「あなたがたより先にガリラヤへ」      マタイの福音書26章

 これまで、「使徒の働き」をご一緒に学んできましたが、今日は、Good Friday イエス様が十字架に架けられた日ですから、イエス様の受難と復活に関する箇所から学びたいと思います。聖書の箇所はマタイの福音書26章です。

 マタイ26章31−3

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部のものがあなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは、三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

同51−56

すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の僕に撃ってかかり、その耳を切り落とした。その時、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取るものはみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、12軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。

 同69−75

ペテロが外の中庭にすわっていると、女中の一人が来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスと一緒でした。」それで、ペテロはまたもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない」と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て。「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスに言われたあの言葉を思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。


1.私が、今日この箇所からお話ししたいことは、人生に絶望した人間を、イエスはどのような方法をもって立ち上がらせようとなさるかということです。前後のことを少し説明しますと、イエス様はエルサレムに近いベツレヘムというところで生まれましたが、ガリラヤ地方のナザレという所で育ちました。伝道活動もガリラヤから始め、12人の弟子のうちイエス様を裏切ったユダ以外はすべてガリラヤ出身だったと言われます。新教出版社「聖書辞典」によると「ガリラヤ」には次のような説明があります。
キリスト時代のパレスチナにおける一県名。ヘブル語<ガリル>(周辺の地方の意)のギリシャ音訳<ガリライヤ>である。もとガリラヤ湖西方のナフタリの山岳地の地方名であった(王下
15:29)。この地には先住のカナン人が残存していた(士1:30-33, 4:2)。後にガリラヤの名は漸次拡大され、南方のエスドレロンの平原までをも含むようになった。捕囚帰還後、この地にはユダヤ人は少なかったが、前165年マカベヤのシモンがこの少数の同胞を援助、強化してユダヤ教への改宗者を保護した。そのため、まもなくユダヤ人が圧倒的勢力を持つに至った。しかし、人種の混合により方言が生じ(マコ14:70−)、律法に対しても幾分自由な見解に立ち、純粋のユダヤ人から軽蔑された(ヨハ1:46、7:52)。 

イエス様は、ここを拠点に伝道を行われるのですが、イエス様の語られるみ言葉と、癒しを求めて多くの群衆たちがイエス様の所に集まってきました。それと同時にイエス様は、当時の宗教的特権階級(祭司長たち、パリサイ派の律法学者たち)の腐敗を厳しく指摘したため、また律法の解釈についての対立のため、彼等から命を狙われ、今にも捕えられ、殺されるだろうというところまで来ていました。なぜイエス様が十字架に殺されなければならなかったか、ということについてはまた改めてお話ししたいと思いますが、イエス様は、十字架に血を流し、殺されることによって私たちに罪の赦しを与え、死から復活することによって、悪魔の力を打ち破り、私たちを全く罪と死から解放して下さったのです。これは、旧約聖書に預言されている神のご計画であり、これを成し遂げるために苦難の道を進まれたのです。ところが弟子たちは、イエス様について全く異なったイメージを持っていました。彼等は、イエス様がイスラエルの王としてローマ帝国の支配を打ち砕き、ダビデ王、すなわち紀元前1000年頃イスラエルを統一し、外敵を駆逐して、イスラエルに平和と繁栄をもたらしたダビデのような王となることを願っていたのです。

 2.さて、イエス様は、過ぎ越しの祭のために、エルサレムに上りました。ここで十字     架に架けられ殺されることをイエス様は知っていました。いよいよ捕えられるその夜、最後の晩餐のあとで、次のように言われました。

 「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部のものがあなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは、三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

 

弟子たちは、何も強がって「あなたと一緒に死ぬ覚悟はできています」と言ったのでないと思います。本当にそう思っていましたし、戦いのために剣を用意したりしてもいたのです。イエス様も、「あなたがたは、怖くなって逃げるだろう」とはおっしゃったのではなく、「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます」とおっしゃったのです。いよいよ祭司長、民の長老たちから差し向けられた群衆がやってきたとき、弟子たちは、イエス様が奇蹟的な力を使って彼等を倒して下さるであろうと期待していたでしょうし、また、イエス様もそう思えばそうできたのです。

 

 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の僕に撃ってかかり、その耳を切り落とした。その時、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取るものはみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、12軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

 

と書いてあるとおりです。弟子たちは、自分たちもイエス様の指揮のもとで戦うつもりだったのです。ところが、イエス様は戦わず、捕えられ、弟子たちが戦おうとしても、それを止められたのです。

 弟子たちは、失望しました。イエス様に失望したのです。イエス様の行動が理解できませんでした。弟子たちはイエス様に戦って欲しかった。戦うことが神様の意思だと思っていました。ローマの支配から脱却することこそが神様の御心だと信じて疑いませんでした。ところがイエス様が従われた神様の御心は違っていました。「あんなに力強かったイエス様がこんなに簡単に降伏してしまうとは。」まさに、青天の霹靂。彼等はイエス様につまずき、逃げて行ったのです。「何のために仕事も捨て、家族も置き去りにして、従ってきたのか。イスラエル王国の再建を目指してついてきたこの3年間は一体何だったのか」と思ったに違いありません。

 私たちも、これこそ最善、これこそ神様の御心に違いない、神様だったらこうするに違いないと思うことがあります。私たちの思いが神様の御心と一致することもありますが、そうでないことがあります。そのようなとき、私たちはどのような反応をするでしょうか。幾つか考えられる反応を挙げてみましょう。

 

(1)「神様、私が間違っていました」といって、すぐに自分の軌道を修正する。

(2)神様のご真意を探りつつ、しばらく様子を見る。

(3)「こんなことをする神様なんて信じられない。神様が愛と善意だなんて嘘だ」と

言って、神様を否定する。

これらの反応は、Aさんは素直だからいつも(1)、Bさんは慎重だから(2)、Cさんは我が強いから(3)というように、人の性格によってタイプが決まるようなものではありません。同じAさんでも、(1)のときも(2)のときも、(3)のときもあるのです。また、必ずしも(1)がいつも一番良いとは限りません。神様の御心を探るために、待ち、様子を見なければならないこともあります。では、私たちはどのようなときに(3)のような反応をするのでしょうか。

 重病に罹ったり、大きな事故に遭ったりしたとき、愛するものを失ったときなど、一時的に神様の愛を見失うことがありますが、必ずしも神様を否定するというところにはいかないものです。ところが、自己実現や、自分の理想の実現のために神様を信じようとする心が働くとき、自己実現の道が閉ざされれば(3)の反応をすることが多いようです。また、「神様は愛なのであるから、私を幸せにしなければならない義務がある」と思っている人は、自分が描く幸せのイメージと神様の方法が違う場合に、信仰が分からなくなってしまうことがあります。

 弟子たちは、イエス様に出会い、イエス様に招かれ、選ばれて弟子となりました。その気高い人格と、奇蹟、御言葉の祝福に引き付けれられるようにして、イエス様についていきました。しかし、彼等は、イスラエル王国の再建という自分たちの理想との関わりにおいて、イエス様を見ていたようです。ですから、罪の贖いを成し遂げ、悪魔の力を打ち砕かなければならない、すなわち、十字架に殺され、三日目に復活しなければならないという、イエス様の本当のお心は弟子たちには分からなかったのです。弟子たちは、自分の理想の実現、自己実現の道が、イエス様ご自身によって閉ざされたとき、イエス様につまずきました。信じることができなくなってしまったのです。

 4.ところが、イエス様は、この弟子たちを愛し尽くされました。人は、自分を理解してくれる者だけを愛します。しかし、イエス様は、ご自分を理解しない、自らの理想との関わりにおいてしか、ご自分を見ることができなかった弟子たち、神様の御心よりも自分の気持ちを第一にする弟子たちを本当に愛しておられたのです。今にも捕えられ、痛めつけられ、十字架に架けられようとするその夜、イエス様は、自分につまずき、失望して逃げていく弟子たちをもう一度立ち上がらせることを考えておられました。これから失われてしまう信頼関係がもう一度回復されることを預言し、こう言われました。

「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」 

自分が捕えられ、十字架に殺されれば、イスラエル王国の再建という理想に燃えて自分に従ってきた弟子たちがどのようになるか、イエス様は分かっておられました。彼等は絶望し、何も信じることのできない人間になってしまうことでしょう。イエス様は、彼等に「わたしは、殺されるけれども、蘇って、おまえたちをガリラヤで待っているよ。

そこでもう一度会おう」とおっしゃいました。絶望した弟子たちが最も必要としていたことは、イエス様との信頼関係の回復です。これをなすために、ガリラヤで待っているとおっしゃったのでした。

 先ほども見ましたように、ガリラヤ地方は当時のユダヤから軽蔑されていました。エルサレムで話されているヘブル語とは違った方言を話していました。ガリラヤの方言を話していたことがもとで、ペテロはイエス様の弟子であったことが知れてしまい、イエス様を否定し、呪をかけて誓うということまでしてしまったのでした。エルサレムという場所は、ペテロを始めとする弟子たちには、いたたまれないところだったのです。彼等がイエス様の弟子として力強く生きるためには、この地で勝利をおさめる必要がありましたから、ペンテコステはエルサレムで起こりました。しかし、イエス様につまずき、絶望した弟子たちが、もう一度復活のイエス様のところに戻ってくるためには、ガリラヤでもう一度イエス様と出会わなければならなかったのです。彼らにとって、ガリラヤは信仰の原点、イエス様との出会いの場所であったからです。

 弟子の多くは、ガリラヤの漁師でした。ペテロはそのリーダーでした。ヨハネの福音書によれば、弟子たちは、エルサレムで復活のイエス様に出会っていたにもかかわらず、ガリラヤに帰り、漁師の生活に戻りました。

 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちも一緒に行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸辺に立たれた。けれども、弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べるものがありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「船の右側に網を下ろしなさい。そうすれば、何か取れます。」そこで、彼らは網をおろした。するとおびただしい魚のために網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った「主です。」すると、シモン・ペテロは主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。(ヨハネ21:3−7)

ペテロは、このとき、イエス様と初めて会ったときのことを思い出しました。 

(イエスは)話しが終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生、私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、お言葉どおり、網をおろしてみましょう。」

そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。...イエスはシモンに言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。(ルカ5:4−11)

復活のイエス様は、自分につまずき、自分を捨て、否定したペテロたちに、ガリラヤで初めて出会ったときに行ったと同じ奇蹟を示して、豊かに満たして下さったのでした。イエス様に出会った時の感動がペテロの内側に蘇ってきました。多くの魚のためすぐには動けない舟から湖に飛び込み、岸まで泳いでいきました。一時でも早くイエス様のそばに行くためでした。イエス様は、炭火をおこし、朝ご飯を用意して待っていてくださいました。そして、ご自分を否定したペテロをお責めになることなく、かえって、「主よ、私はあなたを愛しています。」と告白させて下さったのでした。

 一度傷つけられたイエス様との関係。これは、弟子たちが、自分たちの理想の実現との関わりでしかイエス様を見ることができず、神よりも、自分を中心にした生き方を$7たことによって、壊されてしまったものでした。しかし、イエス様は、この壊れた関係を、もう一度回復するために、ガリラヤで弟子たちを待っていてくださいました。ガリラヤでしか、このことはなされ得なかったのです。この地が彼らにとっては、イエス様との出会いの場、信仰の原点だったからです。

 5.もうすでにイエス様を信じている方には、小さくても自分のガリラヤがあるはずです。イエス様と初めて出会うような経験をしたところ、イエス様を信じるきっかけとなった聖書の言葉や賛美、イエス様の御名によって祈り助けられたこと、心が満たされたこと、癒されたこと、祝福されたこと。このようなものが、あなたにとってのガリラヤです。それぞれ人によって違うでしょう。しかし、たとえ小さなことのように思えても、それを大切にしていただきたいと思います。信仰が分からなくなってしまいそうなとき、あなたにとってのガリラヤ、信仰の原点に戻れることは大きな祝福です。イエス様はそこであなたを待っていてくださいます。もう一度イエス様との関係をやり直すことができるのです。

 まだイエス様についてよくわからない方もいらっしゃるかもしれません。イエス様は、自分がこれから痛めつけられ殺されようとするとき、自分につまずき、見捨て、逃げていってしまうような弟子たちとの関係を回復することを考えておられました。あなたは、このイエス様と人格的な関係を持ちたいと思いませんか。この方は、決してあなたを見放さず、あなたを捨てることはありません(申命記31:6)。あなたをどんな時も愛し、すべてを備えて満たそうとしておられるのです。

 私たちは、人生において神様の御心が分からなくなることがあるかもしれません。自分の理想とはかけ離れた方法を神様が取られることがあるかもしれません。そのようなとき、今まで目の前にあった光が急に取り除かれ、闇に覆われた所を通っているかのように感じることでしょう。人間は、神様との関係が切れてしまっていることを自覚する時、絶望します。弟子たちは、イエス様につまずき、イエス様を見捨て、否定し、イエス様との関係が断ち切れたと思ったとき、恐れ、絶望しました。しかし、イエス様は彼らに「わたしは、蘇ってから、あなたがたよりも先にガリラヤにいきます。そこで待っているよ。もう一度会おう」とおっしゃって下さっていました。今も、イエス様のこの言葉は私たちに向けて語られています。あなたが、神様との関係が切れていると感じ、何も信じられないと感じていても、イエス様は、あなたを愛し、あなたとの信頼関係、愛の関係を回復しようとして下さっているのです。あなたは、どんな絶望のなかにあっても、そこであなたを待ち、あなたに出会おうとしていて下さるイエス様がいることを信じますか。イエス様は、あなたの心の闇に光を照らし、あなたの心を豊かに満たそうとしておられます。イエス様は、今もあなたに語りかけてくださいます。「わたしは、決してあなたを見放さず、あなたを捨てない。わたしは、あなたを愛している。」あなたは、この方を信じますか。

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