わが谷津干潟今昔


大浜 清



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■そこには潮の香りがあった

 東京湾の埋立地はとにかく広いのである。私の住む習志野市の前面だけでも800ヘクタール余り、沖合3〜4キロメートルに及ぶ。狭い市のことだから、「市の面積は1倍半になります」とわが市長殿は胸を張るのである。しかし、歩いても歩いてもはてしない、その広さの中に立つとき、破壊された自然、うばわれた権利の何と大きかったことか、という思いが、一足ごとに私の中につき上げてくる。そして足元の砂地に真っ白に散らばる貝がらは、生き埋めにされた無数の生きものたちのうめきを伝えてやまない。

 昔の海岸線は千葉街道にほとんど接していた。海側は一並びか二並びの家だけで、町並みを過ぎると、道の北側は見事な里松林の台地、南側は見わたす限り干潟が展開するのであった。そこには潮の香りがあった。

 船橋から東へ習志野、千葉にかけて、昔の名でいえば、谷津、久々田、鷺沼、幕張、検見川、稲毛、黒砂、出洲といった海岸はこうした風景の連続であって、東京で育った人ならばたいがい、これらの地名の中に子どものころの潮干狩の思い出をひろい出すことができるのではないだろうか。

 また、このあたりの海岸は、同じ東京湾内各地とともに、全国に名だたる浅草ノリの産地であった。冬になると干潟一面にノリひびが立ち並ぶ。竹ざおを林のように立てて網をはり、干満のたびに水面から出たりかくれたりするようにして、ノリの胞子を付着させるのである。採ったノリは木わくで四角い形にととのえ、すの子で乾かす。漁師には寒中のつらい作業だが、私たちには毎年待ち遠しい味覚であり、風物であった。ぷうんと香ばしく焼けた新ノリの匂い、それにもましてとりたでの生ノリを酢じょう油やわさびじょう油にして口に含んだときの舌にひろがる味は、江戸前ならではの海の幸であった。

 昭和41年、習志野市に第一次埋立が始まって、袖ヶ浦団地という三、四千戸もある住宅地が作られたが、そのときはまだ事情はあまり変わらなかった。何しろ東京湾の干潟は広かったから。団地の前面には依然として広々とした遠浅の海があり、潮干狩のシーズンともなれば、以前にもまして、子どもたちのはしゃぎまわる声があふれるのであった。乳母車を押しながら団地の主婦が貝を掘る、などという姿は習志野ならではの風景であった。

 だから、第二次埋立の話がおこって昭和45年の末に漁民が漁業権を放棄してしまったときも、こんなに根こそぎ埋立になろうとはほとんどの市民が気づかなかった。私もその一人であった。


■埋立反対に立ち上がる

 「いま埋立に反対しなければ、東京湾の干潟はなくなっちゃうんじゃないですか」

 昭和46年に入って間もないある晩、そういって私を巣から引っぱり出しにかかったのは、蓮尾純子さん(当時古川姓)と松田道生君という2人の大学生であった。そのころ私は日本野鳥の会に入って、はじめて知った野生の世界にただただおどろき、感動し、夢中であった。蓮尾さんは、全国でも1、2を争う野鳥の渡来地であった市川市行徳から浦安町の海岸が埋め立てられようとしたとき、開発反対に立ち上がった「新浜を守る会」の中心メンバーである。

 その昭和42年、国中が高度成長に酔っていた。不幸にして漁民も漁業の行く末に希望を失い、「開発」信仰にとらわれていた。「野鳥は漁業の敵」とののしられ、女子高校生であった蓮尾さんも何度か漁民にとり囲まれたという。そんな中で蓮尾さんたちは1000ヘクタールの野鳥生息地保存を要求し、80ヘクタールの特別保全地区を作らせることに成功した。それは、自然保護運動が大規模開発に向かって始めたたたかいの先駆として、全国に大きな影響を与えたのだった。しかし蓮尾さんは、こう私にいったのである。

 「私たちが獲得した保護区は、開発側の免罪符だったんじゃないでしょうか。私たちはもう埋立そのものをやめさせる運動をしなきゃいけないんじゃないでしょうか」

 それは、私にとって全くちがった人生への出発であった。

 子どものころから40過ぎまで住んできた千葉県だったが、何一つ知らぬにひとしかった。市役所に行ってみた。干潟どころではない。新しい埋立地の先は水深十教メートルの港湾地域だというではないか。千葉県は、江戸川河口から富津岬まで80キロの間、1万5000ヘクタールを埋め立てるのだというではないか。

 その年の3月28日、仲間が集まった。学生、大学教授、保育園長、主婦、自動車修理工、警察官、かくいう私は出版社員……。17人だった。会の名は「千葉の干潟を守る会」に衆議一決した。

 ちょうど潮干狩の季節が始まろうとしていた。私たちはビラを作り、市民や潮干狩客にまいた。大筋はこうである。

 「埋立が始まるということです。“さよなら潮干狩” 海はもう私たちみんなの海ではなくなってしまう。それでいいのでしょうか。このまま埋め立てられたら、千葉県の干潟はほろびてしまいます。東日本のどこを探しでも、代わりになる場所はもうないのです」

 広い干潟の海は、プランクトン、海藻、ゴカイ、貝、エビ、カニ、魚類、鳥類……数えきれぬ豊富な生きものを養い、人間をも養ってきました。江戸前というのは生きのいい魚の代名詞だったではありませんか。彼ら無数のいのちを私たちは生き埋めにしようとしているのです。私たちは忘れているのではないでしょうか。人間は海を汚してばかりいるが、海をきれいにしているのは海の生物なのです。

 海と大地とは、人間にとって母のようなものでありました。私たちはそのふところで、心とからだを育て、やすらぎを求め、学んできたのです。私たちは、そして未来の子どもたちは、ふるさとの海を失おうとしているのです。

 土の干潟は港に、工場に、コンクリートの町に変わろうとしています。私たちの目には明日の東京湾のドブのような姿が、ひしめく船が、悪臭の空が、過密の町が浮かびます。
 『人間を守るために、まず自然を守れ』 これが私たちの叫びです。これ以上、東京湾を埋めないで下さい。一緒に立ち上がって下さい」

 “さよなら潮干狩” 電鉄会社の盛んな宣伝もあって、その5月、私たちの町は遠来の客であふれた。海岸をびっしり埋めた自家用車やバスは近県のものばかりではなかった。群馬、長野、新潟、福島……。海のない県、海はあっても干潟のない県の車が行列していた。

 私たちは県、市議会に埋立中止の請願署名を出した。実働1週間だったのに署名は1万を超えた。全く未知の主婦が、一戸一戸歩いて500人もの署名を集めて届けてくれた。しかし小差とはいえ結果は無残だった。

 市議会の不採択理由は「一事不再議」、県議会は「習志野と幕張では計画がちがうからしというのである。
 知事に会いに行った。と、彼はこういった。
 「漁民が困っているから埋めてやるのです」
 習志野市選出の保守党県議はこういう。「東京湾岸地域はもう住む所じゃありませんなあ」
 そこで主婦のOさんがいった。
 「請(こ)い願わなければ国民の声は届かない。誘い願っても紙くず同然。何が民主主義ですか。政治家こそ、行政側こそ、意見をきかせて下さい、こうさせて下さいと、国民に請い願うべきだろうに」


■まだ自然は生きている

 昭和47年の正月明けのある朝、工事船は海からやってきた。海岸に沿って杭が打たれ、矢板が並び、見る見る海は囲いこまれて行った。やがて縦横に敷設されたサンドパイプから、沖で浚渫(しゅんせつ)された黒いヘドロが吐き出され、ついに干潟は埋められて行った。

 負けてもともと、私たちが反対しなければ東京湾にはひとかけらの干潟も残りはしないのだ、と思ってみても、現実に打ちひしがれる日もないではない。まして一般の人々のあきらめは早い。しかし、そんな時に運動を支えつづけたのは、ウィットと夢と、そして愛情──子どもと生きものへの思いではなかったろうか。

 子どもの怒りのまなざしが「埋立反対」と叫んでいるポスターが作られると、たちまち「寄り目のハゲ坊主」というあだ名がついた。そのポスターをベニヤ板にはり、ひもをつけ、1枚50円で買ってもらおうという作業を続けたのは主婦たちである。こうして袖ヶ浦団地の2000戸の窓から「寄り目のハゲ坊主」が埋立反対を叫ぶこととなった。

 ふたたび5月が近づくと「怒りをこめてアサリをとろう」というスローガンが登場した。埋立工事区域の囲いをのり越えて、潮干狩をやろうというのであったが、残念なことに、これはカドミ・アサリ事件のおかげで流れてしまった。

 そんなある日、主婦のOさんが叫んだ。
 「こんなに海原を埋めつくしちゃったんだもの、せめて、そっくり草原にして返してもらおうよ」

 みんな思わず笑ってしまったが、胸にその言葉がささって残った。そうだ、まだやることはたくさんある。谷津遊園の前にたまたま国有地だったばかりに埋立が遅れて残った水面があった。周りは埋立地に囲まれ、砂地はヘドロにおおわれて、貝類はいったん、全滅してしまったが、幸いカニ類やゴカイは健在だった。そして今や行き場のなくなった水鳥たちは、このわずか48ヘクタールの水面に密集してきた。

 昭和48年に各地の干潟の仲間が協力して始めた「全国干潟鳥類一斉調査」によれば、何とここは全国一のシギ、チドリ類の渡来地になっているではないか。お役所は「大蔵省水面」などと呼びはじめているらしかったが、私たちは私たちの名で呼ぼう。ここはもともと想い出深い「谷津干潟」と呼ぼう。そして、この水面を中心にした「谷津干潟自然教育園」を作る運動をしようではないか。

 運動は第二段階に入って、新しい青年たちが加わってきた。新たな署名運動が始められた。谷津干潟保存運動は東京湾岸道路反対運動と手をつないで展開された。「谷津干潟自然観察会」は月例となり、これまでに50回近くなる。子どものころの想い出をパノラマに描いた森田三郎君も、このころ運動に入ってきた行動的な土地っ子である。彼は夏の埋立地をしらみつぶしに歩いて、シロチドリ、コアジサシあわせて5000余の巣がいとなまれていることをつきとめた。


■未来の子たちへの贈りもの

 東京湾岸道路に3分の1をもぎとられて、いよいよ周辺の環境はきびしくなった谷津干潟だが、アサリをはじめとする二枚貝がよみがえり出したのはうれしいかぎりである。そして今年の夏、天はすばらしい贈りものをしてくれた。埋立地の水たまりのほとりの砂地で、セイタカシギのつがいが4個の卵を抱きはじめた。日本での抱卵は名古屋郊外の鍋田干拓地に次ぐ記録である。6月末、4羽のひなは次々に殻を破って出てきた。茶色の毛まりのようだったひなは見る見る大人びてゆき、1カ月後、空に舞い上がった。白い胸、黒いつばさ、ほっそりと長いピンク色のくちばしと脚をもつ優美な貴公子一家6羽は、8月はじめ南の空に旅立って行ったらしい。

 私たちは国が約束した谷津干潟の鳥獣保護区指定を一日も早く実現させたい。同時に、干潟につづく埋立地の草地を鳥たちのために、とりもどしてやりたいと運動している。市はこれまで決して私たちの味方ではなかった。しかし、理解してほしいと思う。水面と草地を残すこと、これは未来の子どもたちへの最大の増やものなのではなかろうか。

(1978年12月)





※『毎日グラフ』1978年12月24日号に掲載





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