魚がわき、貝がわく。

干潟保全は世界の動き


千葉の干潟を守る会  牛野くみ子



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◆将軍家の台所

 東京湾の最奥、市川市と船橋市の地先に広がる干潟と浅瀬、これを三番瀬(さんばんぜ)とよびます。その昔、家康の時代は、将軍家の台所を賄う御菜浦(おさいうら)で船橋浦(谷津村境より浦安の堀江村)として知られたところです。
 海の中に字西浦、字高瀬、字三番瀬というあざながあり、西浦と高瀬は埋め立てられて地名となり、現在、海の中に字名があるのは三番瀬だけです。一番瀬、二番瀬はあったかどうかわかりません。
 東京湾の埋め立ての歴史は古いのですが、三番瀬埋め立て計画、正式には市川二期地区、京葉港二期地区の埋立て計画が出てきたのは約30年ほど前からです。その後、千葉の干潟を守る会の「埋立て中止と干潟保全」の国会請願(1972、73年)が通ったことやオイルショックもあり、三番瀬埋め立ては凍結されていました。
 が、中曽根内閣の民活路線で最浮上してきました。そのときの計画は、市川二期(市川側)が470ヘクタール 、京葉港二期(船橋側)が270ヘクタール 、合計で740ヘクタールでした。故石川敏雄先生(千葉大学名誉教授)の提唱で、96年2月より始めた署名運動は、今年(99年)の4月で19万5000人に達し、県に提出しました。その結果、県は今年(1999年)の6月、当初計画の7分の1にあたる101ヘクタールの見直し縮小案を発表しました。この101ヘクタールという数字は、三番瀬と2キロしか離れていないラムサール登録地(注)の谷津干潟の2.5倍もあり、縮小されたとはいえ容認できません。
 今年の5月、コスタリカで行われたラムサール条約締約国会議では、「潮間帯湿地保全の決議」が採択されています。いまや、干潟保全は世界の動きなのです。現在、三番瀬計画は、県の計画策定懇談会で策定中です。



   (注) ラムサール登録地……1971年、イランのラムサールでの会議で採択された「特に水鳥
                の生息地として国際的に重要な湿地にかんする条約」をラムサ
                ール条約といいます。加盟国は最低1カ所の湿地を登録し、そ
                の保全に努めなければなりません。




◆海はみんなのもの

 習志野市袖ヶ浦(ここも埋め立て地)に31年前越してきた当時、家の前は海でした。下町生まれの私にとってこんなうれしいことはなく、引っ越し荷物もそのままに、2人の子どもと一緒に毎日、海に入っていました。7月20日の終業式を待って引っ越してきたので、3日ほどたって市役所へ転入届を出しに行き、怒られたのにはびっくりしました。「なぜ、学校にやらないのか」と。当時、千葉県は25日まで1学期だったのです。
 みそ汁の実になるアサリを採ったり、夕焼けに染まる富士を眺めたり、広い海と遊んでいると心が豊かになりました。しかし、3年ほどして、ここも埋め立てられることを知りました。漁民がもう漁業権を放棄してしまった以上、しかたがないとあきらめていたときです。「海はみんなのものです。埋め立てないでください」という声を聞きました。1971年に結成された千葉の干潟を守る会が、第1回の自然観察会をうちの前の海で開いた時のことです。目からうろこが落ちた思いでした。海は漁民のものと思っていた私は、「みんなのもの」という声に目が覚めました。そして、早速、入会しました。
 自然観察会では、サルボウとアカガイの見分け方、カニの種類、鳥の名前などを教えてもらいました。知らなかったことが分かってくるというのは、いくつになってもうれしいものです。そして、知るということで、その生物に愛情が生まれてきます。この小さな生きものを絶対生き埋めにさせてはならないと思いました。
 干潟を守る会ではビラ撒きをしたり、署名活動に走りました。当時の友納千葉県知事は、「あんたがたのために埋め立ててやった。東京の流れものが何を言うか」といいましたが、「千葉に住んで千葉県のことを思うから、これ以上の埋め立てはしないでほしい」と申しました。埋め立て地に住みながら、埋め立てに反対はできないというのが、多くの人の気持ちでした。


◆谷津干潟の誕生

 「埋め立て中止と干潟保全」の国会請願は通ったものの、「現在進行中のものは除く」という付帯事項がついていたため、目の前の海は埋め立てられてしまいました。その様子を眺めながら、「海は埋立てられても、私たちの心までは埋立てられないぞ」という皆の気持ちが次の運動へとつながりました。
 県知事の権限のおよばない大蔵省水面が残ったことで、そこを自然教育園にするよう運動をしました。そして、それは谷津にあるから「谷津干潟」と命名しました。1986年の国土地理院の1万分の1の地図に「谷津干潟」と載ったときは、みんなで大喜びをしました。「大蔵省水面」なんて言いにくいですよね。運動の結果、88年11月、谷津干潟はやっと国設鳥獣保護区となり、93年、ラムサール登録地になりました。


◆自然がいっぱいの三番瀬

 冒頭、三番瀬は将軍家の御菜浦としてその名を誇ったと書きましたが、それだけ魚介類が豊富なのです。ですから、漁場争いが絶えなかったようです。現在でも、漁師さんたちは、魚や貝がたくさん採れることを、“魚がわく”“貝がわく”と言います。
 三番瀬の干潟と浅瀬は東西4キロ、南北3キロ(1メートル以浅)あり、底生生物の種類や数量は1メートル前後が最高です。それは、浅瀬は日の光がよく入るので、酸素が豊富だからです。大きな魚もみんな浅瀬で育っていくのです。
 主な貝はアサリ、シオフキガイ、バカガイ、アカニシで、ナギナタホウズキはアカニシの卵のふくろです。ウミホウズキの親はテングニシですが、東京湾からこの貝は姿を消しました。カニの仲間では、マメコブシガニ、オサガニ、チチュウカイミドリガニ、ユビナガホンヤドカリで、マメコブシガニは前に向かって進んでいきます。あまのじゃくなんでしょうか。
 魚類はマハゼ、サッパ、ボラ、イシガレイ、アナゴなどで、これらは主に築地の料亭に上がっています。その他の動物はゴカイ、タマシキゴカイ、ヒトデなどで、タマシキゴカイの糞はまるでケーキのモンブランのようです。
 これらの動物を求めて渡り鳥がたくさんやってきます。とくに冬場は、スズガモが10万羽もやってきます。餌であるアサリやホトトギスガイが豊富だからです。春は、オーストラリアから渡ってきて繁殖のためシベリアやカムチャッカに向かうシギ・チドリ類が三番瀬で休憩します。ハマシギやダイゼン、メダイチドリなど、これらのお客さんをいつまでも迎えたいものです。


◆時代は変わる

 三番瀬は現在、マスコミに毎日のようにとりあげられています。こんなこともあって、三番瀬保全の署名をお願いすると、「三番瀬の干潟って13万人分の水質浄化をしているのでしょ。オーストラリアやニュージーランドから渡り鳥がくるんでしょ。東京の近くで潮干狩りができるなんて、絶対残さなくてはね。海がなくなると、ヒートアイランドになるでしょ」など、こちらが言う前に相手方からこう言われます。うれしいことです。
 習志野の埋め立て反対をした時、『干潟(ひがた)を守る』(千葉の干潟を守る会の機関紙)をあげると、たいていの人が「かんたくを守る」と読んだことを思い出します。現在は、干潟という言葉もその存在も、社会的認知をされています。少しずつですが、世の中が変わってきていると思います。
 とくに今年に入ってから、三番瀬の案内が増えました。千葉県弁護士会や日弁連、中学の先生、公民館活動の人々といろいろですが、三重県の島ヶ原中学の生徒さんには驚きました。東京への修学旅行のコースの一つに加えていたのです。聞けば、成田の空港問題、東京日の出のゴミ問題、HIV薬害問題を生徒さん6人ずつでとりくんできたのです。意識の高さに敬服しました。


◆美しい東京湾を

 これからの運動の進め方ですが、署名運動は古いやり方だと言う方がいますが、一人ひとりの意思表示です。県が計画を撤回するまで署名を続けます。縮小案が出たことで、それでも容認はできないと新たな署名も始めました。
 2年前に起きた諫早湾の潮受け堤防閉め切りの映像はショッキングで、多くの人に干潟保全の声を上げさせました。
 私たちは、今ある干潟を保全すること、そしてその上で、今まで傷つけてきた東京湾の回復をはかっていくことが大事だと思っています。そして、東京湾をラムサール条約に指定してもらいたいと思っています。
 千葉の干潟を守る会に入って28年。ここでいろいろなことを学びました。そして学んだことは、さまざまな会(ゴルフ場問題、廃棄物問題、教科書問題、食の問題)に広がりました。干潟を守る会は、私にとっての大学です。が、いったい、いつ卒業できるのでしょうね。

(1999年11月)




    【追記】埋め立て計画の白紙撤回を求める署名は、1999年12月現在で22万に達しました。

         (注)本稿は、『女性のひろば』1999年12月号に掲載されたものです。





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