「山上の説教・ 憐れみ深いもの」    マタイの福音書5章7節

                    

 今週も引き続きイエス様の山上の説教から学びます。今日の箇所はマタイの福音書5章7節です。これまでイエス様が「ああ、何と祝福されていることか」とおっしゃった八つの祝福の四つを見てきたわけですが、この前半の四つとこれから見る後半の四つは、タイプが異なっています。前半は、「霊的に貧しい者」「悲しんでいる者」「低められた者(従順な者)」「義に飢え渇く者」というように、神を求める者の幸い、何よりも神なくしては生きて行けない者に与えられる祝福を述べています。それに対して、後半は「憐れみ深い者」「心の清い者」「平和をつくる者」「義のために迫害されている者」というように、神のご性質が与えられている人の祝福について述べられています。

 神のご性質が私たち人間に与えられる、別の言葉で言えば、神のご性質が私たちの中に形作られていく、ということの祝福をイエス様は教えておられるわけです。その一つ一つについて見ていきましょう。今日は7節です。

 憐れみ深いものは幸いです。その人は憐れみを受けるからです

 1.これまでと同様、この聖書の言葉にも、私たちが日常ではあまり使わない言葉が出てきています。「憐れみ深い」という形容詞や「憐れみ」という名詞、動詞では「憐れむ」ですが、日常のコンテクストの中ではあまり使われません。使われたとしても、あまり響の良い言葉としては意識されていないように思います。例えば、「花子は太郎を憐れんだ」というと「花子は太郎のことを『ああ、なんて可愛そうな、惨めな人なの』と思った」というような意味で、「見下す」という意味が加わっているようです。また、「憐れまないでよ」などという反発の言葉として用いられることがよくあります。ですから、聖書での「憐れみを受ける」という言葉は祝福の言葉であるにもかかわらず、日本語的な理解では、「私は、憐れみなんか受けたくない」という反応が出てくるかもしれません。ですから、この聖書の言葉を理解しようとするならば、原語でどのような意味の言葉が使われているかを理解する必要があります。

 ここで使われているギリシャ語の言葉は、elehmoneVという言葉で形容詞の複数主格です。名詞の単数主格はeleoVで、動詞はeleawとなります。eleawとは'to show kindness or concern for someone in serious need' と辞書にあります。「可愛そうな人だな」と突き放して見るようなものではなく、具体的行動をもって、必要を満たす行為のことをeleoV「憐れみ」というのです。

 さらに、eleoVは、ヘブライ語のrahamimとhesedという二つの言葉の意味を含むものだとの説明が聖書辞典にあります。rahamimとは「胎」を表わす言葉からの派生語ですが、イザヤ書に「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子を憐れまないだろうか」(49:15)という言葉があります。これを見ると、ここで言う「憐れむ」という言葉が「可愛そうに思う」とか「惨めな奴だと思う」という意味でないことは明白です。詩篇の103篇にも「父がその子供を憐れむように、主は、ご自分を恐れるものを憐れまれる」という言葉ありますが、やはり、この憐れむは「可愛そうに思う」ということではありません。端的に言えば、親が子供を自分の命と同じように扱うとか、自分の命と同じように大切にするという意味です。子供が他の子に苛められたり、怪我をしたり、ひどい病気に罹ったりしたら、親はたまりませんね。母親の中には、どうしたら良いかわからなくなってしまうほど取り乱してしまう人もいます。親の子供に対する愛情というものは理性で測れるようなものではないからです。それ程までに自分の体のように愛することをこの言葉は意味しています。

 聖書は、神の人間に対する愛、rahamimは、母親の子供に対する愛以上のものだと述べています。先程のイザヤ書の言葉には「たとい、女たちが忘れても、このわたしは忘れない」という言葉が続きます。「母親は決して子供のことを忘れない。しかし、もし母親が自分の子供のことを忘れるようなことがあったとしても、このわたしは、あなたを忘れない」とおっしゃっていてくださいます。子供に食べ物を与え、服を着させ、危険から守り、怪我をしたときには薬を付け、病気になったら、自分の布団にいれて看病するのが親の姿です。神の私たちに対するrahamimは人間の親以上のものだと言っているのです。

 一方、hesedとは「不変の愛」と訳されますが、これは契約に基づく愛で、神がアブラハムに「私はあなたとあなたの子孫を祝福する」とご自分にかけて誓われたことによるものですが、神は、この誓いの言葉によって、見捨てられても仕方がないようなイスラエルに対し「わたしは決してあなたを見放さず、捨てない」と語りかけ、守り、祝福の道へと導いて下さるのです。

 このように、eleoVは神の愛のご性質であって、決して絶えることのない愛、変わることのない愛をもってわたしたちをご自分の体の一部のように大切に取り扱って下さるということです。ですから、「憐れみ深い者は幸いだ」というとき、このような愛を与えられ、他の人に流すことができるものは幸いだということです。この愛は、心のなかの優しさとか口先のことではありません。イエス様が「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とおっしゃるとき、行いと真実を持って愛することを求めておられるのです。「あなたが自分に対して行うように、あなたの隣人の必要を満たしてあげなさい」ということです。そのとき、「ああ、何と祝福されていることか」という世界があなたに広がるとイエス様は教えておられます。

 2.「その人は、憐れみを受けるから」とありますが、これは「神からさらに多くの愛を受けることができるから」という意味です。

 皆さんの中に、マザー・テレサのところに行って奉仕をしたことのある人がいますが、親に捨てられた子供たちの世話をする仕事を割り当てられたそうです。もう本当に祈らなければやって行けない毎日だったと聞きました。子どもたちに皮膚病を移されて逃げて帰りたくなくなるような状況で、愛を注がなければならない。しかし、親に捨てられた子供の心の痛みを満たす愛は自分にはない。「自分にはできません。神様、あなたの愛で満たしてください」と毎朝必死で祈って過ごしたということでした。帰ってきたお二人を見て、本当に顔が輝いていましたね。それは、子供たちに祈りながら愛を流していたお二人に、さらに多くの愛が神から注がれていたからです。何と幸いなことだったでしょうか。

          筆者が滞在したパプア・ニューギニア風景

私にも似たような経験があります。パプア・ニューギニアに行ったときのことですが、2回現地(ジャングルのなか)に滞在しました。1回目は4か月、2回目は2か月です。言語調査が公の仕事でしたが、伝道したいと思って行きました。ところが、現地にはマラリアがあります。罹ると死の危険があります。私は毎週飲む予防薬を持っていましたが、現地の人もマラリアの発作が起こったときは、その薬が欲しいわけです。

 私は、自分に必要な分と、現地の人に分けてやっても良い分を計算しながら分けてやっていました。でも、そのとき、私は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言われたイエス様の言葉に従っていない自分を認めざるを得ず、自分の偽善性を突きつけられました。現地で肋骨を折っても誰の助けも得られなかったことや、生活の大変さや、村人との行き違いなどもあって、二度と来たくないと思いオーストラリアに帰りました。不思議ともう一度行かなければならなくなりましたが、そのときは「自分が持っているもので彼等が必要としているものをすべて与えることができるように、私を強めてください。彼等を愛することができるようにしてください」と半年間祈って現地に入りました。そして、自分の持っているマラリアの薬の数を数えずに現地の人に与えることにしました。しかし、このとき、不思議な世界が開かれました。祈りによって多くの人々がマラリアから癒されていったのです。祈りながら手を置くだけでマラリアの熱が引き、熱が戻ってこないということが次々と起こっていきました。マラリアだけでなく、皮膚病や、ギックリ腰、肺病そのほか様々なことについて癒しを目撃しました。

 私は、自分に愛のないことを知っていましたから、神の愛を求めました。そして自分の持っているもので彼等の必要としているものを一緒に使える人間になりたいと願いました。これは神の愛がそうさせて下さったのです。そのとき、豊かな、溢れるばかりに豊かな神の霊の世界が開けて、驚くような奇蹟が次々と起こっていったのでした。イエス様が「その人は憐れみを受ける」とおっしゃいましたが、私は、神の豊かな豊かな憐れみの世界を垣間見ることができました。癒されいった村人たちも恵まれましたが、一番恵まれ、主の憐れみを受けたのは私だったと思います。

 3.イエス様は「憐れみ深い者は何と祝福されていることか。その人は憐れみを受けるから」とおっしゃいましたが、「憐れみ」と言われるこの愛は、先程も見ましたように、「上のもの(親)が下のもの(子供)を自分の命のように大切に扱う愛、変わることのない愛」という意味です。この愛は、神のご性質です。聖書は神の愛を例えるのに人間の親がその子供を愛する愛を用いていますが、これは、神が私たち人間をご自分の子供として愛しておられるということを意味しています。神は私たちをご自分の命のように愛して下さっている。これが聖書の主張です。イエス様は私たちに対する神の愛を示すため命を捨てて下さった。それ程までに神は私たちを大切なものと見てくださっているのです。私たち一人一人は、神の目にはイエス様の命と同じだけ大切なものなんです。そのように神は私たちを愛して下さっています。このことを私たち一人一人がもっと知ることができるようにまず祈りたいと思います。

 そして、私たちはイエス様から受けた愛で隣人、友人を愛していく人間に変えられたいですね。聖書のなかに次のような言葉があります。「愛は、神から出る。」「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれている。」また、パウロは御霊の実として「愛」を第一に挙げています。これらのことから、「愛」は、神から人間に与えられるものであることが分かります。私たちが自分の隣人や友人に流していく愛も、神から戴くものだということです。ですから、自分を見て「ああ、私は何と愛の薄い人間だろう」と思うことがあっても、そのことで意気消沈する必要はありません。神は、それを御存じの上で、私たちに愛を注いで下さるのです。そして、溢れるばかりに愛を注いで、御自分と同じ姿に造り変えて行って下さるのです。

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