潟本来の自然の力による

  ヴェネチア・ラグーンの湿地環境再生事業


碇 山 洋(金沢大学経済学部助教授)



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 アドリア海奥部に面するラグーン(潟)のなかに建設されたイタリアの都市ヴェネチアは、世界的な芸術都市、観光都市として知られている。ヴェネチアの存立基盤は、歴史的にも、また現代においてもラグーンの自然環境であるが、近年、ヴェネチア・ラグーンは深刻な環境問題を抱えており、ヴェネチアは存立の危機に直面している。
 ヴェネチア・ラグーン(面積約550平方キロメートルで現在、急激に進行している環境悪化の第一は、加速度的に進行する浸食である。堆積物が海へ流出しつづけており、ラグーンを構成し特徴づける諸要素すなわち澪筋・浅瀬・干潟・塩水性湿地が失われつつある。第二の問題は、深刻な水質汚染である。
 このふたつの問題は、相互促進的・悪循環的な関係にある。ラグーンの水底が平らになることによって水の流れが緩慢になり、淀みが生じ、富栄養化が促進される。富栄養化はアマモなど根を張る水生植物の成長の障害となり、いっそう浸食が進行しやすくなる。
 ヴェネチア・ラグーンの環境に大きな変化をもたらしたのは、つぎの三つである。@ラグーン内に建設されたポルト・マルゲーラ工業地帯への船舶の航路確保のために、大規模な浚渫が行われたこと。A工業地帯拡大のために行われた干拓・埋立。B工業地帯のための地下水汲み上げによる地盤沈下と水底の沈下。さらに集水域内での都市化の進展、農業の近代化が、ラグーンの環境悪化をいっそう深刻にしている。
 河口の位置の変更などの人間の諸活動によって、ラグーンに運び込まれる堆積物の量が激減しつつある一方、ラグーンから外海へ堆積物が流出しており、ラグーン環境は崩壊に向かいつつある。とくに顕著なのは、塩水性湿地の消失が加速度的に進行していることだ。1901年には90平方キロメートルあった塩水性湿地は、現在では47平方キロと、ほぼ半減している。干潟の消失も急速に進んでいる。全体として、ヴェネチア・ラグーンは、その本来の地形的特徴を失いつつある。
 いったんこのような浸食のプロセスがはじまると、それは自己再生産的・加速度的に進行する。浅瀬が深くなると波の動きが大きくなり、いっそうの浸食につながるのである。
 ヴェネチア・ラグーンの湿地環境再生事業の準備段階では、新ヴェネチア協会(NGO)を中心に、徹底的な調査・研究・実験が行われた。ラグーンの各構成要素(澪筋、浅瀬、干潟、塩水性湿地など)の形成過程と構造、それらの性質と組成、つねに変化の過程にあるそれら諸要素間の関係、水底の土壌、堆積物の生化学的特性などが研究された。その結果、地形再生によって環境再生を実現する戦略が採用されることになった。ラグーン本来の地形を再生することが、生態系を回復させ、生態系による水質浄化につながると判断されたのである。とくに重視されたのは、集水域からラグーンへの堆積物の流入量、ラグーン内での堆積物の移動量、ラグーンから外海への堆積物の流出量の推計で、その推計にもとづいて湿地環境再生の中心となる地形再生計画が立てられた。
 地形再生事業の中心は、干潟と塩水性湿地の再生である。干潟・塩水性湿地の再生においては、いわゆる「柵(しがらみ)方式」が重視されている。杭を打って干潟や塩水性湿地を再生するべき場所をかこみ、堆積を促進したり、波による浸食を防ぐのである。この方式では、すべての構造物は天然の材料でつくらなければならないことになっている。木の杭(おもにクリ材)、粗朶束、砂が利用されるが、岩石の使用は認められていない。規模の大きいものでは、約2万5千メートルのしがらみで囲い込まれ、約270ヘクタールの塩水性湿地(水深20〜100センチ)が再生されつつある。
 また、ラグーン外からの浚渫物を利用しての干潟や塩水性湿地を再生する事業も行われている。注意する必要があるのは、浚渫物の利用が、厳密な科学的裏付けをもって行われていることである。つまり、大深度航路の浚渫や干拓・埋立など、人間活動の影響によってラグーンから外海に流出した堆積物の量を推計し、その量を外海からラグーン内にとりもどすかたちで、浚渫物利用による干潟の再生が行われているのである。むやみに浅瀬の埋立を行っているのではなく、「人間の手が加わらなければ形成されていたはずの干潟・塩水性湿地を再生する」という基本的観点が守られることが重要である。
 ヴェネチア・ラグーンの湿地環境再生事業は、まだ実験的性格をもったものであるが、いくつかの教訓を私たちに与えている。それは、@生態学を中心に地質学、化学、物理学など関係するあらゆる分野の学際的研究によって環境悪化の原因を総合的・科学的に解明しようとしていること、Aその結果、「ラグーン本来の地形」をとりもどすことを、環境悪化をくいとめ湿地環境を再生するカギに位置づけたこと、Bプロジェクトの実験的性格を明確にし、フィードバックを保障していることなどである。
 自然環境の保全・再生は自然の力にまかせるしかないこと、人間にはそのプロセスを支持し援助することが求められていること、したがって、環境再生は成功裏にすすんでも長い時間がかかることを、ヴェネチア・ラグーンの経験はしめしている

(1999年9月)




ヴェネチア・ラグーン




    (注)本稿は、碇山氏が「'99 国際湿地シンポジウム in 三番瀬」
     (1999年9月25日開催)のために執筆してくださったものです。









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