

ダビデがサウロに追われて逃げたエンゲディの谷
これまで3回にわたってイエス様が教えて下さる祝福について学んできましたが、今日はその4回目です。聖書の箇所はマタイの福音書5章6節
義に飢え乾いているものは幸いです。その人は満ち足りるからです。
ポイント 1 飢え乾くとは
2 義とは
3 満ち足りるとは
1.まず「飢く渇く」ということについて考えてみましょう。今私たち日本人は飽食の時代に生きており、「飢える」ということを知りません。また喉が乾くことがあっても、水道を捻れば水が出てくるこの社会では「渇く」ということも分かりにくいことです。イエス様が生きておられたイスラエルの地には乾燥した砂漠のような荒野がありました。そのような地で水もなく食料もない「渇いた」「飢えた」状況というのは経験したことでなければ分からない死と隣り合ったようなものなのでしょう。詩篇42篇に「鹿が谷川の水を慕いあえぐように、私の魂はあなたを慕いあえぎます」という言葉があります。これは、喉が渇いた鹿が川にいって水を飲みたいと思うといことではありません。喉が渇くのではなく、体全体が渇くのだということです。イスラエルに留学していた人から聞きましたが、「バケツ一杯の水を飲んでも癒されない渇き」を経験したということです。以前動物を扱ったテレビでイスラエルの荒野にいる鹿のことを放映していました。雨の降らない荒野に生きる鹿が求める川の水は断崖絶壁の下にありました。水を求めて断崖を降りていくのは命懸け、経験の少ない子鹿などは足をすべらせ落ちて死ぬこともあるとのことでした。それ程までに渇く、水がなければ動物は生きていけないからです。詩篇の詩人は「生ける神を慕いあえぐ」と言いました。生ける神との間が断絶されているということは、この詩人にとっては死に等しい絶望を意味していたからです。
イエス様が「義に飢え渇く」とおっしゃるとき、このような飢え渇きを意味しています。それ程までに「義」に飢え渇く。どういう意味なのでしょうか。
2.「義」とは何でしょうか。日本語には「正義」という言葉はありますが、「義」という言葉は馴染みがない言葉だと思います。「正義」とは、倫理的に間違っていないこと、法律的に正しいことを意味していると一般には考えられています。法的・倫理的なある基準をもとに、それに達していれば正義、達していなければ不義という人間の行為に対する評価を表わすというのが一般的な理解です。一方、聖書の中における「義」とは、関係が正しいことを意味しています。神との関係が正しいとき、「義」であるというのです。「義」と訳されているこのヘブライ語の言葉はtsedeqで、「義」とか「公正」とも訳されますが、「救い」という語と対の概念です。つまり、「義」があるところ「救い」があり、救われているとき「義」と認められているということです。口語訳聖書ではtsedeqが救いと訳されているところもあります(キリスト新聞社『新聖書大辞典』による)。神との関係が正しいとき、そこに救いがあるということですが、「神との関係が正しい」とはどういうことでしょうか。
このことを考えるために、聖書の中で重要な概念となっている「人の義」と「神の義」について見てみましょう。「人の義」とは、人の行為がある基準に達していることを言い、この基準とは「律法」です。いくら自分で自分を良い人間だと思っても、また、どんなに人に「あなたは良い人ね」と言われたとしても、そのことによっては「義なる者」と看做されません。律法の要求をすべて満たすことができるとき、「義なる者」と看做されるわけです。
イエス様は、おっしゃいました。一番大切な律法は「聞け、イスラエルよ。主なる神は、唯一の神である。心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と。私たちは、自分の全存在で主なる神を愛したいと願っていますが、私たちが自分の力で神を愛そうとしても、私たちの思いのなかに、知恵のなかに、力の中に、神に対する完全な愛があるかというと、そうではありません。また、自分自身の隣人、家族や友人を本当に愛したいと願っています。しかし、その愛の中に欠けがあります。神が人間に与えられた律法の基準に達していない自分を認めざるを得ません。ですから、私たちは、自分の力で神の律法の基準に達しようとしても、そこに大きなギャップがあることを見るのです。このギャップのことを聖書では「罪」と呼んでいます。人間の努力による「人の義」で神の基準を満たすことは不可能なのです。
しかし、神は、人間的努力によっては神との正しい関係に入ることのできない、別の言葉でいえば、人間的にどんなに努力しても神の前に立つことのできない人間を何とかご自分の近くに引き寄せようとしておられるのです。旧約の時代にイザヤという預言者がいました。イザヤは祭司で、ある日、神殿の中で神を見ました。その時、イザヤは、「わたしはもう駄目だ。滅んでしまう。私は罪あるものなのに、万軍の主なる神を見てしまったから」と言いました。しかし、その時天使が祭壇の炭火を持ってきて、イザヤの唇に触れたとき、イザヤは自分の罪が清められたという経験をしました。イザヤは自分の義、「人の義」では神の前に立つことはできない、滅んでしまう、と思いましたが、燃える炭火によって「神の義」がイザヤに臨みました。「人の義」をもって聖なる神の御前に立とうとすることは、人間にはできないことです。しかし、この方の前に立つときに救いがあります。「人の義」ではない、「神の義」がそれを可能にするのです。
「神の義」とは何でしょうか。これは、「人の義」によっては神の基準に達しない人間、罪深い人間を神の一方的な愛と憐れみによって免責し救うことを意味しています。「正義の神」という言葉が表わす、裁きを下す神の厳正さではありません。神が救うに値しない人間を一方的に憐れんで救う、この神の行為を「神の義」というのです。先程紹介したヘブライ語のtsedeq「義」が「救い」の対概念として用いられるというのはこの様な理由からです。
旧約聖書の詩篇には第2代のイスラエル王ダビデが歌った賛歌がたくさんありますが、ダビデは「神の義」による救いということを乞い求め、それを声高らかに歌った人でした。
「あなたの義によってわたしを助け出してください」(詩篇31:1)
神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。
そうすれば、私の舌はあなたの義を高らかに歌うでしょう。(詩篇51:14)
ダビデは、羊飼いから身を起こし、王位まで登り詰めた人でしたが、自分の失敗、自分の罪を素直に認めることのできる人でした。自分の罪を自分で消すことができないことを知っていました。自分の性的な欲望を満たすために自分の忠実な部下の妻を奪い、その部下を殺害しました。そのことを神から遣わされた預言者に指摘されたとき、「わたしを殺人の罪から救ってください。わたしを救えるのはあなたの義だけです」と祈ったのです。どんな罪を犯した者でも神の義が覆って下さるとき、救われる。これがダビデの信仰であり、聖書の主張なのです。
イエス様は、罪深く、自分では神の基準に達しない、自分の力では自分を救えない人間を「神の義」によって救うため、「神の義」による救いを完成するためやって来られた方でした。「神の義」とは、罪のない神の子イエス様が、私たち罪にまみれた人間の代わりに十字架について下さった。その流された血が私たちに注がれるとき、私たちの罪は清められる。私たちは罪なきものとして神の御前に立つことができる。神との豊かな祝福の関係に入れていただけるのです。イエス様の血が私たちに注がれるというのは物理的なことを言っているのではありません。霊的なことです。一言で言えば、イエス様があなたの罪のために十字架について死んで下さり、三日目に甦って下さったことを信じるとき、あなたの心にイエス様の十字架の血が注がれているのです。「神の義」は、このイエス様の十字架と復活によって完全なものとして人間に与えられているのです。
「義に飢え渇くもの」というのは、「人の義に飢え渇くもの」という意味ではありません。「神の義に飢え渇くもの」、「私は罪あるものです。神よ、あなたの義で私を覆ってください。滅んでしまうしかない私をあなたの義で救ってください」と飢え渇くように祈るものという意味です。そのように祈るとき、神の義がその人を覆うのです。「ああ、何と祝福されていることだろう」とイエス様が叫ばずにいられなくなるような状況がその人に臨むというのです。
3.最後に「満ち足りる」という言葉の意味について見てみましょう。イエス様は「ああ、何と祝福されていることか、神の義に飢え渇くものは。その人は満ち足りるからだ」とおっしゃいました。「満ち足りる」という言葉は、「満腹になる、一杯になる」というのがもともとの意味です。何に満ち足りるのでしょうか、何で一杯になるのでしょうか。
詩篇の17篇にダビデの祈りがありますが、これを原文で読むと、何に満ち足りるのかが非常によく分かります。15節、原文をそのまま直訳すると、「私は、義によって/義の中で あなたの御顔を見る。目覚めるとき、私はあなたの御姿によって満ち足りる/満腹する」となります。ここで「義によって」とか「義の中で」と訳されているのは「神の義によって、神の義の中で」という意味です。つまり、「神の義に覆われるとき、包まれるとき、私はあなた(神)の御顔を見ることができる。」これは、「神の義」によって救われたものの状態をいいます。「聖なる神と顔を合わせて見るような関係、罪あるものには決して許されない最高の祝福の関係が与えられる」ということです。「目覚めるとき」というのは「朝」ということではありません。霊的に覚醒するとき、今まで見えなかった霊の世界が見えるようになるときという意味です。その時、神の姿によって満腹する、一杯になると言っています。神の姿が自分の中に満ち溢れる。これは、パウロがコリントのクリスチャンたちに送った第2の手紙の3章16-18と同じ内容です。ダビデは預言者でしたから、この祈りの中で、イエス様の御霊によってクリスチャンたちに与えられる霊的な祝福を御霊によって預言しているのです。
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔の覆いを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら(または主の栄光を鏡に写すように見ながら)、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(「コリント3:16-18)
主の御霊が働かれるとき、私たちは霊的に覚醒します。今まで見えなかった霊の世界が見えるようになり、イエス様の姿を見ることができるようになるのです。それは、今の鏡で見るようにはっきりとではないけれども、少しぼんやりしてはいるけれども、イエス様であることはよく分かる。これは、心の鏡にイエス様の姿が写るということです。その姿を見ているうちに、イエス様の姿に似たものと変えられていく。私たちはイエス様の姿に満たされていくのです。何という祝福でしょうか。
4.イエス様は、「ああ、何と祝福されていることだろう、義に飢え渇く人は。その人は満ち足りるからだ」と言われました。自分の力では自分を救えない、罪深い性質を変えることができない人、「神様、あなたの義で私を覆ってください、私を包んでください」、と飢え渇くように祈る人は幸いです。神の義があなたを包みます。そして、イエス様の御霊、聖霊があなたに注がれ、あなたは覚醒し、これまで見えなかったイエス様の霊的な祝福の世界が見えるようになります。イエス様の姿が見えるようになって行くのです。あなたはイエス様と同じ姿に変えられていきます。自分の力では律法の要求を満たすことのできなかったものが、イエス様の姿に変えられ、満たされて行き、この地上に神の御心を表わして行くことのできるものに変えられていくのです。何という幸いでしょうか。何という祝福でしょうか。
今日、この聖書のみ言葉を聞く一人一人に、聖霊様が親しく働いて下さり、「神の義」に飢え渇くものとしてくださいますように。神の義にまったく覆われ、罪が赦され、聖なる神の御顔を仰ぎ見ることができますように。霊の目が開かれ、イエス様の御姿とイエス様が備えて下さっている豊かな祝福の世界を見ることができますように。イエス様の御姿に満たされる者と変えられていきますよう、心から祈ります。