえ大いなる国民の父としてくださいました。

 イエス様はおっしゃいました。「ああ、何と祝福されていることだろう。悲しみに打ちのめされた人。その人は慰められるからだ。」自分で「元気を出そう、悲しみに負けずに頑張ろう」と言えないほどの悲しみを経験した人、悲しみに打ちのめされた人、彼等は幸いである。彼等の悲しみを受け止め、それを祝福に変えることのできるお方がいるのだ、今のあなたの悲しみを祝福に変えることのできるお方がおられる、と教えて下さっているのです。

3.イエス様は「その人は慰められるからだ」とおっしゃいました。「慰められる」とはどういうことでしょうか。ここで大切なことは、誰が慰めるのかということです。人の慰めを拒むような悲しみのとき、人はこれを慰めることはできません。神様が慰めて下さるのです。これは重要なポイントです。神が慰めて下さるから、祝福されているのです。

 「慰める」と訳してある言葉は、ギリシャ語では、para-kalewで、「傍らに呼ぶ」というのが語源的な意味です。このpara-kalewという言葉から派生したのがparaklhtoV「助け主、慰め主」と訳されるものですが、聖霊様の別名です。「援助のためにそばに呼ばれたもの」これが聖霊様です。イエス様は、十字架に殺される前夜、つぎのように弟子たちにお語りでした。

 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなた方にお与えになります。その助け主がいつまでもあなた方とともにおられるためにです。その方は真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなた方はその方を知っています。その方はあなた方とともに住み、あなた方の内におられるからです。 (ヨハネ14:16-17)

 イエス様は、自分がいなくなったあとで、弟子たちを助けるもの、慰めるものがやってくる。真理の御霊、聖霊様がやってくる、とおっしゃいました。さらに、「この方は、あなた方とともに住み、あなた方の内におられる」とおっしゃり、聖霊様がイエス様の霊、イエス様ご自身であることを教えておられます。「この方があなた方とともにおられる。」これが、私たちにとっての最大の慰めなのです。聖霊様が、イエス様が、私とともにおられる。これにまさる慰めはありません。私たちは、悲しみに出会うと、「どうして?何故?」と言いたくなります。しかし、イエス様がともにいて下さることを知るとき、それを実感するとき、「何故」を超えた大きな喜びに包まれるのです。

 先程読みました創世記の中にも、「神が少年とともにおられた」とありました。神様がともにおられたので、父親に捨てられた悲しみから立ち上がることができたのです。人間の父親が満たすことのできない心の空しさを神様が満たして下さいました。

 イエス様はインマヌエル「神が私たちとともにおられる」と呼ばれるかたです。イエス様は語っておられるのです。あなた方がどんなに深い悲しみに打ち倒されていても、わたしはあなた方のところにやってきて、あなた方とともに住む、あなた方を満たす。あなた方の悲しみを喜びに変える。わたしがあなたがたとともにいるからだ。

 4.ですから、私たちは、悲しみが私たちを襲うとき、神様に泣き叫べば良いのです。私たちの悲しみを受け止め、私たちのそばに来て、私たちを抱きしめて下さる方がいるからです。この方は、私たちの悲しみを祝福に変えることのできる方です。私たちは、「わたしの悲しみは、わたしにしか分からない」と思い、自分の悲しみを心のなかの、人に見えないところに隠す必要はないのです。

 今は、携帯電話を多くの人が持っていますが、すこし前、ポケベルが中高生、大学生に大流行しました。いまでも多くの中高生、大学生がポケベルを持っています。ポケベルと中高生たちとの関係について研究した精神科医がいました。彼はポケベルを電話のホットラインに対し、warm lineと呼びました。電話では相手と直接話をしなければならないので、熱すぎる、火傷をしてしまうのです。言葉で気持ちを言い表わすだけで相手を「傷つけて」しまう。自分も心の琴線に触れるようなことが怖い。ですから、言葉を使わなくてもよい通信手段、しかも、相手がそれにどう対応するかは、相手次第という通信手段を好んで使っているということでした。たとえば、交通事故でなくなった人のところに数ヵ月にわたってポケベルのメッセージが入り続けたというケースがあるそうです。「元気?」「どうしてる?」「また会いたいね」など..。みんな友達と会っているときは、どうでもいいことを話す。流行に遅れまいとする。しかし、一人になると、寂しくなり、ペケベルにメッセージを入れます。自分の心の中に悲しみがり、本当の自分は誰も分かってくれないと思うから、また分かってもらえないことが分かると、もっと悲しくて仕方がなくなるから、自分の気持ちを人にぶつけることができなくなるのです。そしてペケベルの warm line にオブラートに包んだ自分の気持ちを託そうとするのです。 しかし、イエス様は、ポケベルにオブラートに包んだようなメッセージしか入れられない中高生、大学生の心をご存じです。その悲しみをご存じです。誰も分かってくれない、誰も分かるはずがない、と思うから、悲しみがあっても、それを表に出すことができないのです。しかし、イエス様はご存じです。イシュマエルの言葉にならない悲しみを受け止めて、イシュマエルとともに住み、その心を満たして下さった方です。あなたが悲しみの中にあるならば、その悲しみをイエス様にぶつけてください。イエス様はそれを受け止めることができるお方です。あなたのことをすべてご存じです。泣き叫んでも大丈夫です。それに応える方がいるからです。

  

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