東京湾の干潟を守る運動26年


大浜 清



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■「千葉の干潟を守る会」結成
  ─埋立て反対に集った17人─

 1971年3月28日、私たちは東邦大学の一室に集まった。総数17人だった。半数が東邦大学の学生だった。社会人のうち地元習志野市民の私が、否応なしに代表に押し出された。

 前年(1970)の12月に習志野市漁協は漁業権放棄を決定していた。引き続いて埋立計画の承認を市議会と市長が決定していた。市役所をたずねて、今回の埋立計画で干潟はどのくらい残るだろうかと聞くと、「干潟? 何を言ってるんですか。干潟なんぞ残りゃしませんよ。護岸の先は水深6メートルから、12、13メートルですよ」
 知らなかった。市民でありながら、たったの1平方メートルも干潟が残らぬなんて。

 のちに、東京湾埋立てと追われてゆく漁民の姿を記録した北原龍三さんの写真集『海よ、黙っているな』によせて、私はこう書いた。
 「春の大潮の日、潮干狩に出れば、陸の家々ははるかに霞(かす)んでいて、見渡す干潟は泥と水しぶきと笑い声をはねちらす子どもたちの群また群であった。人に驚いて立ちさわぐ数千のシギやチドリが風音を立てて頭上を舞うのであった。冬ともなれば一面に立ち並ぶノリヒビが、あの香ばしいアサクサノリを私たちの食膳に送ってくれるのであった。満ち潮とともに『江戸前』の魚たちは勢いよく岸辺をさして泳いでくるのであった。これが『私たちの東京湾』であった。」

 私たちの原風景が影も形もなくなるなどとは、広報には1行たりとも書いてなかった。千葉県開発庁は浦安の江戸川河口から富津岬の先まで80キロメートル、旧海岸線から約3キロ、浦安では4〜5キロの沖まで、1万52000ヘクタールの埋立地で埋めつくそうというのであった。動き出してみて初めて知る事実の重さに、私たちは愕然とした。

 討論は熱気のうちにまとまった。会の名は、私の提案した「千葉の干潟を守る会」に一決した。そして運動の主体は、ここに集まった鳥好き、自然好きの仲間だけではなく、市民全体でなければならぬ、私たちは市民に事実を知らせ、市民の心に火をつけなければならぬと。また会員はすべて同じチーム・メイト、ひとしい権利と役割を持つべきで、代表以外の「役員」は置かないと。

 議論がひとわたり終ったとき、それまでじっと聞いていた人が立ってこう言った。
 「私はさっき自分の職業を名のらなかった。けれどもこのまま黙っているのは恥ずかしいし、申し訳ないから言います。私の職業は警官です。ですが、もし皆さんがよかったら、私を市民として仲間に入れて下さい」
 私たちは驚いた。しかし一瞬のちに腹をきめた。拍手がおこった。
 この人は、私たちの裏方として、およそ運動のやり方に無智であった私たちに、ビラまきや署名運動やデモのやり方と心得、場所の選び方や届け出のやり方などをコーチしてくれた。1年後、彼は千葉県で私たちから最も離れた地に転勤となった。行く先々で、彼は「鳥のおまわりさん」として自然保護に活躍した。定年退職後の今も信頼厚い仲間である。鈴木藤蔵さんという。

 石川敏雄さんとも、この席ではじめて名のり合った。彼もあの新春新浜探鳥会に参加した一人なのであった。「私の心の師は中西悟堂先生です」と彼は言った。「これ以上、人間が地球と生きものたちに横暴を働くのに、黙ってはいられません」と。彼は、当時すでに千葉大工学部助教授であったが、学者面をすることは一度もなかった。あくまで一市民としてそれからの千糞県下の自然保護運動の先頭に立った。

 私たちは直ちに行動を開始した。4月初旬、県知事あての最初の陳情書を提出した。
 市民はと言えば、私たちが最初に訪れた習志野市袖ヶ浦団地の自治会は、海に面しているにもかかわらず、埋立地にできる湾岸道路は団地からできるだけ遠くしてもらいたい、との条件闘争を決めてしまっていた。壁は重い、と感じた。


■科学者の協力が広がる

 私たちは潮干狩場でビラをまいた。それからシギ・チドリでにぎわう春の干潟で自然観察会を計画した。観察会はやがて定例化され、袖ヶ浦団地海岸から幕張海岸、谷津干潟とひきつがれ、小櫃川河口や、近年では三番瀬が加わって500回近くを数えている。

 ところで鳥の仲間はいたが、私たちは海の生物はよく知らなかった。東邦大学の海洋生物研究室に助教授の秋山章男さんをたずねて、私たちの仲間になって下さい、干潟の生きものたちを生態系としてとらえ、私たちとのかかわりを明らかにして下さい、と懇請した。

 魚類学者、貝の専門家はいたが、干潟の生態系の学者はまだいなかった。とりわけ底生生物はまだ未開拓の分野だった。秋山さんは快く答えた。
 「市民の科学としてお役に立つなら本望です」

 彼はそれまで南氷洋のオキアミなどの研究をしていたが、このときから、私たちの観察会の指導を引きうけ、研究対象を東京湾とその干潟に定め、わが国の干潟に関する研究の先達となった。助手の風呂田利夫さん(現助教授)は、東京湾の生物を最もよく知る人となり、漁民と私たちを結びつける仲立ちをしてくれ、今は干潟の底生生物のすぐれた専門家として、三番瀬を守る運動の大きな一翼をになっている。

 協力してくれた専門家は多かった。当時、やはり習志野市内にあった千葉大腐敗研究所教授の清水潮さんは海水中のバクテリアの専門家だった。陸から海へ流れこむ汚染物質としての有機物が、一方ではプランクトンや、貝・カニ・ゴカイといった底生動物、魚、鳥と摂取され、一方ではバクテリアによって分解される、という生態系の見取図が完成し、私たちは声を大きくして、「干潟は莫大な浄化力で海をきれいにしている。干潟のおかげで人間の汚染行為が救われているのだ」
 と主張することができた。そのことは、たちまち世の常識となった。

 水産庁東海区水産研究所主任研究官近藤恵一さんは、水産学の立場から、東京湾の汚濁の過程を明らかにし、汚濁の進行とともにどのような生物が東京湾から消えて行ったかを教えてくださった。特に、ハマグリ、クルマエビ、コウイカ、ワタリガニといった、一生のサイクルを干潟に依拠し、汚濁に弱い種類の生物の水産高が、1958年(昭和33年)に一挙に3分の2に落ち、65年(昭和40年)以降は1割以下あるいは絶滅におちいっている、という統計はショックだった。

 58年というのは市原で最初の大規模埋立が開始された年であり、65年というのは埋立てが千葉−浦安地域で開始された年だったからである。近藤さんたちの努力で、日本科学者会議は数年後東京湾シンポジウムを開いた。また彼の同僚は干潟の生物の浄化力の定量的研究などに大きな成果を上げた。

 もっともこんな学者もいた。同じ習志野市内の住人で千葉大教授だった。「話はわかりました。それで運動の展望はどうですか。私は忙しいのでね、展望のある運動ならお手伝いしてもいいが、ない運動は労力の無駄でね」。「私たちは展望があるから運動を始めるんじゃなくて、展望を切り開くために運動するんです」。丁重に、だが断固として私は電話を切った。


■千葉の干潟は私たちだけのものでない
  ─最初の請願署名─

 観察会は予想をこえるものとなった。参加者をはこびきれなくて、津田沼駅前のバス停は長蛇の列だという。200人以上になってしまって、私たちは大あわてだった。みんな干潟の危機に心を痛める人々だった。

 私たちだけではなかった。最後の潮干狩というニュースに押しよせたマイカーで、海辺の袖ヶ浦団地は埋めつくされた。首都圏ナンバーだけではなかった。長野、新潟、福島……、そうだ、千葉の干潟は私たちだけのものではないのだ。私たちは6月の県議会、市議会に向けて「習志野・幕張海岸の埋立中止」の請願を開始した。初夏の日中、純子さんたちは渋谷の駅頭で黒衣をかぶって、街頭署名をしてくれた。その黒衣には、魚の骨と、「東京湾を死の海にするな」の文字が白抜きで描かれていた。プラカードには「生きものの住む東京湾を」と書いた。玉川大生だった田久保晴孝君は、一人で800人の署名を集めて来た。団地の階段を上り下りして500人の署名を取った主婦もあった。前年に活動を開始していた大阪南港の野鳥を守る会や仙台の蒲生を守る会など、各地からの熱烈な支援も寄せられた。1カ月の間に、署名数は1万3000に達した。生れて初めての経験と、痛いほど感じられる人々の熱意に興奮しながら、私たちはそれを議会に提出した。

 紹介議員が必要で議員の問を廻る、というのも初めての経験だった。建具屋の青年小山善男さんが、仕事を休んで車を運転し、私たちを議員の家につれて行ってくれた。

 しかし議員はと言えば、署名簿をパラパラめくって、自分の地盤はと目を走らすのが第一だった。不安になった。
 そして不安は適中した。当時の市長は社会党選出で、市政革新の人気は高かった。私たちが旗揚げするとすぐ私の家をたずねて来、「民主主義の原点に帰ることは大切なことです」と挨拶した。ところがその時はすでに、県の開発計画にOKしていたのだ。市議会請願は、すでに県には同意を与えているからという理由で否決されてしまった。2票差だったと思う。それを待っていたかのように県議会でも1万人請願が否決された。県会の請願不採択の理由は、「習志野と幕張ではその事情も異なるため」という変てこな日本語だった。


■立ち上がる住民たち

 私たちの運動は、止まらなかった。6月全国自然保護連合が出来た。6月、私たちは「房総の自然を守る会」(現千葉県自然保護連合)を作り、石川さんを代表に選んだ。私たち海を守る運動と山を守る運動を結合して、開発県政にいどんだ。先輩には、東電火力誘致を撃退した「公害から銚子を守る市民の会」があった。山には、清澄─三石山系を縦走しサルの生息地高宕山を貫く房総スカイライン計画があり、木更津の主婦たちの植物グループ木更津みちくさ会、東大演習林、ニホンザル研究グループが組んで、反対運動を展開していた。晴れた暑い日曜日、私たちは千葉市内で初めての自然保護デモを行った。200人余りだった。

 7月には環境庁も発足した。実質的な初代長官となった大石武一氏は「環境庁は政府部内で唯一国民に向かって開かれた窓である。大臣室の扉はいつでも開いている」と呼びかけた。私たちは、さっそく陳情に出かけた。

 習志野市内でも、私たちはティーチ・インや写真展を重ねた。「明日の東京湾を考える」というシンポには、横須賀からかけつけた人もあった。

 私たちの願いは、海に面した袖ヶ浦団地住民が立ち上がってくれることだった。旧住民は海を知っている。海を惜しむ声はある。しかし、あえてお上にたてつこうとはしなかった。
 「団地の皆さん、目の前の海を見てください。無数のカニがいます。鳥がいます。彼らは今生き埋めにされようとしています。家を追われようとしています。それだけだろうか。そのあとにやって来るのは、14車線の自動車道路や工場です。あなたがたは海辺を散歩し、海風を吸っています。その代りにやって来るのは、自動車と工場の排気ガスです。スモッグです。あなたがたは海の見える団地だからこそ、ここへやって来ました。五年たつかたたぬうちに、あなたがたの夢はこわされようとしている。あなたがたは乳母車を押しながら潮干狩ができる。子どもたちは学校から帰れば、干潟を走りまわることができる。しかし明日のこの町の姿は?あなたに見えませんか?」

 私たちはここで恐る恐る「環境権」という言葉を登場させた。

 こういう趣旨のよびかけをのせたタブロイド版の機関紙『干潟を守る』第2号は、たちまち初刷2000部が品切れとなり、2刷4000部を追加した。

 最初に反応してくれたのは主婦たちで、「環境を守る会」を結成した。やがて男たちが加わり、「習志野の埋立てと公害を考える会」が結成された。その会報の名の相談になった時、私は、「私たちの東京湾」はどうか、と提案した。いささか大きすぎる名前に皆首をひねったが、まあよかろう、ということになった。しかしこの名は、以後の私および私たちの基本理念となった。

 11月、埋立計画の説明会が始まると、「革新市政」の仮面がはがれて行った。旧市街地である津田沼の説明会では、2時間の予定時間を市長一人でしゃべりまくり、市民の発言が許されたのは閉館15分前だった。翌週の袖ヶ浦団地説明会では、しかし冒頭から発言を求める市民の声にさえぎられて、市長は立往生した。市民の結束は急速に進んだ。「考える会」は「反対する会」と改称した。私の勤め先の同僚山田とおるさんが会長をしていた袖ヶ浦西小学校PTAが、「子どもたちのために」埋立反対を決議した。これは大きな出来事だった。団地自治会も、ここに至って条件闘争を撤回し、埋立反対を決めた。「反対する会」のメンバーが自治会活動に加わり、自治会が「反対する会」をバックアップした。団地広場や集会場での市民集会が数と勢いを増した。

 一方、私たちは東京湾に残っている最大の干潟小櫃川河口(盤洲)の調査と保護のアピール、同時に埋立計画のおこっていた富津での漁民への埋立反対よびかけに着手した。習志野では漁民がさっさと埋立を受諾してしまい、否応なしに私たち一般市民が前線に立たされていたが、富津では漁民の中に埋立反対が根深かった。これらはその後の私たちの運動の布石であった。


■杭打ち始まる
  ─抵抗する「寄り目のハゲ坊主」たち─

 1972年の正月が明けた。22日、私の家の電話は朝から鳴りっぱなしとなった。陸側、すなわち袖ヶ浦団地側からの着工が困難と見た開発庁は、船で海岸に接近し、杭打ち工事に着工したのであった。団地住民の面前で、工事船はガンガンと鉄の杭を打ちこみ、鋼鉄板で埋立予定地を囲いこんで行った。

 激怒した。「危険につき立入禁止」の立看板を「埋立禁止」に塗り変えると、喜んだ子どもたちの落書で真っ黒になった。その日から抗議のビラまきが始まった。船橋と習志野市内のJR各駅、京成各駅、駅前と団地内のバス停で、通勤の人々を相手に毎夕毎夜、ビラがまかれた。主力は子どもの手を引いた母親たちと東邦大の学生諸君だった。子どもたちも熱心に母親を手伝った。1月中旬から3月にかけての2月間に30回以上のビラまきが行われた。

 休日は抗議集会であった。男たちの出番である。住民の中には有能な人がいるものだ。『朝日ジャーナル』デスクをつとめた千本健一郎さんが、市民運動の理論的リーダー、きたえ役となった。県も市も、彼の前ではたじたじだった。広告社に勤める本迫満さんの筆先から次々に生まれる絵入りの立看板は、使いすててしまうには惜しい卓抜なウィットと美しさにみちていた。

 みんなで県庁に押しかけた。友納県知事を会議室に引っぱり出した。「私たち市民はイヤだと言っている。埋められたら東京湾の自然は壊滅する。なのになぜあなたは埋立てを強行するのか」
 友納知事の傲然たる返事は今も忘れられない。
 「漁民が展望を失って、困って、私の所へ埋めて下さいと言ってくるのだ。私は漁民のために埋めてやってるのだ」
 「冗談言うな。それが本当なら、漁民をそんな情ない有様に追い落したのは、友納さん、あなたの開発行政ではないか」

 男たちも主婦たちもテーブルをたたいて抗議した。抗議しながら、情なくて涙がこぼれた。とり上げられてゆく海がくやしかった。

 日に日に埋立予定地の囲いは立ち上がって、あの広々とした干潟がかくされてしまった。
 「私たちの心まで埋め立てられてなるもんですか」と主婦の岡野南子さんが言った。

 二つの作戦が、立てられた。一つは「怒りをこめてアサリを取ろう」という名がつけられた。ゴールデン・ウィークに、埋立予定地の囲いを乗りこえて、アサリとり大会をやろうというのである。みんな膝をたたいて喜んだが、思いがけない妨害がおこってしまった。世に言うカドミ・アサリ事件、千葉県沿岸のすべての潮干狩場のアサリから基準値以上のカドミウムが検出された、というのである。潮干狩シーズンを控えた4月初めのことである。アサリは直ちに出荷停止、潮干狩場の漁民は怒って、再調査と安全宣言を迫った。県は千葉工大に委託した再調査結果を発表した。今度の数値はみな基準値の半分付近に集中していて、素人の目にも細工は見え見えであった。残念ながらアサリとりは中止せざるをえなかった。

 もう一つは、抗議のポスターの製作である。海と空をイメージした青地を背景に、白抜きで怒りのまなざしの子どもの顔と「埋立反対」の文字がえがかれている、本迫さん製作のそのポスターには、たちまち「寄り目のハゲ坊主」という愛称がついた。のこぎりでベニヤ板を切り、ポスターを貼りつけ、ひもを通した。袖ヶ浦団地内のすべての並木にそれを取りつけただけでなく、1枚50円で各家庭に買ってもらった。主婦部隊が団地の階段を登り下りして一軒一軒協力をたのみ、袖ヶ浦団地約4000戸のうち三千数百戸の窓から「寄り目のハゲ坊主」がぶら下げられて、抗議の大合唱という風景となった。

 市はあわてて都市美観条例を制定し、並木のハゲ坊主撤去にかかろうとした。迷惑を受けたのは市の清掃課員である。撤去作業にかかった途端、知らせを受けた主婦たちに取り囲まれて、「何で美観条例違反の埋立てを取り締まらないの」と追い返される破目となった。ハゲ坊主ポスターは、それから2年余りも健在で、私たちを次の運動にふるい立たせる力となった。市長はついに袖ヶ浦団地に足をふみ入れることができなかった。


■埋立て
  ─生きもの皆殺しの姿─

 とはいえ、埋立ては着々と進んだ。その光景はまたすさまじかった。
 昔の埋立てはバケット式だった。バケットで海底を浚渫し、それを船に積む。それをまたバケットで埋立地におろす。山砂ならばダンプカーで運ぶとか、バージ船といって船に土砂を積み、底を開けて埋立予定地に落とす。これを後から押してゆく船をプッシャーというが、視界不良でのろまなこの船団の往来は東京湾海上交通の困りものなのである。
 サンド・パイプによる浚渫埋立ては、そんなのんきなものではない。まず埋立予定地を前記のように鉄板で囲っておく、そこに縦横桝の目にサンド・パイプを配置し、埋立予定の高さの櫓(やぐら)の上に置く。一方沖には浚渫船を並べ、パイプを接続しておく。スイッチを入れると、プロペラのような刃が海底の砂をかきとり、水と一緒に吸い上げ、サンド・パイプから吐き出すのである。

 まるでボタン戦争だ。スイッチ一つで広大な海面が一挙に埋立地になる。729ヘクタールの京葉港東地区(大部分は習志野市)の埋立ては、6つのブロックに分けられて一気に出来てしまった。

 パイプから吐き出される水は、良質な砂を運んでいる時は茶色をしている。しかしたちまち真っ黒なヘドロにとって代えられる。東京湾の海底にためこまれたヘドロである。だが埋立地はヘドロでは困る。だからヘドロは埋立地の外に排出される。わざわざ水をためては抜いてヘドロを除去する。

 いずれにせよ、埋立地内の貝やカニやゴカイといった底生動物はすべて生き埋めである。周辺海域の底生動物も埋立地から排出された無酸素のヘドロで窒息してしまう。ヘドロから逃げようと必死で泳いだ貝もある。吹管からジェットのように水を吐いて逃げる。だが逃げ切れはしない。習志野の埋立地から3キロほど離れた花見川河口に、玉砂利を敷きつめたように貝たちが死んでいたのは72年の夏である。やがてそこも幕張埋立地となってしまった。埋立地はヘドロが乾いてひびわれになり、やがて一面に貝からの浮き出た砂漠になってゆく。そこから無限の生命のうめきがきこえる気がした。悪臭がただよった。海底に残された浚渫跡の巨大な穴は恐しい青潮の発生源となった。


■千葉県ついに政策転換
  ─埋立開発から埋立て抑制─

 私たちは弔い合戦のつもりで、「東京湾の干潟保全、埋立中止」国会請願署名を展開した。「干潟」という言葉ははじめ耳慣れなかったらしい。会あての郵便に「干拓を守る会」とか「ヒナタヲマモルカイ」とか「ヒノアタラナイカイ」というのまであった。しかしこのころには「干潟を守れ」の声は全国にこだまし始めた。1972年と73年(第69、71国会)2年にわたってこの請願は採択された。

 東京湾上に船を出して衆議院環境特別委員会が開かれ、私と石川さんが参考人として埋立中止を陳述したこともあった。その席で、臨時に委員を交代してもらって出席した浜田幸一議員が「これ以上1隻も巨大貨物船を東京湾に入れるな」とぶって、その演技にびっくりしたものだ。

 1973年2月、千葉県は第4次5ケ年計画を発表した。千葉県は50年代後半(昭和30年代)以来、倍増倍増で展開してきた臨海開発計画・大規模埋立政策を放棄し、埋立抑制に転換せざるをえなくなった。木更津北部の金田海岸(盤洲・小櫃川河口)は、「東京湾におけるその位置づけが定まるまで」というしみったれた但し書をつけて、埋立計画・淡水湖計画が解除された。京葉港(船橋)2期・市川2期、の今日いわゆる三番瀬埋立ても凍結され、再検討されることとなった。富津埋立ては縮小することとなり、当初の1700ヘクタールが結局660ヘクタールとなった。

 これには湾内の石油コンビナート建設反対、海上交通過密の不安が追い風となった。事実、石油脱硫は緊急課題であったし、海難事故、重油流出事故は相次いだ。そうした中で、岡山の水島重油流出事故に先立つ1月余り前、1974年11月九日、東京湾の入口中ノ瀬付近で起こった、LNGタンカー第十雄洋丸(4万3732トン)と新日鉄君津から出港した鉱石船パシフィック・アレス号(1万874トン)の衝突事故は、政府および事情を知る市民の心胆を寒からしめた。市原の石油コンビナート群あるいは横須賀基地に引火する大爆発の危機寸前だったのである。

 こうして盤洲・三番瀬・富津洲の3つの干潟は残ることになった。もともとの東京湾の干潟にくらべれば、1割にすぎないけれども。そしてさらに、1973年10月と1979年初めにおこった二度のオイル・ショックが追いうちをかけることになった。もしあのまま埋立てを強行していたら……と、県当局者は胸をなでおろしたことだろう。


■「公有」水面とは誰のものか
  ─新しい権利意識の高まり─

 もう一つ私たちがたたかいの目標としたのは「公有水面埋立法」だった。この法律は大正10年に出来た埋立手続法だった。「公有」とは「お上のもの」にすぎなかった。それに「無主物」つまり持ち主のない財産という解釈が加わった。それによってお上は自由自在に埋立てができるのである。千葉県知事は埋立出願者であり、同時に埋立免許者であった。国民主権の世の中に、こんなバカな法律があるか。

 私たちは、公有水面埋立法廃止を要求した。埋立問題に直面した各地の市民共通の声でもあった。海浜保全法こそ基本とすべきであり、埋立法はその除外手続法とすべきだと。9月改定された新「公有水面埋立法」は要求からなおはるかに遠いものだったが、海浜保全法の構想は、1976年に千葉で開いた第2回全国干潟シンポジウムと、同年神戸で開かれた入浜権シンポジウムでの「海浜保全基本法」提言、さらには1986年東京弁護士会がまとめてくれた「東京湾保全基本法試案要綱の提言」へと引きつがれてゆく。

 袖ヶ浦団地住民のたたかいと心意気は、今語りつぐ人は少なくなったが、『ジャングル・ジム』というB5判百数十ページの冊子に記録されている。私たちは自然と自分たちとの間の新しい関係を見出した。私たちは新しい権利概念を見出した。


■まとめ
  ─「干潟は私の大学なの」と住民は語る─

 いくつかの言葉が私の心に焼きついている。
 「私たち団地住民は今まで団地の中のことしか知ろうとしませんでした。埋立反対を通じてはじめて、団地の外のことを知り、団地の外の人たちが何を考えているかを考え、私たちの町について考えるようになりました。そしてはじめて、習志野市民になったという実感をもちました」

 何人かの主婦たちは今も、市議会をかかさず傍聴し、市民に報告する手刷り新聞を出している。その仲間であり、谷津干潟、三番瀬と続く運動の中心の一人、牛野くみ子さんはいつもこう言う。
 「干潟が私の大学なの」

 それは多分こういうことだ。生きものの姿にふれ、「私たちは無数の生きものの環の中に生きている」と実感することは、私たちに無限の知を与えてくれる。そこで必要なことは、彼ら生きものの身になり、干潟や水の身になって考える、さらには自分の子どもや未来の地球に生をうけるものたちのことを思いやる、というほんのわずかなやさしさと想像力だ。

 そしてもう一つ、彼らに手をさしのべる小さな行動だ。それは目の見えない人や足の悪い人にちょっと手をさしのべるのと似ている。生存をおびやかされる鳥やカニに代って物を言うことは、専制のもとで権利をおかされつづける人々の立場に立つことに似ている。

 そこから世界が変る。私たち自身の姿も、社会の姿も見えてくる。
 社会の壁は厚い。しかし出来上がってゆく埋立地に向かって流したくやし涙が熱ければ熱いだけ、それは私たちを鍛えてくれた。そこから次の運動が始まってゆく。


■あとがき
  ─谷津干潟と三番瀬のこと─

 埋立てあとには、四面護岸に囲まれた小さな水面が残った。国有地だからという理由でお役所は「大蔵省水面」と呼びはじめた。習志野市はそこに埋立計画を立てた。

 73年末、私たちはそこを取りもどす運動を始めた。埋立てに追われて東京湾中から集まって来た鳥たちを守るために、干潟をうばわれた子どもたちのために、そして何より私たち共有の宝を守るために。

 私たちは祖先からの地「谷津海岸」の名を残したいと思った。私たちはその水面を「谷津干潟」と名づけた。この地を残すぞ、守るぞというちかいの命名である。

 私たちは「谷津干潟自然教育園」設置要求と国設鳥獣保護区特別地区指定要求を掲げ、そこをつき抜けて通ろうとする湾岸道路阻止闘争を展開した。袖ヶ浦・谷津・若松を中心とする団地住民が同盟軍であった。役所へおしかける、無数の立看板、集会、現地抗議!──。自然観察会さえ、工事を強行するお役所の「破壊活動」看視と抗議行動であった。「行政不服審査請求」もぶつけた。

 手をやいた国は、このままでは成田空港開港に重大な支障を来すと考え、谷津干潟を保全し国設鳥獣保護区特別地区にすること、湾岸道路100メートル緩衝緑地を作ることを約束した。
 埋立反対に3年、谷津干潟保全を約束させるのに4年かかった。しかし習志野市はなお埋立案にこだわって横車を押し、国設鳥獣保護区の実現にはさらに2年かかって89年となった。
 しかしそこから、情勢は一気に変った。91年私たちは東京湾をはじめ、日本の中で最も重要かつ緊急に保護を要する4つの干潟海域を至急「ラムサール条約登録湿地」に指定せよとの運動を始めた。東京湾の浅瀬・干潟全域、名古屋港藤前干潟、博多湾和白干潟、諫早湾の4海域である。2年後の93年、同条約釧路会議の直前に、国は急拠、谷津干潟を(そこだけを)ラムサール湿地に指定した。谷津干潟とそこの観察センターは国際的に注目される存在となり、市と市民の意識を百八十度変えつつある。今や、私たちのスローガンは、「谷津干潟を次なる埋立ての免罪符にするな」である。かつて「新浜を埋立ての免罪符にしてはならない」と訴えた蓮尾純子さんの志を忘れまいと私たちは思う。

 一方、隣の船橋と市川(行徳)の前面に広がる三番瀬は、73年に中途で埋立てを凍結された海面である。ここには1000ヘクタールを越える1メートル以浅の浅瀬と干潟がある。中曽根内閣(83年)以来、県は埋立復活を画策し、84年から私たちは勉強会を手はじめとする反対運動に着手した。バブルの余波にのって92年県はいよいよ本格的に埋立計画を発表、96年私たちは市民の知る権利、意思表示の権利を行使するため、「三番瀬を守る署名ネットワーク」を結成して署名運動に入った。97年5月現在署名は9万をこえている。そして、税金ドロボウともいうべき公共事業の実態と諸矛盾を追求する連続講座「三番瀬土曜学校」が新しいエネルギーを作り出し始めている。そこでも、推進主体となっているのは主婦たちである。そして私たちは今叫ぶ。
 「三番瀬を第二の諫早湾にするな」!!

(1997年8月)









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